進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

101 世界観⑧ パンドラの箱


みなさんこんにちは。

 

今回はさっくり繋ぎのような記事でございます。

 

 


!!閲覧注意!!
この記事は 生命-I から始まる一連の記事の他、当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は22巻90話からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[パンドラの箱]

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突然ですが、私はギリシャ神話が苦手です。

 

唐突な自分語りで失礼しました。今まで何度か読破を試みまして、いい大人なのでエログロは全然問題ないのですが、話の展開があまりに荒唐無稽すぎてついていけなかったんです。ギリシャ神話をよくご存じの方にはもしかしたら分かってもらえないかなと。


そんなわけで知識としては部分的には知っているのですが、ニワカもはなはだしい感じです。でもそんなニワカでも知ってる好きなエピソードがひとつありまして、それがパンドラの箱です。

パンドラの箱という言葉自体も慣用表現として使われていますし、どなたも聞いたことあるのではないかと思います。あのエアロスミスがアルバムの名前にしてしまったほどの”伝説のラノベ”でございます。

 

またそのラノベっぷりが凄まじくてですね、たった一文で全てを言えてしまうほどです。

 


では、パンドラの箱、はじまりはじまり~!

 

本編:パンドラちゃんが神に「開けるなよ」と渡された箱を開けたら災厄が飛び出したので、慌てて閉じたら希望が残りましたとさ。


 fin.

 


以上・・なんです。

 

軽すぎですね、文字通りライトノベル。しかもですよ、

 箱を開けたら災厄だけ飛び出しました~。でも希望だけは飛び出さないで箱に残りましたよ~。

どうですこのご都合主義的ラノベ感、子供だましもいいところです。いや、いまどきの陳腐なラノベでもここまでのご都合展開はないのかもしれません。ラノベに失礼いたしました。


でも昔の人も同じようなことを感じたんでしょうか、パンドラの箱にはこんな解釈が存在します。

通常の解釈でも同様なんですが、もともとパンドラの箱は神が人間に意地悪するために渡したはずなんです。だから別解釈ではそもそも箱の中身は全て災厄であって、飛び出したのも災厄ならば箱に残ったのもたくさんあった災厄のうちのひとつなんですよ、といった感じです。なるほどこれでご都合の良さとはおさらばできました。

 

でも災厄が残ったのにそれが希望だというのはどうなるのでしょうか。話の趣旨が変わってしまいかねません。

 

そこでまず、全ての災厄が箱から飛び出した場合を考えてみます。人々はありとあらゆる災厄がこれから延々と続いていくことを知ることになるでしょう。私たちの未来は災厄に満ち満ちているんだと、そんな自らの暗澹たる未来を憂い絶望に暮れてしまうかもしれません。

でももしひとつだけでも災厄が飛び出さなかったならどうでしょう。人々はその災厄のことを知らない、その災厄が起こるかどうかも分からない、つまり未来に不確定な部分ができます。であれば人々はそこに「もしかしたら良いことが起こるかもしれない」と一筋の光明を見出すことができるかもしれません。つまり希望です。

不確定さがあるからこそ夢想や妄想をする余地があるし、それが希望となって未来を前向きに生きていけるのではないかということです。


いかがでしょうか、ほんの少し解釈の仕方を変えただけで深みのある物語に格上げされるかのようです。

 


タイムマシンを始めとする時間移動の話に人気があることからも分かるように、未来を知ることは人間の憧れのようです。それはもちろん過去を観たいというのもあるとは思いますが、それ以上に未来を知ることでより良い未来への選択を知りたいからではないかと思います。

 

であれば未来の記憶を見られる進撃は人間にとって夢のような存在のはず、です。

 

でもパンドラの箱が示唆することを考慮すれば、未来を見るということはそんな生半可なことではないのかもしれません。それは自分が未来を見られることを想像してみればなんとなく分かるような気がします。


もしも私が明日起こることを知ることができて、実際にそうなったとしたら・・

 

たぶん私は浮かれます。「なんてすごい力を手に入れたんだ!」とかって。

 

でも未来が見えることにもすぐ慣れてくるでしょうから、未来を変えてみるような試みをしそうです。たとえば、〇〇さんと会っている場面を見たから今日は会わないように行動してみよう、とか。

 

でも結局は会うことになってしまうはずなんです。

 

というのも、もし私が本当に未来を見る力を持っているなら必ず見た通りにならなくてはいけません。ならないなら最初から未来が見えていたわけではないことになります。未来を想像したのがたまたま当たったりしてたというだけ、それはつまり何の力も持っていない普通の人がしていることとなんら変わりありません。ですから未来が見えているなら、たとえそれを回避しようと思っても必ずそうなります。本当の未来視は、その回避しようと試みることまで織り込み済みのものになるはずです。

すると来る日も来る日も既に見た光景が予定調和のように繰り返されていくことになります。想像するに、おそらく私は何かに感動することも、何かを面白く思うことも、そして何かをしてみようなんて気持ちも全て失いそうな気がします。だって別に何をしようがしまいが、ただただ見た通りのことしか起こらないんですから。


そうやって考えてみれば、やはり未来が確定していないからこそ、未来を知らないからこそ夢や希望を持って生きていけるというのは言い得ているように思います。逆に言えば、未来を知ってしまうというのは地獄の始まりなのかもしれません。

 


以前の記事で、「今の道」の流れをこんな風に書きました。

 

ジークが連れて行った→レイス家を殺した→ジークが連れて行く

 

これをエレンの視点で考えてみると、上記と全く同様のことが起こっていると言えるかもしれません。


エレンとグリシャが繋がりを持ったことでレイス家を惨殺したのが845年でした。そしてその後ジークがエレンを連れて行くのが854年、つまり9年後です。

本来その9年間には無限の可能性や選択肢が存在するはずです。

でも言うまでもなく854年には必ずジークがエレンを連れていくことになります。これは”絶対に”そうならなければなりません、100%です。あまり使いたくない言葉ではありますが、絶対とか100%と言わざるを得ません。でなければ世界が矛盾してしまうことになります。

そして100%ジークが連れて行かなければならないということは、エレンは100%あの状況にならなくてはいけません。それはつまりエレンは100%単独行動をしなければいけないということでもあり、兵長は絶対に2回ともジークを取り逃がさなくてはいけないということでもあります。サシャが死んでなければ104期がもっとエレン寄りだった可能性が高いので、サシャも絶対死ななくてはいけません。銃弾が数センチ横にずれることさえ許されないかもしれません。

 

私たちが今まで読んできた845年以降のことは、全てそのようにならなくてはいけないのです(30巻121話)

 

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-…そういう未来だと決まっている

未来を見ることのできる進撃というのは、未来に縛られた哀しい存在だと言うこともできるかもしれません。普通の人間の観点から言えば「不自由の極み」と言っても過言ではないように思います。エレンがどこまで未来を見ているのかは定かではありませんが、あのセリフを思い出します(24巻97話)

 

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-自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ

マーレ編以降の、以前とはうって変わったようなエレンの憂鬱そうな表情を思い返せば、それはやはり地獄であるのかもしれません。でも自分はそれが地獄であることを分かっていてあえて踏み入れるということでしょうか。

 


ところで、

 

 

ここまでは未来を知ることの恐ろしさと、自由を求めるエレンに潜む不自由さについて書いてきましたが、最後にちょっとだけ別のお話をしたいと思います。

 


実は視点を変えて考えると、全てが決まっているのは当たり前だとも言えるかもしれません。

なぜなら過去から未来までの各瞬間において、さまざまな選択がなされた結果の世界が「今の道」だからです。別の選択をなされた道はもう「今の道」ではないというだけのこと。もちろんそれでも、進撃という存在にとっては未来視によって自らの未来を確定してしまうことには変わりありません。ところがよくよく考えてみたら面白いことが見えてきました。

 

進撃にとって未来は確定しているのですが、逆に過去は確定していないと考えられるんです。

 

私たちは普通、過去を変えることはできません。ですからその確定している過去に従って、なんらかの選択をしたりしなかったりして、それにより未来が変化していきます。でも進撃の場合は完全に逆転します。進撃は未来が確定していますので、その未来に従って過去に影響を与えることになります。エレンがグリシャに結びついたことで生まれた845年以降の歴史、これは今までの道にはなかった歴史であることは間違いないはずです。つまり過去が変わったということであり、過去が確定していなかったことになります。

これを因果で紐解くと、普通はまず原因が先にあって結果が後についてくるものです。つまり当たり前ですが、過去が未来を変えます。ところが進撃の場合は原因が後(未来)にあって結果が先(過去)にあることになります。


そしてそれを考慮すると、既存の分岐していくような世界観では上手く捉えることができなくなりそうです。文章での説明に限界を感じたので模式図を作ってみました(この画像のみ筆者制作のものです) 

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ある選択によって単純に枝分かれしていくのではなく、ある選択はそこから同時に生ずる未来から過去への影響と過去から未来への影響によって、まったく新しい世界を生み出していく感じになると思います。言葉としてはいわゆる分岐世界というより、まさに並行世界という言い方がぴったりくるでしょう。既存の分岐世界ではまず共通の歴史があった上で選択肢によって枝分かれしていく感じですが、並行世界では過去さえも今までの道と一致するとは限りません。言わばあるひとつの選択が、完全に新しい歴史、新しい世界を生み出していくようなものとなります。

そうであるなら、たったひとつの選択というものが持つ意味がとても重くなってくるように思います。普段の何気ない選択でさえ、真新しい世界を生み出し続けているのかもしれません。


そして改めて矜持というのはとても面白い概念だと思います。それは過去の経験や記憶などから生じるもので、以前の記事で述べたように過去からの縛りと言えるように思います。しかしそれと同時に、矜持は「未来の私」を設定させます。私はこうあるべきだ、こうあらねばならないと。

それは見方によっては未来からの縛りであるとも言えるような気がします。そしてこうあるべきだという考えは自ら選択肢を狭め、それはすなわち新しい世界が生まれる可能性を狭めている、といった捉え方もできるのかもしれません。

 


というわけで、次回は自由と選択を軸にした地鳴らしに関するお話です。

 

次回に続きます。

 

 

あー、未来を知るのって恐いこわい。

 

 

本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 20th May 2020
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