進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

109 世界観⑬ 関係性構文


みなさんこんにちは。

 

 

全部出していくスタイル。

 

※注:この記事はもともと 072 三位一体 の続きとして書いていた記事です。そのためそちらを読んでいることを前提にして書いてますのでご承知おきください。

 

 

 

 

 


この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は17巻67話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[関係性構文]

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突然ですが、


「あなたはどんな性格ですか?」

 

日常会話ではあまり歓迎されない質問です。

 

でも答えを用意している方もたくさんいらっしゃることと思います。面接などでお決まりの質問になっているからですよね。あるいはオフィシャルな答えとは別にプライベート用も用意してる方さえいらっしゃるかもしれません。なんだかんだ上記の質問をされる機会もあったりするでしょう。

でもなぜ答えを用意するのでしょうか。面接の場合はもちろん模範解答があるからですが、でもプライベートの場合は? あるいは、なぜその質問があまり良くないとされるのでしょうか。おそらくそれは、性格と呼ばれるものが単純明快な返答をし難いものだからというのが一因ではないかと思います。

 

たとえばガキ大将みたいな子が、家に帰れば兄に頭の上がらないかよわい弟だったりすることって普通にあります。普段おとなしくて前に出てこない子が、家では王様だったりすることもよくあります。

会社ではソツなく真面目に業務をこなす私、でも家ではだらしない部分が多々ある私。そんな後者を「本来の自分」なんて考えたりもします。でも周囲から見ると、仮に別の人が私の業務をやった時に、同じ業務でも「誰がやった仕事か」が分かったりするものです。そこには個性と呼べそうなものが含まれてる感じがあります。

逆に本来の自分であるだらしない私、もし仮に親がとんでもなく厳しい人で家ではだらしなくできなかったとしたらどうなっていたのでしょう。真面目にきちんとしているのが「本来の自分」になっていたのでしょうか。ということは「本来の自分」はだらしないわけではなかったということでしょうか。あるいは、今度は外でだらしなくしてそちらが「本来の自分」だということになるのでしょうか。つまり楽をできるほうが「本来の自分」ということ? 考えれば考えるほどわけがわからなくなってきます。

普段おとなしくて流されているかのように見える人ばかりを集めて集団をつくると、誰かがリーダーになって口うるさいことを言い始めたりします。その人がいなくなると別のおとなしい誰かがそうなります。作中で言う「役割が回る」というやつでもありますが、「本来の自分」が親との関係性によって変わりかねないことを合わせて考えると、この役割というのは性格とは切っても切れないのではないかと思えます。

明るい自分、暗い自分、優しい自分、冷たい自分、温和な自分、破壊的な自分、ポジティブでネガティブで、寛容で嫌味で、あらゆる自分が存在していて、その時の相手との関係によってその中のどれかが出てくる感じもします。だとすれば性格というのは、関係性ありきのものでしかないのかもしれません。

 


まぁ与太話はさておき、

 


三位一体の記事では名前を根拠にしてエレンがエス、アルミンが超自我、ミカサが自我という心の三要素の役割を持たせられているだろうと書きました。とはいえそれは心の要素ですから、もちろんエレンや他の人たちの中にもその三つが全て存在しています。

その上で「エレンとアルミンとミカサという関係性」の中では、エレンはエスの役割になるといった感じです。

 


で、これはあくまで推測ではありますが(とはいえ個人的には確信を持っているから書いていますが、)おそらく進撃の作中ではさらに別の三角形と上記の心の要素が重ねられてるように思います。


その別の三角形というのが、家族です。


家族の基本構成としての父・母・子という三角形、おそらくこれを作中のあらゆる関係性に描き出しているように見えるんです。


どう重なるかと言いますと、もちろん子は欲求です。ただただ「~がしたい」というエス

父は家族に規範を示し行き先を示します。規範とはルールでもあり、「こうあるべきだ」「~してはいけない」という超自我です。

母は父と子の間に立つ傍観者的立場。父の規範にも理解を示すが、できれば子の欲求を叶えてあげたいという自我です。

 

※時代に背中を押された注釈※
ちなみにこれは役割的な話ですので、たとえば大陸イェーガー家ではグリシャが「こうあるべきだ」という父、ダイナがそれに付き従う母だったのに対し、島イェーガー家ではカルラが「~してはいけない」という父、グリシャが間に立ってできるだけ子の欲求を叶えてあげたいという母的立場だったりしますから、実際の性別とは関係ないと思ってください。(ヨシこれで棒で叩かれることもないハズ)
※注釈おわり※

 

さて、軽く具体例を挙げてみますと、たとえば104期の三人組だとジャンが父、コニーが母、サシャが子になっていると思います。

基本的にサシャは自分がしたいことをしたいという立場、ジャンは口うるさく「それはだめだ」「こうすべきだ」といった感じ、コニーはその間に挟まりどちらの意見も尊重するけど、やっぱり子であるサシャのしたいことに付き合ってあげる感じです。

もし進撃を最初から読み返す機会があったら、頭の片隅に置いといてもらえれば多分私が言わんとしていることが分かってもらえるのではないかと思います。

 

同様に戦士隊三人はライナーが父、ベルトルさんが母、アニが子です。またそれとは別の話として、訓練兵時代には別の関係性ができあがっていき、子であるエレンに対してライナーが父として導き、アニが母として寄り添ってる三角形があると思います。相手や環境が変わればその都度役割が変わっていくということです。

 

調査兵団では当然エルヴィンが父で、兵長が母、ハンジが子という形です。ちなみに子としてのハンジはこんな形でエレンと重ねられています(1巻4話、11巻43話)

 

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-固定砲整備4班! 戦闘用意!!
-目標 目の前!! 超大型巨人!!

 

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-総員戦闘用意!!
-超大型巨人を仕留めよ!!

二人とも父母がいない間に「巨人を倒すという欲求そのままに邁進していく」シチュエーションになっており、私はこれがハンジがエレンと同様に子であるという表現だと捉えています。

ただしハンジはエレンや104期から見た関係性では母になると思います。ややこしいですか?


ところで以前の記事でアッカーマンは「母のようだ」ということを書いてると思いますが、それもこの見方に基づいています。兵長がエルヴィンに付き従いながらも部下を優先すること、最後は子の夢を選んだこと、ミカサやケニーもそうなんですが、アッカーマンの名が付く者はどうも誰に対しても常に母の立場にあるように見えるのです。おそらくこれは作中の人間が「アッカーマンの設計」と捉えたことと無関係ではないでしょう。

母の性質として自分の命を投げ打ってでも家族を、そして子を守ろうとすることが描かれていると思います。これはミカサがエレンを守ろうとすることや、ケニーがウーリを守ろうとするのもそうですが、アッカーマンではない実際の母であるカルラやミカサの母でも描かれています。それと母は基本的に間に挟まる形になるので傍観者的とも言えますが、最後はおおむね父よりも子の味方をします。現実でもよくある光景ですね笑 これは兵長が最後に選んだ方を思い出してもらえれば分かりやすいでしょうか。あとこれは多分ですが、他の母が自分の子に手を出すことを嫌がる感じもあるように思います。当初のミカサは兵長に対し異常なほどの嫌悪を表していました。もちろん子を守るということと重なると言えばそうなのですが、兵長はそれでいいとしてもアニに対しても異常な嫉妬を燃やしてる感じでした。

それとこの場面(11巻44話)

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原作だと分かりにくいのですが、アニメだとものすごくハッキリとミカサの目の色が変わっていることが描かれています(7巻30話)

 

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確認していただければ分かりますが、ちょうどこの時なんかと全く同じ目で見てるんですよ、ハンジさんを。ちなみにこの時のミカサが母であるというのはこのへんからも察せられるかもしれません(7巻29話、1巻2話)

 

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-行かないで

もちろん母といってもミカサも子供でしたし彼女には彼女の成長物語があります。だからそんな子供のような振舞いをしてしまう子であり母である状態から、だんだんと兵長を認めていったり、アニと打ち解けたりと大人な母へと成長していく感じになっていると思います。この嫉妬みたいなあたりは愛という美しい言葉で思考停止することもできるのですが、ちゃんとミカサ本人に「エレンの本質を見ていなかったかもしれない(のに愛していた?)」と言わせることで主に思春期あたりの愛や好きという感情の裏に潜む本質を投げかけていると思います。

それと余談ついでに言えば、この三角形を意識して読むと今アニメでやっているあたりは、子供(サシャ)が死んだのでその両親(ジャンコニー)が我を忘れるくらい激昂している状態であり、またそこで母と母(ミカサとコニー)がバチバチやってるという構図が見えてきたりします。

 

少し話が逸れましたので軌道修正。


さらに別の例を挙げてみましょう。壁内組織では調査兵団が子、憲兵団が父、駐屯兵団が母です。欲求のままに外へ出ようとする子、あれやこれやと禁止を課す父、間に立ち最後は子の味方をする母。これはとても分かりやすいはずです。ちなみに壁もそのまま対応していると思います。マリアが調査兵団で子、ローゼが駐屯兵団で母、シーナが憲兵団で父です。それぞれが活動している場所、作中でそれぞれが登場する主な場所、それとおそらく三姉妹は長女から順にマリアローゼシーナですが、心に生じる順がエス(子)→自我(母)→超自我(父)の順番です。

 

 

では、これを踏まえて別の話をしたいと思います。

 


進撃という作品のテーマのひとつに「親殺し」があることは、おそらく言うまでもないんじゃないかと思います。以前もちらっと書きましたが、壁や外界との接触、外界という他者との間での争いや相互理解という葛藤は全て自我の成長を模していると考えられます。パラディ島の波止場が「境界線」という言葉と関連付けされてるのも、自己と他者との境界ということでしょう。

ご存知の方も多いと思いますが「親殺し」というのは心理学用語のひとつで、子が自我の成長過程において親という絶対的で畏怖的な存在を克服することを言います。物理的に殺すわけではありません笑

 

親というのは子がまだ物心もつかない頃から守ってくれている庇護者です(例外もあるでしょうし育ての親などでも同じことですが、以下割愛します。)幼い子供は親に守られて生き得ていることを本能的に察し、いかにして親に生かしてもらうかを手探りで学んでいきます。気に入ってもらえればいいのか、ではどうすれば気に入ってもらえるのか、わがままをすれば食事や望むものを与えてもらえるのか、黙って言う事を聞けばそうなるのか、それを手あたり次第に試していくので親から見ると手を焼かされるわけです。そしてその時の親の反応も子はしっかりと見ていて、どうすれば生きられるかを習得していきます。もちろん言うまでもなく、これが後々の人格形成の土台となっていきます。

幼い子供にしてみれば親がいなかったら自分は生きていけないし、満足に動き回ることもできない、親というのはとてつもない力を持った存在として刷り込まれていくことになります。それは裏を返せば、この人たちに見捨てられるイコール死に繋がるといったような恐怖や不安感とも表裏一体です。つまり親に認められることが生に直結するということで、承認欲求とも無関係ではありません。守ってくれる存在であり恐怖の対象でもあるというのは、まさに壁ですよね。あえて庇護者という単語を用いたのですが、先だっての記事でお話した奴隷の話とも重なってきます。

やがて成長に従って家族以外の他者、すなわち外の世界と接するようになると気付き始めます。「あれ?なんかうちの家族とはちょっと違うぞ」と。そして自分の常識を疑ったり、それでも押し通したり、他者に合わせる方を良しとして社会に従順になっていったりしながら、自己が固まっていきます。

それと同時に少年期には性の感情が芽生え始め、一番身近な異性として親を意識したりもします。また同性の方の親は一種のライバルのような感じに思ったりします。ミカサにとってのエレンは庇護者であり父のような存在でもある、そしてそれは芽生え始めた恋愛感情とないまぜになったりしていたということでしょう。

そんなこんなで子は背伸びしたり反発したりしながら必死になって自分が親よりすごいことを示そうとするのですが敵うはずもなく、おおむね親は絶対的な壁として立ちはだかります。そもそも親の存在無しでは自分は生きるという意味でも生まれるという意味でも存在し得ないわけですが、そんな矛盾をはらみつつも駆り立てられていきます。たとえば「親と同じようにならなくては」だったりとか「親がこうだから自分はこうはならない」とか。背中を押されていくわけです。

そうこうしているうちに心身が成長していき、親の庇護を必要としなくなったりすると気付いたりします。親というのが絶対的な存在でもなんでもなく、普通の取るに足らないダメなところも多々ある人間のひとりで、それでも必死に生きようと、そして自分を育てようとしてくれてたってことに。そして親を絶対的な存在だと感じていたのは、自分が勝手にそう思い込んでいただけであり、親に感じていた嫌な部分はだいたい自分自身の嫌な部分だったりするんです。遺伝的な部分もそうですが、幼い頃から無意識に親の見よう見真似で生き方を身に付けてきたわけですから似てて当然なんですね。その嫌な部分だって、今までは反発するような感情に背中を押されて必死に理想論なんかを語りながら否定してきたけど、生きるためにはそういう泥臭い部分も必要だよなぁなんて思えて自己承認ができたりします。するとそれはもちろん他者にも適用できることなので、今まで他者に見出した嫌な部分を正論を使って叩いてきたけど、それがその人の生き方、やり方なだけだよなぁと他者承認もできたりするわけです。

 

・・というのが親殺しの雑な説明です。要は親の視点に立つことができるようになって親を知り、自分を知り、他者の視点に立つことができるようになる、いわば自立を果すということです。


で、進撃の物語は基本的にエレン視点で父アルミンの背中を追いかける形で始まり、進行していきます。エレンにとってアルミンは自分は到底敵わないものすごい存在だったんです(21巻84話)

 

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-人類を救うのはオレでも団長でもない!!
-アルミンだ!!

そして父アルミンはいつだって家族の行く方角を指し示してくれていました。いわば子を導いてくれる存在でした(21巻84話、33巻131話)

 

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-この壁の向こうにある海を…
-いつか見に行こうって…

 

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-ついに… 辿り着いたぞ この景色に
-なぁアルミン

子が父から夢(と呪い)を与えられているわけですね。そんな父と子を母ミカサがいつも見守り、子であるエレンをより大事にして、子の欲求を叶えてあげる動きをしていることはもう書くまでもないでしょう。

 


ところが面白いのは、マーレ編で視点が移るとともにこの関係性が逆転をします(26巻106話)

 

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この場面、明らかにミカサはアルミン寄りになっています。アルミンが語る子供が夢を見るような理想論を後押しする形になっていて、同時にエレンが父のように「こうするべきだ」「こうしなければならない」と規範を示していることへの反発が見られます(28巻112話)

 

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この場面もおそらく、彼女はエレンを守ったのではなく咄嗟にアルミンを守ろうとしてしまったんじゃないかと思います。なぜなら殴り合いになればアルミンが勝てないだろうことはミカサにはやるまでもなく分かっていたことだったでしょうから。

 

そして最近は明確にこの関係性の転換が描かれている場面がありました(34巻137話)

 

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-アルミンを――
-返せ!!

もちろんこれがどの場面に重ねられているかは書くまでもないでしょう。ミカサの守る対象がアルミンに変わったということです。それはつまり今はアルミンが子であるということであり、そう考えれば父vs母子という構図にも綺麗に当てはまります。


正確に言うとこの関係性の転換はマーレ編ではなく、おそらく白夜が起点になっています。あの一件で父アルミンは夢を託して死に、新たに子として生まれ変わったイメージなのだろうと思います。同時にエレンに起こった出来事として、あれほど疑問視していた父親の視点に立った、という出来事がありましたよね。そしてそれ以降のエレンは自分たちはこうするべきだといった父的な姿勢を見せるようになってるはずです。

 

つまり、そこで親殺しが成立しているんです。

 

じゃあその後アルミンが子になる形で関係性が転換しているということは、もちろん今度は子アルミンによる父エレンという親殺しの展開になることは、もはや必然のように推測できるわけです。(ただエレン視点での、父グリシャではなく父アルミンに対する親殺しはまだ完遂してないかもしれませんが)

 


さて、幼馴染はいったん置いといてもう少し親殺しの例を。

 


王政編というのは子である調査兵団による憲兵団という父への親殺しと捉えることができると思います。その後のハンジは父の立場をよーく味合わされてましたよね。そしておそらくエルディアとマーレあたりの関係も同じような感じになっていると考えられ、もともと絶対的な支配者であった父であるエルディア帝政(144代まで)に理想論を掲げて子(145代)が反発したのが巨人大戦で、子はその反発から殻(パラディの壁)に閉じこもるようになります。でもその理想論の中から生まれたのがエルディアとほぼ同じようなマーレだった、つまり自分の中にあった父と同じ嫌な部分だったわけです。

親に反発して引きこもった子の中では葛藤が起こります。そんな嫌な自分は死んでしまった方がいいかも(社会や他者に合わせる)、いやいや自分は自分を押し通して生きるんだと。そんなこんながあって、今相手の立場をお互いに理解しかけている感じですよね。その傍ら、母ヒィズル(というかアズマビトですが)はなんだかんだと巨人大戦から子に寄り添ってくれてます。

 


・・といった感じで様々な関係性の中に三角形が描かれ、親殺しという自我の成長が描かれていると考えられるのですが、もちろん親殺しと言えば忘れてはいけないのがヒストリアです(17巻68話)

 

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彼女は物理的にも親を殺しているのですが笑、それはともかく王政編では依存的なほどの親に好かれたい見捨てられたくないという態度に始まって、親への反発、そして上の画像の通り親の視点に立つといった感じで、早回しではありますが綺麗に親殺しのプロセスを踏んでいます。

物語は基本的にエレンを主軸とした子から父への成長(B面はアルミンの成長)が描かれていると思いますが、その陰に隠れて両輪のもう一方として描かれているのがヒストリアの子から母への成長ではないかと考えます。

 

ちなみにヒストリアはこんな形で同様に子であるエレンと重ねられています(10巻41話、12巻49話)

 

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-やった!! 討伐数1!!

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-やった… 初めて倒した…

 

あとこんなのもあります(12巻50話、17巻69話)

 

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後者の方はおそらく母殺しの表現だろうと思います。母殺しというのは母への依存からの脱却、ひとり立ちです。エレンが直前に母への泣き言を言っていたのは言わずもがな、ヒストリアの場合は兵長が母の象徴として、今まで言われるがままだった自分から自らの意思で女王になるという転換を表していると思います。

 

 

というわけでさわりだけのようで恐縮ですが、次回のヒストリアの話へと続いていきます。

 

 

 

  

 

 

 

-以下、今さらですが137話のどくしょかんそうぶん(大人向け)-

 

 


B面の最終回、な感じでしょうか。

 


以上です。

 

 

 


・・というのはさすがにアレなので、つらつらと書かせていただきます。


イジメられっ子の少年が必死に力を付け、才覚を伸ばし、やがて敵だった人々とも想いを通わせ、みんなの力を合わせて強大な悪を討つ。心優しく成長したその青年は責任のある立場を必死に務めながら、それでもなおこう語る。自分にとっては当たり前にあるなんでもない事こそが生きる愉しみであり意味なんだと。

 

美しい、まさに王道テンプレが見事に(ほぼ)成就しました。


「当たり前の日常の中になによりも大事なものがある」

 

こういう言い方はなんですが、特に目新しさがあるというわけでもありません。古今東西、名作から駄作まで数えきれないほどの物語が語り掛けてきた考え方ではないかと思います。もちろんその考え自体を否定するものではなく、人間社会を生きていく上でとっても大事な考え方のひとつであることは間違いないと思います。でも137話が最終回じゃないのは幸せなことだと思います。なんとまだ2話も残していますので、これからA面や両方の中間の面も描かれていくのでしょう。進撃という物語は「当たり前の日常がなによりも大事だよね」と訴えるだけにはとどまらないわけです。

 


そもそも、今回アルミンが語った思想に対するひとつの返答はとっくの昔に描かれています(2巻6話)

 

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この人さらい達へのエレンの対応は、地鳴らしとほぼ同義ですよね。理不尽に自由を奪う者に対し、全生命を懸けてでも抗う。相手がこちらの自由を奪おうとするなら、相手の自由を奪うことも厭わない。もしエレンがあの時「地鳴らし」をしなかったら、ミカサの性的及び精神的に過酷な人生がほぼ確定していたことは、これを読んでいる大人のみなさんには細かく説明するまでもないと思います。場合によっては買い手に飽きられるなどして、クシェルのような末路をたどっていた可能性すら普通にあると思います。

 

つまりミカサは、「当たり前のなんでもない日常」を奪われるところだったわけです。

 

 


ではあの時、エレンが話し合おうとすれば分かり合えたのでしょうか。


これは愚問だったかもしれません、失礼しました。


ではあれはやり過ぎだったのでしょうか。三人の人間を「虐殺」したことは良くないことだったのでしょうか。力も体格も数でも劣る少年エレンは複数の大人たちに対して、失敗のリスクを差し置いてでも程よく手加減して殺さない程度に痛めつけるべきだったのでしょうか。それが「正しい」ことだったのでしょうか。


なんか審議所での場面を思い出します(5巻19話)

 

 

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-その動機内容は正当防衛として一部理解できる部分もありますが
-根本的な人間性に疑問を感じます

社会も人間と同じです。その時の都合で社会にとって都合の良い見方しかしてくれません。このセリフって超訳すれば「社会のルールを守るべく彼ら個人は肉体的あるいは精神的に死ぬべきだった」、つまり「死ねばよかった」って言ってるのとたいして変わらないように思います。

そのくせ揺るがしがたい事実として、社会はミカサという個を守れなかったんです。ミカサを守ったのは他ならぬ「地鳴らし」以外の何物でもありませんでした。


もちろんこれを単純に本物の地鳴らしと重ねて考えてしまうのは、程度の問題が引っ掛かってくることと思います。人さらいの件とは異なり、何の罪も無い人たちまでたくさん巻き込まれているじゃないかって(33巻134話)

 

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-…この責任は
-我々すべての大人達にある

でも一つの見方として、マーレの司令官が自ら述べているように、世界の ”何の罪もない” 人たちは何も「してない」わけではないんです。ずっと見て見ぬフリを「して」きたんです。パラディやエルディア人が悪魔である方が都合が良かったから、積極的に関わらずとも「私は知らない関係ない、だからその問題には触らない、何もしてないんだから何も悪くないはずだ、自分には関係ない」と目を背けてきたんです。結局それも、前述した「社会(世界)のために彼ら(エルディア人)は死ぬべきだ(あるいは虐げられているべきだ)」というのとたいした違いは無いのかもしれません(3巻12話)

 

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-皆がそのことに関して口をつぐんでおるのは
-彼らを壁の外に追いやったおかげで
-我々はこの狭い壁の中を生き抜くことができたからじゃ

 

-ワシを含め人類すべてに罪がある!!


エルディア人を迫害することが社会でのステータスに繋がるから積極的に石を投げる者。自分で石を投げるのは罪悪感があるのでそれを見てみぬふりをする者。自分には関係ないからと耳を塞いで一切関わろうとはしない者。

 


そうした「一人ひとりの選択が世界を変えていた」わけです。

 


もちろん中にはエルディア人差別を本当に良くないと思って行動していた人々もいるかもしれません。いや、いておかしくないだろうと考えます。そんな人たちでさえまとめて踏み潰す地鳴らしは確かにやり過ぎなところはあるでしょう。

じゃあそういう人々が踏み潰されないように程良く手加減するべきだったのか、みたいな話になります。やっぱり同じなんです。手加減して、もし万が一にでも一矢報いられるようなことがあれば、今度こそパラディは完全に「当たり前のなんでもない日常」を奪われていたかもしれません。

少年が人さらいを殺していなければ、少女が奴隷にされていたように。あるいは少年も殺されていたように。

 


つまりどういうことかと言うと、今回のアルミンが語ったことというのは、物語として地鳴らしに肯定を与えているようなものだと思います。肯定というのは言い過ぎかもしれませんが、少なくとも地鳴らしは100%の絶対的な悪じゃないことの証明のようになっているんです。ただ「当たり前のなんでもない日常が大事だよね!」って言ってるわけではないんですね。

そして実際にアルミンもその通り、自分の大切にしている「当たり前のなんでもない自由」を奪おうとする相手を殺しにかかってるわけです。さらに言えば「考えが違うなら戦う他ない」と言っていたエレンの言葉通りのことをしているとも言えるでしょう。

 


つまりアルミンは、エレンと同じところに立ったんだと思います。今回の記事に沿った言い方をすれば、彼は「父に肩を並べた」のだと思います(2巻5話)

 

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-二人のように強く…
-肩を並べてこの世界を生きていきたかった…


そのきっかけとなったのは、自分を見つめたことでした(34巻136話)

 

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-僕はお前が嫌いだ!!
-ずぅうっとお前は‼
-僕を裏切り続けてきた!!


背伸びして口先ばかりだった嫌な自分を ”別の視点から” 見つめたこと。それでもなんでもやらなくちゃという想いがあり、それをして何の意味があるのかという問い掛けがあり、そうして彼は「自分がなにかをするのは何のためなのか」ということに本当の意味で気付いたということだろうと思います。正義や社会、みんなのためといった口先だけの綺麗事ではなく、本当に自分が大事だと感じるもの、そしてその大事なものを守るということ、何にもしなければその大事なものは失われてしまうかもしれないということ(27巻108話、33巻133話)

 

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-お前らが大事だからだ
-他の誰よりも…

 

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-オレは自由を手に入れるため 世界から自由を奪う
-だが お前らからは何も奪わない


今回のアルミンは、ちゃんと相手の話に真摯に耳を傾けていました。そして相手の意見を否定するのでも、自分の意見を押し付けるのでもなく、それでいてハッキリと自分の感じていることを相手に伝えていますよね。

 

だからキャッチボールが成立したってことだと思うんです(34巻137話)

 

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つまり、「分かり合えた」んです。

 

 


これは蛇足かもしれませんが、ひとつ解説しておいた方が良さそうに思う点について(34巻137話)

 

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この葉っぱがボールだった件ですが、おそらくこれはクオリアの表現だと思います。

 

クオリアというのは説明しづらいのですが、個々人のモノの見え方みたいな感覚のことです。たとえば赤という色があって、みなさん頭の中に赤い色を思い浮かべられますよね。それはあなたの頭の中で記憶を元に作り上げられたあなただけのイメージですが、それがクオリアです。他の人からは見えません。

それと、視覚のシステムについてはご存知の方も多いんじゃないかと思いますが、私たちがモノを見るというのは、実際にはモノに当たって反射してきた光の粒子という情報を元に頭の中で映像を作りあげたものです。だから厳密に言えば、普段私たちが「見る」という言葉で表現する感じで言えば、私たちは一切何も見ていません。どちらかというとデータを元に「想像している」と言った方が近いのではないかと思います。だからこそ錯覚や錯視といった誤作動のようなことも起こり得ます。ありもしないものを脳内で作り上げてしまい、私たちはそれを本当にあるものだと感じながら「見て」しまうわけです。

話を戻しますが、たとえば赤いポストがあるとします。あなたと友人がたった今それを同時に見つめていたとして、あなたが感じているポストの赤色と、友人が感じているポストの赤色はおそらく異なります。クオリアは実体がなく数値化もできないので証明はできないのですが、生物間での視覚の差異、人種間での差異なども鑑みるに個々人でも異なると考えられています。もしかしたらあなたが赤色と呼んでいるイメージの色は、他の人の頭の中では少し違う色かもしれないんです。あるいはあなたはその赤色をツヤツヤした感じに受け止めているかもしれませんが、他の人にはザラザラした感じに見えているかもしれません。


それがなんなんだよって話なんですが、私たちは全く同じモノを全く同じように見ることはできないということです。もちろん葉っぱがボールに見えるようなことは人間同士ではないでしょうが(逆に言えば、他の生物との間ではそれに近いことがあり得るということです)、アルミンにとっての「当たり前の大事な日常」のクオリアが葉っぱであり、ジークにとってのそれがボールであるように、たとえあなたの一番の親友であれ、親兄弟であれ、単なる同僚であれ、全く知らない他国の人であれ、あなた以外の人は全員、あなたとは違うモノが見えているんです。

それはすなわち、あなたとは違う世界が見えている、ということであり、この世界に絶対的なものなんて無いってことでもあるんです。

でもクオリアなどの概念を知らなければ、あるいは知っていた方も知る以前は、自分が見えているものは相手にも全く同じように見えているだろうと当たり前のように考えていたのではないでしょうか。

そして自分にしか見えていない主観にしか過ぎないものを、まるで当たり前に絶対的なものとして、「正しい」こととして考えたりしてなかったでしょうか。見えているものが違う相手にしてみれば、それは押し付けにしかならないはずです。

 


だけれども人間には言葉があります。会話をすることによって、異なる見え方でも擦り合わせて歩み寄ることができます。以前のアルミンのように、自分の見えているモノが絶対だと思っていたら、自分の推測が間違いないはずだと前提にしてしまったら、やっぱり分かり合えるはずもないってことがより明確になるのではないでしょうか。アルミンは今回、おそらく初めて本当の意味で他者と分かり合うことができた、同じ方向を向くことができた、そして

 


ひとつになることができた

 


そんな表現ではないかと思います。

 

-どくしょかんそうぶんおわり-

 

 

 

 

 

本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 6th Mar 2021
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