進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

111 世界観⑮ 承認


みなさんこんにちは。

 

 


これは前回の記事から続く中編です。やはり三つに分かれる運命だったのです(後付け理論)

 

 

 

 

 

 

この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は32巻130話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[承認]

f:id:shingeki4946:20210404222350p:plain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たぶんみなさん忘れてるんじゃないかと思いますけど、言われればおそらく思い出す事柄から始めます。

 

 


すでに一年以上前のことになりますが、原作にはないアニメオリジナルの一場面が挿入されていたことがありました。しかもそれは、まったくもって意味不明な、謎としか言いようのない場面でした。3期の最終話だったと記憶していますが、うろ覚えですみません。


ちょっと違うんですが、原作でいうとこんな感じの場面でした(18巻73話)

 

f:id:shingeki4946:20210404222429p:plain

 

それまでアニメで何度か出てた(?)エレンとアルミンがじっちゃんの本にかぶりついている遠景、そこにミカサが加わるみたいな感じでした。もう思い出していただけましたよね? 一瞬だけだったので気にも留めなかった方がいてもおかしくないくらいだとも思います。

それはクルーガーが例の「ミカサやアルミン~」のセリフを言った場面の直後に一瞬だけ現れ、たしかそのままオープニングかなんかで画面が切り替わったはずです。もちろん原作にはそんな場面は描かれていませんし、前後の繋がりを考えてもあまりにも脈絡がないような場面でした。

 

 

というわけで、これはただの前フリに過ぎませんので思い出していただいたところで前回の続きにまいります。

 

 


さて、カルラが言った「ありのままのあなたでいいのよ」といったような承認はヒストリアの親殺しに至る場面とも重なってくるものです(16巻66話)

 

f:id:shingeki4946:20210404222523p:plain

 

ユミルもフリーダも、カルラ同様にありのままのヒストリアを承認していました(10巻40話、13巻54話)

 

f:id:shingeki4946:20210404222547p:plain

-元の名前を名乗って生きろ

f:id:shingeki4946:20210404222610p:plain

-いいよ!!
-いいよいいよ そのままでいいよ

 

ところでヒストリアの「悪い子」という概念はおそらくユミルの言葉がベースになっていると考えられます(4巻15話)

 

f:id:shingeki4946:20210404222639p:plain

-なぁ… お前…
-「いいこと」しようとしてるだろ?

本人も後に語っていたように、「要らない子」だったヒストリアは必要とされたいがためにみんなにとっての「いい子」を演じるというか、そうならざるを得ないようなところがあったわけです。そこに一石を投じたのがユミルでした。社会や周囲にとっての「いいこと」をする人であろうとするのではなく、お前はお前自身をもっと大事にしろよといったニュアンスでしたよね。それが「悪い子」という考え方の基礎になっていると考えられます。

そしてユミルの記事でも触れた通り、その後の二人は「お前はお前でいいじゃねぇか」をお互いに言い合う感じになっていきます。つまりお互いにカルラが言ったような母の承認を、母と子という役割が入れ替わりながら言い合うことで成長していってる感じであると捉えられます。ちなみにそれをヒストリアの視点から見れば、もともとユミルの一言によってその考え方に導かれたようなところがありますから、そのユミルに肩を並べていったと捉えればやんわりとした親殺しの構図にもなっていると思います。

 


さらにこの二人の「お前はお前でいいじゃねぇか」のじゃれ合いに巻き込まれたのがサシャで、(9巻36話)

 

f:id:shingeki4946:20210404222715p:plain

-いいじゃねぇか! お前はお前で!!
-お前の言葉で話せよ!

f:id:shingeki4946:20210404222736p:plain

-今だってありのままのサシャの言葉でしょ?
-私はそれが好きだよ!

ユミルがこぼしている通り「物は言いよう」なんですが、とどのつまり二人が言っていることは同じようなことで、サシャに対して「ありのままのあなたでいいのよ」と言っているわけです。その後のサシャが「ありのままの」方言なんかを普通に出すようになっていったのは言わずもがなでしょう。

 

そんなサシャによってカヤやニコロが導かれていったわけですね(28巻111話)

 

f:id:shingeki4946:20210404222806p:plain

-人を喜ばせる料理を作るのが本当の俺なんだと教えてくれた……


ニコロはサシャの行動によって、「ありのままの」自分に目を向けることができました(26巻106話)

 

f:id:shingeki4946:20210404222830p:plain

それまでマーレ人だエルディア人だというフィルターを通して他人を見ていた彼が、サシャの分け隔てない姿勢を見たことによってジャンやコニーらに対してもエルディア人だという偏見を取っ払って接していくようになります。言い換えれば「ありのままの」ジャンやコニーと向き合うようになっていきました。また、マーレだエルディアだといったことよりも美味い料理を誰かに提供する、自分の料理によって誰かを喜ばせる、そこに自分が本当に望んでいたものがあるということに気付いたわけです。社会が言っているエルディアだマーレだに流されるよりも「ありのままの」自分がやりたいことをする、どこかで聞いた話です。

 

カヤのガビファルコに対する態度も同じような感じでしたね、マーレ人だとか関係ありませんでした。そして(27巻109話)

 

f:id:shingeki4946:20210404223013p:plain

-お姉ちゃんが生きてたら…
-行く当ての無いあなた達を決して見捨てたりしない
-私にそうしてくれたように…

これもやっぱりヒストリアが言っていた「悪い子」と同じような考え方です。

 

つまり「ありのままの」自分を認められることによって「ありのままの」自分が望むことを見出すという流れが連鎖していってるわけです。そしてその連鎖の果てに、カヤとの交流によって変化したガビが地鳴らしを止める一助となっているわけです。もしガビがいなければファルコが動くことはなかったでしょう、だとすれば英雄たちは既に全滅していた可能性が高いです。さらに(32巻127話)

 

f:id:shingeki4946:20210404223045p:plain

身を挺して「大事な家族」を守ることによってマーレだエルディアだといがみ合っていたジャンやマガトの頭を冷やし、パラディとマーレを結び付ける役割も担ったと言えると思います。

 


というわけで、「ありのままのあなたでいいのよ」という承認は相手に寄り添う精神を育んでいき、相手はまたその影響を受けて同じように連鎖していく、そんな流れが描かれていることが見て取れます。

 


ところで、いい加減「ありのままの~」とか書くのはめんどくさいし読みにくいと思いますので、便宜上この流れを「母の道」と呼ぶことにします。たとえば「ヒストリアはユミルに導かれたのをきっかけに母の道を歩んだ」と言えば上記の流れがあって母へと成長していくくらいの感じです。これは単なる私の造語なのでそれ以上の深い意味はありません。語彙も足りてない感はありますしポリコレとかいうやつにも抵触しそうではありますが、すでに父母子とか連呼してるので今さらですしまぁいいでしょう。

 


閑話休題

 


もちろん「母の道」と呼ぶからには対称となる「父の道」もあります。そしてやっぱり対称になってくるのはジークです(28巻114話)

 

f:id:shingeki4946:20210404223145p:plain

f:id:shingeki4946:20210404223201p:plain

f:id:shingeki4946:20210404223220p:plain

ジークは周りに「こうしなければならない」と言う人、つまり父的存在が多くて、それらによって夢(と呪い)という行き先を示し続けられてきた感じがあります。ダイナは母親としてジークをかばうような部分もあるのですが、グリシャと一緒になってジークを追い詰めてしまっていた感も多分にあります。彼女自身にも最後の王家としての使命を果たさねばといった強迫観念のようなものがあったのかもしれません。

唯一と言ってもいいくらいクサヴァーさんはジーク本人に寄り添う感じを見せる母的存在でもあったように思うのですが、ジークが彼を父として慕い、クサヴァーさん本人もジークを息子代わりに思っていたことが明示されている通り、告発や安楽死思想の礎となるものを指し示してしまい、同じ夢を追い求める感じになってしまいました。さらには安楽死思想の背中を押し続けてしまうという流れになります。


これは今まで書いてきた自己肯定感とか全体と個の話とも重なってくるのですが、「こうあるべきだ」「こうしなければならない」といった考えは時に「ありのままの自分」を殺すことにもなり、前述した「ありのままの自分」を尊重する母の道とは対称的であると言えるように思います。

 


さて、ジークを取り上げたからにはエレンがどうなのかってのも気になってくるわけです。

 

まず訓練兵時代を顧みればジャンという口うるさく言ってくる父がいました。後々まで続いていくエレンとジャンの関係性はヒストリアとユミルのそれと似ている感じがあります。それと忘れてはいけない父的存在として、ライナーという遥かに超えられない壁が存在しました。エレンはライナーの背中を見ながら成長し、行き先を示され、やがて反発し、そして同じ目線に立っていますよね。綺麗に親殺ししています。

もちろん父アルミンという存在もそこに加わり、エレンはそんな彼らの背中を見ながら「父の道」を歩んでいったと思います。前回取りあげたマーレ編での姿勢や、イェレナとの密会後のヒストリアとの会話などはやはり父的であると思います。

 

ただ、先ほどはあえて省いたのですがエレンはヒストリアにこんなこと言ってましたよね(13巻54話)

 

f:id:shingeki4946:20210404223340p:plain

-今のお前は何かいいよな
-別にお前は普通だよ
-ただバカ正直な普通のヤツだ

 

あれ?ありのままの承認です。つまり母の道?

 

というわけでエレンはどうも母の道も歩んでいるかもしれないという疑惑が立ち上がります。おそらくそれが如実に見られるのが調査兵団時代。そこで対称になってくるのがアルミンです。アルミンもジーク同様に多くの父的存在に導かれるように父の道を邁進したように見えます(7巻27話)

 

f:id:shingeki4946:20210404223425p:plain

f:id:shingeki4946:20210404223442p:plain

 

彼はエルヴィンを始めとするリーダーたちの背中を見ながら成長していきます。それは人類の勝利のために自分を犠牲にすることや、全体のためであること、すなわち「正しい」ことを追い求めることにも繋がっていると思います。いや、ヒストリアの話をした後ですから「いいこと」と言い換えたほうがいいかもしれません。全体のために自分を殺す道、それはリーダーの道であり英雄の道、あるいは王道という言葉が意外にしっくりくるかもしれません。

そんなアルミンとは対称的に、エレンはあまりエルヴィンとの絡みが無かったように見えます。どちらかと言えば主に兵長とハンジという二人の母的存在に師事し、その影響を受けていきます。「お前が選べ」なんてのはありのままのエレンの承認でしかないですよね。

ここはわりと明確にエレンとアルミンが分岐していくことが見て取れる箇所ではないかと思います。意外にもハンジとアルミンは壁内の頃はそれほど絡んでなかったりするんですね、兵長とアルミンはいかにもですが。アルミンがいつも目で追っていたのはエルヴィンの背中で、逆にエレンはエルヴィンをそんなに見ていません。

 


エレンに話を戻しますが、彼はさらに物語の節目節目で母の承認を受けていきます(12巻50話、16巻66話)

 

f:id:shingeki4946:20210404223600p:plain f:id:shingeki4946:20210404223615p:plain

 

どちらも「自分には生きてる価値はない(全体に貢献できていない)→そんなことないよ」という流れでしたね。そしてそのトドメとも言うべきものが実の母であるカルラの承認だったわけです。

 

こうやってみると、物語はどうもこの承認を軸に動いていってるように見えます。少なくとも私には。

その後エレンは始祖ユミルに選ばせました。これは兵長がエレンにしたことと重なっており、もちろん彼女のありのままの意志を尊重するということです。

エレンの地鳴らしの目的のひとつとして根底にあったのは、世界の人類がどうとかではなくとにかく自分の大事な人々を守りたいというものでした。これはヒストリアの「悪い子」と全く同じです。


どうも母の道がエレンの中に息づいていることは否定できません。でもエレンがマーレ編以降に見せていた父的な面を無視することもできません。

 

そこで私はエレンの状態を、父の道を歩んでいるけど母の道にも片足を突っ込んでいる状態と仮定してみることにしました。これはイェーガー派に対するエレンの態度なんかにも適合するはずです。リーダーとして彼らを導いているけれども、彼らのやりたいようにもさせてる。

その仮定の下に、もしエレンが母の道の影響を受けていなかったらどうなったかを妄想してみました。

エレンは大事なみんなをどうこうよりも、ただただ自身の自由を実現するために世界を踏み潰すだけだったかもしれません。エレンは「自由であるべきだ」という父的な考えも同時に持っていますからね。みんなを檻の中で待ったり、座標に呼んで話しかけたりもしなかったかもしれません。そもそも、始祖ユミルに選ばせることさえしなかったかもしれません。

いや、それ以前にエレンが「普通でいいよね」って言ってなければヒストリアは父を選んでいたかもしれません。ヒストリアの中でエレンが大事な人になったのはあの一言がきっかけであるのはおそらく間違いないでしょう(13巻54話)

 

f:id:shingeki4946:20210404223831p:plain

 

もしヒストリアの親殺しが成されなければ壁内は自死の道を歩んでいた可能性が高いです。

 

・・って考えてたら、根っこはもっと深い所にあることに気が付きました(2巻6話)

 

f:id:shingeki4946:20210404223906p:plain

-でも… 早く… 助けてやりたかった…

 

そもそもエレンがミカサを助けたのがそれでした。

 

当時の彼には社会のルールに従って憲兵に委ねるという選択肢もありました。そうしていれば審議所でごちゃごちゃ言われることも無かったでしょう。だけど、それでもなんでも自分が助けてあげたいという気持ちを優先させました。まさに「悪い子」です。

つまりこの時すでにエレンの中には母の道が入っていたと考えられます。じゃあ彼がそれを持つに至ったのはどこからかと考えてみれば、家庭環境に答えを見出す他ないように思います。


前の記事でちらっと書きましたが、パラディのイェーガー家はグリシャが母のように寄り添う感じであり、カルラが父的な役割をしていましたよね。でもそこでひとつ考慮しないといけないのは、カルラは前述した母としての承認もしていることです。

その解釈として、ハンジがいい例になっているのではないかと思います。

ハンジは父エルヴィンに対する関係では子ですが、エレンたちから見れば母のような立場だと書きました。まぁ母というか姉というかですが、父か母かで言えば母的な存在であったことはたぶんご納得いただけるのではないでしょうか。

つまりハンジ自身は子から母へ、母の道を歩んでいる(いた)となります。

でも、エルヴィンの死によって彼女は団長という父的役割を果さねばならなくなりました。サネスの「役割が回る」を始めとして、彼女がいかに四苦八苦して団長を務めていたかが執拗なまでに描写されていましたよね。これはおそらく作者の狙い通りだと思うのですが、読者の間では「エルヴィンがいたら・・」という声が事あるごとに湧き上がっていたように思います。でも面白いもので、「兵長が団長になっていれば」みたいな意見はほとんど無かったんじゃないかと思います。少なくとも私がネットをよく見ていた頃には見た記憶がありません。

つまり読者の体感も含めて調査兵団は父親不在だったということだと思うんです。そして父がいなくなってしまったため(役割が回ってきてしまったため)母であるハンジが必死に父親役を務める他なかったと。でもやっぱり母は母なのであまり上手くできませんでしたと、そういうことではないでしょうか(33巻132話)

 

f:id:shingeki4946:20210404224028p:plain

-エレンに何の解決策も…
-希望や未来を示せなかった
-私の無力さを

ちなみにフロックがなぜエルヴィンの後に兵長やハンジではなくエレンを選んだのかというのも、同じように考えると面白いと思います。

 

それを踏まえてイェーガー家の話に戻りますが、カルラがなぜいつもガミガミ言ってたかというとグリシャが言わないからみたいなところはあるでしょう。現実でもよくあることです。つまり父が父親役をやらないから彼女がそれをやっていたと。

 

それでもやっぱり母は母であるということです。

 

もちろんそれは逆も言えることで、たとえグリシャが母っぽい感じだといってもやっぱり父なんだと思います。つまり母っぽい父です。あるいは母的素養を持った父。これさっきのエレンに対する仮定と同じになりますよね。

そして子から見れば、父は夢(と呪い)を与え、行き先を指し示すものであるとするならば、やっぱり父であるグリシャの背中を見て幼いエレンは育ったということです。

 

そして、その背中が「母的素養が含まれた父」の姿だったので、エレンには「母的素養が含まれた父」の土台ができていったのだと考えます。

 

だからエレンはミカサを助ける行動を選ぶことができました。

それは言い方を換えれば、グリシャに母的な部分があったことによって結果的にミカサは救われた、ということです。


するとどうでしょう。冒頭に挙げた場面と繋がってこないでしょうか。

 

あの場面はこんな風に解釈できるのではないかと思います。

まず土台として、グリシャ本人にわざわざ言わせていることから考えて、進撃継承後のグリシャ自身はあの場面を忘れているのだと思います。ただし忘れているだけですので、記憶領域のどこかにはちゃんと残っています。そしてそれはわずかながら本人の思考に影響を及ぼし続けます。このことはグリシャがエレンへの継承時に全く同じセリフを言っていることからも裏付けられると言えるかもしれません。

グリシャ本人は忘れているのですから、クルーガーに言われたからカルラと結婚したというわけではない、とも言えそうです。まぁいずれにせよキースを通じて出会ったでしょうし、流行り病で距離が縮むことも普通にあり得るでしょう。ということはエレンが生まれなくなるというパラドックスは必ずしも成り立ちません。

つまり、そこではないのです。あの場面の意味は、エレンが生まれるかどうかではない。

じゃああの場面があることによって何が変わるのかというと、グリシャの中に先述した母の素養を植え付けたことに他ならないのではと思うわけです。

ジークに対しては「救世主にならなければいけない」とあれほど父的であったグリシャが、妹を殺した罪悪感をマーレに責任転嫁してばかりだったグリシャが、ジークのことを後悔してもなおフクロウを悪者にしようとしていたグリシャが、犯した罪に囚われ自分はもう何もするべきではないとなっていた ”罪人” グリシャが、再び立ち上がり前に進みだしたのは(22巻88話)

f:id:shingeki4946:20210404224236p:plain

-それで十分だ

承認があり、またクルーガーの言葉によって彼の中に母の素養が入ったからということではないかと思うんです。

 

その後のグリシャに関しては言わずもがなですが、ジークとエレンの記憶旅行において使命と家族の間で葛藤し、家族を大事にする方へ寄っていくグリシャが描かれていました(30巻120話)

 

f:id:shingeki4946:20210404224309p:plain

 

つまり、グリシャは「悪い子」になってしまったわけです。

 

そして、かつてジークに「救世主にならなければいけない」と思いっきり父的な導きをしたことと対称になってくるのが

「お前は自由だ」

ということになるんじゃないかと思います(※未確定です。)

 

「お前は自由だ」というのは父が指し示す夢と呪いの部分としては「自由であれ、自由でなくてはならない」ということにもなると思いますし、実際エレンの中にはそういう部分もありました。でもジークに言った言葉と対称してみれば、「ありのままの」お前で生きていっていいんだという承認にもなっています。

 

つまりそれが母の道が入った父の背中。

 

もしこの通りであるなら、構図としてグリシャの背中が見えるようにしているのも、そういうことかもしれません。

 

 

 

背中によって伝播していく、連鎖していったのはそのケースだけではありません(30巻121話)

 

f:id:shingeki4946:20210404224416p:plain

壁内に入ってからのグリシャは未来のジークにも影響を及ぼしました。ジークのことを想う気持ちを伝えた上で、エレンのことも大事に想うからこそ「止めてくれ」と。

しかしてそれは、ジークに行き先を示したわけです。

つまり最終的にはジークも母の道が入った父の背中によって導かれたということです。

 


それともうひとつの流れがあります。

 


ジークは最後、アルミンとキャッチボールができたことによって自分にとって一番大事なものに気付き、彼らと同じ目的に向かう行動に出ましたよね。つまり「分かり合えた」と。そのきっかけはアルミンが自分にとって一番大事なものに気付いたことでした。つまりジークはアルミンに導かれた部分があると言っても差し支えないでしょう。


さて、分かり合うということで言えば、ジークはエレンと分かり合いたがってましたよね。それと、私は度々ジークとアルミンを重ねるようなことを書いてきましたが、アルミンもエレンと分かり合いたがっていたと書いたと思います。外の世界を見るという夢さえも、その本質はエレンと分かり合うことだと書いた覚えもあります。つまりは分かり合いたがってた者同士が分かり合って世界を救ったという構図なんですが、なぜアルミンがそれほどエレンに入れ込んだかというと(21巻83話)

 

f:id:shingeki4946:20210404224504p:plain

-お前…
-名前は?

エレンだけが理解者だったからですよね。

少し言い方を換えましょう。

町の子供たちがアルミンは異端だと石を投げる中にあって、エレンだけが「ありのままの」彼を受け入れてくれたからです。

 

そしてアルミンはそんな父の背中を見ていたわけです。それがアルミンに「分かり合いたい」という気持ちを芽生えさせたと言うこともできるかもしれません。

だけれども他者との交わりが増えていくにつれ、いろんな考え方がたくさん入ってきて父に反発したりしながら、やがて父と同じ目線に立って親殺しをしたわけです。そしてそれがジークにも連鎖していって現在の結果をもたらし、それがさらに、おそらく世界と「分かり合う」ことになるだろうと考えられます。

 

つまり、元をたどるとやっぱりあの場面に行き着くように思うんです。

 

 


後編に続きます。

 

 

 

 

 

 


-ざれごと-

今回の記事で私が「母の道」と称したものは、「愛」という言葉に置き換えてもしっくりくるんじゃないかと思います。でも私は愛という言葉は使いません。使わないというか使えません。なぜなら私は愛という概念を他の言葉で明瞭に説明することができないからです。むしろそれができる方がいたらぜひお教えいただきたいくらい。

よく「愛にはいろんな形がある」なんて言われます。相手を思いやるのも愛ならば、あえて相手に厳しくするのも愛。自分が大好きで周りをないがしろにするのも愛。世界の平和のために人に死ねと言うのも愛。

どうにも私にはそれぞれが別個のものであるように思えてしまいます。

だけれども愛という言葉はとても便利で、それら異なるものをぼんやりと包み込み、愛と唱えればなんだか良いことであるような気がしてきます。心地よくなる感覚のおまけ付きというやつですね。その時々、人それぞれで異なるにも関わらずその一言で済んでしまうというご都合主義の固まりのような言葉。ですから社会においては非常に有用ですので、みなさんもぜひ唱えまくっていただくのがよろしいかと思うのですが、それはそれとして、思考停止してる一面があることは否めない気がしてしまいます。

なにせ「父の道」だって子供のことを想っている故なんですから。たとえばグリシャがジークに救世主になることを求めたことでさえ愛といえば愛なんです。あれがジークのためを想って(相手を思いやって)言ってる部分もあることは完全に否定することはできないんじゃないかと思います。

ちなみに記事中で書いた「背中を見せる」という話、わりとかっこいい話というか、それこそ物語やなんかでも美しく描かれたりすることがよくあると思います。でも実は大人にとっては非常に耳の痛い話で、要するに「愛」だとかなんとか口先だけで言ってるだけじゃダメなんだってことなんです。うわっつらの言葉ではなく、自分の態度や姿勢、言動の端々に現れるものを子供はちゃんと見てて、それを吸収していく。つまり結果として現れるものは美しく取り繕った言葉の方ではないってことなんですよね。

さて、愛ってなんなんでしょうね。

 

 


あ、それとこれはほんと戯言もいいとこなんですが、ヒストリアの子の父親がエレンじゃないかって説がありますよね。もともと私は中立というかどっちもあり得るくらいにしか思ってませんでした。物語全体のテーマを考えるとアリと言えばアリだし、あれはサスペンダーさんが出てきた時点で解決済みと言われればそうだとも思います。

でも138話のラストを見た時にやってきそうだなとか思ってしまいました笑。それはともかく、なんで物語的にアリなのかは後編を読んでいただければ分かっていただけるかもしれないしそうじゃないかもしれません。まぁ実際どっちなのかは分かりませんけどね。

-ざれごとおわり-

 

 

本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 4th Apr 2021
updated: none