進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

往生際の悪い思考実験


みなさんこんにちは。

 

 


自分でもいい加減にしろって思うんですが、自分の中で全てが綺麗に繋がってしまったので最後にもう一本だけ書きました。往生際が悪くてすみません。これを書かないと作者に負けたままな気がしてしまったので仕方が無かったんだ。誰かが一矢報いねばと思った。

ごめんね、ミカサ。

 

これは人によっては進撃に抱いていた印象が壊れる可能性もあると思うので読むも読まないも自己責任でお願いします。それと単行本派、アニメ派の方は今はまだ絶対にこの記事を読んではいけない、勝手ながらこれは命令です。

 

 

 

 

 

 


この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。また扉絵は30巻122話より引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[往生際の悪い思考実験]

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最終話でエレンはこんなことを言っていました(34巻最終話)

 

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-始祖ユミルは…
-カール・フリッツを愛していた

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-でも…彼女が自由を求めて苦しんでいたのは確かだ
(中略)
-愛の苦しみから解放してくれる誰かを求め続け…

 

始祖ユミル(以下、ユミルと表記)は、フリッツ王を愛していて、でも愛に苦しんでいた。それはつまり心の中に引っ掛かる部分と言いますか、疑念のようなものを持っていたということになると思います。

私は彼を愛している。いやでも彼は私の力しか見ていないのではないか、これは愛なのか? いやいや私は彼と結ばれ子供だって設けたではないか。でも彼は他の女ばかりを愛でてる。でも私は彼のためなら何でもやる、できる、彼のためなら自分の命さえ惜しくない、これが愛でなくて何なのだ。いやしかし彼は私の命さえ・・

テキトーですみませんが、要はこんな感じの葛藤が延々と繰り返されていたのだろうと思います。

 

さて、エレンを愛していると思っていたミカサが、その自分の想いは彼が悪魔だという事実(=残酷な世界・現実)から目を逸らすために思い込んでいた部分があったことに気付き、彼が悪魔だということを受け入れ殺しました。それは同時に、彼女が自由な意志によって、言い換えれば既存の愛という概念、すなわち自分が思い込んでた既成概念に囚われない客観的な判断によって未来のために彼を殺したということでもあると思います。また、それでも自身の自由な意志の下でもやはりエレンへの想いがあり、だからこそ彼を殺してあげることが愛であるということでもあるでしょう。

それに自分を重ねたユミルは、今まで自分が囚われていた愛という概念を捨て、それを断ち切るという感じで呪いが解けたのだと思います。

このあたりは今までも書いてきたことですし、読者間でもさんざん考察がなされてきてますよね。人それぞれ細かいニュアンスの違いはあるかもしれませんが、だいたいこんな感じに落ち着くだろうと思います。


でもなぜ、それがミカサだったのか


という疑問をどなたもお持ちになったんじゃないかと思います。普通に考えればミカサの置かれた立場や状況が一番ユミルに合致したからだということが考えられます。そして二千年間のたくさんのユミルの民の中で、その合致する人が現れることをユミルは待っていた、といった感じでしょうか。

でもなんかスッキリしないのはなぜでしょうか。少し ”ご都合” のような臭いがするせいでしょうか。二千年の数えきれない人々の中で他には一人として合致せずにミカサなのかぁと。

なんとなくですが、それも含めてユミルが ”ミカサの” 選択を待っていたと言及されている点に引っ掛かりを覚える感覚がありました。


そこでちょっと考えてみたんです。エレンは神の視点を持っていました。それでも自分が死んだ後のことは見えないと彼は言っていました。だから結果は分からないのだけど、それでもユミルがミカサの選択を必要としていることはあらかじめ分かっていたと言いました。

じゃあユミルはどうなのでしょうか。ユミルはエレンに神の力を与えた上位存在とも言えます。彼女には先が見えていたのでしょうか。

いや、答えが見えてるなら待つ必要はないか・・

じゃあなぜミカサだったのかという疑問が余計に強くなるばかりです。さっきよりももっとご都合臭がプンプン匂ってくる感じさえしました。

 

 

 

 


・・などと考えていたら全く違うところから繋がってしまいました。というわけで、その答えになりそうな話をこれからしていきますが、主に確認作業の方が長くなってしまいそうで隠したまま上手く説明する文章力が私にはありません。ですので先に結論をぶん投げた上で説明する形にしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

では、結論からまいります。

 

 

 

 

 

 

ミカサ、というかアッカーマンの一族というのは、おそらく始祖ユミルが自分のコピーとして作り出した存在であり、彼らの行動を通じて答えを探っていたということだろうと思います。言葉を選ばずに言えば、彼らは実験用のラットみたいなもので、それをケージの外からどう行動するか観察していた感じになると思います。そしてこれこそが「進撃の巨人」という物語の一番深いところにある下敷きになっている骨格であると考えます。違いますか?諌山先生。

 

だからミカサだった。

 


ではまず「自分のコピーである実験体」という部分から説明を始めたいと思います。

 

アッカーマンの特徴については今さら詳しく説明する必要はありませんよね。まずは巨人と同等の力を自在に引き出せるところがありました。前回の記事で巨人の力を「神(または悪魔)の力」としましたが、アッカーマンはまさに人間を超えた神のような力で戦線を引っ張ってきました。それは始祖ユミルも同じでした。まぁこれは当たり前と言えば当たり前のことです。知性巨人もそうであると言えるし、拡大解釈すれば全てのユミルの民がそうであると言えなくもない。ただし一般のユミルの民は自在には力を振るえないという点では異なります。


ところでアッカーマンがその神の力を振るうためには覚醒することが必要でした。そしてその覚醒は、命の危険を感じた時、すなわち「生きたい」とか「死にたくない」といった強い感情によるものだと説明されていました(30巻122話)

 

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ユミルが「神の力」を手に入れたのも同じような「生きたい」「死にたくない」という流れからでした。知性巨人も「生きる意志」がトリガーになっているという点では同じなのですが、覚醒に「脊髄液の摂取が必要」という点では異なります。実はこの時点でアッカーマン以外は振り落とされてると思いますが、まぁそれはともかく。


次に、私は以前からこの世界はユミルの心の世界、もしくは少なくともユミルの心が投影されていると考えてきました。そしてエレンがユミルの葛藤について明言したので、ならばユミルは「その答えが知りたくて仕方がないのだろう」と考えました。冒頭に書いた流れです。

そんなわけでユミルが「これは愛だ。いや、でも・・」という葛藤の答えを見つけ出したいと仮定してみたら、なぜか全てがアッカーマンの特徴と一致してしまったんです。

 

ユミルはフリッツ王を守るために自らの命を投げ出すようなことをしました。きっとユミルは自分は愛ゆえに彼を守ろうとしているのだと思っていた、あるいは思いたかったはずです。でも彼の言動は自分の思っていたものとは違いました。とうぜん疑念が湧くわけです。何かが間違っていたのか、いやでもこれは愛のはずだろうって。

その答えを知るためには、やはり自分と同じように「誰かを命をかけてでも守ろうと」してもらわないと意味が無いはずです。そしてこれがアッカーマンの特徴として描かれてきたことは言うまでもないですよね。


さらにアッカーマンにはもう一つ特徴がありました。他のユミルの民と違って始祖に操られません。

これも同様に、答えが欲しいユミルにしてみれば、王に操られてしまったら意味が無いと考えられます。彼らが自身の意志でどう行動するか何を選ぶかが肝心なわけです。だから ”アッカーマンだけ” は王に操られない設定にしたと捉えられます。


前述したものも含めてアッカーマンの特徴の全てが、ユミルの葛藤の答えを見つけ出すのに都合の良い、ユミルの状況をそのまま複写したような感じになっているんです。

 


聖書にお詳しい方は既にピンときた方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。

「神は自分に似せて人を作り、そして自由を与えた」その上で神は戒律や道徳を与え、人々の行動を律した。

創世記の記述と完全に重ねられているのがお分かりになるかと思います。

 


というわけで、数多くのユミルの民の中でミカサの状況が偶然一致したというよりも、そもそもアッカーマン自体がユミルの状況に似せて作られていることが少しだけ見えてきたんじゃないかと思います。

 


ではここからは完全に確認作業になります。まぁユミルになったつもりとかで、ケージの中のラットを見ているイメージでもしながらお読みくださいませ。

 


私たちが知り得るアッカーマンの歴史は巨人大戦からになると思います。それ以前についてはケニーの祖父の言葉によれば王家に仕える武家だったとのことですが、それ以上の詳細はわかりません。

巨人大戦で起こったことの一つに、壁の王に対してアッカーマンとアズマビトが反発したというのがありました。民衆を壁の中に閉じ込め、「束の間の平和」という綺麗事で飾られた約束された死を、記憶を操作することによって無理矢理それに従わせるようなことをしたから彼らは反発したようです(17巻69話、30巻121話、16巻66話)

 

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-初代王は なぜ人類の存続を望まない!?
-…知らねぇよ
-だが… 俺らアッカーマンが…対立した理由はそれだ…

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-我々がただ何も知らずに 世界の怒りを受け入れれば
-死ぬのは我々エルディア人だけで済むのです

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-柵の外に出るなって 言ったでしょ!!

 

要するに、家畜化してるわけです。つまり、アッカーマンは豚を檻に入れるべきではないと、豚を逃がすべきだと王に反発したんです。

 

豚を逃がしたユミルは「お前は自由だ」と放逐され、命を弄ばれる存在になりました。以前の記事で書きましたが、彼女は社会を離れて「自由」の身になったがゆえに社会の恩恵を受けられなくなり、社会からいつ命を狙われてもおかしくない存在となったんです。

アッカーマンは壁の王に反発したことによって粛清され、以降は迫害されていきます。社会は彼らを守ってくれなくなり生存を脅かす存在となったわけです。ちゃんと同じ道を辿っていることがお分かりいただけるかと思います。

 


さて、ケニーの時代に移り、彼はその神の力を用いて王に反撃しようとしました。でもその力を見たウーリは、彼を自らの右腕として側におきました。

フリッツ王がユミルの力を見て側に置いたのと同じように。

 


やがてケニーはリヴァイに夢を託しました。次はリヴァイの番です。

最近の記事でエレンとエルヴィンが重なっている点を書いてきましたが、最後もまさにそんな感じでしたよね。リヴァイが「夢を諦めて死んでくれ」とエルヴィンに言ったのと同様に、ミカサもエレンに死んでもらうことで「夢を諦めてもらうこと」を選んだ感じになっています。

ただし少し違いがあります。白夜に関する記事で書きましたが、エルヴィンはリヴァイに自身の本音を漏らしており、リヴァイは選んだというよりその背中を押した感じがあると思います。エレンとミカサの場合も背中を押した感じであるのは同様なのですが、それはあくまでミカサ本人がエレンの意志に気付いて背中を押したのであって、エレンは言っていません。エレンが言動で示していたことは、言わば「オレは地下室に行くぞ」ということになるはずです。

余談ですがこれも以前の記事で、当時のエルヴィンとアルミンの違いとして誰かにその意図を話したかどうかという話をしました。アルミンは話さなかった方なのですが、その背中を見ていたのがエレンだという流れもあると思います。

それはさておき、エルヴィンとリヴァイはかなり惜しいところまでいった感じだろうと思います。でも本音を漏らしてしまったことによって「リヴァイが自分の意志で選択をした」とは確信が持てなくなってしまった。これではユミルにとって答えとしては不十分だったのだと思います。あるいは心の中の悪魔は自分が死ぬべきだなんて言わないから、とも言えるかもしれません。

エルヴィンは人間が出来過ぎていたのかもしれませんね。あるいはエレンと比して言うならば、悪魔になりきれなかったとも言えるでしょうか。

 

 

というわけで今度はリヴァイが夢を託した次世代になります。作中では主にエレンとアルミンだけ直接の描写がありましたが、次世代という意味ではミカサも含まれているでしょうし、アッカーマンの流れとしては当然ミカサ以外にいません。

 

そして最後に完全に自由な意志のもとで選択を行ったのが、ミカサだということになると思います。


こんな感じでアッカーマンの性質、そして一族の歴史そのものが122話で描かれたユミルの生涯をなぞっている感じになっているんです。そしてユミルは自身に見えなかった答えを出してくれるミカサを二千年間待っていたと考えられます。

彼女の持つ力を使えば、同じような状況自体を作り出すことはおそらく容易いのではないかと思います。でもそれではたぶん納得できなかったんじゃないでしょうか。それでは本当に「自由な」意志であるかに確信が持てないから。だから二千年もの間、自分に似た初期設定だけ与える形で待っていたんじゃないかと思います。あるいは、未来が見えなくなる、つまり何らかの形で呪縛が解けるのが二千年後のミカサの選択だったので、その答えを待つ他なかったということかもしれません。

 

まさに納得のいく答えが見つかるまで実験してる感じですよね。

 

でもこれ、みなさんも身に覚えがあるはずです。

「こうしたらどうなるだろう」「それともこっちならどうかな」私たちが頭の中で考えたり、シミュレーションをする感じと全く同じです。そうやって設定を作り、神の視点から眺めながら、また条件をいじってみたりして。それを私達は「考える」とか「葛藤する」といった言葉で表現します。

 


で、もしこういうことだとすると少しニュアンスが変わってくる点が出てきます。

 

エレンが幼馴染会談でミカサに言っていたこと、あれが本当のことになるはずです。カッとなって言い過ぎてる部分はあるでしょうが、言ってることは本当だったと。むしろ嘘だったのは「ジークは(中略)知っている」という部分。いやこれも言葉としては間違ってないのですが、エレンはジークよりもさらに知っていたということになるでしょう。最終回で言っている「授与式で見た」ということとも矛盾しないはずです(34巻最終話)

 

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-それは僕じゃなくてミカサに言うべきだよ
-あんなでたらめ言って傷つけて…

-あぁ… そうだよな

ここでのエレンの返しは謝ることにかかっているようにも読めますし、それ以前にアルミンに言ったことやミカサに言ったことがでたらめだとはエレンは明言してないですよね。アルミンがそう推測してるだけで。

 


さて、そうなってくると全てはユミルの掌の上みたいな感じがしてしまうかもしれません。実際それは否定しきれないところもあるのですが、それはそれとして、やっぱりエレンもミカサも彼ら自身の意志によって未来を掴み取ったところも否定できないんじゃないかと思います。

特に前述したアッカーマンの性質がいい例だと思います。これはまさに宗教論争みたいなのとも重なってくる話なのですが「神は自由を与えたけど戒律によって律する」って、結局縛られてるじゃんって思いませんか? 私はめっちゃ思います。

アッカーマンには自由な意志を与えたけど、王を守るような性質を与えた。

でも前段で書いた通りエレンがその神による縛りであるアッカーマンの性質を指摘しています。そして最後の選択においてミカサはそのアッカーマンの性質を打破したと言えるわけです。

 

だからあれが本当に「自由な」選択だということなのでしょう。

 

知らないということほど自由からかけ離れたものはない。

 

自分を縛り付けているものを知らない、それに気付かないことこそが、一番不自由だということだと思います。

 

身近な例で言えば、彼氏彼女が「ん?」と思うようなことをした。でも彼/彼女はそんな人じゃないからと目を背ける。それは私のことを想ってくれているからだと都合よく解釈を付ける。そんな性質が人間という生物にはあります。そして後になって「そんなはずではなかった」「そんな人には見えなかった」とこぼす。「そういえばあの時」と、やっと気付くも後の祭り。

もしその性質を知っていたならもっと早くに気付けたかもしれません、おかしいことはおかしいのだと。アッカーマンの性質のような神に与えられた性質によって私たちは縛られているのかもしれません。そんな不自由な存在である私たちが自由であるには、その性質を知り目を背けずに直視することだ、ミカサの選択やユミルの葛藤とはまさにそういうことですよね。

 

あなたは「愛」や「正義」に囚われてはいませんか?(←煽るな)

 

ちなみに、幼馴染会談にてエレンがミカサに言ったことが「本当のことであり、自分の性質を知るきっかけを作った」とするなら、あれはミカサにしてみれば「生き方を教えてくれた」ということになるはずです。

 

 


ところで、最終回においてエレンは「仕方なかった」みたいなことを言ってましたが、これは今まで描かれてきたような背中を押された「仕方なかった」とは少しニュアンスが異なると思っています。いや、結局のところは同じかもしれませんが、むしろ今までのも含めこういうことだろうと。

 

これは「視点」みたいな話だろうと思うんです。

エレンは神の視点を手に入れてしまったために、見えているものが全く違ったんだと思います。前回もチラッと書きましたが、彼のしたことは世界を踏み潰すとか仲間を守るとかいうよりも、負の連鎖を止めるために世界を盤上ごと引っくり返したと捉えることができます。パラディからは巨人の力を奪い、世界からは数の暴力を奪っていったん白紙に戻す、それが神の視点から見た時に考え得る最善の選択だったみたいな感じです。見えてしまっているがために、それを自らの意志で選ぶしかなかったってことだと思うんです。

もちろんそれは大事な仲間のためにもなっている面もあるけれども、決して彼らだけを有利にするものでもなかったということです(34巻最終話)

 

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-本当に… ここまでする必要あったの?
-全部… 僕達のためにやったの?

だからエレンはこのアルミンの問い掛けに返答してないのだと思います。先ほどのミカサへの暴言に関する返答もそうですが、そういうことじゃないといった感じ、もはやそういうところにいない。

ものすごくお粗末な例えではありますが、このエレンとアルミンの会話って、もともと同期だった大会社の社長と平社員が話しているようなものだろうと思います。アルミンが異常なほど賢いために会話が成り立っているけれども、やっぱり見えてるものはだいぶ違う。エレンはもはや数人の大事な仲間を助けるために何かをすることはできなかったのだろうと思います。だってそのために最も大事な母でさえ手にかけているわけですから。別に彼は母と仲間を天秤にかけたわけではないでしょう。

たとえば子供が甘いものをたくさん食べたがる。子供を愛しているので望み通りにしてあげたいけど、その子のためを思えばこそ制限をする。親と子の視点の違い。それを子に説明したとしても子はなかなか理解できないかもしれません。

社員はもっと休みや給料が欲しい、人を無駄に増やして楽したいと思う。ものすごく社員思いの社長さんがいたとしても、社員を愛すればこそそれをできないわけです。それをすれば会社が傾き結果として社員に災いが降りかかることが見えているから。社長と社員の視点の違い。まぁこれは話せば理解できる場合もあるけど、そうでない場合もあるでしょう。

神と普通の人間との視点の違い、それは如何ほどかけ離れたものなんでしょうか。想像もできませんが、よほどの苦悩があったんじゃないかということは想像できます(34巻最終話)

 

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「エレンは自分たちのためにやってくれた」と遠足気分の英雄たちと、それを出迎えるヒストリアの厳しい表情の対比が描かれていること、ここも視点の違いを感じさせます。

これは単なる妄想でしかありませんが、ヒストリアは仲間として、また賓客として彼らを迎え、とうぜん危険にさらすこともないでしょう。でも、こと交渉にあたってはかつて一方的な攻撃を受けた側として、また相争った間柄として毅然として接するだろうと思います。アルミンはジークやエレンとの会話によって一気に成長した感がありますので分かりませんが、ジャンやコニー、ライナーあたりは面食らいそうな雰囲気さえ感じさせます。

結局それがどうなっていくか、どうしていくかは彼らが今後必死で考え行動していくことによってのみ決まっていくことでしかないと思います。エレンがしたことというのは、それを阻みかねない過去から絡みつくものを断ち切って地盤を整えたに過ぎないと思います。それが一番困難だったというだけで。先ほども書いた通りアルミンが成長していると思いますのでそれほど悲観的なわけではありませんが、彼らが世界を生き抜いていけるかどうかは今後の彼らの戦い方にかかっている、委ねられている。まさに「これから」なわけですね。

 

そしてそれが「自由」なのだと。

 

ここでいう自由というのは、ぼんやりと美しい与えられた自由ではなく、自分の行動如何によってはいつだって死んだり殺されたりする可能性すらひしめく、本当の「自由」なのだと思います。

 

その「自由」を全ての人類に与えた、ということなのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

-余談(ほんとに余談)-


さて、記事で書いた通りだとするとミカサが主役を食ってしまってる感じもあるんですが、まぁそれも間違いではないと思うのですが、じゃあエレンはユミルにとってなんだったんだって話をしたいと思います。

まず彼がユミルの心の三要素の一つであるというのは変わりません。もともとユミルが豚を逃がそうとしたことが、自由という概念に囚われていたところがあったためそこに不満を見出したことや、また「お前は自由だ」という言葉に端を発していること、そしてなにより悪魔であり神である力を持っているのはユミル自身ですから、悪魔であるエレンもやはりユミルの一部分であると考えるべきだと思います。

 

ただし、自身の想いへの答えを見出そうとする一点においては、自分とフリッツ王の関係をミカサとエレンの関係に重ねていることから、エレンはフリッツ王の役としてもユミルに見られていると捉えられます。

そしてミカサが見せた答えは、彼を想うが故に断ち切るといった感じでした。愛に関する既成概念の破壊と新しい概念の構築であるとも思いますが、それを見たユミルは言いなりになることが愛ではないといった感じで、やはり既成概念を破壊することで呪いを断ち切ったと考えられます。

 

そのミカサはそれでもエレンを愛しているという姿が描かれました。

それはすなわち、ユミルはそれでもフリッツ王を愛している、と考えるのが自然ではないかとも思います。

 

ではそう仮定したとして、

前回書いたように、あたかもユミルが今のこの世界に転生してきたと匂わせるような表現がありました。誰かに縛られずにありのまま生きていいんだ、生まれていいんだとユミルが思えたという風に受け止められるのではないかと思います。また、自身とフリッツ王の直系であるヒストリアのもとへ来たということは、「それでもフリッツ王を愛している」という感じをも覗わせるように思います。過去の目を逸らしていた自分にただ反発するのではなく受け入れている、これはミカサの選択とも重なりますし、前回ヒストリアまわりで書いたこととも重なると思います。

 

じゃあフリッツ王の役をしてた人はどうなるのでしょう?

「それでも彼を愛している」はずではないでしょうか。

 


ちなみに、前述したアッカーマンの話の流れで言うと役者がちゃんと役をこなしてなかったらユミルは納得しない感じでしたよね(34巻最終話)

 

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ミカサはアニやヒストリア、ハンジから兵長までいろんな人に嫉妬してきちんと役をこなしていました。エレンも役をこなしていないとユミルは納得しないのではないでしょうか。というかユミルが「愛していた」ことを描写するのにこんな場面である必要は別にないんですよね、本来は。

 

あとこれは邪推でしかないかもしれませんが、今回さりげなくアルミンにこんなことを言わせてます(34巻最終話)

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-少なくともミカサはこんな女泣かせのことは忘れて幸せになるべきだね!!

 

というわけで「エレンがフリッツ王の役であること」、これを根拠6としたいと思います。

 


あと前回は主にヒストリアの成長まわりの話が書きたかったので、くどくなるため端折ったのですが、最後に書いたユミルが転生したかのような部分は、それこそまさに「処女懐胎」である可能性を示唆するかのようであるとも思います。

でもやっぱり、それが「処女懐胎」であるなら、エレンを匂わす数々の描写なんてサスペンダー君を描かなかったのと同じように、描かなければいい話です。

で、エレンがそうであることを否定する根拠というのが「鼻がエレンに似てないから(見たことないはずの)サスペンダー君の鼻を受け継いでいるんだろう」という一点に集中しているように感じるので貼りますが(34巻最終話、18巻71話)

 

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別にこれを「だからエレンだ」って言うつもりはありません。そこまで酷似してるとは思いませんし、もはや個人の感覚で異なるレベルの話かもしれません。でもこれを含め幼少期のヒストリアなんかを確認してもらえれば分かると思うんですが、ああいう鼻の描き方、「子供」を書く時にわりとよくやってると思うんです。ライナーだって幼い頃は今みたいな角張った立派な鼻には描かれてなかったりします。どちらかと言えば「子供」の表現でしかないんじゃないかと。

で、これを見た上で「鼻がエレンとは違うから(見たことないけど)サスペンダー君の血だ」って主張できる人はいないんじゃないかと思うんですけど、

 

要はそこだと思うんです。

 

全く確証の無い、事実無根のことでも、人は思い込みで信じてしまったりするし、それが正しいこと・間違いないことだと感じてしまう、それを信じ切って主張してしまう、進撃ってそれをずっと描いてきたと思っています。

 

実のところ私はどちらが父親でもいいんですけど、(34巻最終話)

 

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たった数ページ前とか場合によってはそのすぐ真下に「違う」とは言い切れないような鼻が描かれていることさえ見えなくなってしまう、それが進撃が言っていることだと思うし、それを伝えたいだけです。

 


で、記事中でも書いたようにミカサの選択やユミルの葛藤なんかもそれですし、あるいはメタ的な意味でこの記事で書いたことなんかも含めて、全てが目を逸らされるような仕組みに描かれていると思います。

 

それはどういうことかってひとつ例を挙げるとすれば、

 


エレンとミカサの純愛というニンジンを読者の前にぶら下げた上で、イサヤマハジメは背後から殴り掛かってきてるってことなんですよ。

 


言い方、がアレですが笑。

 

 

でもそれって、まさに残酷な世界、残酷な現実を体現してるってことだし、それに気付く機会をくれているってことでもあると思うんですよね、

 

 

この「進撃の巨人」という作品自体が。

 

 

 

 

 

 

 

それでは今度こそ、みなさんごきげんよう

みなさまにたくさんの気付きが訪れることを祈念しながら

 

written: 25th Apr 2021
updated: none

 

反省会


みなさんこんにちは。

 

 

反省だけなら猿でもできると昔の人は言ったとか言わないとか。

 


え?前言撤回して記事を出すのかって?武士に二言はない?そんな矜持みたいな縛りは残念ながら私の辞書には載ってませんです。いやむしろ、終わりっつったのにたくさんアクセスしていただきありがとうございました。

 

 

 

 

 


この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。また扉絵は30巻122話より引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[反省会]

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今回は書くことがいっぱいあるので、とりあえず先に反省を済ませてしまおうと思います。

とある記事で書いた2つの展開予想は見事に大ハズレでした。ものすっごく見苦しい自己弁護をするならば(34巻最終話)

 

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おそらくエレンはこの景色を見ているので・・って苦しすぎるわ!

 

あと、世界を8割踏み潰したのはかなり予想外でした。ご都合展開になるだろうみたいなことも書いたはずです。これはほんとに反省してます。


しっかし相変わらず展開予想に関してはダメダメでしたね。ほんと何にも変わってねぇなお前は。何にもできねぇじゃねぇか。

 

大きな反省点は以上です。細かいのは追々。

 

 

さて、最終話を読んでまず思ったのは「思ってた以上にずいぶんと余白が多いな」という感じでした。物語としての流れをぶった切ってしまう恐れがあることを考えれば、回収されないであろう伏線の大部分は数話くらい前から目星が付けられましたが、始祖ユミルまわりでさえほとんど描かれなかったのは少々意外でした(22巻90話)

 

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-情報は納税者に委ねられる

そんなわけで解釈を読者に委ねられたので以下に私の解釈を書いていきますが、前回も書いたようにこれは私の解釈ですので、あなたはあなた自身の解釈も大事にしてくださいね。でも自分が思ったことが全てじゃないし、誰かが言ってることが全てでもない。自分の思ったことが正しいとは限らないし、誰かが言ってることが正しいとも限らない。そんな視点を忘れたくないですね。

とは言っても指摘や反論等を拒否するつもりは全くありませんので何かあればお気兼ねなくどうぞ。でも棒は勘弁。

あと、まだご自身で考え終わってない方はこの記事は読まないで欲しいのですが、まぁそれも含めてご自身で考えて判断してください。

 

 

 

では本題の前に少しよもやまを。

 

 


今回の記事を書くにあたって軽く下調べをしてみたんですが、どうも最終回は賛否両論あるみたいですね。それを知った時は多分イェレナみたいな顔になっていたと思います(26巻106話)

 

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そうそう、こんな感じ笑

なぜそれが素晴らしいことなのかは今までの記事を既読のみなさまには耳タコかもしれませんが、要するにそこから ”考える” ことが始まるからです。

社会がそう言ってるからとか、みんながそう言ってるからとか、それが「正しい」ことだからとかではなくて、

たとえば、なぜ虐殺はいけないことなのか。本当に虐殺はいけないことなのか。そもそも虐殺とは何なのか、みたいな。

そういったことを考えるきっかけとして、反対の意見があることはマストではありませんがあった方がそうなりやすいはずです。このあたりどうにも作者のニヤニヤしている顔が目に浮かんでくる気さえしてきます。あのあの、ニヤける前にちゃんと細かい伏線回収まで描き切ってください、今は1から10まで描かないとダメな時代なんですから。

ああ、要するに作者は ”考えろ” って言ってるっぽいですね・・

 

もちろん反対意見があったとて誰もが考えることに至るとも限らず、自分がそう信じて疑わないことをひたすら相手に叩きつけて組み伏せようとする人もたくさんいることでしょう。そこから悲劇の連鎖が始まっていくと、進撃に描かれていたように思います。

じゃあそんなの初めから無い方がいいじゃないかとも言えるでしょう。もし無ければ無いで、平和と言えるのかもしれませんが、誰一人としてそんなことを考え始めることもなく、虐殺という言葉を聞けば「それは悪い」と当たり前に思考停止するばかりだったかもしれません。

どちらが良いとかは私には分かりませんから、どうぞみなさんが考えてご自身の答えを見つけていただければと思います。

念のためお断りしておくと、もともと私は人気の作品についてまわる「感動したと言わないといけない空気感」とか「私が一番感動した(泣いた)選手権」があまり好きではないので賛否両論を歓迎するようなところがあるし、偏っているかもしれません。もちろんこれらは社会の中で生きていく上で適切なムーブでもあると思いますので「するな」とか言う気持ちは全くないのですが、仮に否定的な意見であってもポーズではない自分の感想を発信することはいいと感じてしまいます。ちなみにテキトーなことを書いてるように思われるかもしれませんが、人間が泣いてもいないのに泣いたと述べる事実・事例を私は知っていますので。もちろん誰もがそうだと言ってるわけでもありません。

 

さておき、反対意見と言えばやっぱりハンジが思い浮かびます(32巻127話)

 

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-虐殺はダメだ!!
-これをを肯定する理由があってたまるか!!

前提として、このセリフが出た当時の記事でも虐殺の是非みたいなことを答えが出ない問題のように書いた覚えがありますが、これはあくまでハンジという個人のお気持ちというか意見であり、絶対的に正しいとか悪いとかそういった類のものではないと考えます。

 

すなわち、これは「ハンジ個人の意見」です(なぜ言い直した)

 

そしてこの意見とそれに伴う彼女の行動が、英雄たちをエレンを止めるという行動へ導き、ミカサの選択へと繋がっていったのはもはや言うまでもないでしょう。もしこれが無ければ世界は全て踏み潰され、始祖ユミルが解放されることもなかったはずです。

つまり彼女はそのたった一言の「ハンジ個人の意見」によって、世界の20%という数千万だか数億だかの人々を救い、巨人の力を消滅させることにまで寄与したわけです。

これは世界観の記事で書いたことと同じなのですが、「世界を踏み潰す」という意見はその反対意見となる「虐殺は肯定できない」があったがために、その真ん中に落ち着いたのだと思います。彼女は父親役に四苦八苦していましたが、最後にちゃんと「禁止」をして道を指し示したということでしょう(33巻132話)

 

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-お前は役目を果たした

そして「虐殺は肯定できない」というのは他の人がそう言ってるからとか、世界で「正しい」こととされてるからとかではなく、彼女が自身の経験やなんかから考えて考え抜いて出したハンジ自身の「意志」であったと思います。

 

つまりあれは「ハンジ個人の意見」ですよね?

 

ところで、まさか無いとは思いますが、ハンジの言ったことが無意味になったとか思ってしまった方がいたら、彼女がやり遂げたことを過小評価したことを反省した方がいいかもしれませんね。反省会へのご参加ありがとうございます。

 


それはさておき、「最終回を書き直せ」といった署名活動も一部で起こっているらしいです。

いいですね。その発信・行動力には見習うべきものがあるように思います。「日本人の慎ましさ」とやらは美徳なんですけど必ずしも美徳であるばかりではない、そんなことを考えさせられます。まーた作者のニヤケた顔が浮かんでくるようです。いやだからニヤける前にさあ・・

私はもともとこの物語が虐殺を完全には否定してない(肯定もしてなければ否定もしてない)ことをずっと記事に書いてきたつもりですので、そこが最終回になって批判の的になるのは意外でしたが、その主張を見てなるほどって思いました。確かにアルミンのセリフは虐殺の肯定と受け止めることができる、つまりそういう風に作者は描いてきているわけです。

「物語は虐殺を否定するべきである」
「アルミンは虐殺を肯定したりしない」
進撃の巨人という作品は人殺しを肯定したりするべきではない」

だから「正しく」書き直せということなのか分かりませんが、ぜひこれらの文頭に(私の思う)という言葉を付け加えて読んでみてください。ぜんぶ進撃が今まで長い時間をかけて描いてきたことだと思います、

これらが 何を生み出すのか ということを。

ちなみにこれに対して「私は満足した」といった自身の受け取ったものを表明するのもいいなと思います。ただ自分の正しさを証明することに躍起になって「満足している人はたくさんいる」なんて言い始めるとまた何かを生み出しそうなので気をつけたいところですね。

余談ですが、サイレントマジョリティーという言葉があります。これは極論であるかもしれませんが、この言葉が周知されて以降はけっこう正当化に使われるようになった感じがしています。何の正当化かって、発信しないことのです。それと同時に、反論の正当化というか叩き棒としても使われることがありますよね。「お前らは声が大きいだけでみんなはそう思ってないんだよ」ってな感じで。

ほんとなんでしょうか? ほんとに ”みんな” はそう思ってないんでしょうか?

まぁ私には ”みんな” が思っていることは分かりませんので確たることは何も言えませんが。

 

あと倫理観という言葉もあれですね、アレ。倫理観の欠如とかって使い方をされますけど、それっていったい何が欠けているってことなんでしょう? 

たぶんこの質問に対する明確な答えは期待できなさそうです。なぜなら、倫理観という言葉はそもそもが明確な基準などの無い、個人や時と場合などによって変わる非常に曖昧模糊としたものだからです。はっきりとはしないけど、でもなんか「正しい」ことを主張してる気がする、曖昧でとっても便利な言葉。

以前書いたことの繰り返しになりますが、エレンがミカサを助けるために人さらいを殺したことは地鳴らしと状況・力関係・行為などが重ねられていることは明白と言ってもいいくらいだと思います。つまりあの場合、エレンがミカサを助けることなくミカサがさらわれていくことを受け入れる、それが「倫理観がある」という意味になります。

冗談みたいに聞こえるかもしれませんが、これ本当に合ってるんです。「倫理観がある」というのは「社会の規範に則っている」みたいな意味を含んでいますので、エレンはあの時社会のルールに従って憲兵団を待つべきだった、それをしなかったエレンに倫理観が欠如しているというのは確かに間違ってないんです。それが良いとか悪いとかいったこととは全く別の話だということがよくお分かりいただけるのではないかと思いますが、倫理観ってそういうものなんです。

蛇足ですが現実に即したもっと分かりやすい例を挙げると、日本での大麻の所持使用は「倫理観が欠如している」と言えます。カナダでのそれは「倫理観が欠如している」とは言えません。倫理観ってそういうものなんです。

さても麗しき倫理観、それが欠けていることと欠けていないこと、果たしてそれらがどういう意味を持つのか私にはいまいち分かりません。批評や議論といったシーンにおいて、相手に明瞭に伝わらない言葉を使うのは適切では無いなぁと考えさせられたのでした。

ちなみにエレンが人さらいを殺した行為に対してミカサが恐怖感や拒否感を抱いたことがずっと描かれてきました。別に物語としてその行為を肯定しているわけでもないと思います。最終回ではエレンの言葉にいちいちドン引きしているアルミンが何度も描かれています。別に彼だって虐殺を肯定しているわけじゃないんです。そういうことじゃない。

私は今までアルミンを叩いていると思われていたかもしれないけれど、最後なので彼の名誉のために言わせて欲しい。

 

まず、アルミンは頭の回転が速いのでエレンがごにょごにょ言ってる時点で、すでに話の先まで察し全部言わせることを止める描写がありました(34巻最終話)

 

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この時点で彼は何がどうなってるか理解をしているということでしょう。それでも虐殺の事実に対しては相変わらずドン引きしていますが、彼はもうエレンが今まで何を目的にそれをやったか、そしてその目的のために自身のみならず母まで手にかけるという過ちを犯したことさえ理解してその後の会話に臨んでいるわけです。

 

それでもし彼が「虐殺はダメだ」なんて「言って」たなら、きっと私のことですからこの記事でアルミンをボッコボコに叩いただろうと思います。

「何も見えていない上に人の心が無い」「相変わらず夢見る少年から成長しないのか」「正しいお前には分かんねぇよなぁ」って。

でも彼はそうしませんでした。すでに大事なものに気付いていたからだと思います。

 

アルミンはもともと他の子供たちに自分の考えを認めて欲しい子でした。そして一人だけ自分を認めてくれたエレンに傾倒し、自分が言った通りの海をエレンに認めてもらうことが夢となっていきました。やがて周囲の大人の姿から「何かを捨てなければ~」といった考えが育まれていき、それらが混ざり合うことで自分を認めてもらうために自らの命を投げ出すという行為にまで発展します。でも生き返らせられてしまい(≒認められなかった)海も認めてもらえないといったことが重なっていき、夢が呪いとなって彼を締め付けていったわけです。

やがて様々な出来事の中で彼は様々な気付きを得ていきますが、最後にエレンが背中で指し示したわけです。そのエレンの行動は認められることとは真逆でした。全世界の敵・悪魔となることで目的を達し何かを変えるということ。言わば認められないために自らの命を捧げるということ、あるいは自分ではない誰かを認めさせるために自らの命を捧げるということです。さらにエレンは全世界を踏み潰したいという「夢を諦めて死んでくれ」たのです。

だから「ありがとう」だし、だからこそアルミンは貝殻をエレンに渡したんだと思います。

今までこだわっていた夢はもう不要になったからでしょう。彼はもう「いいこと」をしたり言ったりして認めてもらう必要はなくなった。そして、夢に囚われずに現実を生きているからです(34巻最終話)

 

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-「進撃の巨人」エレン・イェーガーを殺した者です

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-アニ…争いはなくならないよ

さらに彼は、先人が命を懸けて見せてくれた背中をも大事にしています。「パラディ島の英雄を討った、パラディ島にとっての悪魔」として自ら名乗り出ることで大事なミカサを守り、以前の理想論とは異なり生きていく上で争いは必ずしも避けられないことも理解し、またその上で「分かり合うことを諦めない」ことに邁進していってるのです。

それがここまできて「虐殺はダメだ」なんて「言った」ら逆戻りですよね。彼はもう「正義」だとか「いいこと」とか、そんな綺麗なところには留まってないんです。

彼はもう、承認欲求なんかに背中を押されて「正義のボク、僕の正義」をわめき押しつけるようなガキのままではないんです。後ろを向いてなんていないのでしょう。

アルミンを後ろ向きのガキ扱いした方、反省会はいつでもあなたのご参加をお待ち申し上げております。


というか、結局のところなんでこんなことを考えさせられたかと言うと、作者がアルミンに虐殺肯定っぽいことを言わせたからなんですよね。・・ああ、もう。絶対ニヤニヤしてるわ腹立つ。

 

 


さて、前置きくらいのはずだったんですがだいぶ話が飛んでしまった(でも全部進撃が描いてきたことそのものなので面白いと思った)ので、ぼちぼち本題に入ろうと思います。

 


まずはズレがあったことを認めざるを得ません。

今回、エレンによるダイナ巨人の操作が明らかになったわけですが、そこから分かったことはギミックというか、物語の柱がここにあったということだと思います(3巻13話)

 

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-では! どうやって!! 人類は巨人に勝つというのだ!!
(中略)
-人間性を保ったまま!
-人を死なせずに!
-巨人の圧倒的な力に打ち勝つにはどうすればいいのか!!

もちろん誰も死なずになんてのはイアンも無理と分かってて言ってるでしょうし、どこまで人間性を保っているかというのは議論が分かれるところでしょうが。

というのも、エレンは見えない力によってダイナ巨人を操り、ひいては自分自身を操ったわけです。当然これは他にも様々なことがエレンの意志によって誘導されていたことを示唆していると捉えることができます。

さて、鳥やなんかの視点を持てていることも含めて、こういった「見えざる手」によって世界の流れを操るような存在を私たちが何と呼ぶかと言えば、もちろん「神」ですよね。

つまり、エレンは「神の力を手に入れた人間」ということになります。

 

そしてもちろん進撃において語られてきたのは「神=悪魔」ということです。すなわちその力は使いようによって「神の力」にも「悪魔の力」にもなるものだったといえます。じゃあその力をエレンはどう使いましたかという話になるわけです。


これ、前回の石臼の記事でちょうど書いてたことなんですが、失敗しました。余談なんて書き方しなければ良かった笑

まぁほんとに余談だと思ってたので仕方ありません。反省します。それまでに書いてた「生きるとは?自由とは?」みたいなところが私は柱だと思っていて、それに付随した話くらいに思っていたのですが逆でした。さらに言えば、ユミルの民自体は失楽園でしょうが、物語中のエレンだけに限って言えば違ったということです。これも逆。

要するに、ただの人間であるエレンが神(または悪魔)の力を手に入れ、その法外な力を持て余し、その中でいかにして人間として苦悩にまみれた理性ある選択をしたか、といった感じになります。イアンが言っていたことへの回答になっていることがお分かりいただけるはずです。

 

そしてミカサが最後にした選択は、エレンが悪魔(または神)であることを受け止め、彼を大事に想うからこそ殺すことによって彼を人間に引き戻した(悪魔または神との繋がりを断った)という意味合いも生まれてくるでしょう。

もちろんそれまでは彼が悪魔(または神)だということを認めたくなかった、目を逸らしていたという点は変わりません。エレンが悪魔じゃないと思いたかったのはアルミンも同じですよね。必死に目を逸らしていました。また、自分たちが悪魔だということを認めたくないことを感じさせる、こんな場面もありました(26巻106話)

 

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-そうなる前に話し合えないのかな?
-港ができたら世界中の人と話し合って 誤解を解けば…

-誤解?
(中略)
-…世界から見ればオレ達は巨人に化ける怪物だ
-そこに誤解は無いだろ?

この場面は当然ガビが悪魔だということを認めたくなかった場面とも重なってきます。そして前回も書いた通り、同じように始祖ユミルも自分が悪魔ではないことを証明したかった、すなわち自分が悪魔だとは思いたくなかったわけです。


さて、エレンが悪魔であることを認めたくないミカサはどうやって目を逸らしていましたか?

それを「愛」だと思い込んでいましたよね。

始祖ユミルはどうだったでしょう。やっぱり「愛」だと思い込んでましたよね。

でも「愛」じゃなかった。もちろん彼女らは目を逸らしてる自覚はありませんから、無意識下の心の働きによってそう思い込まされてしまった感じだと思います。「愛」という美しい概念が、「目を逸らしているという事実」からさらに目を背けさせるために都合が良かったわけです。でも心の奥底には何か引っ掛かるところがある、すなわち本当はちゃんと直視している部分もあって、それと目を逸らそうとする部分のせめぎ合いが頭痛という描写によって強調されていたのだと思います。なんとか直視しないようにしないように、自身でもコントロールできない自分の一部が、自分を守るために目を逸らさせようとしていたわけです。

これを作中の言葉で言えば、彼女らはその「愛」とかいうなんか美しい概念に酔っぱらってしがみついていた、あるいは囚われていたということでしょう。自分の悪い部分を、綺麗なものでごまかそうとしていたんです。

 

「愛」って本当は、いったいなんなんでしょうね。

 

・・といった感じに解釈できると思います。

では、作者の思惑通り「愛」について考え始めたところで、今度はエレンの選択の凄まじさについて考えていきましょう。


ここにもズレがあったんですが、私は今まで、エレンは母親を助ける道を選ぶこともできたけど前に進む方を選んだくらいに思ってました。だってグリシャを行かせないようにすれば済む話ですから。でもそうではなく、彼は自らの意志で母を殺したのでした。

なぜエレンがそうしたかは言うまでもないでしょう。幼いエレンに憎しみを覚えさせるためです。

もちろんこれは自分で自分の背中を押すという例の言葉に、より具体的な形で重なってくるわけですが、それがまさかの自らが ”環境” となって自分自身の背中を押していたってことなんです。

凄まじくないですか?

 

エレンが最も嫌う、流される者、奴隷あるいは家畜に、幼い自分自身を貶めているんです。母親を殺されれば性質によって反射的に自分が巨人を憎み駆逐を誓う、そうやって流されていくことまで分かってやっているんです。おそらくこれがエレンにとっては一番耐え難いことであるにも関わらず目的のために飲み込んでやっています。とんでもない目的意識がないとできないことだと思います。

 

そしてこのことはさらなる広がりを感じさせます(34巻最終話)

 

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-お前は自由だ…

まずこの場面がグリシャによる夢(と呪い)であったというのは確定したと考えます。今までは予想の範疇でしたが、ここはハッキリと明言されたと捉えられます(34巻最終話)

 

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この貝殻がアルミンにとっての夢(と呪い)の象徴であることは以前も書いたと思います。これは海の外への希望を表すと同時に、一緒に見てもらえなかった(認められなかった)という呪いとなり、その後のアルミンの「分かり合いたい」という思想により傾倒していくことや、導かれたがゆえのエレンへの反発とか微かな猜疑心のようなものにも繋がっていってると思います。

じゃあそんな貝殻がなぜいきなり地鳴らしをした光景の、その地面に転がっていたのでしょうか。

当然これは葉っぱとボールと同じことです。貝殻はアルミンにとっての夢(と呪い)のクオリアであるわけですから、地鳴らしの光景はエレンにとっての夢(と呪い)だということ、そしてその根源としてエレンが思い浮かべていたのがグリシャの「お前は自由だ」というセリフになるわけです。

 

グリシャの言葉に関しては今までさんざん書いてきましたから割愛しますが、先だって書いたことと合わせて考えるとこういうことになると思います。

グリシャが夢を託すべく語り掛けた言葉は、同時に「自由であるべきだ」という呪いとなりました。だからエレンはいつだって自由であろうとしたし、そうでない者を侮蔑するようなところさえありました。しかもそれは世界の全てを踏み潰したいという欲求にまで膨らんでいきました。もちろんこれは自由という概念に囚われているところがあった、それに背中を押されているところがあったと言えます。ここまでは今まで通り。

でも最終的にエレンは、その夢であり呪いである欲求に従ってただ世界の全てを踏み潰すことを、しませんでした。夢を諦めて死んだわけです。しかもそのために、最も自由でなくてはならないはずの自分自身をも不自由にまで貶めました。それはすなわち「自由であるべきだ」という固定観念の破壊、克服、脱却だと思います。

まぁ言葉はなんでもいいんですが、夢と呪いを打破していることになります。しかもそれが、全て彼自身の意志によって選択したことであると。


何かと問われれば上手く説明できないけれど彼の中には「自由」という名の、こうあらねばならないという感覚があって、逆にそうでない状態に対して自然と不満が湧き上がってきていた。だけれども実際は、彼自身がそう感じてしまうこと自体が縛られている状態すなわち不自由だったのであり、そんな概念などに囚われず自分自身の考えに考え抜いた意志によって行動すること、それこそが自由だということに気付いた。

生まれてこのかた持っていた自由・不自由にまつわる自身の既成概念の破壊と、新たな自由という概念の獲得です。破壊と再生。

といった感じではないかと思います。


これ、わりとみなさんも身に覚えありませんか?

思春期あたりにはなんだか親や学校に束縛されているような不自由な感じを覚えて反発してみたり、悪い事をしてみたり。まぁ社会人になっても社会に抑制を感じて不平不満をひたすらに唱えてみたりすることもあるかもしれません。だけどある時、親がうるさく言うのは自分のためを想ってたからということだったり、社会のルールだってそれが無ければ好き勝手やる者が出てくるからということだったり、


ということに、


気付く。

 

自分が不自由さを感じていたものや不満を持っていたものが、本来は自由を実現するためのものであり(夢)、自分がそこに不自由さを勝手に見出していただけだったということ(呪い)。でもなぜそう感じていたかと言えば、いやそもそも「感じる」ということ自体が、自分では分からない人間の性質、自分には見えない「見えざる手」によって背中を押されているようなことであり、それに気付くということは、そんな性質を持っている自分を客観的に見つめ(神の視点からの俯瞰)、その視点から物事を捉える(考える)ということであると。

もちろんこれは親殺しとも重なってくる話なわけでして、結局のところ相変わらず最後まで「自我の発達」が描かれていたわけです。


で、解釈を委ねられてしまったため残念ながら断言することはできなくなってしまったのですが、物語全体を通じて、人々の行動を通じて人間の心の成長が描かれていること。それによって心が成長したのは誰だったかという話。世界を俯瞰して愛ではなかったことに気付いたのは誰だったかという話。

さらに言えばエレンはこの世界での神のような視点を持ったわけですが、その力をどうやって得たかというと始祖ユミルと一体になったような感じであること。その始祖ユミルはあらゆる視点からこの世界を眺めていること。始祖ユミルがそうなったのは古生物との接触が原因ではありますが、作中におけるセリフで「悪魔はみんなの心の中にいる」と暗喩されていること。


そもそも、なぜか始祖ユミルの心の引っ掛かりを解消することが、古生物や巨人の力(=悪魔の力)を消す必要条件だったこと。それはつまり、自分の心の中にある悪魔を認めたくない始祖ユミルが、それを認めたことによって呪いが解けた、すなわち「気付いた」と考えられること。


これを始祖ユミルの心がこの世界であると解釈する以外の答えを私は見つけられません。別に断言はしませんし、別に断言はしませんが。


だから某記事で言ったことをアホみたいにもう一度書きます。

 

あなたが悩み葛藤している時、あなたの心の中にある世界では、エレンやアルミン、ミカサや他のみんなが必死に戦ってるんです。そして彼らが必死に戦った結果、あなたは前に一歩進むんです。

彼らがそんな苦しむなら悩まない方がいいんじゃないかって? 悩まない方が楽なんじゃないかって?

別にそれは否定しませんが、その時彼らは生まれないと思います。そもそも生まれる必要がなくなってしまうから、最初から存在しなくなると思います。

 

つまり、あなたが考えることを止めた時、彼らはみんな「要らない子」になります。


ぜひおおいに悩み考えてください


・・と言いたいところですが、それをどうするかもご自身で考えて選んでくださいませ。

 

 

 

 

 

 


-最後の余談(本編)-

 

余談という言葉を使うことに恐怖感を覚えるようになりつつありますが、それはともかく。実はここから先が書きたくてこの記事が出来上がりました。

冒頭で下調べと言ったのはほとんどこれに関することを軽くリサーチしてみた程度だったのですが(34巻最終話)

 

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まゆげ。あの作者、やっぱりやってきましたね笑

でも思ったより騒がれてなくて意外でした。軽く流し見した程度ですので私の調べ方が悪かっただけの可能性も高いですけどね。それでも指摘してる方もいくらか見かけたんですが、結論としては瞳の色が異なるからサスペンダーさんが父親だろうと落ち着いてる感じでした。

確かにその通りかもしれません。ただ屁理屈みたいなことを言えば、碧眼って劣性遺伝なので両親が青い目だとしても茶色の目で生まれてくる可能性は普通にあります。とはいえエレンとヒストリアの両親もあまり濃い色の瞳には描かれてませんから、これに関しては忘れてもらって結構です。こんなのはほんとどうでもいい屁理屈ですので。

 


ここでいったん話を変えますが、このことを考えてたらヒストリアが妊娠した意味がだいたい推測できました。

もちろん時間稼ぎになってることもそうだろうとは思いますが、それだけなら他にもなにか方法がありそうなもんですよね。別にそれが子供を作ることである必要性は必ずしもあるとは言い難い。なのでここも少しだけ批判の的になっていました。ああ恐い時代だ。


さて、ヒストリアはなぜ子供を作ることを提案したんでしたっけ?(32巻130話)

 

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-お前は
-世界一悪い子なんだから

これはもちろん、エレンに「お前は悪い子だろ」ってかつての自分の言葉でやり返されたからでしたよね。

 

じゃあ「悪い子」ってなんでしたっけ?

 

つい先日の記事でも書きましたが、「社会の決まり事や伝統などに囚われず自分の大事なものを大事にする人」くらいの感じでしたよね。その実際の運用例として(16巻66話)

 

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-私は人類の敵だけど…
-エレンの味方
-いい子にもなれないし 神様にもなりたくない
-でも… 自分なんかいらないなんて言って 泣いてる人がいたら…
-そんなことないよ って伝えに行きたい

 

だから子供を作ったんです。

 

安楽死計画は、現存する大人のユミルの民も含めて全員が「要らない子」であったということを肯定する考え方です。これから生まれるかもしれなかった子供たちは「そもそも要らないんだから生まれなくていいですよ」って言ってるのと同じです。だから彼女はそれに対する反対意見として「そんなことないよ」って言葉の替わりに行動をしたのだと思います。要するにこれは彼女の意思表示でもあるわけです。パラディ島の女王として、あるいはユミルの民の母として率先して行動を起こすことによって、彼ら全員の存在を承認しているとも言えると思います。

で、これは例え方があまり良くないのですが、一種の踏み絵のような感じにも捉えられるんじゃないかと思います。そう考えるとやっぱりそれを踏むべきもう一人の人物は、安楽死計画への反旗を表明したエレンでしかないのではないかと。そして島民たちは父である彼の背中を見て「生きるために戦う」ことをし始めた、もちろんそれは「あなたたちは生きてていいんだ」という母の承認に裏打ちされたものであると(34巻最終話)

 

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ヒストリアが子供を作った理由を上記のように仮定すると、物語全体の流れ、最終回の描写にピッタリはまってきます。

 

「物語の流れに合致する」

これが最大根拠ではあるのですが、眉毛が根拠1だとすれば2つ目の根拠ということになるでしょうか。

 

あとはたいしたことないのですが、3つ目にいきます。これは改ページを挟んでいるので分かりにくいのですが(34巻最終話)

 

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まんまエレンと子供が重ねられています。ちなみにこの改ページを挟んで重ねてくる手法は以前もやってます(かなり前の記事で指摘したことがあるはず)ので、作者は意図的に分かりにくくぼかしているのだろうと思います。今回下調べをした時にこの重なりを指摘してる意見を見かけることはありませんでした。もちろん私が見かけなかっただけでそういった指摘もあるとは思いますが、これだけあからさまに重ねられているにも関わらず多数の人がそれを話題にすることはなかった、それは事実だと思います。

 

4つ目、というかこの子が着てる服を見てなにか思いませんか?(34巻最終話)

 

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フード付きのローブみたいなのってあからさま過ぎるだろ笑

 

5つ目。サスペンダーの彼の顔が描かれなかったことです。構図も含めて、という意味で。別に名前とかが出ない人物がいるのは物語ではよくあることですが、他のページを見ていただければ分かる通り、いわゆるモブキャラであっても顔はちゃんと描かれていたりします。なので彼はモブキャラ以下であると言えます。つまりそこまで徹底的に、意図的にぼかされている、彼の存在を希薄にされているということです。

で、これは6つ目にしようか迷ったのですが根拠5と一緒でいいでしょう。そもそも、ヒストリアの相手がエレンじゃないかというのは読者の間でかなり前から言われていました。そんなことは当然作者も分かっているはずです。そこに意味深なセリフなどでさらにぼかしをかけたまま引っ張ってきて、最後までぼかしたまま終わったわけです。もちろんそれは解釈を読者に委ねるという意味合いもあると言えるかもしれません。

でも、そのためにサスペンダー君の顔だけ頑なに描かない必要性ってありませんよね。別に髪とか目の色とかエレンと同じような人物として登場させてしまう方法を取ることだってできたはずです。

 

つまりこれは「ぼかすこと」それ自体が表現であると私は考えます。

 

意味が分かりませんね。要するにこれは父親が不明だという表現、

 

処女懐胎」を表現しているのだと思います。

 

だからどちらとも言えるような言えないような感じのまま終わったのでしょう。ただし、人間が単体生殖をするはずもありません。それだとあまりにもファンタジーが過ぎるというか、極端な言い方をすればヒストリアが化け物になってしまいます。だから裏設定としてはどちらかが父親になっているだろうと考えますが、物語を形作っている根拠2を始めとして、これだけ匂わせるような根拠があったら私の中では ”描かれている” ものと受け取ります。むしろこれだけ匂わされてそれを認めないのは、結論が先にある感じになってしまうのではないかと思います。もちろん読者それぞれの解釈があるでしょうからそれを押し付けようとは思いませんが、エレンが父親であるとすると生まれてくる物語がたくさんあるんです。


これは妄想の範疇ではありますが、もしエレンが父親だと仮定してバックストーリーを考えるなら、まずサスペンダー君は協力者のような感じになることが考えられるわけです。サスペンダー君かわいそうと思うかもしれませんが、作中の彼の描写からは喜んで協力してくれる可能性も充分に考えられますから問題は無さそう。そして、ヒストリアが彼を訪ねたイメージ図の彼女の表情にも納得いく説明が付けられることになります。

それをヒストリアはひどい女だと叩くのはとてもイージーなことですが、その前に少し考えてみてください。

 

片親に育てられた子の悲しみを一番よく知っているのは誰か。

 

さらに彼女にとっては産みの親であるアルマよりも、フリーダの方がよほど母らしい存在でした。それから要らない子だと思ってた自分に寄り添って承認を与えてくれたのは血の繋がっているロッドではなく血の繋がっていないユミルでしたよね。

つまり彼女が自身のかつての境遇の承認と克服をしたという構図が生まれるんです。

ここでいう承認というのはですね、みなさんの中にもアルマとロッド、ダイナとグリシャなんかを見て「自分はちゃんと子供と向き合ってあげなきゃ」みたいに考えた方っていらっしゃると思うんです。それはごく一般的な思考の流れです。でも実際に強烈なトラウマ体験があったりすると、より強烈に反動が返ってきてしまったりすることがあります。「絶対に、なにがなんでも産みの親が両方揃ってるべきだ」みたいな考えに囚われて、そこに注力するあまりに本来の目的であったはずの「子供が健やかに育つこと」みたいな部分がおろそかになってしまったりします。その考え方の是非を巡って夫婦喧嘩も始まったりとかして。ジークに対するグリシャたちも根っこはジークの未来のためだったはずなのですが、その本来の目的を忘れてしまって本末転倒みたいなことになってましたよね。

でもヒストリアはそうした反動に背中を押されることはなく、それでいてしっかりと受け入れていることになります。血の繋がりとしては片親であったとしても、あるいは血の繋がりのない親であったとしても、大事なのはそこじゃないってことをちゃんと考えて分かった上で行動に移しているわけです。自分が過去に受けた傷から目を逸らそうと反射的に反発するのではなく、しっかりと事実を受け入れた上で一番大事なポイントは何かということをちゃんと判断しているのです。

これが一点。

 

もうひとつは、エレン側の救済みたいなニュアンスです。

エレンの行為によって多くの人命が失われた、それは事実です。でもそれとは別の事実として、彼の選択と行動はこの世界から巨人の力を失くしたという全ての人類に恩恵があるといっても過言ではない結果も残しています。そしておそらく、世界の8割が踏み潰されたのは力の均衡という話なのだろうと私は思っています。全人類が同じ土俵に立ったことによって報復という負の連鎖が不可能になり、以降は争うにしろ分かり合うにしろフラットな状態から始められるということ。地鳴らしだけにフラットになったと、これ半分冗談のようですが本気でそういうことだと思います。そのこと自体は、世界の人々にとっても益があったと見なすことができるはずです。エルディア側は巨人の力を失ったことでかつての帝国のような行動には出られず、世界は復興でそれどころじゃないところまで破壊されたためかつてのマーレのような行動にも出られず。

実際のところエレンがしたことって、大事な仲間を守るというよりもより大きな、神の視点から世界のバランスを整えてるようなニュアンスがあるように思います。ちなみに壁の王がしたことは、同様に神の視点からバランスを整えようとしたのですが、自らの手を汚すことも、誰かを犠牲にすることも避けようとした場合のモデルケースになっている感じがあります。

そしてそのたった一つの目的のために、エレン自身はもとより、グリシャ、カルラ、ジークと、イェーガー家は全員の命を捧げています。生物がこの世界に生まれた時点で当然持っている、生きること増えることという目的や、繋いでいくということすら放棄して人類に利することを成し遂げているような一面があるわけです。

なので物語としてのイェーガー家の救済な感じです。イェーガーという家名も歴史も途絶えてしまったけど、わずかながらその血は残りましたよといった感じ。

ちなみにもしあの子がエレンの子供であると周知されていたならば、今のパラディ島の状況では英雄かなにかの象徴として政治的に利用される可能性が十二分に考えられると思います。これは憶測にしかなりませんが、ヒストリアはそれを予見して子供に「重い荷物」を背負わせない方法を選んだ可能性が考え得るのではないかと思います。

 

もう一点はほんとにメタな話。

 

記事本文にて「愛」という概念に関して疑問を呈するようなことを書きました。進撃ではこれまでも「正義」や「夢」などといった、美しくて曖昧な酔っぱらう対象になる概念の本質が描かれてきたと思っています。

 

ところで、今回なぜヒストリアの件があまり話題にならなかったか、私なりに推測があります。断言はしませんが。


それは、エレンがミカサへの想いを口にしたからだと思います。


おそらくその時点で「じゃあヒストリアとは無いな」という思い込みが形成されたのではないかと思います。

 

ここでハッとなった方は後は適当に読み飛ばしてください。そりゃそうだろって思ってしまった方がもしいらっしゃったら、ちょっと考えてみてください。

あなただって、複数の異性に良く想ってもらいたいと思ったことくらいありますよね? 私はありますよ。そしてそれは普通に「人間らしい」ことだとも思っています。もちろん本当にそうでない方もいらっしゃるでしょう。あるいは頑なに否定する方もいらっしゃることでしょう。

じゃあそういう人を見かけたことはないでしょうか?

 

社会の通念とか、あえて言うなら倫理観とかいうやつでは「愛とは一途であること」が求められます。だからそういうポーズを取ることは理に適っています。「みんなに好かれたい」なんてカミングアウトしたら叩かれるのが目に見えてますからね。

でも、ポーズでやってるならいいんですが、いつも細かい伏線から伏線でないものまで拾いあげる多くの人々が、前述したようなあからさまな描写さえ拾えなかったのだとしたら結構恐いことだと思うのは私だけでしょうか。それって「愛とは一途であるべきだ」という考えに囚われて、思考停止させられ、目を逸らされていたってことになりますよね。作中の言葉で言えば、愛に酔っぱらって、背中を押されていたということじゃないかなと思います。

 

エレンがミカサへの想いを口にした=ヒストリアと結ばれた可能性は無い

 

こんな等式が全く成り立たないことは、ちゃんと考えたら誰にでも分かりますよね。でもそう思い込んだ方が美しい愛という概念を保つのには都合が良いわけです。というか、ついさっきまでこれが成り立つと思っちゃってませんでしたか?

ちなみにこれは断言できますが、愛とは誰か一人だけを想い想われることではありません。それが正しいわけでも、だから美しいわけでもありません。単に、現代の日本や他の国でそれっぽいルールがあって社会的にそれが歓迎されてるというだけの話です。そのルールは愛を規定しているわけでもありませんけどね。要するに単なる「私の常識」であり、思い込みでしかないんです。


といった感じの仕掛けなんだと思います。あー、もうニヤニヤしてていいから加筆分は期待してますよ。50ページくらいお願いします。


まぁ実際のところは、本当に目を逸らされていた方もいらっしゃれば、そうでない方、あるいは頑なに否定される方もいらっしゃると思いますが、もし一人でも「目を逸らされていた」ことを実感してもらえたなら、このブログをやった甲斐があるかなぁとは思います。

そして前述した数々の根拠の他に、あの子がエレンの子だとすると様々な意味合いが生まれてくるわけです。私はこれを ”描かれている” と受け止めます。また、これを不道徳だとか曖昧な言葉で否定するのも違うと思います。だって仮にですが、もうすぐ死ぬ好きな人の子供を欲しいって思って行動に移したんだとしたら、どうなんでしょう。これ美談ですよね、作者があえてはずした描き方してるだけで。ヒストリアはそんな風に見えなかった、とかだったらそれこそ「他人の気持ちを分かった気になるなよ」みたいな話ですし。

「社会の決まり事や伝統などに囚われず自分の大事なものを大事にする人」

ヒストリアはまさにこれをやってるだけなんじゃないかなぁと思うんですけどね。しかもそうであるなら、自身の望みと同時にみんなのことを考えた選択となり、ユミル(104期)の選択とも重なってくることになります。


さて、社会に決められた「愛」とかいう形に囚われてなかったですか? 私は以前、思いっきり囚われてました。

もしご入用であれば、反省会は門戸を広く開いております。もう終わっちゃいますが。

 

 

というわけで、なんかゴリ押しでまとめにかかっている感じになってますが、ツッコミどころがあったの覚えてらっしゃいますか?

 

瞳の色です。

 

実はこれも似たような話だと思っています。


上記の流れがあってそんな「愛」に都合が良いから、”見たこともないのに” あれはサスペンダー君の瞳なんだろうと思い込んで、停止してるかもしれません。これに関しては断言できる部分が一部ありますね。

 

だって誰もそれを見た人はいないんですから。作者がわざと書いてないんですから。

 

 


でもこれ、十中八九、ユミ子ちゃんの瞳じゃないかと思うんですよね(34巻最終話、30巻122話)

 

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最後までお読みくださり、ありがとうございました。

 

それではみなさん、ごきげんよう

 

 

written: 20th Apr 2021
updated: none

 

113 世界観 終幕 謎


みなさんこんにちは。

 

 

よし間に合った。

 

 

 

この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵および注記の無いものは全て23巻93話より引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[謎]

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謎とか大層なタイトルを付けてますが巨人がどうしたとかアッカーマンがどうだみたいなことは一切出てこない話なので、おそらくほとんどの人にはどうでもいいような話です。たいしたオチがあるわけでもないので、時間の無駄かもしれないので引き返していただいた方が吉かもしれません。

 

 

 

 


さて、さっそく本題に入ります。これはこの1ページ、実質3コマだけに関するお話です。

 

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夕暮れの海に沈みゆく連合艦隊を見つめながら、ウドは誰へともなくこう問いかけます。

 

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-なぁ…
-巨人が戦争で役に立たなくなったら…
-俺達戦士隊は…
-エルディア人はどうなるんだろうな

 

それに応じたのかなんなのか、ゾフィアはこう語ります。

 

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-近所のおじさんが言ってたんだけど
-海の水がしょっぱいのは
-おじさんがよく海におしっこしたからなんだ

 

 

・・さて、なんでしょう?笑

 

いや、笑うしかないほど意味不明なんです。

 

 

で、これを考えるにあたっては「海の水はなぜしょっぱいのか」という昔話(実際には「海の底の石臼」という題名らしいです)の話を避けては通れません。まぁご存知の方が多いだろうとは思いますが、齟齬がないように私の認識してるそれを雑に説明しておきます。


まず主人公としていかにも昔話のテンプレっぽい、人が良くてのんびり屋な青年がいます。その青年のお兄さんが嫌な奴のテンプレな感じで、強欲でズケズケ物を言ってくるタイプです。もし現代風にリメイクするとしたら、ぐうたらな弟とやり手ビジネスマンの兄という感じでしょうか。実は社会に評価されるのは兄の方だと思いますが、それはさておき。

弟者はかっこよく言えば清貧なのでお金がありません。ので普段から兄者にお金を借りたりしていました。そんなある日、弟者はその人の良さが幸いしてなんやかんやあって不思議な石臼を手に入れます。その石臼は回すとなんでも望むものが出てくるという昔話のお約束 夢のアイテムです。

人の好い弟者は豪勢な料理や酒を石臼から取り出して宴会を開きます。急に羽振りが良くなったことを怪訝に思った兄者は弟者から石臼のことを聞きだすと、借金返済の替わりとして石臼を譲り受けます。さすがの損得勘定の早さです。ここは奪い取るパターンもあるようですが、いずれにせよ石臼を手に入れた兄者はさっそく願いを叶えます。

兄者は人目に付かぬよう小舟で沖合いに出ると、そこで石臼を回し始めます。石臼からは願った通りに塩が出て来ました。これで兄者は大富豪になることを確信したので気を良くして帰ろうと思うのですが、石臼はなおも塩を出し続けています。兄者は石臼の止め方を知らなかったんです。

やがて塩の重みで舟は沈んでいき、そして石臼は今もなお海の底で塩を出し続けています。

だから海の水はしょっぱいんだよ。


というお話です。


作中でも幼少のエレンが言ってましたが(1巻4話)

 

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-うっ…嘘つけ!!
-塩なんて宝の山じゃねぇか
-きっと商人がすぐに取り尽くしちまうよ!!

昔は塩が貴重品でしたので、石臼から出てきた塩はそのまま金と読み替えていいでしょう。ですので寓話的な解釈をすれば、

 

富に目がくらんで独占しようと欲張った兄者は、絶大な力の使い方を誤って自ら我が身を滅ぼしたんだよ

 

といった教訓を含んだ話と捉えられます。

 

これはもの凄く進撃の物語とシンクロしていて、巨人の力という圧倒的な力を利己的に使おうとしたマーレは我が身を滅ぼすことになりますし、もちろんかつてのエルディア帝国にもそういった面があったことでしょう。世界の国々も同様でマーレと同じように収容区を作りエルディア人を使って魔女狩りをしてきました。マーレがやってなければおそらくどこか別の国が巨人の力を利用して世界を蹂躙しマーレと同じ道を辿ったなんてのも普通に想像できることです。作中でもフリーダにこんなことを言わせてましたし、(30巻121話)

 

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-巨大な力に対し 人はあまりにも弱い

 

また、アズマビトはその轍を踏みかけたところからの気付きが描かれていました(33巻133話)

 

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-どうして… 失う前に気付けないものでしょうか
-ただ… 損も得もなく 他者を尊ぶ気持ちに…

 

逆に弟者のような使い方をすれば絶大な力は幸を与えてくれるかもしれないというのも描かれてて(21巻86話)

 

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かつてのグリシャはテキトーなことを言ってましたけど、この絵なんかを見るにあながち的外れではなかったのでしょう。それが人類の文明を先に進めるような役に立っていた部分もあったのだと思います。実際に礼拝堂地下の光る石は光源として利用されましたし、氷瀑石もとてつもない可能性を秘めたエネルギー資源だったりしますよね。

あるいは(28巻114話)

 

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-しかしある日を境にエルディア帝国からその病は消滅した

病の根絶という奇跡のような例も示されていました。そしてこの病気に関する話はグリシャが壁内に入った際の流行り病とも重なってきますから、グリシャは「力というものの使い方」をここで気付かされたみたいなのを暗に示しているのだと思います。たぶん病原菌を持ち込んだのはグリシャの可能性が高いのでマッチポンプみたいなところはあるのでしょうが、なんにせよ外の世界では普通でしかなかった医学知識が、壁内では言わば神の力みたいなものだったということになります。それはおそらくグリシャも実感したでしょうし、自身の持つ力というものが、使い方によってはいかに人を幸せにできるものなのかという気付きを得たということだと思います。ちょっとニコロあたりともかぶってくる話ですね。


力というのは使いようによって神の力にも悪魔の力にもなり、使い方によっては幸福を招いたり悲劇を生んだりするというのはまさに進撃の物語で一貫して描かれてきたことだと思います。それが石臼の話にもなぞらえてることは、前述したエレンやフリーダのセリフなんかからもほぼ間違いないだろうと考えます。

 


ただし、

 


件の場面に関しては、少し話が異なってくるように思います。

もともとゾフィアのセリフはウドの「巨人が役に立たなくなったら~」という問い掛けから引き出されたものでした。そしてウドの問いに対する答えは作中で何度か明示されています(29巻116話)

 

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-スラバ要塞で見た通り巨人の力はいずれ通用しなくなる
-つまり私達は用済みとされていずれみんな殺されるの

彼ら戦士候補生たちはこの時点ではそのことを理解してませんが、もし沈みゆく軍艦を見て単に石臼の話を示唆するだけであったなら、ウドに対する解答として「(私たち)エルディア人が力の使い方を間違った結果だろうね」みたいな捉え方ができると思います。それと同時に、マーレや世界の人間が力の使い方を間違っているといった感じにもなり、後に起こる地鳴らしを暗示するかのように受け止めることもできると思います。きれいにはまってきます。

 

ところがゾフィアのセリフはオチを変えているんです。

 

誰でも知ってるような童話のオチとは違うことを言う、つまりやんわりとした否定のようなもので、海の水がしょっぱいのは人の欲が力の使い方を誤らせたから・・というわけでもない、と言っているように思えるんです。

そして彼女が言ったオチは「おじさんがおしっこしたから」というものすごく子供っぽいというか、テキトーな感じです。おしっこが実際にしょっぱいかどうかはともかく、水におしっこを混ぜたらしょっぱそうな感じがするといったくらいの感じでしょうか。

 

つまり、「ままある」とでも言うんでしょうか、そういうものだ、そういうものでしかないといったニュアンス。ウドの質問に対する形で言うなら、投げやりなわけでもなくて「なるようになる、なるようにしかならない」といった感じでしょうか。人間はなんにでも理由や理屈を付けようとするけれども、本当はおしっこをしたら海がしょっぱくなったというくらいシンプルな、「そういうものだ、そういう風になっている」という世界観がそこにあるのではないかと思うんです。


悲劇はなぜ繰り返すのかという問いに対して、作中では答えのひとつとして「人が何かに背中を押されて動いてしまうから」と提示されているように私は感じています。ライナーが壁を破ったのも然り。エレンが彼らを裏切り者と憎んだのも然り。グリシャがマーレを悪者にしたのも然り。マーレや世界がエルディアを悪魔に仕立てたのも然り。それは人間が持つ性質であって、そういうものなのだと。

だからこそ自ら地獄に足を踏み入れる行動、状況を俯瞰し自分だけではなく相手の都合も考え、悩み葛藤した上での意志を伴う行動のみが風穴を開けられるのかもしれない、それだけが世界の流れを、何かを変えることができるのではないかと思うわけです。

そしてそんな行動のみが、「理解することをあきらめない」ということを体現できるのではないかと。

 


・・とはいえ、これらはあくまで私がそう思ったということに過ぎないため、記事にすることでいつかどこかで作者の答え合わせを聞けるようにならないかなという淡い願望を込めた、私利私欲にまみれた記事ができたのでありました(20巻80話)

 

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-俺が今までやってこれたのも…いつかこんな日が来ると思ってたからだ…
-いつか… 「答え合わせ」ができるはずだと

 

あ、これ答え合わせできないフラグだった・・

 

どうかゾフィアの答え合わせお願いします笑

 

 

 

 


進撃の巨人を読み解く 完

 

 

 

 

 

 

 

 

 

-恥ずかしいあとがき-

というわけでなんとか完結前に私利私欲も満たせましたので、当ブログはひとまず終了したいと思います。この記事を上げておよそ24時間後くらいには最終回が読めると思うとなんとも言えない感じです。みなさんも存分にご堪能した上で、ぜひ自身が「進撃の巨人」という作品から受け取ったモノについて思いを馳せていただけたらと思います。それはあなただけのものですから、当ブログにも他のサイトやyoutubeなんかにも決して載っていません。正解なんてありませんから、仮に否定的な印象だったとしてもそれもまた良しだと私は思います。自分の感じたものをぜひ大事にしまっといてください。そして覚えていたら5年後、10年後とかに進撃を読み返したりなんかすると、今のあなたが感じていたことがその5年、10年の自分自身を見つける道しるべになると思います。

それと3年ほどブログをやって気付いたことで、最初の頃はアクセスが増えていったりするのを面白がって見ていたのですが、最終的には何千何万のアクセスという数字よりもひとつひとつのコメントの方がモチベに繋がりました。それが仮に否定的なものであったとしてもそうでした。今までコメントをくださったみなさん、ツイートなどをしてくださったみなさん、ありがとうございました。みなさんの「行動」は確かに伝わっていたと思います。

こんなブログごときをちゃんとしたものと同列に考えるわけでもないのですが、たぶんそういうものなんじゃないかなとも思います。自分の好きなものに対する「行動」って、意外と大事かもなと。


というわけで、今まで「私が進撃から受け取ったモノ」を3年間に渡って恥ずかしげもなく書いてまいりましたが、お付き合いいただきましたみなさん、ありがとうございました。


そしてなにより、たくさんの気付きや考える機会をくださった「進撃の巨人」という作品と、それを生み出してくださった諌山創先生に感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

また諌山先生を支え「進撃の巨人」を世界に届けてくださったバックさんを始めとする制作及び出版関係のみなさまも、本当にありがとうございました。

諌山創先生が今後どのような道をお選びになるのかは分かりませんが、どんな選択であっても陰ながら応援させていただきます。

 

諌山創先生とご家族様のご健康とご多幸をお祈りしております。

 

ありがとうございました、そしてお疲れ様でした。

 

 

 

 

written: 7th Apr 2021
updated: none

 

 

112 世界観⑯ 進


みなさんこんにちは。

 


これは分割した後編ですので、まだの方は前の記事から読んでください。

 


ちょっとまとまりきらなかったし早口過ぎるんですが、間に合わなくなりそうなので上げます。

 

 

 

 

 

この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は10巻40話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[進]

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さて、散らかったまんまの話がいくつかありますので、ここで三角形に話を戻したいと思います。

 

イェーガー=エス、アッカーマン=自我、アルミン=超自我とかなんとか言ってましたが、それがなんの意味を持っているのかというおはなし。

 

結論から書きますが、おそらくこれ「人間の意思決定のプロセス」として描かれているんじゃないかと思います。


たとえば「進撃の34巻を本屋へ買いに行こう」という欲求が立ち上がったとします。まず欲求。

その時私たちの頭の中ではこんな感じのプロセスが発生していると思います。

8時:通勤通学中・条件付きだが禁止しない
9時~18時:仕事中or授業中なので禁止
19時:禁止しない
20時:〇〇さんとの約束あり・禁止
21時:同上・禁止

そして次のプロセスとしてまた個別に検討を進めていきます。たとえば朝行くなら家を早くでる必要があるがそれは可能か否か、終業後ならばその後の予定も踏まえてどこの本屋なら可能なのか、とかとか。意識してやることもあればほぼ無意識であることも多いと思いますが、要はこういう演算を高速で積み重ねていくことによって、

 

私たちは ”考えて” います。

 

まず欲求が立ち上がり、そこに経験や情報などを基にした禁止が発生し、その禁止を考慮しながら欲求を叶えられる道を見つけ出す、あるいは欲求を許可するという承認を下すということになります。

そして最終的に承認が下った方法によって「行動」というものが生まれるわけです。

さらにまた演算をし、行動をし、またまた演算を・・といった感じで、これらのプロセスが繰り返されることによって私たちは前に進んでいきます。行動しなければ、前に進むことはありません。

 

あ、前に進むことを作中ではなんと言うんでしたっけ?(3巻12話)

 

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「進撃」するんです。


子供は純粋にこれがしたいと願います。父は過去の経験を活かして「こうするべきだ」「こうしてはいけない」と禁止します。母は父の意見も織り交ぜながら、子供の欲求を満たすべく承認をします。

そして親殺しが成されることによって今度は子が父や母となっていき、次の世代へと続いていきます。

つまり、家族が前に進んでいきます。


調査兵団は壁の外へ出ようとし、憲兵団はあれこれ難癖をつけ禁止を課し、駐屯兵団が調査兵団に寄りそったことによってレイス王家という親が殺され、パラディ島は前に進みました。

パラディが「生きたい」「分かり合いたい」という欲求を発し、マーレが過去の経験に従って様々な禁止を課し、ヒィズルがパラディに寄りそうことによって、三国は前に進みます。いやどうかな、世界を父に見立てればマーレが母とも言えるのかもしれません。


欲求とは未来への希望で、それを過去に蓄積した経験により行き先を修正し、現在の行動が出力されて前へ進んでいきます。


全部同じです。


進撃がまさにタイトルなわけですから、それは前に進むということすなわち「行動」について描いているのでしょう。

でも「行動することの大事さ」みたいなのって物語に限らずよくある普遍的なテーマではあります。しかしながらご存知の通り作者はさらに一歩踏み込んで「行動」について掘り下げていますよね(24巻97話)

 

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背中を押されてする行動と自ら地獄へ足を踏み入れる行動。


背中を押されてする行動というのは、雑に言えば人間の習性だったり社会の環境だったりによって成される行動といったところでしょうか。カッとなって殺す。憎しみにまかせて罵倒する。恐いからやらない。なんか気持ちよくなるからマウントを取る。神がそう言ったからそうする。法律でそう決まってるからそうする。伝統でそう決まってるからそうする。

全てがそうだとは言いませんが、ある程度共通してるように見えるのは「思考停止」が伴っている感じでしょうか。

自ら地獄へ足を踏み入れるというのは、そこが地獄であるということを知っているということです。そこに踏み入れるとどんなリスクがあるか知っているということです。そしてメリットデメリットなどを勘案した上であえて踏み入れるということです。

 

というわけで、「行動」だけでは以前の記事に逆戻りしている感じがしてしまうので言葉を洗練したいと思います。

 

「意志を伴う行動」

 

つまりこれが、進撃という物語の、メインのメインのメインのテーマなのだろうと思うんです。

 

ですからトドメはミカサなんです。子としてのミカサは、「かつて命を救ってくれた」という美しい偶像だった父エレンの真実の姿を見つめ、親殺しを成す必要がありました。あるいは幼馴染三人における母にあたるミカサは、エレン(欲求)とアルミン(禁止)両者によって作り出された道筋に承認を与える必要がありました。またそれは過去やなんかに囚われたものではなくミカサ自身の「ありのままの」意志でもあったということでしょう。

そうやって三人がいたことによって生まれた「行動」によって、前に進んだのだと思います。

これがもしエスの欲求だけしか無ければどうなっていたでしょうか。ただただ相手を踏み潰すだけだったかもしれません。もし超自我の禁止しか無ければどうなっていたでしょうか。あれはしてはいけない、こうするべきだ、いやいやそれはダメだと無為に時間を潰すだけだったかもしれません。あるいはそれを突き詰めれば、自分たちが生きていなければこんな問題は無かったという考えに辿り着いてしまったかもしれません。

では間に立つ自我の承認が無ければどうなっていたでしょうか。

「生きる/死ぬべきだ」、「戦う/分かり合える」、「攻撃する/攻撃してはいけない」そうやって対称的な意見がぶつかり合い、終わりの無い争いが続くばかりだったかもしれません。


エレンはこんなことを考えていました(33巻131話)

 

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-自由だ

ただただ自分がしたいことをしたい部分があり、(33巻131話)

 

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-死ぬべきは… オレ達エルディア人なんじゃないのか?

それを押しとどめる部分もあり、(33巻131話)

 

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-でも…そんな結末
-納得できない

それも受け容れられない部分もあり、

いろんな自分がいて頭を悩ませていました。これを日本語では「葛藤」と呼びます。あるいは欲求と禁止のせめぎ合い、エス超自我の争いです。

でもこの葛藤もしくは争いがあるからこそ、自我はその中間のより良い行動を見つけ出すことができます。

葛藤があって、必死で考えて考えて考えるからこそ前に進むんです。悩むのは面倒だと投げ出したり流されたりしてしまったら、すなわち思考を放棄してしまったら、同じところをグルグルと回ってしまうんです。前に進まないんです。

ここは言い方が難しくて、極端に受け取らないで欲しいのですが、いわば争いがあるからこそ前に進むようなところはあると思います。そして争いが起こるためには超自我のような対称になるものが必要なんです。そして超自我が禁止をするためにはまず欲求が立ち上がらないといけないんです。


私たち人間は争いというものを忌避しますよね。暗いイメージを持っています。つまり闇夜です。でも夜が無ければ朝は訪れないんです。夜があるからこそ初めて朝という名の、(16巻66話、21巻84話)

 

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「承認」がやってきます。日が昇るイメージと共に描かれるのはいつも「承認」なんです(32巻130話)

 

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だから人類の夜明けも「承認」によって成されました。


もし承認をもたらすミカサ(自我)がいなければエレン(エス)とアルミン(超自我)はひたすら殴り合うばかりだったかもしれません(34巻138話)

 

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ではその自我が加わった遠因はなんでしたっけ?(22巻89話)

 

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-それができなければ繰り返すだけだ

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ここが黄昏になっています。夜は夕方が無ければやってきません。前回のおさらいみたいになりますが、ここからの流れによって、エレンがアルミンの「分かり合いたい」を生じさせ闇夜の種を撒き、その一方でミカサが二人と行動を共にすることになります。ここが朝を迎えるためのターニングポイントなのだと思います。

 

夜は夕方が無ければ来ないのは分かった。では黄昏はいつどのように始まったの?(22巻88話)

 

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グリシャが立ち上がったことで始まったのでしょう。おそらくここでエレンが生まれることが確定したのだと思います。

 

つまり、欲求が立ち上がった、それが黄昏の始まりです。

 


イエス・キリスト伝説は太陽の運行を基にしたものだとお話しました。冬もやっぱり暗いイメージがあるように思います。闇夜です。だけれどもやっぱり冬があるからこそ春が訪れます。

だから最後はパラディ全体の母としてのヒストリアによる承認があるのではないか、そんな気がしてます。

もちろんあくまで予想でしかありませんが、パラディというかエルディア人としての母というか。もしかしたら世界の全ての人類くらいの感じかもしれませんが。そして承認というからにはただ英雄を讃えるのではなく、悪魔になった人や争い合ってた人々を包括した感じの承認になるんじゃないか、そんな風に予想しています。じゃあ父親は?道を指し示したのは誰だったのでしょうか。

 

 

 


ところで、争いがあるからこそ前に進むなんて言うと物騒ではありますが、そんなものだと思う部分も多々あります。

以前書いた記事とかぶるのですが、人間はもともと家族単位で狩猟生活を送っていました。でも獲物や狩場の奪い合いなどをするうちに部族が生まれたのだと考えられています。たくさんいた方が強いですからね。もちろん今度は部族同士がぶつかるようになって、集落、村、町、国といった感じで発展していきます。

争いがあって、今まであった枠組みが一度解体され、新たな枠組みが出来上がるわけです。

アニメ4期のオープニングテーマが「破壊と再生」な感じなのはそういうことだろうと思いますが、要するにプロセスなんだと思います。何のプロセスかって「ひとつになるため」のです。

生物というのはもともと単細胞生物という個体が食ったり食われたりしてて、何がきっかけかは分かりませんがそれが集まって多細胞生物という協力体制を築くことで現在の生物のルーツになったと考えられています。争ってやがてひとつになったわけです。

私たちは自分のことを「自分」という一個体だと思っていますが、実際は兆を超える単細胞が寄り集まって、皮膚という名の境界線、あるいは壁によって外界と隔てられた国のようなものだったりします。先ほど書いたことも含めて結局全部それなんです。ぶつかって一つになっての繰り返し。もう性質というか、この世界の仕組みみたいな話になってしまいます。

人間はよく科学技術や文化、政治体制から法律やらなんやらを「英知の結晶」みたいに言ったりしますよね。人間ほどの知能があったからこそ成し得た偉業の産物だ、みたいな。でも三権分立の仕組みって前述した三角形にかぶったりしますし、コンピュータの仕組みが脳のプロセスの後追いみたいなところもあったりするんですよね。人間がその高い知能で編み出したはずの集団行動と似たようなことを知能が低いはずの生物がやってたりとか。

面白い例がありまして、作中でジークが「誇り高き死」を揶揄してるセリフがありましたけど、これも同じような感じです。「誇り高き死」って要するに人間様ほどの知能や文化的献身的な精神があって成される他の生物にはできない生き方(死に方)である、みたいなニュアンスがあると思うんですが、実はこれと同じようなことが自然に起こってます。

私たちの体は日々新陳代謝によって細胞が入れ替わるのはどなたもご存知かと思いますが、細胞分裂をして新しい細胞を生み出した古い方、これまだ生きてるんです。でもそれじゃ困るので、自殺の命令が下されます。そして古くなった細胞はその命令を受け取ったら死んでいって老廃物として体外に排出されていきます。

要するにみんなのために死ねって、心臓を捧げろってことが私たちの体の中で日々行われてるんです。ちなみにこの自殺の命令が上手く機能しないとそれがガンになるという、なんかシャレの効いた感じの話になります。いや、シャレが効いてるっていうか、なんかすいません、

全部、仕組みです。

で、また進撃と関係ない話してんのかって思われそうですけど、こういう観点がないと出てこないと思うんですよね「肉の塊」なんて言葉は。

作中では道をネットワーク状のなにかのように描かれてると思いますが、「増えること」と「ネットワーク」はほぼ同義です。なぜかこの世界のものはネットワークを成して増えていきます。人間や生物は家系図などを思い浮かべていただければ分かりやすいでしょうか。これは物に限った話ではなく、会社や組織なども支社・子会社とネットワーク状を成しながら大きくなって(増えて)いきます。音楽にロックというジャンルが生まれると、やがて〇〇ロックといった感じで枝分かれしながら増えていきます。そして時に他のジャンルと融合したりしますよね。ライバル会社同士が合併したりしますよね。家族同士は婚姻を通じて同族になっていきますよね。

増える。増える過程でぶつかり合ってひとつになる。そしてまた増える。

ただ、それだけ。

ちなみにこの世界の全てを構成する素粒子が持つ、この世界の基本的な原理には「くっつこうとする力」と「離れようとする力」があります。そして少しだけくっつこうとする方に偏った(?)結果生まれたのが物質。たぶんそれ以上でもそれ以下でもなさそう。そしてたくさんの素粒子が集まった結果くっつこうとする力はさらに大きくなった、そうやって集まったかたまりを私たちは地球と呼び、その中のほんの一部のかたまりが私。

だからほっといたら人間もただくっついて増えようとするだけなのだろうと思います。見えない力に後押しされてなんとなく地位や金、セックスアピールを高めることに血眼になって増えようとするだけ。たぶんそこに意味はなさそうです。意味がないから自由がどうたらという話はさんざんしたので割愛しますし、流されるのが悪いとかどっちが良いとかそういう話でもありません。ですがそういった流れに抗い得るもの、影響を与え得るものがあるとすれば、なにかを変えることができるものがあるとするなら、それは「意志を伴った行動」なのだろう、そういうことではないかと思います(20巻80話)

 

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-それこそ唯一!!
-この残酷な世界に抗う術なのだ!!

 

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-兵士よ怒れ

-兵士よ叫べ

 

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-兵士よ!!
-戦え!!

 

 


・・というわけで、長らくお付き合いいただきましたこの「世界観」の記事はこれで終わりです。あと一本おまけみたいな記事がある予定ですが、あくまで余談みたいなものなので本編はここまでです。そして本編の最後を飾るにふさわしいのは当然この人でしょう(10巻40話)

 

 

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ラガコ案件の際に南班の班長を務めていたゲルガーです。私が思うに、作者の「世界観」が一番分かりやすいのはこの人じゃないかと思います。もちろん幼馴染三人を始めとする作品全体にもそれは現れているはずですが、なにせゲルガーは出番が少ない。そして少ないからこそ、見えやすいものがあると思うのです。

 

 

以前、死なないように生きてる人とその例外みたいな話をしましたが、ゲルガーもその例外の一人です。彼は同時期に活躍するミケやナナバとは対称的に「死にたくない」「嫌だぁぁぁ」みたいなことを一切言いません。ご存知の通り、彼は最初から最後まで酒のことしか頭にありませんでした笑(9巻38話、10巻40話) 

 

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-こんなもんまであったぞ…(ゴクリ…)
-バカ言えこんな時に…

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-酒も飲めねぇじゃねぇか 俺は!!
-てめぇらのためによぉ!!

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-ただ… 最後に…
-何でもいいから酒が飲みてぇな…

 

そして、死にたくない人たちがバタバタと死んでいく中、ゲルガーはなかなか死なないんですね(10巻40話)

 

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もちろんこれはナナバが助けてくれたというのもあるんですが、それより凄いのは、たまたまそこに穴が開いていたことです。穴が無ければ彼は圧死していたかもしれません。もしくは体半分もずれていれば、頭を打って即死とか、腕や足を失ったりとかしていたかもしれません。偶然に偶然が重なって彼は生き永らえてしまいます。

しかも偶然にも、彼があれほど熱望していた酒の瓶がそこにあったんです。まぁご都合と言っても差し支えないような奇跡の連続が起こったわけです。

 

ただ、その後はみなさんもご存知の通り、その酒瓶はヒストリア女王が情け容赦なくも全て消毒に使い切ってしまっていたため、彼は酒にありつけずに終了という少しコミカルなシーンと相成ります(10巻40話)

 

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でもですよ、ここでひとつ考えてみてください。私は今までみなさんと一緒に進撃を読み解いてきたつもりです。登場人物のちょっとした表情だったり、小さなコマの何気ないセリフなんかにまで作者が込めているものを拾い上げてきたつもりです。

さて、この作者はこの一発ギャグをやるためだけに、上に示したような数度に渡る前フリまでするのでしょうか。もちろんこの場面がギャグにもなっていることは間違いないと思います。でもそれだけのために? 他の作品ならいざ知らず、進撃ですよ。

 


と前フリをしたところで、話を戻します。

 

アニメ版だと上記の場面に続きがありまして、巨人に掴みだされた彼は穴の端に頭を打ち付けて事切れます。入ってきた時とは大違いなわけですが、それはこういうことだと思うんです。


彼は酒を飲むことを目的に生きていました。こう書くとしょーもなく聞こえますが、仕事が終わって酒を浴びることが彼にとってささやかな幸せだったのかもしれません。そんな「あたりまえの大事な日常」を彼は大事にして生きていたということです。

生きようとする性質に流されて「死にたくない」と生きていた人たちは、やっぱり流れには逆らえず死ぬ時はあっさり死んでいきます。ところが目的を持って行動していた彼は、常に前に進み続けていた彼には、私たちが奇跡と呼ぶようなあり得ないこと、つまり世界の流れに逆らうかのようなことが起こり続けたわけです。

では彼はなぜ死んでしまったのでしょうか。運が尽きたということでしょうか。

違うんです。彼はあの時「空っぽの酒瓶」という、とうに終わった出来事に固執してしまったんです。そして神や誰かに呪詛を吐くような行為に終始してしまった。ずっと前を向いていた彼が、後ろを向いてしまったんです。

 

神様はそれを見てたんですよ(10巻40話)

 

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もちろん巨人がそんな判断してるってことはないでしょうが、たぶんそういう表現だと思います。

 

アニメの方が分かりやすいですが、実はあの時多少の時間の猶予があります。明らかに中身の入ってない酒瓶を傾けてひとしずくが落ちてくるのを待たずに、あるいは瓶を持ち上げた時点で空であることに気付き、もし次の行動を起こしていたなら彼は助かっていた可能性が高いです。

何の行動かって?

酒が入ってる他の瓶を探しにいけば良かったんです。彼はあの時、ちょっとダメだったからって今まで持ってた目的を放棄して後ろ向きになってしまったんです。


実際あそこを這ってでも切り抜けていれば、おそらくユミルたちと一緒に救出され負傷者扱いかなんかでトロスト区に送られた可能性があります。もしそうであれば彼はもう一度酒を飲むことができたんです。可能性はいくらでも広がっていたんです。

でもその可能性を潰したのは、終わってしまった過去にこだわって文句を垂れ続けた彼自身だったとさ。めでたしめでたし。

 


・・といった感じじゃないかと思います。そして同時に、アニメ版でナナバに「死にたくない」といった感じのセリフが追加された意味が見えてくるんじゃないでしょうか。

 

 

この世界の性質に流されて生きること、それに抗って生きること、そのどちらが良いとか悪いとかなんて私には言えませんが、作者が何を考えていたのか、それが少しだけ垣間見えたような気はするのでした。

 

 

 

 

世界観 了

 

 

 

 

 

 

 

 

-おまけ-

これはとある記事の補足のような話なので、「木を避ける」と言われて意味が分からない方は今は読み飛ばしていただけると助かります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず結論から書きますが、少し前に豚小屋の場面が描かれましたので「木を避ける」というよりは「豚を逃がさない」感じではないかと思っています。もしそういうことであれば、という話ではありますが。

以下は人によっては少し嫌な書き方だと思われる可能性が高いのですが、怒らずに読んでください。

 


ユミ子ちゃんは豚を逃がしました。

 

それはおそらく、檻に閉じ込められてやがて食われるのを待ってるだけの人生(豚生?)に何とも言えない憤りを覚えたからじゃないかと思います。本人が意識してたかは定かではありませんが、おそらく自身の境遇を投影してしまったものと考えられます。

ユミ子の目線から見れば、豚たちは不憫で不自由で、逃がしてあげたらどれだけ喜ぶかと思うかもしれません。でも私たち第三者から見れば、ひとつツッコミが出てこないでしょうか。


「それ、豚がどう思ってるか聞いたの?」


もちろん豚に問うたところで返答はこないでしょうが、こんな意見もあります(28巻114話)

 

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-これでよかったんだ…
-ずっと収容所から出られなくたって生きてさえいれば…

「あたりまえの何でもない日常」なんて話もありましたが、なるほど、言いたいことは分かります。

でもユミ子の立場からすれば、近いうちに豚が食べられることを知っている、つまり彼らが想うささやかな幸せさえ叶わないことが分かっているから逃がすわけなので、相容れませんよね。

 

というわけで、その両方の意見を汲み取った上で豚たちが出した結論がこれ(34巻138話)

 

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与えられる自由という甘露に甘んじるのではなく、ただ生かされたり殺されたりすることを無為に受け入れるわけでもない。誰かに気に入られていたくて全てを無条件に受け入れるのでもなければ、今までの状態を保つことに心を奪われるわけでもない。

自分の生き方は自分で決めるという、考えに考えた上での意志を伴った行動。それこそが自由ではないかと。

それは同時に「豚たちを自由にしてやらないと」という抑えきれない感情からユミ子を解放してあげる、相手も自由にしてあげる行動なのかもしれません。


ユミ子にしてみれば、心の奥底から湧き上がってくるなにかによって豚を逃がすことが正しいことだと思ったからこそ逃がしたのでしょう。つまり豚を囲っている行為は悪いことであると。だけどその結果として自分が悪い者にされ迫害されてしまいます。そして悪魔が現れました。

彼女は自分が悪魔じゃないことを証明しようと懸命にフリッツ氏に奉仕し、命さえも捧げますが悪魔以外の何物とも見てはもらえません。じゃあみんなが悪魔になってしまえばいいのか、あるいは悪魔は滅びるべきなのかなんていろいろと考えてみますが、どうにも答えが出ません。

でも葛藤に葛藤を重ねた結果、彼女は気付きます。あるいは気付かされます。自分が悪魔の力に寄りかかって本来の自分を忘れていたことに。そして元をただせばその悪魔の力を生んだのは、豚を逃がす自分が正しくて囲ってるのが悪いという自身の思い込みであり、悪魔とは自分の中から出てきたものでした。

そしてその思い込みは、自身の境遇への不満のようなものを当てこすったようなものと言えるでしょうか。つまり自分自身が自由に生きたいという欲求、その中に悪魔の芽が潜んでいたと。


・・といった感じなんでしょうか。

 

まぁ実際そういうことなのかどうかは分かりませんが、豚を逃がさない、もしくは選択肢を与える?のかもしれませんが、それが彼女の親殺しになっていくのかなと思ったりしてます。

-おまけおわり-

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 4th Apr 2021
updated: none

 

111 世界観⑮ 承認


みなさんこんにちは。

 

 


これは前回の記事から続く中編です。やはり三つに分かれる運命だったのです(後付け理論)

 

 

 

 

 

 

この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は32巻130話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[承認]

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たぶんみなさん忘れてるんじゃないかと思いますけど、言われればおそらく思い出す事柄から始めます。

 

 


すでに一年以上前のことになりますが、原作にはないアニメオリジナルの一場面が挿入されていたことがありました。しかもそれは、まったくもって意味不明な、謎としか言いようのない場面でした。3期の最終話だったと記憶していますが、うろ覚えですみません。


ちょっと違うんですが、原作でいうとこんな感じの場面でした(18巻73話)

 

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それまでアニメで何度か出てた(?)エレンとアルミンがじっちゃんの本にかぶりついている遠景、そこにミカサが加わるみたいな感じでした。もう思い出していただけましたよね? 一瞬だけだったので気にも留めなかった方がいてもおかしくないくらいだとも思います。

それはクルーガーが例の「ミカサやアルミン~」のセリフを言った場面の直後に一瞬だけ現れ、たしかそのままオープニングかなんかで画面が切り替わったはずです。もちろん原作にはそんな場面は描かれていませんし、前後の繋がりを考えてもあまりにも脈絡がないような場面でした。

 

 

というわけで、これはただの前フリに過ぎませんので思い出していただいたところで前回の続きにまいります。

 

 


さて、カルラが言った「ありのままのあなたでいいのよ」といったような承認はヒストリアの親殺しに至る場面とも重なってくるものです(16巻66話)

 

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ユミルもフリーダも、カルラ同様にありのままのヒストリアを承認していました(10巻40話、13巻54話)

 

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-元の名前を名乗って生きろ

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-いいよ!!
-いいよいいよ そのままでいいよ

 

ところでヒストリアの「悪い子」という概念はおそらくユミルの言葉がベースになっていると考えられます(4巻15話)

 

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-なぁ… お前…
-「いいこと」しようとしてるだろ?

本人も後に語っていたように、「要らない子」だったヒストリアは必要とされたいがためにみんなにとっての「いい子」を演じるというか、そうならざるを得ないようなところがあったわけです。そこに一石を投じたのがユミルでした。社会や周囲にとっての「いいこと」をする人であろうとするのではなく、お前はお前自身をもっと大事にしろよといったニュアンスでしたよね。それが「悪い子」という考え方の基礎になっていると考えられます。

そしてユミルの記事でも触れた通り、その後の二人は「お前はお前でいいじゃねぇか」をお互いに言い合う感じになっていきます。つまりお互いにカルラが言ったような母の承認を、母と子という役割が入れ替わりながら言い合うことで成長していってる感じであると捉えられます。ちなみにそれをヒストリアの視点から見れば、もともとユミルの一言によってその考え方に導かれたようなところがありますから、そのユミルに肩を並べていったと捉えればやんわりとした親殺しの構図にもなっていると思います。

 


さらにこの二人の「お前はお前でいいじゃねぇか」のじゃれ合いに巻き込まれたのがサシャで、(9巻36話)

 

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-いいじゃねぇか! お前はお前で!!
-お前の言葉で話せよ!

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-今だってありのままのサシャの言葉でしょ?
-私はそれが好きだよ!

ユミルがこぼしている通り「物は言いよう」なんですが、とどのつまり二人が言っていることは同じようなことで、サシャに対して「ありのままのあなたでいいのよ」と言っているわけです。その後のサシャが「ありのままの」方言なんかを普通に出すようになっていったのは言わずもがなでしょう。

 

そんなサシャによってカヤやニコロが導かれていったわけですね(28巻111話)

 

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-人を喜ばせる料理を作るのが本当の俺なんだと教えてくれた……


ニコロはサシャの行動によって、「ありのままの」自分に目を向けることができました(26巻106話)

 

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それまでマーレ人だエルディア人だというフィルターを通して他人を見ていた彼が、サシャの分け隔てない姿勢を見たことによってジャンやコニーらに対してもエルディア人だという偏見を取っ払って接していくようになります。言い換えれば「ありのままの」ジャンやコニーと向き合うようになっていきました。また、マーレだエルディアだといったことよりも美味い料理を誰かに提供する、自分の料理によって誰かを喜ばせる、そこに自分が本当に望んでいたものがあるということに気付いたわけです。社会が言っているエルディアだマーレだに流されるよりも「ありのままの」自分がやりたいことをする、どこかで聞いた話です。

 

カヤのガビファルコに対する態度も同じような感じでしたね、マーレ人だとか関係ありませんでした。そして(27巻109話)

 

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-お姉ちゃんが生きてたら…
-行く当ての無いあなた達を決して見捨てたりしない
-私にそうしてくれたように…

これもやっぱりヒストリアが言っていた「悪い子」と同じような考え方です。

 

つまり「ありのままの」自分を認められることによって「ありのままの」自分が望むことを見出すという流れが連鎖していってるわけです。そしてその連鎖の果てに、カヤとの交流によって変化したガビが地鳴らしを止める一助となっているわけです。もしガビがいなければファルコが動くことはなかったでしょう、だとすれば英雄たちは既に全滅していた可能性が高いです。さらに(32巻127話)

 

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身を挺して「大事な家族」を守ることによってマーレだエルディアだといがみ合っていたジャンやマガトの頭を冷やし、パラディとマーレを結び付ける役割も担ったと言えると思います。

 


というわけで、「ありのままのあなたでいいのよ」という承認は相手に寄り添う精神を育んでいき、相手はまたその影響を受けて同じように連鎖していく、そんな流れが描かれていることが見て取れます。

 


ところで、いい加減「ありのままの~」とか書くのはめんどくさいし読みにくいと思いますので、便宜上この流れを「母の道」と呼ぶことにします。たとえば「ヒストリアはユミルに導かれたのをきっかけに母の道を歩んだ」と言えば上記の流れがあって母へと成長していくくらいの感じです。これは単なる私の造語なのでそれ以上の深い意味はありません。語彙も足りてない感はありますしポリコレとかいうやつにも抵触しそうではありますが、すでに父母子とか連呼してるので今さらですしまぁいいでしょう。

 


閑話休題

 


もちろん「母の道」と呼ぶからには対称となる「父の道」もあります。そしてやっぱり対称になってくるのはジークです(28巻114話)

 

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ジークは周りに「こうしなければならない」と言う人、つまり父的存在が多くて、それらによって夢(と呪い)という行き先を示し続けられてきた感じがあります。ダイナは母親としてジークをかばうような部分もあるのですが、グリシャと一緒になってジークを追い詰めてしまっていた感も多分にあります。彼女自身にも最後の王家としての使命を果たさねばといった強迫観念のようなものがあったのかもしれません。

唯一と言ってもいいくらいクサヴァーさんはジーク本人に寄り添う感じを見せる母的存在でもあったように思うのですが、ジークが彼を父として慕い、クサヴァーさん本人もジークを息子代わりに思っていたことが明示されている通り、告発や安楽死思想の礎となるものを指し示してしまい、同じ夢を追い求める感じになってしまいました。さらには安楽死思想の背中を押し続けてしまうという流れになります。


これは今まで書いてきた自己肯定感とか全体と個の話とも重なってくるのですが、「こうあるべきだ」「こうしなければならない」といった考えは時に「ありのままの自分」を殺すことにもなり、前述した「ありのままの自分」を尊重する母の道とは対称的であると言えるように思います。

 


さて、ジークを取り上げたからにはエレンがどうなのかってのも気になってくるわけです。

 

まず訓練兵時代を顧みればジャンという口うるさく言ってくる父がいました。後々まで続いていくエレンとジャンの関係性はヒストリアとユミルのそれと似ている感じがあります。それと忘れてはいけない父的存在として、ライナーという遥かに超えられない壁が存在しました。エレンはライナーの背中を見ながら成長し、行き先を示され、やがて反発し、そして同じ目線に立っていますよね。綺麗に親殺ししています。

もちろん父アルミンという存在もそこに加わり、エレンはそんな彼らの背中を見ながら「父の道」を歩んでいったと思います。前回取りあげたマーレ編での姿勢や、イェレナとの密会後のヒストリアとの会話などはやはり父的であると思います。

 

ただ、先ほどはあえて省いたのですがエレンはヒストリアにこんなこと言ってましたよね(13巻54話)

 

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-今のお前は何かいいよな
-別にお前は普通だよ
-ただバカ正直な普通のヤツだ

 

あれ?ありのままの承認です。つまり母の道?

 

というわけでエレンはどうも母の道も歩んでいるかもしれないという疑惑が立ち上がります。おそらくそれが如実に見られるのが調査兵団時代。そこで対称になってくるのがアルミンです。アルミンもジーク同様に多くの父的存在に導かれるように父の道を邁進したように見えます(7巻27話)

 

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彼はエルヴィンを始めとするリーダーたちの背中を見ながら成長していきます。それは人類の勝利のために自分を犠牲にすることや、全体のためであること、すなわち「正しい」ことを追い求めることにも繋がっていると思います。いや、ヒストリアの話をした後ですから「いいこと」と言い換えたほうがいいかもしれません。全体のために自分を殺す道、それはリーダーの道であり英雄の道、あるいは王道という言葉が意外にしっくりくるかもしれません。

そんなアルミンとは対称的に、エレンはあまりエルヴィンとの絡みが無かったように見えます。どちらかと言えば主に兵長とハンジという二人の母的存在に師事し、その影響を受けていきます。「お前が選べ」なんてのはありのままのエレンの承認でしかないですよね。

ここはわりと明確にエレンとアルミンが分岐していくことが見て取れる箇所ではないかと思います。意外にもハンジとアルミンは壁内の頃はそれほど絡んでなかったりするんですね、兵長とアルミンはいかにもですが。アルミンがいつも目で追っていたのはエルヴィンの背中で、逆にエレンはエルヴィンをそんなに見ていません。

 


エレンに話を戻しますが、彼はさらに物語の節目節目で母の承認を受けていきます(12巻50話、16巻66話)

 

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どちらも「自分には生きてる価値はない(全体に貢献できていない)→そんなことないよ」という流れでしたね。そしてそのトドメとも言うべきものが実の母であるカルラの承認だったわけです。

 

こうやってみると、物語はどうもこの承認を軸に動いていってるように見えます。少なくとも私には。

その後エレンは始祖ユミルに選ばせました。これは兵長がエレンにしたことと重なっており、もちろん彼女のありのままの意志を尊重するということです。

エレンの地鳴らしの目的のひとつとして根底にあったのは、世界の人類がどうとかではなくとにかく自分の大事な人々を守りたいというものでした。これはヒストリアの「悪い子」と全く同じです。


どうも母の道がエレンの中に息づいていることは否定できません。でもエレンがマーレ編以降に見せていた父的な面を無視することもできません。

 

そこで私はエレンの状態を、父の道を歩んでいるけど母の道にも片足を突っ込んでいる状態と仮定してみることにしました。これはイェーガー派に対するエレンの態度なんかにも適合するはずです。リーダーとして彼らを導いているけれども、彼らのやりたいようにもさせてる。

その仮定の下に、もしエレンが母の道の影響を受けていなかったらどうなったかを妄想してみました。

エレンは大事なみんなをどうこうよりも、ただただ自身の自由を実現するために世界を踏み潰すだけだったかもしれません。エレンは「自由であるべきだ」という父的な考えも同時に持っていますからね。みんなを檻の中で待ったり、座標に呼んで話しかけたりもしなかったかもしれません。そもそも、始祖ユミルに選ばせることさえしなかったかもしれません。

いや、それ以前にエレンが「普通でいいよね」って言ってなければヒストリアは父を選んでいたかもしれません。ヒストリアの中でエレンが大事な人になったのはあの一言がきっかけであるのはおそらく間違いないでしょう(13巻54話)

 

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もしヒストリアの親殺しが成されなければ壁内は自死の道を歩んでいた可能性が高いです。

 

・・って考えてたら、根っこはもっと深い所にあることに気が付きました(2巻6話)

 

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-でも… 早く… 助けてやりたかった…

 

そもそもエレンがミカサを助けたのがそれでした。

 

当時の彼には社会のルールに従って憲兵に委ねるという選択肢もありました。そうしていれば審議所でごちゃごちゃ言われることも無かったでしょう。だけど、それでもなんでも自分が助けてあげたいという気持ちを優先させました。まさに「悪い子」です。

つまりこの時すでにエレンの中には母の道が入っていたと考えられます。じゃあ彼がそれを持つに至ったのはどこからかと考えてみれば、家庭環境に答えを見出す他ないように思います。


前の記事でちらっと書きましたが、パラディのイェーガー家はグリシャが母のように寄り添う感じであり、カルラが父的な役割をしていましたよね。でもそこでひとつ考慮しないといけないのは、カルラは前述した母としての承認もしていることです。

その解釈として、ハンジがいい例になっているのではないかと思います。

ハンジは父エルヴィンに対する関係では子ですが、エレンたちから見れば母のような立場だと書きました。まぁ母というか姉というかですが、父か母かで言えば母的な存在であったことはたぶんご納得いただけるのではないでしょうか。

つまりハンジ自身は子から母へ、母の道を歩んでいる(いた)となります。

でも、エルヴィンの死によって彼女は団長という父的役割を果さねばならなくなりました。サネスの「役割が回る」を始めとして、彼女がいかに四苦八苦して団長を務めていたかが執拗なまでに描写されていましたよね。これはおそらく作者の狙い通りだと思うのですが、読者の間では「エルヴィンがいたら・・」という声が事あるごとに湧き上がっていたように思います。でも面白いもので、「兵長が団長になっていれば」みたいな意見はほとんど無かったんじゃないかと思います。少なくとも私がネットをよく見ていた頃には見た記憶がありません。

つまり読者の体感も含めて調査兵団は父親不在だったということだと思うんです。そして父がいなくなってしまったため(役割が回ってきてしまったため)母であるハンジが必死に父親役を務める他なかったと。でもやっぱり母は母なのであまり上手くできませんでしたと、そういうことではないでしょうか(33巻132話)

 

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-エレンに何の解決策も…
-希望や未来を示せなかった
-私の無力さを

ちなみにフロックがなぜエルヴィンの後に兵長やハンジではなくエレンを選んだのかというのも、同じように考えると面白いと思います。

 

それを踏まえてイェーガー家の話に戻りますが、カルラがなぜいつもガミガミ言ってたかというとグリシャが言わないからみたいなところはあるでしょう。現実でもよくあることです。つまり父が父親役をやらないから彼女がそれをやっていたと。

 

それでもやっぱり母は母であるということです。

 

もちろんそれは逆も言えることで、たとえグリシャが母っぽい感じだといってもやっぱり父なんだと思います。つまり母っぽい父です。あるいは母的素養を持った父。これさっきのエレンに対する仮定と同じになりますよね。

そして子から見れば、父は夢(と呪い)を与え、行き先を指し示すものであるとするならば、やっぱり父であるグリシャの背中を見て幼いエレンは育ったということです。

 

そして、その背中が「母的素養が含まれた父」の姿だったので、エレンには「母的素養が含まれた父」の土台ができていったのだと考えます。

 

だからエレンはミカサを助ける行動を選ぶことができました。

それは言い方を換えれば、グリシャに母的な部分があったことによって結果的にミカサは救われた、ということです。


するとどうでしょう。冒頭に挙げた場面と繋がってこないでしょうか。

 

あの場面はこんな風に解釈できるのではないかと思います。

まず土台として、グリシャ本人にわざわざ言わせていることから考えて、進撃継承後のグリシャ自身はあの場面を忘れているのだと思います。ただし忘れているだけですので、記憶領域のどこかにはちゃんと残っています。そしてそれはわずかながら本人の思考に影響を及ぼし続けます。このことはグリシャがエレンへの継承時に全く同じセリフを言っていることからも裏付けられると言えるかもしれません。

グリシャ本人は忘れているのですから、クルーガーに言われたからカルラと結婚したというわけではない、とも言えそうです。まぁいずれにせよキースを通じて出会ったでしょうし、流行り病で距離が縮むことも普通にあり得るでしょう。ということはエレンが生まれなくなるというパラドックスは必ずしも成り立ちません。

つまり、そこではないのです。あの場面の意味は、エレンが生まれるかどうかではない。

じゃああの場面があることによって何が変わるのかというと、グリシャの中に先述した母の素養を植え付けたことに他ならないのではと思うわけです。

ジークに対しては「救世主にならなければいけない」とあれほど父的であったグリシャが、妹を殺した罪悪感をマーレに責任転嫁してばかりだったグリシャが、ジークのことを後悔してもなおフクロウを悪者にしようとしていたグリシャが、犯した罪に囚われ自分はもう何もするべきではないとなっていた ”罪人” グリシャが、再び立ち上がり前に進みだしたのは(22巻88話)

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-それで十分だ

承認があり、またクルーガーの言葉によって彼の中に母の素養が入ったからということではないかと思うんです。

 

その後のグリシャに関しては言わずもがなですが、ジークとエレンの記憶旅行において使命と家族の間で葛藤し、家族を大事にする方へ寄っていくグリシャが描かれていました(30巻120話)

 

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つまり、グリシャは「悪い子」になってしまったわけです。

 

そして、かつてジークに「救世主にならなければいけない」と思いっきり父的な導きをしたことと対称になってくるのが

「お前は自由だ」

ということになるんじゃないかと思います(※未確定です。)

 

「お前は自由だ」というのは父が指し示す夢と呪いの部分としては「自由であれ、自由でなくてはならない」ということにもなると思いますし、実際エレンの中にはそういう部分もありました。でもジークに言った言葉と対称してみれば、「ありのままの」お前で生きていっていいんだという承認にもなっています。

 

つまりそれが母の道が入った父の背中。

 

もしこの通りであるなら、構図としてグリシャの背中が見えるようにしているのも、そういうことかもしれません。

 

 

 

背中によって伝播していく、連鎖していったのはそのケースだけではありません(30巻121話)

 

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壁内に入ってからのグリシャは未来のジークにも影響を及ぼしました。ジークのことを想う気持ちを伝えた上で、エレンのことも大事に想うからこそ「止めてくれ」と。

しかしてそれは、ジークに行き先を示したわけです。

つまり最終的にはジークも母の道が入った父の背中によって導かれたということです。

 


それともうひとつの流れがあります。

 


ジークは最後、アルミンとキャッチボールができたことによって自分にとって一番大事なものに気付き、彼らと同じ目的に向かう行動に出ましたよね。つまり「分かり合えた」と。そのきっかけはアルミンが自分にとって一番大事なものに気付いたことでした。つまりジークはアルミンに導かれた部分があると言っても差し支えないでしょう。


さて、分かり合うということで言えば、ジークはエレンと分かり合いたがってましたよね。それと、私は度々ジークとアルミンを重ねるようなことを書いてきましたが、アルミンもエレンと分かり合いたがっていたと書いたと思います。外の世界を見るという夢さえも、その本質はエレンと分かり合うことだと書いた覚えもあります。つまりは分かり合いたがってた者同士が分かり合って世界を救ったという構図なんですが、なぜアルミンがそれほどエレンに入れ込んだかというと(21巻83話)

 

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-お前…
-名前は?

エレンだけが理解者だったからですよね。

少し言い方を換えましょう。

町の子供たちがアルミンは異端だと石を投げる中にあって、エレンだけが「ありのままの」彼を受け入れてくれたからです。

 

そしてアルミンはそんな父の背中を見ていたわけです。それがアルミンに「分かり合いたい」という気持ちを芽生えさせたと言うこともできるかもしれません。

だけれども他者との交わりが増えていくにつれ、いろんな考え方がたくさん入ってきて父に反発したりしながら、やがて父と同じ目線に立って親殺しをしたわけです。そしてそれがジークにも連鎖していって現在の結果をもたらし、それがさらに、おそらく世界と「分かり合う」ことになるだろうと考えられます。

 

つまり、元をたどるとやっぱりあの場面に行き着くように思うんです。

 

 


後編に続きます。

 

 

 

 

 

 


-ざれごと-

今回の記事で私が「母の道」と称したものは、「愛」という言葉に置き換えてもしっくりくるんじゃないかと思います。でも私は愛という言葉は使いません。使わないというか使えません。なぜなら私は愛という概念を他の言葉で明瞭に説明することができないからです。むしろそれができる方がいたらぜひお教えいただきたいくらい。

よく「愛にはいろんな形がある」なんて言われます。相手を思いやるのも愛ならば、あえて相手に厳しくするのも愛。自分が大好きで周りをないがしろにするのも愛。世界の平和のために人に死ねと言うのも愛。

どうにも私にはそれぞれが別個のものであるように思えてしまいます。

だけれども愛という言葉はとても便利で、それら異なるものをぼんやりと包み込み、愛と唱えればなんだか良いことであるような気がしてきます。心地よくなる感覚のおまけ付きというやつですね。その時々、人それぞれで異なるにも関わらずその一言で済んでしまうというご都合主義の固まりのような言葉。ですから社会においては非常に有用ですので、みなさんもぜひ唱えまくっていただくのがよろしいかと思うのですが、それはそれとして、思考停止してる一面があることは否めない気がしてしまいます。

なにせ「父の道」だって子供のことを想っている故なんですから。たとえばグリシャがジークに救世主になることを求めたことでさえ愛といえば愛なんです。あれがジークのためを想って(相手を思いやって)言ってる部分もあることは完全に否定することはできないんじゃないかと思います。

ちなみに記事中で書いた「背中を見せる」という話、わりとかっこいい話というか、それこそ物語やなんかでも美しく描かれたりすることがよくあると思います。でも実は大人にとっては非常に耳の痛い話で、要するに「愛」だとかなんとか口先だけで言ってるだけじゃダメなんだってことなんです。うわっつらの言葉ではなく、自分の態度や姿勢、言動の端々に現れるものを子供はちゃんと見てて、それを吸収していく。つまり結果として現れるものは美しく取り繕った言葉の方ではないってことなんですよね。

さて、愛ってなんなんでしょうね。

 

 


あ、それとこれはほんと戯言もいいとこなんですが、ヒストリアの子の父親がエレンじゃないかって説がありますよね。もともと私は中立というかどっちもあり得るくらいにしか思ってませんでした。物語全体のテーマを考えるとアリと言えばアリだし、あれはサスペンダーさんが出てきた時点で解決済みと言われればそうだとも思います。

でも138話のラストを見た時にやってきそうだなとか思ってしまいました笑。それはともかく、なんで物語的にアリなのかは後編を読んでいただければ分かっていただけるかもしれないしそうじゃないかもしれません。まぁ実際どっちなのかは分かりませんけどね。

-ざれごとおわり-

 

 

本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 4th Apr 2021
updated: none

 

110 世界観⑭ 暁


みなさんこんにちは。

 

 

 

また分割か。(しかも三分割になりそう)

 

 

 

 

 

 

この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は16巻66話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[暁]

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昔話をしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

あかつき、


アニメの主題歌でLinked Horizonさんが用いているためか印象としてはものすごくある言葉にも関わらず、作中には一切出てこない言葉です。おそらく直接的な表現を避けてるのだと思います。言うまでもなく130話の副題にもなっている「夜明け」のことですよね。

そして当然ながらそれは北欧神話で最終戦ラグナロクを「神々の黄昏」と呼ぶことに対応してるわけです。たそがれとあかつき、すなわち「夕暮れ」から「夜明け」への流れです。もちろんその過程には93話「闇夜の列車」などに見られるような「夜」が挟まってきます。そういえば「白夜」という夜に昇る太陽の表現もありましたね。ともかく、夕暮れから夜を経て夜明けに至るという流れが作品のあちこちに匂わされています。


暁の象徴と言えば、ルシファーです。ルシファーとは明けの明星のことであり、また堕天使としても有名ですよね。アニメ3期のYoshikiさんの曲はまさに堕天使のイメージだったと思います。作中でも巨人の力を「神にも等しい力」と表現していますから、神に近しいものが人間界に現れたと捉えれば、ユミルの民自体をルシファーに重ねることもできるように思います。あるいは堕天使と人間との合いの子の末裔といったところでしょうか。

宗派にもよるようなんですが、ルシファーは大悪魔サタンと同一だと言われます。あるいは天から堕ちたことでサタンになった、といった解釈もあります。まぁ「大地の悪魔」という言葉がピッタリはまる感じですよね。それと「神でもあり悪魔でもある」ということでもあるでしょう。あと失楽園の話はもうしたから省略していいですよね。


さらに、

 

宗派によってはルシファーはイエス・キリストと同一だと見なすこともあるそうです。ルシファーとは「光をもたらす者」であり、イエスは「救済をもたらす者」であることや、神と人間の間に位置するような部分が重ねられているのでしょうか。

そもそも、明けの明星は古来から伴星として捉えられてきました。空が明るみ太陽が昇る直前のわずかな間だけ、太陽の露払いであるかのごとく、あるいは太陽を地面から引っぱり上げるかのように、あるいは太陽を導くかのように一瞬の輝きを放つ、それが明けの明星です。そしてイエス・キリスト伝説は旧来の太陽信仰が基になっていると言われますが、神の子として神と人との間に立ち、神の言葉を伝え神の奇跡を行う、それがイエス・キリストであるならば、太陽の伴星である明星=ルシファーと重ねられるのも納得がいくように思います。

だから ”人類の” 夜明けなんだと思います。ユミルの民とかエルディアが主体なのではなくて、世界をひっくるめた人類の夜明け。それをもたらしたものということなのでしょう。巨人とは人類を導く伴星だったという感じですね。

 

さらにさらに、

 

イエス・キリストと言えば日本でもクリスマスは馴染み深いものになってますよね。でもご存知の方も多いと思いますが、クリスマスはイエス・キリストの誕生日ではありません。このことはキリスト教自体にも認めている宗派もあります。そもそも「イエス・キリストのモデルになった人はいるだろう」と目されていますが、実際にはその程度の情報しかないってことです。いたことさえ断言できないレベルです。私たちがネット上に垂れ流している個人情報の方がよほど多いでしょう笑。それでも誕生日だけは間違いない事実であり毎年お誕生会が開かれてる、なーんて滑稽な話だったりするのでしょうか。あるいは。

まぁ揶揄するのは程々にしまして、クリスマスの前身と言われているものにサトゥルヌス祭やミトラス祭があります。

余談ですがミトラス祭はミトラス教のお祝い事で、おそらく王都ミットラスはここからきていると考えられます。ミトラス神(ミスラ神とも)は「契約」の神であるとされるのもポイント高いです。ちなみにマーレはローマ(帝国)のもじりでもあるでしょうけど、ローマ帝国の国教になったキリスト教によって弾圧されて滅んだのがミトラス教というのもポイントです。

余談ついでで、サトゥルヌス神は「農耕」の神です。12月25日は兵長のお誕生日です。あれ?アッカーマンと農耕って何かあったような・・


さて、話を戻します。

 

じゃあクリスマスって何なのって話なんですが、サトゥルヌス祭もミトラス祭も冬至のお祭りだと言われています。冬至ってのはご存知の通り、一年中で夜が最も長い日です。夜が最も長いというのは見方を変えれば、冬至の日を境にしてそれ以降はだんだんと昼が長くなっていくということです。

先ほどもちらっと書きましたが、イエス・キリスト伝説というのは太陽信仰が基になっていると考えられています。太陽は地球上の全てにエネルギーをくれる神のような存在なんですが、燦々と照りつける夏、実りの秋を経て、冬至に向かうにつれて太陽の光(=神の力)は弱くなっていきます。夜が長くなる、すなわち闇が強くなっていき、草木は枯れ、生物の活動も停滞します。しかし冬至を境に太陽は再び力を増していく、つまり再生・復活するわけです。

現代以上に自然現象への依存度が高かったであろう先史時代の人間が太陽を神格化するのは全く不思議ではないし、冬至というのが農耕をする人々にとって重要なイベントであったことも窺い知れます。またそうした人々を統率するにあたって擬人化した伝説が生まれたことにも納得できるように思います。

 


なにはともあれ、冬至を過ぎるとだんだんと日が長くなっていき、やがて暗い冬のあいだ死んでいた草木が再び芽吹き始めます。私たちはその時期を「春」と呼びますよね。再生の季節、あるいは新しい何かが始まる季節といった趣もあるでしょうか(22巻90話)

 

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-トロスト区から昇降機が解放され街道の舗装事業が開始される頃には
-草花が芽吹き 蝶が舞っていた

 

 

 

ところで古語表現ではありますが、ドイツ語で春のことを lenz とも言うそうです。

 


クリスタは当然ながらキリストと同義でしょう。

 


キリストはルシファー。明星は金星。金星は英語で Venus です。ヴィーナスはもちろん、(17巻70話)

 

 

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-女神様…

 

です。

 


では、クリスタ・レンズの話を始めましょう。

 

 

 

・・って言ってもヒストリアの方ですが。

 

 

さて、早口で端折りながらいきますが、ヒストリアの物語は端的に言うと家柄とか伝統からの脱却が主軸になっていると思います。王家の血を引くという将来を宿命付けられたような境遇に産まれたのはジークと同じ、でもジークと違って彼女は「要らない子」から「必要とされる子」への流れです。あ、これユミルの時に書いたことと全く同じですね。

家柄、伝統、歴史、慣習などなど、他にもいくらでもあるでしょうが、これらは人間が未来のために積み上げていくもの、あるいは結果として生じたものであり、また同時に過去から未来を縛り付けるものとも言えます。

 


ヒストリアの父親であるロッド・レイスは、若い頃は正義に燃える青少年だったようです(17巻68話)

 

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-巨人を今すぐ一匹残らず殺せばいいんだよ!!
-何で!? 何でわかってくれないんだ!?

壁の外に脅威があって、我が家にだけはそれをどうにかできる力がある。檻に入れられる程ですから、一度や二度ではなく相当懇願したんじゃないかと思います。でも彼は最終的に初代王の思想という名の伝統に屈し、まさに伝統の象徴のようになっていきます(16巻66話)

 

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-初代王はそれこそが真の平和だと信じている
-…なぜかはわからない


神がなぜそう考えるのかは分からないが、それが神の御心ならばそれに従う。

 

といった感じで盲目的に神を信じるようになり、子供にそれを押し付けていきます。そして自分には神をこの世界に呼び戻す神官のような使命・役割があるんだと思い込んでいきます。おそらく弟や子供を巨人にして自分だけが生き永らえたことへの罪悪感なんかから目を逸らす働きかけもあったのでしょう。その根源は「死にたくない」ということでしょうが、それはさておき。

 

余談ですが、ロッドはよく毒親というかクソ親父くらいの評価をされてると思います。実際その通りなんですが、上記の文章を少しアレンジしてみました。

 

なぜこういうルールになっているのかはっきり分かっていないが、それがルールなら従う。他の人にもルールを遵守するよう働きかける。
なぜこういう慣習や伝統があるのかは分からないが従う。他の人にも(以下略

 

意外と誰にでも心当たりがありそうな話です。

 

反対に ”なぜ兵士は人類のために心臓を捧げなければいけないのか” という疑問をちゃんと差し挟んだのがフロックだったりしますし、以前はそれが ”正しい” からとやっていたけど最終的になぜそうするのかに気付いたのがアルミンだったりとかしますよね。

キーワードは「盲信」「疑問」「知る」といったところでしょうか。なんかファルコとガビの話っぽくなってしまいました。

ちなみに「伝統は破るべきもの」みたいな話ではありません。ちょうど今アニメでやっているあたりがそれで、(28巻113話)

 

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-これこそが我々が淘汰すべき悪習そのものだ!!
-粛清してみせよ!!

この後の展開をご存知であるみなさんには言うまでもないでしょうが、伝統や慣習といった受け継がれていくものが必ずしも悪いということではないのです。だから上記のキーワードみたいな話になります。

 

 

閑話休題

 

 

ヒストリアの話に戻します(16巻66話)

 

 

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彼女はそんな家柄や伝統、歴史や慣習といったものを背負い投げすることで親殺しに至るわけですが、ロッドを物理的に殺した直後にこんな場面がありました(17巻68話)

 

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-こうやって流されやすいのは間違いなく私…


女王をやれと言われたからやる、あるいは父に嫌われたくなかったから庇おうとしたことなど含めても、流されていたと言えばそうなのでしょう。でも彼女はここで自ら立ったんですね。それまでの出来事の中で「自分が何のためにそれをするのか」ということを明確に意識するようになったということなのでしょう。だから彼女は孤児の保護政策などといった自分が本当にやりたいことを推し進めていきます。女王という役割は元々流れで与えられたものかもしれませんが、その絶大な力を自らのやりたいこと(それは同時に民のためでもある)に上手く活用していくんです。

余談ながら個人的にここは原作の流れの方が好きです。アニメはたぶん構成上の都合と「それをお仕着せにするかは自分次第~」というセリフを言わせたかったため最初からヒストリア自身の意志で引き受ける形になったのだと推測しますが、原作の方の、初めはただ流されて女王を引き受ける感じの方が本人の気付きや転換がより強調されているように感じたりします。

 

個人的な感傷はさておき、気付きを得たヒストリアは(17巻69話)

 

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-私が巨人にとどめを刺したことにして下さい!
-そうすればこの壁の求心力となって情勢は固まるはずです

エルヴィンに自らの考えを具申したり、(22巻90話)

 

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-公表しましょう

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-我々は皆 運命を共にする壁の民
-これからは一つに団結して
-力を合わせなくてはなりません

兵団内での情報公開に対する議論でも自らの意志で鉈を振るっていきます。そしてこれらの「選択」が、彼女自身の意見でありながらきちんと民のことを考えた選択になっていることも見て取れます。ユミルの「選択」と似ている感じもあるでしょうか。

 


その後マーレ編に入ってからは途端に出番が少なくなってしまったヒストリアでしたが、終盤にきて少しだけ彼女の動きが明らかになりました(32巻130話)

 

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-私が…子供を作るのはどう?

違う意味で物議を醸したセリフですが、まず抑えておきたいのはこのあたりに対応してる点です(27巻108話)

 

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-だが妊娠しちまえば出産するまでは巨人にされずに済むって
-そう助言した奴がいる

ローグら憲兵の推測では「イェレナあたりの入れ知恵で延命のために子供を作ったんじゃないか」ということでしたが、

 


それは彼女自身の意志だった、ということ。

 


でも前述した流れを念頭に置いていれば自然でしかありませんよね。また暗喩と言っていいのかは分かりませんが、彼女は「死なないための選択」をしたわけではなかった、という捉え方もできるかもしれません。

 

さて、その時ヒストリアはエレンにこんなことを言っています(32巻130話)

 

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-争う必要も逃げる必要も無い

 

実はエレンが似たようなことを後に口走っています(28巻112話)

 

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-エルディアの問題を解決するのに争いは無用だ

 

もちろんヒストリアが言っていたのはあくまで憲兵への対応の話ですので違うと言えば違うのですが、そのセリフが出てきた流れってこんな感じなんです(32巻130話)

 

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-憲兵と争うかここから逃げるしか…手は無い

戦うか逃げるかしかない、そして世界は皆殺しにするしかない、といった感じでエレンはかなり強硬的なことばかりを言っていたんです。どうもそのニュアンスが少し変わっていると捉えられるように思います。そして後に彼女の言葉を反芻するような部分があるということは、ヒストリアの提案によってエレンはなんらかの影響を受けたと推察できるのではないかと思うんです。

 

そのエレンはレベリオ襲撃直後にこう言っていました(26巻105話)

 

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-これで時間は稼げたはずです

この時はエレンに対してネガ視線に偏っていたハンジによる皮肉交じりの一言によって論点がずれてしまいますが(ちなみに「争いは無用だ」の時も同様に論点がずれています)エレンの目的のひとつに時間を稼ぐことがあったということは間違いないでしょう。そしてローグらが言っていたようにヒストリアの妊娠が時間を稼ぐ効果を発揮したことも事実です。つまり二人には共通する目的があったと推測することができます。

さらにその後「出たい時にいつでも出られる」にも関わらず、エレンはしばしの間「戦え戦え」とか言いながらおとなしく収監されていたのはご存知の通り。さらに時を同じくしてヒストリアも同じような目をしていた描写がありました(27巻107話)

 

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エレンに関してはすでに考察していますが、要するにヒストリアも同じ意図があったのではないかという話です。

 

つまり二人は「待っていた」んだと思います。

 

何をってもちろん、

 

みんなの選択を、です。

 


二人が行ったことに共通するものは時間を稼いだということです。でもその時間稼ぎによって決定的な何かが得られたのかと言うと、最終回を目前にした今振り返っても特に思い浮かびません。実際ハンジの言っていた通り世界の行動を早めたような部分もあると思います。じゃあ彼らの行動は無意味あるいは逆効果に過ぎなかったということでしょうか。

 

いや、こう捉えればそこには確かなものが存在することになります。

 

二人の行動は、少なくともみんなに選択できる余地を生み出したと。言い換えれば、選択肢を与えたということです。

しかもこれは時間を作ったというだけに留まりません。ジークという王家の血を引く巨人を連れてくることによって選択肢のお膳立てまでしていることになります。以前書いた兵長がエレンに対して選択肢をお膳立てしたこと、そしてエレンが始祖ユミルに選択肢を与えたことと綺麗に重なってきますね。

 


ヒストリアはエレンとの会話でこんなことを言っています(32巻130話)

 

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-みんなが動いてくれたから…
-私はそれで十分だよ

ひとりひとりの小さな選択が集まって壁内世界が変わっていったのを目の当りにしてきた彼女にとって、今回は思い通りではなかったにしてもみんながひとつの目的に向かって行動を選択してくれたことが何よりも嬉しかった、ということでしょう。

 

先ほど妊娠は彼女の選択だった旨を書きましたが、ヒストリアの選択にはいつも付随してくるものがありましたよね。

 

それは、民のためでもあるということ。

 

だから民衆を中心としたパラディ島全体に対して選択の余地を与え、それを待ったのだろうと思います。拡大解釈をすれば世界の人々さえ含めているかもしれません。ですので、仮にパラディ島全体として王家が獣を継承していくことを望んだなら、エレンはともかく彼女自身は再びそれを受け入れたと思います。

ですがご存知の通り、相変わらずぐだぐだと問題の先送りに終始し内輪揉めを続けたのが兵団でした。もちろん兵団の人々も大事で守るべき島の人間であることに変わりはないのですが、見方によっては兵団によってパラディ島の選択が阻害されていたと言う事もできるかもしれません(27巻110話)

 

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-…いつまでも時間があると思っているなら
-それは間違いだと伝えろ

-それだけは同じ意見だ

いくら時間を稼いだとは言っても、あの兵長でさえジークに同意せざるを得ないほどに猶予が無かったのも事実です。当然エレンにしてもいつまでも指を咥えて選択を待っていられるはずもないでしょうから、彼は彼の行動を起こすほかなかったということだろうと思います。

 


ヒストリアの発した印象的な言葉で「悪い子」というのがありました(16巻66話)

 

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-全部ぶっ壊してやる!!

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-私は人類の敵だけど… エレンの味方
-いい子にもなれないし 神様にもなりたくない
-でも…
-自分なんかいらないなんて言って泣いてる人がいたら…
-そんなことないよ って伝えにいきたい

彼女の言う「悪い子」ってのは端的に言えば旧来の体制や伝統、慣習といった過去から継がれていくものに囚われず、自分の大事なものを大事にする行動をとる人のことです。どこが悪い子なんだってツッコミはひとまず置いといて話を戻しますが、

 

おそらく二人は悪い子になるしかなかった、

 

いや、悪魔になるしかなかったのだと思います(21巻84話)

 

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-こいつは悪魔になるしかなかった

 

だからこその138話、エレンによるミカサへの最後の言葉が(34巻138話、20巻80話、21巻84話)

 

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「ありがとう」

 

なのでしょう。

 


最終的にミカサは甘ったるい「悪魔のささやき」に流されることもせず(34巻130話)

 

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-今日はもう何にもしないでゆっくりしてようぜ
(エレンは悪魔になるしかなかった)

 

また、かつて命を救ってくれたエレンという「過去」に囚われることもなく(27巻109話)

 

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(ミカサはずっとエレンから目を逸らし続けてきた。身体的にも目を逸らす作用、拒否反応として頭痛が起こっていた。そうやって彼女は自分が生み出した美しい虚像であるエレンばかりを見てきたけど、最後に本当の意味で彼と向き合った)

 

そして自らの意志で自分の大事に想うものを守るために戦うことを、前へ進むことを選択したわけです。

もちろんそれはエレンを親友だと思っているアルミンや仲間だと思っている他の面々も同様で、そうやって過去の虚像を見て逃げるのではなく、現実をありのままに真っすぐに見つめて戦うことを選んだ、意志を持って過去を打ち破ったということになるのでしょう。

 

それはエレンがずっと言っていた考え方でもあり、大事な彼らだからこそそうやって生きていって欲しいという願いでもありました。(32巻130話)

 

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-続いてほしい
-ずっと… 幸せに生きていけるように

 

でもエレンの中にもいろんなエレンがいて、(33巻131話)

 

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-島を… エルディアを救うため…
-それだけじゃ…ない

 

自らの夢を実現したい自分とそうではない自分の間で葛藤があったのだと思います(20巻80話)

 

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-俺は…
-…このまま
-地下室に行きたい…

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-…すぐそこにあるんだ
-…だが リヴァイ
-見えるか? 俺達の仲間が…

以前の記事の繰り返しになりますが、「地下室に行きたい、でも~」と自ら疑問を差し挟むというのは、本人は「行かない」方を選択したいけどしきれないということだと私は思います。そして兵長はエルヴィンの意志を汲んで背中を押したようなものであると。

 

「世界一自由であるために世界をぶっ潰したい、でも」

 

ミカサも背中を押したんだと思います。

 

そして背中を押す時に適切な言葉は(34巻138話)

 

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-いってらっしゃい

 

それはエレンが「悪魔になること」を許容することでもあり、それもまたエレンの意志を汲んだということになります。

 

命を救ってくれた英雄としてのエレンの虚像ではなく、本当のエレンを見つめるということ。エレンの言う「戦わなければ~」という考え方を自らの意志の下に実践するということ。そして悪魔になるしかなかったエレンをそのまま悪魔として見送ってあげるということ。

それはすなわち、「ありのままのエレンを受け入れる」ということであり、(18巻71話)

 

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-だからこの子はもう偉いんです

 

つまりそれは、母の承認のようなものだろうと思うんです。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 23rd Mar 2021
updated: none

 

109 世界観⑬ 関係性構文


みなさんこんにちは。

 

 

全部出していくスタイル。

 

※注:この記事はもともと 072 三位一体 の続きとして書いていた記事です。そのためそちらを読んでいることを前提にして書いてますのでご承知おきください。

 

 

 

 

 


この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は17巻67話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[関係性構文]

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突然ですが、


「あなたはどんな性格ですか?」

 

日常会話ではあまり歓迎されない質問です。

 

でも答えを用意している方もたくさんいらっしゃることと思います。面接などでお決まりの質問になっているからですよね。あるいはオフィシャルな答えとは別にプライベート用も用意してる方さえいらっしゃるかもしれません。なんだかんだ上記の質問をされる機会もあったりするでしょう。

でもなぜ答えを用意するのでしょうか。面接の場合はもちろん模範解答があるからですが、でもプライベートの場合は? あるいは、なぜその質問があまり良くないとされるのでしょうか。おそらくそれは、性格と呼ばれるものが単純明快な返答をし難いものだからというのが一因ではないかと思います。

 

たとえばガキ大将みたいな子が、家に帰れば兄に頭の上がらないかよわい弟だったりすることって普通にあります。普段おとなしくて前に出てこない子が、家では王様だったりすることもよくあります。

会社ではソツなく真面目に業務をこなす私、でも家ではだらしない部分が多々ある私。そんな後者を「本来の自分」なんて考えたりもします。でも周囲から見ると、仮に別の人が私の業務をやった時に、同じ業務でも「誰がやった仕事か」が分かったりするものです。そこには個性と呼べそうなものが含まれてる感じがあります。

逆に本来の自分であるだらしない私、もし仮に親がとんでもなく厳しい人で家ではだらしなくできなかったとしたらどうなっていたのでしょう。真面目にきちんとしているのが「本来の自分」になっていたのでしょうか。ということは「本来の自分」はだらしないわけではなかったということでしょうか。あるいは、今度は外でだらしなくしてそちらが「本来の自分」だということになるのでしょうか。つまり楽をできるほうが「本来の自分」ということ? 考えれば考えるほどわけがわからなくなってきます。

普段おとなしくて流されているかのように見える人ばかりを集めて集団をつくると、誰かがリーダーになって口うるさいことを言い始めたりします。その人がいなくなると別のおとなしい誰かがそうなります。作中で言う「役割が回る」というやつでもありますが、「本来の自分」が親との関係性によって変わりかねないことを合わせて考えると、この役割というのは性格とは切っても切れないのではないかと思えます。

明るい自分、暗い自分、優しい自分、冷たい自分、温和な自分、破壊的な自分、ポジティブでネガティブで、寛容で嫌味で、あらゆる自分が存在していて、その時の相手との関係によってその中のどれかが出てくる感じもします。だとすれば性格というのは、関係性ありきのものでしかないのかもしれません。

 


まぁ与太話はさておき、

 


三位一体の記事では名前を根拠にしてエレンがエス、アルミンが超自我、ミカサが自我という心の三要素の役割を持たせられているだろうと書きました。とはいえそれは心の要素ですから、もちろんエレンや他の人たちの中にもその三つが全て存在しています。

その上で「エレンとアルミンとミカサという関係性」の中では、エレンはエスの役割になるといった感じです。

 


で、これはあくまで推測ではありますが(とはいえ個人的には確信を持っているから書いていますが、)おそらく進撃の作中ではさらに別の三角形と上記の心の要素が重ねられてるように思います。


その別の三角形というのが、家族です。


家族の基本構成としての父・母・子という三角形、おそらくこれを作中のあらゆる関係性に描き出しているように見えるんです。


どう重なるかと言いますと、もちろん子は欲求です。ただただ「~がしたい」というエス

父は家族に規範を示し行き先を示します。規範とはルールでもあり、「こうあるべきだ」「~してはいけない」という超自我です。

母は父と子の間に立つ傍観者的立場。父の規範にも理解を示すが、できれば子の欲求を叶えてあげたいという自我です。

 

※時代に背中を押された注釈※
ちなみにこれは役割的な話ですので、たとえば大陸イェーガー家ではグリシャが「こうあるべきだ」という父、ダイナがそれに付き従う母だったのに対し、島イェーガー家ではカルラが「~してはいけない」という父、グリシャが間に立ってできるだけ子の欲求を叶えてあげたいという母的立場だったりしますから、実際の性別とは関係ないと思ってください。(ヨシこれで棒で叩かれることもないハズ)
※注釈おわり※

 

さて、軽く具体例を挙げてみますと、たとえば104期の三人組だとジャンが父、コニーが母、サシャが子になっていると思います。

基本的にサシャは自分がしたいことをしたいという立場、ジャンは口うるさく「それはだめだ」「こうすべきだ」といった感じ、コニーはその間に挟まりどちらの意見も尊重するけど、やっぱり子であるサシャのしたいことに付き合ってあげる感じです。

もし進撃を最初から読み返す機会があったら、頭の片隅に置いといてもらえれば多分私が言わんとしていることが分かってもらえるのではないかと思います。

 

同様に戦士隊三人はライナーが父、ベルトルさんが母、アニが子です。またそれとは別の話として、訓練兵時代には別の関係性ができあがっていき、子であるエレンに対してライナーが父として導き、アニが母として寄り添ってる三角形があると思います。相手や環境が変わればその都度役割が変わっていくということです。

 

調査兵団では当然エルヴィンが父で、兵長が母、ハンジが子という形です。ちなみに子としてのハンジはこんな形でエレンと重ねられています(1巻4話、11巻43話)

 

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-固定砲整備4班! 戦闘用意!!
-目標 目の前!! 超大型巨人!!

 

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-総員戦闘用意!!
-超大型巨人を仕留めよ!!

二人とも父母がいない間に「巨人を倒すという欲求そのままに邁進していく」シチュエーションになっており、私はこれがハンジがエレンと同様に子であるという表現だと捉えています。

ただしハンジはエレンや104期から見た関係性では母になると思います。ややこしいですか?


ところで以前の記事でアッカーマンは「母のようだ」ということを書いてると思いますが、それもこの見方に基づいています。兵長がエルヴィンに付き従いながらも部下を優先すること、最後は子の夢を選んだこと、ミカサやケニーもそうなんですが、アッカーマンの名が付く者はどうも誰に対しても常に母の立場にあるように見えるのです。おそらくこれは作中の人間が「アッカーマンの設計」と捉えたことと無関係ではないでしょう。

母の性質として自分の命を投げ打ってでも家族を、そして子を守ろうとすることが描かれていると思います。これはミカサがエレンを守ろうとすることや、ケニーがウーリを守ろうとするのもそうですが、アッカーマンではない実際の母であるカルラやミカサの母でも描かれています。それと母は基本的に間に挟まる形になるので傍観者的とも言えますが、最後はおおむね父よりも子の味方をします。現実でもよくある光景ですね笑 これは兵長が最後に選んだ方を思い出してもらえれば分かりやすいでしょうか。あとこれは多分ですが、他の母が自分の子に手を出すことを嫌がる感じもあるように思います。当初のミカサは兵長に対し異常なほどの嫌悪を表していました。もちろん子を守るということと重なると言えばそうなのですが、兵長はそれでいいとしてもアニに対しても異常な嫉妬を燃やしてる感じでした。

それとこの場面(11巻44話)

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原作だと分かりにくいのですが、アニメだとものすごくハッキリとミカサの目の色が変わっていることが描かれています(7巻30話)

 

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確認していただければ分かりますが、ちょうどこの時なんかと全く同じ目で見てるんですよ、ハンジさんを。ちなみにこの時のミカサが母であるというのはこのへんからも察せられるかもしれません(7巻29話、1巻2話)

 

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-行かないで

もちろん母といってもミカサも子供でしたし彼女には彼女の成長物語があります。だからそんな子供のような振舞いをしてしまう子であり母である状態から、だんだんと兵長を認めていったり、アニと打ち解けたりと大人な母へと成長していく感じになっていると思います。この嫉妬みたいなあたりは愛という美しい言葉で思考停止することもできるのですが、ちゃんとミカサ本人に「エレンの本質を見ていなかったかもしれない(のに愛していた?)」と言わせることで主に思春期あたりの愛や好きという感情の裏に潜む本質を投げかけていると思います。

それと余談ついでに言えば、この三角形を意識して読むと今アニメでやっているあたりは、子供(サシャ)が死んだのでその両親(ジャンコニー)が我を忘れるくらい激昂している状態であり、またそこで母と母(ミカサとコニー)がバチバチやってるという構図が見えてきたりします。

 

少し話が逸れましたので軌道修正。


さらに別の例を挙げてみましょう。壁内組織では調査兵団が子、憲兵団が父、駐屯兵団が母です。欲求のままに外へ出ようとする子、あれやこれやと禁止を課す父、間に立ち最後は子の味方をする母。これはとても分かりやすいはずです。ちなみに壁もそのまま対応していると思います。マリアが調査兵団で子、ローゼが駐屯兵団で母、シーナが憲兵団で父です。それぞれが活動している場所、作中でそれぞれが登場する主な場所、それとおそらく三姉妹は長女から順にマリアローゼシーナですが、心に生じる順がエス(子)→自我(母)→超自我(父)の順番です。

 

 

では、これを踏まえて別の話をしたいと思います。

 


進撃という作品のテーマのひとつに「親殺し」があることは、おそらく言うまでもないんじゃないかと思います。以前もちらっと書きましたが、壁や外界との接触、外界という他者との間での争いや相互理解という葛藤は全て自我の成長を模していると考えられます。パラディ島の波止場が「境界線」という言葉と関連付けされてるのも、自己と他者との境界ということでしょう。

ご存知の方も多いと思いますが「親殺し」というのは心理学用語のひとつで、子が自我の成長過程において親という絶対的で畏怖的な存在を克服することを言います。物理的に殺すわけではありません笑

 

親というのは子がまだ物心もつかない頃から守ってくれている庇護者です(例外もあるでしょうし育ての親などでも同じことですが、以下割愛します。)幼い子供は親に守られて生き得ていることを本能的に察し、いかにして親に生かしてもらうかを手探りで学んでいきます。気に入ってもらえればいいのか、ではどうすれば気に入ってもらえるのか、わがままをすれば食事や望むものを与えてもらえるのか、黙って言う事を聞けばそうなるのか、それを手あたり次第に試していくので親から見ると手を焼かされるわけです。そしてその時の親の反応も子はしっかりと見ていて、どうすれば生きられるかを習得していきます。もちろん言うまでもなく、これが後々の人格形成の土台となっていきます。

幼い子供にしてみれば親がいなかったら自分は生きていけないし、満足に動き回ることもできない、親というのはとてつもない力を持った存在として刷り込まれていくことになります。それは裏を返せば、この人たちに見捨てられるイコール死に繋がるといったような恐怖や不安感とも表裏一体です。つまり親に認められることが生に直結するということで、承認欲求とも無関係ではありません。守ってくれる存在であり恐怖の対象でもあるというのは、まさに壁ですよね。あえて庇護者という単語を用いたのですが、先だっての記事でお話した奴隷の話とも重なってきます。

やがて成長に従って家族以外の他者、すなわち外の世界と接するようになると気付き始めます。「あれ?なんかうちの家族とはちょっと違うぞ」と。そして自分の常識を疑ったり、それでも押し通したり、他者に合わせる方を良しとして社会に従順になっていったりしながら、自己が固まっていきます。

それと同時に少年期には性の感情が芽生え始め、一番身近な異性として親を意識したりもします。また同性の方の親は一種のライバルのような感じに思ったりします。ミカサにとってのエレンは庇護者であり父のような存在でもある、そしてそれは芽生え始めた恋愛感情とないまぜになったりしていたということでしょう。

そんなこんなで子は背伸びしたり反発したりしながら必死になって自分が親よりすごいことを示そうとするのですが敵うはずもなく、おおむね親は絶対的な壁として立ちはだかります。そもそも親の存在無しでは自分は生きるという意味でも生まれるという意味でも存在し得ないわけですが、そんな矛盾をはらみつつも駆り立てられていきます。たとえば「親と同じようにならなくては」だったりとか「親がこうだから自分はこうはならない」とか。背中を押されていくわけです。

そうこうしているうちに心身が成長していき、親の庇護を必要としなくなったりすると気付いたりします。親というのが絶対的な存在でもなんでもなく、普通の取るに足らないダメなところも多々ある人間のひとりで、それでも必死に生きようと、そして自分を育てようとしてくれてたってことに。そして親を絶対的な存在だと感じていたのは、自分が勝手にそう思い込んでいただけであり、親に感じていた嫌な部分はだいたい自分自身の嫌な部分だったりするんです。遺伝的な部分もそうですが、幼い頃から無意識に親の見よう見真似で生き方を身に付けてきたわけですから似てて当然なんですね。その嫌な部分だって、今までは反発するような感情に背中を押されて必死に理想論なんかを語りながら否定してきたけど、生きるためにはそういう泥臭い部分も必要だよなぁなんて思えて自己承認ができたりします。するとそれはもちろん他者にも適用できることなので、今まで他者に見出した嫌な部分を正論を使って叩いてきたけど、それがその人の生き方、やり方なだけだよなぁと他者承認もできたりするわけです。

 

・・というのが親殺しの雑な説明です。要は親の視点に立つことができるようになって親を知り、自分を知り、他者の視点に立つことができるようになる、いわば自立を果すということです。


で、進撃の物語は基本的にエレン視点で父アルミンの背中を追いかける形で始まり、進行していきます。エレンにとってアルミンは自分は到底敵わないものすごい存在だったんです(21巻84話)

 

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-人類を救うのはオレでも団長でもない!!
-アルミンだ!!

そして父アルミンはいつだって家族の行く方角を指し示してくれていました。いわば子を導いてくれる存在でした(21巻84話、33巻131話)

 

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-この壁の向こうにある海を…
-いつか見に行こうって…

 

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-ついに… 辿り着いたぞ この景色に
-なぁアルミン

子が父から夢(と呪い)を与えられているわけですね。そんな父と子を母ミカサがいつも見守り、子であるエレンをより大事にして、子の欲求を叶えてあげる動きをしていることはもう書くまでもないでしょう。

 


ところが面白いのは、マーレ編で視点が移るとともにこの関係性が逆転をします(26巻106話)

 

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この場面、明らかにミカサはアルミン寄りになっています。アルミンが語る子供が夢を見るような理想論を後押しする形になっていて、同時にエレンが父のように「こうするべきだ」「こうしなければならない」と規範を示していることへの反発が見られます(28巻112話)

 

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この場面もおそらく、彼女はエレンを守ったのではなく咄嗟にアルミンを守ろうとしてしまったんじゃないかと思います。なぜなら殴り合いになればアルミンが勝てないだろうことはミカサにはやるまでもなく分かっていたことだったでしょうから。

 

そして最近は明確にこの関係性の転換が描かれている場面がありました(34巻137話)

 

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-アルミンを――
-返せ!!

もちろんこれがどの場面に重ねられているかは書くまでもないでしょう。ミカサの守る対象がアルミンに変わったということです。それはつまり今はアルミンが子であるということであり、そう考えれば父vs母子という構図にも綺麗に当てはまります。


正確に言うとこの関係性の転換はマーレ編ではなく、おそらく白夜が起点になっています。あの一件で父アルミンは夢を託して死に、新たに子として生まれ変わったイメージなのだろうと思います。同時にエレンに起こった出来事として、あれほど疑問視していた父親の視点に立った、という出来事がありましたよね。そしてそれ以降のエレンは自分たちはこうするべきだといった父的な姿勢を見せるようになってるはずです。

 

つまり、そこで親殺しが成立しているんです。

 

じゃあその後アルミンが子になる形で関係性が転換しているということは、もちろん今度は子アルミンによる父エレンという親殺しの展開になることは、もはや必然のように推測できるわけです。(ただエレン視点での、父グリシャではなく父アルミンに対する親殺しはまだ完遂してないかもしれませんが)

 


さて、幼馴染はいったん置いといてもう少し親殺しの例を。

 


王政編というのは子である調査兵団による憲兵団という父への親殺しと捉えることができると思います。その後のハンジは父の立場をよーく味合わされてましたよね。そしておそらくエルディアとマーレあたりの関係も同じような感じになっていると考えられ、もともと絶対的な支配者であった父であるエルディア帝政(144代まで)に理想論を掲げて子(145代)が反発したのが巨人大戦で、子はその反発から殻(パラディの壁)に閉じこもるようになります。でもその理想論の中から生まれたのがエルディアとほぼ同じようなマーレだった、つまり自分の中にあった父と同じ嫌な部分だったわけです。

親に反発して引きこもった子の中では葛藤が起こります。そんな嫌な自分は死んでしまった方がいいかも(社会や他者に合わせる)、いやいや自分は自分を押し通して生きるんだと。そんなこんながあって、今相手の立場をお互いに理解しかけている感じですよね。その傍ら、母ヒィズル(というかアズマビトですが)はなんだかんだと巨人大戦から子に寄り添ってくれてます。

 


・・といった感じで様々な関係性の中に三角形が描かれ、親殺しという自我の成長が描かれていると考えられるのですが、もちろん親殺しと言えば忘れてはいけないのがヒストリアです(17巻68話)

 

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彼女は物理的にも親を殺しているのですが笑、それはともかく王政編では依存的なほどの親に好かれたい見捨てられたくないという態度に始まって、親への反発、そして上の画像の通り親の視点に立つといった感じで、早回しではありますが綺麗に親殺しのプロセスを踏んでいます。

物語は基本的にエレンを主軸とした子から父への成長(B面はアルミンの成長)が描かれていると思いますが、その陰に隠れて両輪のもう一方として描かれているのがヒストリアの子から母への成長ではないかと考えます。

 

ちなみにヒストリアはこんな形で同様に子であるエレンと重ねられています(10巻41話、12巻49話)

 

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-やった!! 討伐数1!!

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-やった… 初めて倒した…

 

あとこんなのもあります(12巻50話、17巻69話)

 

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後者の方はおそらく母殺しの表現だろうと思います。母殺しというのは母への依存からの脱却、ひとり立ちです。エレンが直前に母への泣き言を言っていたのは言わずもがな、ヒストリアの場合は兵長が母の象徴として、今まで言われるがままだった自分から自らの意思で女王になるという転換を表していると思います。

 

 

というわけでさわりだけのようで恐縮ですが、次回のヒストリアの話へと続いていきます。

 

 

 

  

 

 

 

-以下、今さらですが137話のどくしょかんそうぶん(大人向け)-

 

 


B面の最終回、な感じでしょうか。

 


以上です。

 

 

 


・・というのはさすがにアレなので、つらつらと書かせていただきます。


イジメられっ子の少年が必死に力を付け、才覚を伸ばし、やがて敵だった人々とも想いを通わせ、みんなの力を合わせて強大な悪を討つ。心優しく成長したその青年は責任のある立場を必死に務めながら、それでもなおこう語る。自分にとっては当たり前にあるなんでもない事こそが生きる愉しみであり意味なんだと。

 

美しい、まさに王道テンプレが見事に(ほぼ)成就しました。


「当たり前の日常の中になによりも大事なものがある」

 

こういう言い方はなんですが、特に目新しさがあるというわけでもありません。古今東西、名作から駄作まで数えきれないほどの物語が語り掛けてきた考え方ではないかと思います。もちろんその考え自体を否定するものではなく、人間社会を生きていく上でとっても大事な考え方のひとつであることは間違いないと思います。でも137話が最終回じゃないのは幸せなことだと思います。なんとまだ2話も残していますので、これからA面や両方の中間の面も描かれていくのでしょう。進撃という物語は「当たり前の日常がなによりも大事だよね」と訴えるだけにはとどまらないわけです。

 


そもそも、今回アルミンが語った思想に対するひとつの返答はとっくの昔に描かれています(2巻6話)

 

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この人さらい達へのエレンの対応は、地鳴らしとほぼ同義ですよね。理不尽に自由を奪う者に対し、全生命を懸けてでも抗う。相手がこちらの自由を奪おうとするなら、相手の自由を奪うことも厭わない。もしエレンがあの時「地鳴らし」をしなかったら、ミカサの性的及び精神的に過酷な人生がほぼ確定していたことは、これを読んでいる大人のみなさんには細かく説明するまでもないと思います。場合によっては買い手に飽きられるなどして、クシェルのような末路をたどっていた可能性すら普通にあると思います。

 

つまりミカサは、「当たり前のなんでもない日常」を奪われるところだったわけです。

 

 


ではあの時、エレンが話し合おうとすれば分かり合えたのでしょうか。


これは愚問だったかもしれません、失礼しました。


ではあれはやり過ぎだったのでしょうか。三人の人間を「虐殺」したことは良くないことだったのでしょうか。力も体格も数でも劣る少年エレンは複数の大人たちに対して、失敗のリスクを差し置いてでも程よく手加減して殺さない程度に痛めつけるべきだったのでしょうか。それが「正しい」ことだったのでしょうか。


なんか審議所での場面を思い出します(5巻19話)

 

 

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-その動機内容は正当防衛として一部理解できる部分もありますが
-根本的な人間性に疑問を感じます

社会も人間と同じです。その時の都合で社会にとって都合の良い見方しかしてくれません。このセリフって超訳すれば「社会のルールを守るべく彼ら個人は肉体的あるいは精神的に死ぬべきだった」、つまり「死ねばよかった」って言ってるのとたいして変わらないように思います。

そのくせ揺るがしがたい事実として、社会はミカサという個を守れなかったんです。ミカサを守ったのは他ならぬ「地鳴らし」以外の何物でもありませんでした。


もちろんこれを単純に本物の地鳴らしと重ねて考えてしまうのは、程度の問題が引っ掛かってくることと思います。人さらいの件とは異なり、何の罪も無い人たちまでたくさん巻き込まれているじゃないかって(33巻134話)

 

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-…この責任は
-我々すべての大人達にある

でも一つの見方として、マーレの司令官が自ら述べているように、世界の ”何の罪もない” 人たちは何も「してない」わけではないんです。ずっと見て見ぬフリを「して」きたんです。パラディやエルディア人が悪魔である方が都合が良かったから、積極的に関わらずとも「私は知らない関係ない、だからその問題には触らない、何もしてないんだから何も悪くないはずだ、自分には関係ない」と目を背けてきたんです。結局それも、前述した「社会(世界)のために彼ら(エルディア人)は死ぬべきだ(あるいは虐げられているべきだ)」というのとたいした違いは無いのかもしれません(3巻12話)

 

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-皆がそのことに関して口をつぐんでおるのは
-彼らを壁の外に追いやったおかげで
-我々はこの狭い壁の中を生き抜くことができたからじゃ

 

-ワシを含め人類すべてに罪がある!!


エルディア人を迫害することが社会でのステータスに繋がるから積極的に石を投げる者。自分で石を投げるのは罪悪感があるのでそれを見てみぬふりをする者。自分には関係ないからと耳を塞いで一切関わろうとはしない者。

 


そうした「一人ひとりの選択が世界を変えていた」わけです。

 


もちろん中にはエルディア人差別を本当に良くないと思って行動していた人々もいるかもしれません。いや、いておかしくないだろうと考えます。そんな人たちでさえまとめて踏み潰す地鳴らしは確かにやり過ぎなところはあるでしょう。

じゃあそういう人々が踏み潰されないように程良く手加減するべきだったのか、みたいな話になります。やっぱり同じなんです。手加減して、もし万が一にでも一矢報いられるようなことがあれば、今度こそパラディは完全に「当たり前のなんでもない日常」を奪われていたかもしれません。

少年が人さらいを殺していなければ、少女が奴隷にされていたように。あるいは少年も殺されていたように。

 


つまりどういうことかと言うと、今回のアルミンが語ったことというのは、物語として地鳴らしに肯定を与えているようなものだと思います。肯定というのは言い過ぎかもしれませんが、少なくとも地鳴らしは100%の絶対的な悪じゃないことの証明のようになっているんです。ただ「当たり前のなんでもない日常が大事だよね!」って言ってるわけではないんですね。

そして実際にアルミンもその通り、自分の大切にしている「当たり前のなんでもない自由」を奪おうとする相手を殺しにかかってるわけです。さらに言えば「考えが違うなら戦う他ない」と言っていたエレンの言葉通りのことをしているとも言えるでしょう。

 


つまりアルミンは、エレンと同じところに立ったんだと思います。今回の記事に沿った言い方をすれば、彼は「父に肩を並べた」のだと思います(2巻5話)

 

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-二人のように強く…
-肩を並べてこの世界を生きていきたかった…


そのきっかけとなったのは、自分を見つめたことでした(34巻136話)

 

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-僕はお前が嫌いだ!!
-ずぅうっとお前は‼
-僕を裏切り続けてきた!!


背伸びして口先ばかりだった嫌な自分を ”別の視点から” 見つめたこと。それでもなんでもやらなくちゃという想いがあり、それをして何の意味があるのかという問い掛けがあり、そうして彼は「自分がなにかをするのは何のためなのか」ということに本当の意味で気付いたということだろうと思います。正義や社会、みんなのためといった口先だけの綺麗事ではなく、本当に自分が大事だと感じるもの、そしてその大事なものを守るということ、何にもしなければその大事なものは失われてしまうかもしれないということ(27巻108話、33巻133話)

 

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-お前らが大事だからだ
-他の誰よりも…

 

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-オレは自由を手に入れるため 世界から自由を奪う
-だが お前らからは何も奪わない


今回のアルミンは、ちゃんと相手の話に真摯に耳を傾けていました。そして相手の意見を否定するのでも、自分の意見を押し付けるのでもなく、それでいてハッキリと自分の感じていることを相手に伝えていますよね。

 

だからキャッチボールが成立したってことだと思うんです(34巻137話)

 

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つまり、「分かり合えた」んです。

 

 


これは蛇足かもしれませんが、ひとつ解説しておいた方が良さそうに思う点について(34巻137話)

 

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この葉っぱがボールだった件ですが、おそらくこれはクオリアの表現だと思います。

 

クオリアというのは説明しづらいのですが、個々人のモノの見え方みたいな感覚のことです。たとえば赤という色があって、みなさん頭の中に赤い色を思い浮かべられますよね。それはあなたの頭の中で記憶を元に作り上げられたあなただけのイメージですが、それがクオリアです。他の人からは見えません。

それと、視覚のシステムについてはご存知の方も多いんじゃないかと思いますが、私たちがモノを見るというのは、実際にはモノに当たって反射してきた光の粒子という情報を元に頭の中で映像を作りあげたものです。だから厳密に言えば、普段私たちが「見る」という言葉で表現する感じで言えば、私たちは一切何も見ていません。どちらかというとデータを元に「想像している」と言った方が近いのではないかと思います。だからこそ錯覚や錯視といった誤作動のようなことも起こり得ます。ありもしないものを脳内で作り上げてしまい、私たちはそれを本当にあるものだと感じながら「見て」しまうわけです。

話を戻しますが、たとえば赤いポストがあるとします。あなたと友人がたった今それを同時に見つめていたとして、あなたが感じているポストの赤色と、友人が感じているポストの赤色はおそらく異なります。クオリアは実体がなく数値化もできないので証明はできないのですが、生物間での視覚の差異、人種間での差異なども鑑みるに個々人でも異なると考えられています。もしかしたらあなたが赤色と呼んでいるイメージの色は、他の人の頭の中では少し違う色かもしれないんです。あるいはあなたはその赤色をツヤツヤした感じに受け止めているかもしれませんが、他の人にはザラザラした感じに見えているかもしれません。


それがなんなんだよって話なんですが、私たちは全く同じモノを全く同じように見ることはできないということです。もちろん葉っぱがボールに見えるようなことは人間同士ではないでしょうが(逆に言えば、他の生物との間ではそれに近いことがあり得るということです)、アルミンにとっての「当たり前の大事な日常」のクオリアが葉っぱであり、ジークにとってのそれがボールであるように、たとえあなたの一番の親友であれ、親兄弟であれ、単なる同僚であれ、全く知らない他国の人であれ、あなた以外の人は全員、あなたとは違うモノが見えているんです。

それはすなわち、あなたとは違う世界が見えている、ということであり、この世界に絶対的なものなんて無いってことでもあるんです。

でもクオリアなどの概念を知らなければ、あるいは知っていた方も知る以前は、自分が見えているものは相手にも全く同じように見えているだろうと当たり前のように考えていたのではないでしょうか。

そして自分にしか見えていない主観にしか過ぎないものを、まるで当たり前に絶対的なものとして、「正しい」こととして考えたりしてなかったでしょうか。見えているものが違う相手にしてみれば、それは押し付けにしかならないはずです。

 


だけれども人間には言葉があります。会話をすることによって、異なる見え方でも擦り合わせて歩み寄ることができます。以前のアルミンのように、自分の見えているモノが絶対だと思っていたら、自分の推測が間違いないはずだと前提にしてしまったら、やっぱり分かり合えるはずもないってことがより明確になるのではないでしょうか。アルミンは今回、おそらく初めて本当の意味で他者と分かり合うことができた、同じ方向を向くことができた、そして

 


ひとつになることができた

 


そんな表現ではないかと思います。

 

-どくしょかんそうぶんおわり-

 

 

 

 

 

本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 6th Mar 2021
updated: none