進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

072 巨人化学⑰ 心-II 三位一体

みなさんこんにちは。

 

この記事は 生命-I から続くお話であり、そちらの警告をご承諾いただいてない方の閲覧はお断りしております。まずはそちらからご覧くださいますようお願い申し上げます。

 


さて、今回のテーマは三位一体。幼馴染が三人組であり、三重の壁やマリア・ローゼ・シーナの三姉妹などなどそれを匂わせるものが散々描かれていることから、連載初期からこの言葉は取り沙汰されていたようです。では作者がどんな意味を持たせているのか、そもそも本当に三位一体を想定しているのかといったところから、”心”という主題に切り込んでいきたいと思います。

 

 

 

この記事は最新話である115話までのネタバレを含んでおります。さらに登場人物や現象についての言及などなど、あなたの読みたくないものが含まれている可能性があります。また、単なる個人による考察であり、これを読む読まないはあなた自身に委ねられています。その点を踏まえて、自己責任にて悔いのないご選択をしていただけますよう切にお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。

 

 

 

 

 


[三位一体]

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 ”父と子と精霊の~”

 

きっとどなたも耳にしたことがあるフレーズではないでしょうか。キリスト教ではこれを三位一体と呼び、宗派によって異なりますが概ねこんな感じの解釈をするそうです。

 

・父と子と精霊は異なる存在である

 つまり 父≠子≠精霊

 

と同時に、

 

・父も子も精霊も神と同一である

 つまり 父=神、子=神、精霊=神


等式にするとなにやら矛盾しているような、よく分からないことを言っているようですが、これいかに・・

 

 

 

 

ここから本題です。

 

 

 

 

現実世界でおよそ100年ほど前のこと、フロイトさんは人間の心を3つの性質に分けて考えるモデルを提唱しました。まずはそれを簡単にご紹介したいと思います。

 


1番目、私たちの心の中に最初に生まれるのがエス(es、あるいはイド idとも呼ぶ)です。エスはまさに私たちの欲求とか衝動の部分、「~をしたい」という気持ちそのものです。エスは無意識の領域に存在しています。人間が生まれた直後はまだ意識が確立されていませんから、このエスの欲求だけに従って行動します。赤ん坊や、同じように意識を持たない動物なんかを想像すれば、「何かをしたい時に、ただそれをする」という風に欲求と行動が直結していることが分かりやすいかと思います。

作中の人物でいうとまさにエレンみたいな感じです。何かをしようと思ったら周囲を顧みずにする、死にたいと思ったら死のうとする、欲求がほぼそのまま行動に繋がっていますよね。

 


2番目はいったん後回しにして、3番目に生まれてくるのが超自我(superego)です。超自我は心の新しい部分、主に意識の領域に存在しています。超自我は成長の過程で学んだ社会のルールや善悪の概念を徹底しようとする部分です。「これこれこういう理由で、~してはいけない」といった感じの性質ですので、欲求全開のエスと対立する、あるいはストッパーのような役割でもあります。私たちは成長に伴って超自我にルールや善悪の観念が蓄積されていくことによって、社会の一員としてやっていいこと、いけないことを判別できるようになっていくわけです。

作中でいうとアルミンですね。社会のルールを基にして、これは正しい、これは正しくないと区別を付けていきます。

 

 


そして2番目に戻って、自我(ego)です。ただしこの自我は、一般的に使われる自我(自己とか意識のニュアンス)や、エゴ(自己中、エゴイズムの略)という言葉とは別物と考えて頂いた方が良いかと思います。

自我は無意識と意識の領域にまたがるように存在し、エス超自我の間を取り持つバランサーです。エスの「~したい」欲求も分かるし、超自我の「~してはいけない」のも理解できるから、その両者の言い分を聞きながらバランスを取って実際に外界に発信します。もちろんこれら3つとも自分自身ですからエスの欲求は自身の欲求でもあり、できるだけ叶えてあげようとするのですが、超自我が禁止することにも従いたい、実際に行動するにあたって欲求そのままでは問題がある、といった感じでエス超自我と外界(現実)の板挟みになる大変な役割だったりします。

ミカサがこれにあたります。アルミンの理屈や現実的な状況を踏まえながら、できるだけエレンの欲求を叶えてあげようとしているわけです。

 


とりあえず心の三要素を幼馴染たちと合わせて紹介をしましたが、なんとなく当てはめただけとお思いになるかもしれません。そこで一つ、根拠を示しておきましょう。

 

これら三つの要素は、人間の知能の進化と密接な関わりがあります。

 

まず最初に無意識に存在するエス。もともと人間は動物から進化してきたわけですから、知能も動物と同様だったはずです。そして人間も動物と同じように、お腹が減ったら他の生物を食べ、眠くなったら寝るというような欲求に従った生き方をしていました。狩猟生活の時代です。よくよく考えてみれば、人間に限らず全ての生物は本質的に狩人なんです。他を狩って生きる。エスというのは最初からあるその本質的なものです。

 

ただ、狩りというのは獲物が獲れなければ食べていけません。そこで人間は農作物を栽培することを発明して安定した食糧供給を実現していきました。作物が出来たそばから欲求のままに食べていたら農耕生活は成り立ちませんから、欲求を上手く調節するための自我が発達していきます。

 

農耕によって爆発的に人口が増えたと言われています。人口が増えれば増えるほど、その増える速度はさらに加速していきますよね。するとさらなる食糧が必要になりますから、農地を増やしていかなければなりません。農地を増やしていくと、やがて他の人の農地とぶつかることになります。

さらに、農耕生活と狩猟生活の最大の違いは食糧を備蓄できるかどうかだと言われています。貯蓄がある者は自身が耕作をする必要は無くなっていき、他の人にやらせるようになっていきます。すると持つ者と持たざる者、つまり立場や貧富の差というものが生じてきます。こうして集団が出来ていき、その維持や拡大のために他の集団と農地の奪い合いが発生します。すると兵隊が必要になってきますよね。農地を耕す者とそれを守るために戦う者、といった感じで分業がさらに進み組織化されていきます。集団内だけで通用する通貨やルールを定め、それに反する者は罰したりして集団の安定を図っていく、これが国家というものを形作っていきます。こうして人間は規律や立場に縛られた”兵士の時代”へと進んできたわけです。規律を重んじ、ルールからはみ出さないように各々の役割を果たす、まさに超自我が求められる時代です。

 

 

 

 

さて、もう繋がりましたでしょうか。連載初期からドイツ語の意味なんかがよく考察されてたみたいですが・・

 


 イェーガー =狩人
 アッカーマン=農夫
 アルミン  =兵士

 

つまりそういうことだと思います。

 


そして、人間の心を三つに分けた解釈ですから当然誰もが三つとも持ってるんですけど、強く出ているというか物語上の役割として、

 

 エレン =エス
 ミカサ =自我
 アルミン=超自我

 

ということになるでしょう。


それを理屈として表現できるのが、アリを例に挙げたような”役割を各個体に持たせる生物の仕組み”です。「全てのユミルの民が始祖ユミルの一部」であるなら、アリが個体それぞれに戦う役割と産む役割、巣を作る役割を分けるかのように、一つの集合生命としてのユミルの民が知能の役割を各個体に分けたとしてもおかしくないと思います。つまり彼らは全体に対する役割として、それぞれの性質を生まれ持っていると考えられるわけです。

さらに”心の役割を三つに分ける”という考え方が受け入れられれば、「魂を九つに分けた」も繋がってきますよね。おそらくそれは心のパーツ、あるいは生物の性質なんかを九つに分けたんじゃなかろうかと類推ができます。だから九つの巨人には物理的な必殺技みたいなのが見当たらないんでしょう。

 

 

今まで”生命”の記事で書いた中で、ミトコンドリアは進化からの個人的な類推でしかありませんが、少なくとも知能の進化や意識・無意識といった精神分析などを作者が意図しているであろうことは、これが示しているんじゃないかと思う次第です。

 

そしてこの三角関係があちこちに、というかほぼ作品全編を通して描かれているようなんです。


次回に続きます。

 

 

 

 

 

-閑話-

 

冒頭に書いたキリスト教の考え方、フロイトの理論を知ってからだと何か繋がってる感じがしませんか。エスも自我も超自我も、それぞれ別物なんですが、どれも自分自身なんです。

実は冒頭のような三位一体の考え方は、世界中あちこちの伝承や神話なんかに存在しています。もちろん起源が同じなんだろうみたいな話でもあるわけですが、それよりなにより神話ってのはやっぱり人間の話なんだろうってことなんです。

文字が確立されていなかった時代に、自然の脅威やら起こった出来事、人間の性質にまつわる話をしていたんでしょう。やがて語り継がれるうちに、擬人化したりして面白おかしく脚色したものが現在の神話なんだと思います。言ってしまえば現代の二次創作となんら変わらないわけですが、よくよく考えてみれば当たり前です。人間の知能なんてこの二、三千年の間ではたいして変わってないのですから。

話を聞いてて面白くなければ話されなくなって廃れるでしょう。つまり残ってるものは、それこそ人類普遍の”ウケる”話なんだと思います。そして私たちが興味を持つのって結局自分に関わりのある話、すなわち”あるある”な話なんですよね。神話ってのはたぶん尾ヒレのついた”人間あるある話”くらいのものなのではないかなと。

そこで三位一体に立ち返ってみれば、神というのは自分自身であることになりますから、「信じる者は救われる」なんて言ったりするのは、「(自分を)信じる者は救われる」ということなのかもしれません(3巻11話、16巻66話、18巻74話)

 

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-僕が勝手に 思い込んでただけだ
-勝手に…自分は無力で足手まといだと

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-自分を信じることを

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-自分の力を信じて


まぁその信じる対象を神だとしている宗教は多々ありますが、そうやって他力本願にさせられた信徒をそれらの神様たちが物理的に救うことが無いというのも、皮肉めいているような感じもしますね。

 

-閑話おわり-

 


本日もご覧いただきありがとうございました。

 


written: 4th Apr 2019
updated: none