進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

反省会


みなさんこんにちは。

 

 

反省だけなら猿でもできると昔の人は言ったとか言わないとか。

 


え?前言撤回して記事を出すのかって?武士に二言はない?そんな矜持みたいな縛りは残念ながら私の辞書には載ってませんです。いやむしろ、終わりっつったのにたくさんアクセスしていただきありがとうございました。

 

 

 

 

 


この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。また扉絵は30巻122話より引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[反省会]

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今回は書くことがいっぱいあるので、とりあえず先に反省を済ませてしまおうと思います。

とある記事で書いた2つの展開予想は見事に大ハズレでした。ものすっごく見苦しい自己弁護をするならば(34巻最終話)

 

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おそらくエレンはこの景色を見ているので・・って苦しすぎるわ!

 

あと、世界を8割踏み潰したのはかなり予想外でした。ご都合展開になるだろうみたいなことも書いたはずです。これはほんとに反省してます。


しっかし相変わらず展開予想に関してはダメダメでしたね。ほんと何にも変わってねぇなお前は。何にもできねぇじゃねぇか。

 

大きな反省点は以上です。細かいのは追々。

 

 

さて、最終話を読んでまず思ったのは「思ってた以上にずいぶんと余白が多いな」という感じでした。物語としての流れをぶった切ってしまう恐れがあることを考えれば、回収されないであろう伏線の大部分は数話くらい前から目星が付けられましたが、始祖ユミルまわりでさえほとんど描かれなかったのは少々意外でした(22巻90話)

 

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-情報は納税者に委ねられる

そんなわけで解釈を読者に委ねられたので以下に私の解釈を書いていきますが、前回も書いたようにこれは私の解釈ですので、あなたはあなた自身の解釈も大事にしてくださいね。でも自分が思ったことが全てじゃないし、誰かが言ってることが全てでもない。自分の思ったことが正しいとは限らないし、誰かが言ってることが正しいとも限らない。そんな視点を忘れたくないですね。

とは言っても指摘や反論等を拒否するつもりは全くありませんので何かあればお気兼ねなくどうぞ。でも棒は勘弁。

あと、まだご自身で考え終わってない方はこの記事は読まないで欲しいのですが、まぁそれも含めてご自身で考えて判断してください。

 

 

 

では本題の前に少しよもやまを。

 

 


今回の記事を書くにあたって軽く下調べをしてみたんですが、どうも最終回は賛否両論あるみたいですね。それを知った時は多分イェレナみたいな顔になっていたと思います(26巻106話)

 

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そうそう、こんな感じ笑

なぜそれが素晴らしいことなのかは今までの記事を既読のみなさまには耳タコかもしれませんが、要するにそこから ”考える” ことが始まるからです。

社会がそう言ってるからとか、みんながそう言ってるからとか、それが「正しい」ことだからとかではなくて、

たとえば、なぜ虐殺はいけないことなのか。本当に虐殺はいけないことなのか。そもそも虐殺とは何なのか、みたいな。

そういったことを考えるきっかけとして、反対の意見があることはマストではありませんがあった方がそうなりやすいはずです。このあたりどうにも作者のニヤニヤしている顔が目に浮かんでくる気さえしてきます。あのあの、ニヤける前にちゃんと細かい伏線回収まで描き切ってください、今は1から10まで描かないとダメな時代なんですから。

ああ、要するに作者は ”考えろ” って言ってるっぽいですね・・

 

もちろん反対意見があったとて誰もが考えることに至るとも限らず、自分がそう信じて疑わないことをひたすら相手に叩きつけて組み伏せようとする人もたくさんいることでしょう。そこから悲劇の連鎖が始まっていくと、進撃に描かれていたように思います。

じゃあそんなの初めから無い方がいいじゃないかとも言えるでしょう。もし無ければ無いで、平和と言えるのかもしれませんが、誰一人としてそんなことを考え始めることもなく、虐殺という言葉を聞けば「それは悪い」と当たり前に思考停止するばかりだったかもしれません。

どちらが良いとかは私には分かりませんから、どうぞみなさんが考えてご自身の答えを見つけていただければと思います。

念のためお断りしておくと、もともと私は人気の作品についてまわる「感動したと言わないといけない空気感」とか「私が一番感動した(泣いた)選手権」があまり好きではないので賛否両論を歓迎するようなところがあるし、偏っているかもしれません。もちろんこれらは社会の中で生きていく上で適切なムーブでもあると思いますので「するな」とか言う気持ちは全くないのですが、仮に否定的な意見であってもポーズではない自分の感想を発信することはいいと感じてしまいます。ちなみにテキトーなことを書いてるように思われるかもしれませんが、人間が泣いてもいないのに泣いたと述べる事実・事例を私は知っていますので。もちろん誰もがそうだと言ってるわけでもありません。

 

さておき、反対意見と言えばやっぱりハンジが思い浮かびます(32巻127話)

 

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-虐殺はダメだ!!
-これをを肯定する理由があってたまるか!!

前提として、このセリフが出た当時の記事でも虐殺の是非みたいなことを答えが出ない問題のように書いた覚えがありますが、これはあくまでハンジという個人のお気持ちというか意見であり、絶対的に正しいとか悪いとかそういった類のものではないと考えます。

 

すなわち、これは「ハンジ個人の意見」です(なぜ言い直した)

 

そしてこの意見とそれに伴う彼女の行動が、英雄たちをエレンを止めるという行動へ導き、ミカサの選択へと繋がっていったのはもはや言うまでもないでしょう。もしこれが無ければ世界は全て踏み潰され、始祖ユミルが解放されることもなかったはずです。

つまり彼女はそのたった一言の「ハンジ個人の意見」によって、世界の20%という数千万だか数億だかの人々を救い、巨人の力を消滅させることにまで寄与したわけです。

これは世界観の記事で書いたことと同じなのですが、「世界を踏み潰す」という意見はその反対意見となる「虐殺は肯定できない」があったがために、その真ん中に落ち着いたのだと思います。彼女は父親役に四苦八苦していましたが、最後にちゃんと「禁止」をして道を指し示したということでしょう(33巻132話)

 

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-お前は役目を果たした

そして「虐殺は肯定できない」というのは他の人がそう言ってるからとか、世界で「正しい」こととされてるからとかではなく、彼女が自身の経験やなんかから考えて考え抜いて出したハンジ自身の「意志」であったと思います。

 

つまりあれは「ハンジ個人の意見」ですよね?

 

ところで、まさか無いとは思いますが、ハンジの言ったことが無意味になったとか思ってしまった方がいたら、彼女がやり遂げたことを過小評価したことを反省した方がいいかもしれませんね。反省会へのご参加ありがとうございます。

 


それはさておき、「最終回を書き直せ」といった署名活動も一部で起こっているらしいです。

いいですね。その発信・行動力には見習うべきものがあるように思います。「日本人の慎ましさ」とやらは美徳なんですけど必ずしも美徳であるばかりではない、そんなことを考えさせられます。まーた作者のニヤケた顔が浮かんでくるようです。いやだからニヤける前にさあ・・

私はもともとこの物語が虐殺を完全には否定してない(肯定もしてなければ否定もしてない)ことをずっと記事に書いてきたつもりですので、そこが最終回になって批判の的になるのは意外でしたが、その主張を見てなるほどって思いました。確かにアルミンのセリフは虐殺の肯定と受け止めることができる、つまりそういう風に作者は描いてきているわけです。

「物語は虐殺を否定するべきである」
「アルミンは虐殺を肯定したりしない」
進撃の巨人という作品は人殺しを肯定したりするべきではない」

だから「正しく」書き直せということなのか分かりませんが、ぜひこれらの文頭に(私の思う)という言葉を付け加えて読んでみてください。ぜんぶ進撃が今まで長い時間をかけて描いてきたことだと思います、

これらが 何を生み出すのか ということを。

ちなみにこれに対して「私は満足した」といった自身の受け取ったものを表明するのもいいなと思います。ただ自分の正しさを証明することに躍起になって「満足している人はたくさんいる」なんて言い始めるとまた何かを生み出しそうなので気をつけたいところですね。

余談ですが、サイレントマジョリティーという言葉があります。これは極論であるかもしれませんが、この言葉が周知されて以降はけっこう正当化に使われるようになった感じがしています。何の正当化かって、発信しないことのです。それと同時に、反論の正当化というか叩き棒としても使われることがありますよね。「お前らは声が大きいだけでみんなはそう思ってないんだよ」ってな感じで。

ほんとなんでしょうか? ほんとに ”みんな” はそう思ってないんでしょうか?

まぁ私には ”みんな” が思っていることは分かりませんので確たることは何も言えませんが。

 

あと倫理観という言葉もあれですね、アレ。倫理観の欠如とかって使い方をされますけど、それっていったい何が欠けているってことなんでしょう? 

たぶんこの質問に対する明確な答えは期待できなさそうです。なぜなら、倫理観という言葉はそもそもが明確な基準などの無い、個人や時と場合などによって変わる非常に曖昧模糊としたものだからです。はっきりとはしないけど、でもなんか「正しい」ことを主張してる気がする、曖昧でとっても便利な言葉。

以前書いたことの繰り返しになりますが、エレンがミカサを助けるために人さらいを殺したことは地鳴らしと状況・力関係・行為などが重ねられていることは明白と言ってもいいくらいだと思います。つまりあの場合、エレンがミカサを助けることなくミカサがさらわれていくことを受け入れる、それが「倫理観がある」という意味になります。

冗談みたいに聞こえるかもしれませんが、これ本当に合ってるんです。「倫理観がある」というのは「社会の規範に則っている」みたいな意味を含んでいますので、エレンはあの時社会のルールに従って憲兵団を待つべきだった、それをしなかったエレンに倫理観が欠如しているというのは確かに間違ってないんです。それが良いとか悪いとかいったこととは全く別の話だということがよくお分かりいただけるのではないかと思いますが、倫理観ってそういうものなんです。

蛇足ですが現実に即したもっと分かりやすい例を挙げると、日本での大麻の所持使用は「倫理観が欠如している」と言えます。カナダでのそれは「倫理観が欠如している」とは言えません。倫理観ってそういうものなんです。

さても麗しき倫理観、それが欠けていることと欠けていないこと、果たしてそれらがどういう意味を持つのか私にはいまいち分かりません。批評や議論といったシーンにおいて、相手に明瞭に伝わらない言葉を使うのは適切では無いなぁと考えさせられたのでした。

ちなみにエレンが人さらいを殺した行為に対してミカサが恐怖感や拒否感を抱いたことがずっと描かれてきました。別に物語としてその行為を肯定しているわけでもないと思います。最終回ではエレンの言葉にいちいちドン引きしているアルミンが何度も描かれています。別に彼だって虐殺を肯定しているわけじゃないんです。そういうことじゃない。

私は今までアルミンを叩いていると思われていたかもしれないけれど、最後なので彼の名誉のために言わせて欲しい。

 

まず、アルミンは頭の回転が速いのでエレンがごにょごにょ言ってる時点で、すでに話の先まで察し全部言わせることを止める描写がありました(34巻最終話)

 

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この時点で彼は何がどうなってるか理解をしているということでしょう。それでも虐殺の事実に対しては相変わらずドン引きしていますが、彼はもうエレンが今まで何を目的にそれをやったか、そしてその目的のために自身のみならず母まで手にかけるという過ちを犯したことさえ理解してその後の会話に臨んでいるわけです。

 

それでもし彼が「虐殺はダメだ」なんて「言って」たなら、きっと私のことですからこの記事でアルミンをボッコボコに叩いただろうと思います。

「何も見えていない上に人の心が無い」「相変わらず夢見る少年から成長しないのか」「正しいお前には分かんねぇよなぁ」って。

でも彼はそうしませんでした。すでに大事なものに気付いていたからだと思います。

 

アルミンはもともと他の子供たちに自分の考えを認めて欲しい子でした。そして一人だけ自分を認めてくれたエレンに傾倒し、自分が言った通りの海をエレンに認めてもらうことが夢となっていきました。やがて周囲の大人の姿から「何かを捨てなければ~」といった考えが育まれていき、それらが混ざり合うことで自分を認めてもらうために自らの命を投げ出すという行為にまで発展します。でも生き返らせられてしまい(≒認められなかった)海も認めてもらえないといったことが重なっていき、夢が呪いとなって彼を締め付けていったわけです。

やがて様々な出来事の中で彼は様々な気付きを得ていきますが、最後にエレンが背中で指し示したわけです。そのエレンの行動は認められることとは真逆でした。全世界の敵・悪魔となることで目的を達し何かを変えるということ。言わば認められないために自らの命を捧げるということ、あるいは自分ではない誰かを認めさせるために自らの命を捧げるということです。さらにエレンは全世界を踏み潰したいという「夢を諦めて死んでくれ」たのです。

だから「ありがとう」だし、だからこそアルミンは貝殻をエレンに渡したんだと思います。

今までこだわっていた夢はもう不要になったからでしょう。彼はもう「いいこと」をしたり言ったりして認めてもらう必要はなくなった。そして、夢に囚われずに現実を生きているからです(34巻最終話)

 

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-「進撃の巨人」エレン・イェーガーを殺した者です

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-アニ…争いはなくならないよ

さらに彼は、先人が命を懸けて見せてくれた背中をも大事にしています。「パラディ島の英雄を討った、パラディ島にとっての悪魔」として自ら名乗り出ることで大事なミカサを守り、以前の理想論とは異なり生きていく上で争いは必ずしも避けられないことも理解し、またその上で「分かり合うことを諦めない」ことに邁進していってるのです。

それがここまできて「虐殺はダメだ」なんて「言った」ら逆戻りですよね。彼はもう「正義」だとか「いいこと」とか、そんな綺麗なところには留まってないんです。

彼はもう、承認欲求なんかに背中を押されて「正義のボク、僕の正義」をわめき押しつけるようなガキのままではないんです。後ろを向いてなんていないのでしょう。

アルミンを後ろ向きのガキ扱いした方、反省会はいつでもあなたのご参加をお待ち申し上げております。


というか、結局のところなんでこんなことを考えさせられたかと言うと、作者がアルミンに虐殺肯定っぽいことを言わせたからなんですよね。・・ああ、もう。絶対ニヤニヤしてるわ腹立つ。

 

 


さて、前置きくらいのはずだったんですがだいぶ話が飛んでしまった(でも全部進撃が描いてきたことそのものなので面白いと思った)ので、ぼちぼち本題に入ろうと思います。

 


まずはズレがあったことを認めざるを得ません。

今回、エレンによるダイナ巨人の操作が明らかになったわけですが、そこから分かったことはギミックというか、物語の柱がここにあったということだと思います(3巻13話)

 

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-では! どうやって!! 人類は巨人に勝つというのだ!!
(中略)
-人間性を保ったまま!
-人を死なせずに!
-巨人の圧倒的な力に打ち勝つにはどうすればいいのか!!

もちろん誰も死なずになんてのはイアンも無理と分かってて言ってるでしょうし、どこまで人間性を保っているかというのは議論が分かれるところでしょうが。

というのも、エレンは見えない力によってダイナ巨人を操り、ひいては自分自身を操ったわけです。当然これは他にも様々なことがエレンの意志によって誘導されていたことを示唆していると捉えることができます。

さて、鳥やなんかの視点を持てていることも含めて、こういった「見えざる手」によって世界の流れを操るような存在を私たちが何と呼ぶかと言えば、もちろん「神」ですよね。

つまり、エレンは「神の力を手に入れた人間」ということになります。

 

そしてもちろん進撃において語られてきたのは「神=悪魔」ということです。すなわちその力は使いようによって「神の力」にも「悪魔の力」にもなるものだったといえます。じゃあその力をエレンはどう使いましたかという話になるわけです。


これ、前回の石臼の記事でちょうど書いてたことなんですが、失敗しました。余談なんて書き方しなければ良かった笑

まぁほんとに余談だと思ってたので仕方ありません。反省します。それまでに書いてた「生きるとは?自由とは?」みたいなところが私は柱だと思っていて、それに付随した話くらいに思っていたのですが逆でした。さらに言えば、ユミルの民自体は失楽園でしょうが、物語中のエレンだけに限って言えば違ったということです。これも逆。

要するに、ただの人間であるエレンが神(または悪魔)の力を手に入れ、その法外な力を持て余し、その中でいかにして人間として苦悩にまみれた理性ある選択をしたか、といった感じになります。イアンが言っていたことへの回答になっていることがお分かりいただけるはずです。

 

そしてミカサが最後にした選択は、エレンが悪魔(または神)であることを受け止め、彼を大事に想うからこそ殺すことによって彼を人間に引き戻した(悪魔または神との繋がりを断った)という意味合いも生まれてくるでしょう。

もちろんそれまでは彼が悪魔(または神)だということを認めたくなかった、目を逸らしていたという点は変わりません。エレンが悪魔じゃないと思いたかったのはアルミンも同じですよね。必死に目を逸らしていました。また、自分たちが悪魔だということを認めたくないことを感じさせる、こんな場面もありました(26巻106話)

 

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-そうなる前に話し合えないのかな?
-港ができたら世界中の人と話し合って 誤解を解けば…

-誤解?
(中略)
-…世界から見ればオレ達は巨人に化ける怪物だ
-そこに誤解は無いだろ?

この場面は当然ガビが悪魔だということを認めたくなかった場面とも重なってきます。そして前回も書いた通り、同じように始祖ユミルも自分が悪魔ではないことを証明したかった、すなわち自分が悪魔だとは思いたくなかったわけです。


さて、エレンが悪魔であることを認めたくないミカサはどうやって目を逸らしていましたか?

それを「愛」だと思い込んでいましたよね。

始祖ユミルはどうだったでしょう。やっぱり「愛」だと思い込んでましたよね。

でも「愛」じゃなかった。もちろん彼女らは目を逸らしてる自覚はありませんから、無意識下の心の働きによってそう思い込まされてしまった感じだと思います。「愛」という美しい概念が、「目を逸らしているという事実」からさらに目を背けさせるために都合が良かったわけです。でも心の奥底には何か引っ掛かるところがある、すなわち本当はちゃんと直視している部分もあって、それと目を逸らそうとする部分のせめぎ合いが頭痛という描写によって強調されていたのだと思います。なんとか直視しないようにしないように、自身でもコントロールできない自分の一部が、自分を守るために目を逸らさせようとしていたわけです。

これを作中の言葉で言えば、彼女らはその「愛」とかいうなんか美しい概念に酔っぱらってしがみついていた、あるいは囚われていたということでしょう。自分の悪い部分を、綺麗なものでごまかそうとしていたんです。

 

「愛」って本当は、いったいなんなんでしょうね。

 

・・といった感じに解釈できると思います。

では、作者の思惑通り「愛」について考え始めたところで、今度はエレンの選択の凄まじさについて考えていきましょう。


ここにもズレがあったんですが、私は今まで、エレンは母親を助ける道を選ぶこともできたけど前に進む方を選んだくらいに思ってました。だってグリシャを行かせないようにすれば済む話ですから。でもそうではなく、彼は自らの意志で母を殺したのでした。

なぜエレンがそうしたかは言うまでもないでしょう。幼いエレンに憎しみを覚えさせるためです。

もちろんこれは自分で自分の背中を押すという例の言葉に、より具体的な形で重なってくるわけですが、それがまさかの自らが ”環境” となって自分自身の背中を押していたってことなんです。

凄まじくないですか?

 

エレンが最も嫌う、流される者、奴隷あるいは家畜に、幼い自分自身を貶めているんです。母親を殺されれば性質によって反射的に自分が巨人を憎み駆逐を誓う、そうやって流されていくことまで分かってやっているんです。おそらくこれがエレンにとっては一番耐え難いことであるにも関わらず目的のために飲み込んでやっています。とんでもない目的意識がないとできないことだと思います。

 

そしてこのことはさらなる広がりを感じさせます(34巻最終話)

 

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-お前は自由だ…

まずこの場面がグリシャによる夢(と呪い)であったというのは確定したと考えます。今までは予想の範疇でしたが、ここはハッキリと明言されたと捉えられます(34巻最終話)

 

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この貝殻がアルミンにとっての夢(と呪い)の象徴であることは以前も書いたと思います。これは海の外への希望を表すと同時に、一緒に見てもらえなかった(認められなかった)という呪いとなり、その後のアルミンの「分かり合いたい」という思想により傾倒していくことや、導かれたがゆえのエレンへの反発とか微かな猜疑心のようなものにも繋がっていってると思います。

じゃあそんな貝殻がなぜいきなり地鳴らしをした光景の、その地面に転がっていたのでしょうか。

当然これは葉っぱとボールと同じことです。貝殻はアルミンにとっての夢(と呪い)のクオリアであるわけですから、地鳴らしの光景はエレンにとっての夢(と呪い)だということ、そしてその根源としてエレンが思い浮かべていたのがグリシャの「お前は自由だ」というセリフになるわけです。

 

グリシャの言葉に関しては今までさんざん書いてきましたから割愛しますが、先だって書いたことと合わせて考えるとこういうことになると思います。

グリシャが夢を託すべく語り掛けた言葉は、同時に「自由であるべきだ」という呪いとなりました。だからエレンはいつだって自由であろうとしたし、そうでない者を侮蔑するようなところさえありました。しかもそれは世界の全てを踏み潰したいという欲求にまで膨らんでいきました。もちろんこれは自由という概念に囚われているところがあった、それに背中を押されているところがあったと言えます。ここまでは今まで通り。

でも最終的にエレンは、その夢であり呪いである欲求に従ってただ世界の全てを踏み潰すことを、しませんでした。夢を諦めて死んだわけです。しかもそのために、最も自由でなくてはならないはずの自分自身をも不自由にまで貶めました。それはすなわち「自由であるべきだ」という固定観念の破壊、克服、脱却だと思います。

まぁ言葉はなんでもいいんですが、夢と呪いを打破していることになります。しかもそれが、全て彼自身の意志によって選択したことであると。


何かと問われれば上手く説明できないけれど彼の中には「自由」という名の、こうあらねばならないという感覚があって、逆にそうでない状態に対して自然と不満が湧き上がってきていた。だけれども実際は、彼自身がそう感じてしまうこと自体が縛られている状態すなわち不自由だったのであり、そんな概念などに囚われず自分自身の考えに考え抜いた意志によって行動すること、それこそが自由だということに気付いた。

生まれてこのかた持っていた自由・不自由にまつわる自身の既成概念の破壊と、新たな自由という概念の獲得です。破壊と再生。

といった感じではないかと思います。


これ、わりとみなさんも身に覚えありませんか?

思春期あたりにはなんだか親や学校に束縛されているような不自由な感じを覚えて反発してみたり、悪い事をしてみたり。まぁ社会人になっても社会に抑制を感じて不平不満をひたすらに唱えてみたりすることもあるかもしれません。だけどある時、親がうるさく言うのは自分のためを想ってたからということだったり、社会のルールだってそれが無ければ好き勝手やる者が出てくるからということだったり、


ということに、


気付く。

 

自分が不自由さを感じていたものや不満を持っていたものが、本来は自由を実現するためのものであり(夢)、自分がそこに不自由さを勝手に見出していただけだったということ(呪い)。でもなぜそう感じていたかと言えば、いやそもそも「感じる」ということ自体が、自分では分からない人間の性質、自分には見えない「見えざる手」によって背中を押されているようなことであり、それに気付くということは、そんな性質を持っている自分を客観的に見つめ(神の視点からの俯瞰)、その視点から物事を捉える(考える)ということであると。

もちろんこれは親殺しとも重なってくる話なわけでして、結局のところ相変わらず最後まで「自我の発達」が描かれていたわけです。


で、解釈を委ねられてしまったため残念ながら断言することはできなくなってしまったのですが、物語全体を通じて、人々の行動を通じて人間の心の成長が描かれていること。それによって心が成長したのは誰だったかという話。世界を俯瞰して愛ではなかったことに気付いたのは誰だったかという話。

さらに言えばエレンはこの世界での神のような視点を持ったわけですが、その力をどうやって得たかというと始祖ユミルと一体になったような感じであること。その始祖ユミルはあらゆる視点からこの世界を眺めていること。始祖ユミルがそうなったのは古生物との接触が原因ではありますが、作中におけるセリフで「悪魔はみんなの心の中にいる」と暗喩されていること。


そもそも、なぜか始祖ユミルの心の引っ掛かりを解消することが、古生物や巨人の力(=悪魔の力)を消す必要条件だったこと。それはつまり、自分の心の中にある悪魔を認めたくない始祖ユミルが、それを認めたことによって呪いが解けた、すなわち「気付いた」と考えられること。


これを始祖ユミルの心がこの世界であると解釈する以外の答えを私は見つけられません。別に断言はしませんし、別に断言はしませんが。


だから某記事で言ったことをアホみたいにもう一度書きます。

 

あなたが悩み葛藤している時、あなたの心の中にある世界では、エレンやアルミン、ミカサや他のみんなが必死に戦ってるんです。そして彼らが必死に戦った結果、あなたは前に一歩進むんです。

彼らがそんな苦しむなら悩まない方がいいんじゃないかって? 悩まない方が楽なんじゃないかって?

別にそれは否定しませんが、その時彼らは生まれないと思います。そもそも生まれる必要がなくなってしまうから、最初から存在しなくなると思います。

 

つまり、あなたが考えることを止めた時、彼らはみんな「要らない子」になります。


ぜひおおいに悩み考えてください


・・と言いたいところですが、それをどうするかもご自身で考えて選んでくださいませ。

 

 

 

 

 

 


-最後の余談(本編)-

 

余談という言葉を使うことに恐怖感を覚えるようになりつつありますが、それはともかく。実はここから先が書きたくてこの記事が出来上がりました。

冒頭で下調べと言ったのはほとんどこれに関することを軽くリサーチしてみた程度だったのですが(34巻最終話)

 

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まゆげ。あの作者、やっぱりやってきましたね笑

でも思ったより騒がれてなくて意外でした。軽く流し見した程度ですので私の調べ方が悪かっただけの可能性も高いですけどね。それでも指摘してる方もいくらか見かけたんですが、結論としては瞳の色が異なるからサスペンダーさんが父親だろうと落ち着いてる感じでした。

確かにその通りかもしれません。ただ屁理屈みたいなことを言えば、碧眼って劣性遺伝なので両親が青い目だとしても茶色の目で生まれてくる可能性は普通にあります。とはいえエレンとヒストリアの両親もあまり濃い色の瞳には描かれてませんから、これに関しては忘れてもらって結構です。こんなのはほんとどうでもいい屁理屈ですので。

 


ここでいったん話を変えますが、このことを考えてたらヒストリアが妊娠した意味がだいたい推測できました。

もちろん時間稼ぎになってることもそうだろうとは思いますが、それだけなら他にもなにか方法がありそうなもんですよね。別にそれが子供を作ることである必要性は必ずしもあるとは言い難い。なのでここも少しだけ批判の的になっていました。ああ恐い時代だ。


さて、ヒストリアはなぜ子供を作ることを提案したんでしたっけ?(32巻130話)

 

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-お前は
-世界一悪い子なんだから

これはもちろん、エレンに「お前は悪い子だろ」ってかつての自分の言葉でやり返されたからでしたよね。

 

じゃあ「悪い子」ってなんでしたっけ?

 

つい先日の記事でも書きましたが、「社会の決まり事や伝統などに囚われず自分の大事なものを大事にする人」くらいの感じでしたよね。その実際の運用例として(16巻66話)

 

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-私は人類の敵だけど…
-エレンの味方
-いい子にもなれないし 神様にもなりたくない
-でも… 自分なんかいらないなんて言って 泣いてる人がいたら…
-そんなことないよ って伝えに行きたい

 

だから子供を作ったんです。

 

安楽死計画は、現存する大人のユミルの民も含めて全員が「要らない子」であったということを肯定する考え方です。これから生まれるかもしれなかった子供たちは「そもそも要らないんだから生まれなくていいですよ」って言ってるのと同じです。だから彼女はそれに対する反対意見として「そんなことないよ」って言葉の替わりに行動をしたのだと思います。要するにこれは彼女の意思表示でもあるわけです。パラディ島の女王として、あるいはユミルの民の母として率先して行動を起こすことによって、彼ら全員の存在を承認しているとも言えると思います。

で、これは例え方があまり良くないのですが、一種の踏み絵のような感じにも捉えられるんじゃないかと思います。そう考えるとやっぱりそれを踏むべきもう一人の人物は、安楽死計画への反旗を表明したエレンでしかないのではないかと。そして島民たちは父である彼の背中を見て「生きるために戦う」ことをし始めた、もちろんそれは「あなたたちは生きてていいんだ」という母の承認に裏打ちされたものであると(34巻最終話)

 

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ヒストリアが子供を作った理由を上記のように仮定すると、物語全体の流れ、最終回の描写にピッタリはまってきます。

 

「物語の流れに合致する」

これが最大根拠ではあるのですが、眉毛が根拠1だとすれば2つ目の根拠ということになるでしょうか。

 

あとはたいしたことないのですが、3つ目にいきます。これは改ページを挟んでいるので分かりにくいのですが(34巻最終話)

 

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まんまエレンと子供が重ねられています。ちなみにこの改ページを挟んで重ねてくる手法は以前もやってます(かなり前の記事で指摘したことがあるはず)ので、作者は意図的に分かりにくくぼかしているのだろうと思います。今回下調べをした時にこの重なりを指摘してる意見を見かけることはありませんでした。もちろん私が見かけなかっただけでそういった指摘もあるとは思いますが、これだけあからさまに重ねられているにも関わらず多数の人がそれを話題にすることはなかった、それは事実だと思います。

 

4つ目、というかこの子が着てる服を見てなにか思いませんか?(34巻最終話)

 

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フード付きのローブみたいなのってあからさま過ぎるだろ笑

 

5つ目。サスペンダーの彼の顔が描かれなかったことです。構図も含めて、という意味で。別に名前とかが出ない人物がいるのは物語ではよくあることですが、他のページを見ていただければ分かる通り、いわゆるモブキャラであっても顔はちゃんと描かれていたりします。なので彼はモブキャラ以下であると言えます。つまりそこまで徹底的に、意図的にぼかされている、彼の存在を希薄にされているということです。

で、これは6つ目にしようか迷ったのですが根拠5と一緒でいいでしょう。そもそも、ヒストリアの相手がエレンじゃないかというのは読者の間でかなり前から言われていました。そんなことは当然作者も分かっているはずです。そこに意味深なセリフなどでさらにぼかしをかけたまま引っ張ってきて、最後までぼかしたまま終わったわけです。もちろんそれは解釈を読者に委ねるという意味合いもあると言えるかもしれません。

でも、そのためにサスペンダー君の顔だけ頑なに描かない必要性ってありませんよね。別に髪とか目の色とかエレンと同じような人物として登場させてしまう方法を取ることだってできたはずです。

 

つまりこれは「ぼかすこと」それ自体が表現であると私は考えます。

 

意味が分かりませんね。要するにこれは父親が不明だという表現、

 

処女懐胎」を表現しているのだと思います。

 

だからどちらとも言えるような言えないような感じのまま終わったのでしょう。ただし、人間が単体生殖をするはずもありません。それだとあまりにもファンタジーが過ぎるというか、極端な言い方をすればヒストリアが化け物になってしまいます。だから裏設定としてはどちらかが父親になっているだろうと考えますが、物語を形作っている根拠2を始めとして、これだけ匂わせるような根拠があったら私の中では ”描かれている” ものと受け取ります。むしろこれだけ匂わされてそれを認めないのは、結論が先にある感じになってしまうのではないかと思います。もちろん読者それぞれの解釈があるでしょうからそれを押し付けようとは思いませんが、エレンが父親であるとすると生まれてくる物語がたくさんあるんです。


これは妄想の範疇ではありますが、もしエレンが父親だと仮定してバックストーリーを考えるなら、まずサスペンダー君は協力者のような感じになることが考えられるわけです。サスペンダー君かわいそうと思うかもしれませんが、作中の彼の描写からは喜んで協力してくれる可能性も充分に考えられますから問題は無さそう。そして、ヒストリアが彼を訪ねたイメージ図の彼女の表情にも納得いく説明が付けられることになります。

それをヒストリアはひどい女だと叩くのはとてもイージーなことですが、その前に少し考えてみてください。

 

片親に育てられた子の悲しみを一番よく知っているのは誰か。

 

さらに彼女にとっては産みの親であるアルマよりも、フリーダの方がよほど母らしい存在でした。それから要らない子だと思ってた自分に寄り添って承認を与えてくれたのは血の繋がっているロッドではなく血の繋がっていないユミルでしたよね。

つまり彼女が自身のかつての境遇の承認と克服をしたという構図が生まれるんです。

ここでいう承認というのはですね、みなさんの中にもアルマとロッド、ダイナとグリシャなんかを見て「自分はちゃんと子供と向き合ってあげなきゃ」みたいに考えた方っていらっしゃると思うんです。それはごく一般的な思考の流れです。でも実際に強烈なトラウマ体験があったりすると、より強烈に反動が返ってきてしまったりすることがあります。「絶対に、なにがなんでも産みの親が両方揃ってるべきだ」みたいな考えに囚われて、そこに注力するあまりに本来の目的であったはずの「子供が健やかに育つこと」みたいな部分がおろそかになってしまったりします。その考え方の是非を巡って夫婦喧嘩も始まったりとかして。ジークに対するグリシャたちも根っこはジークの未来のためだったはずなのですが、その本来の目的を忘れてしまって本末転倒みたいなことになってましたよね。

でもヒストリアはそうした反動に背中を押されることはなく、それでいてしっかりと受け入れていることになります。血の繋がりとしては片親であったとしても、あるいは血の繋がりのない親であったとしても、大事なのはそこじゃないってことをちゃんと考えて分かった上で行動に移しているわけです。自分が過去に受けた傷から目を逸らそうと反射的に反発するのではなく、しっかりと事実を受け入れた上で一番大事なポイントは何かということをちゃんと判断しているのです。

これが一点。

 

もうひとつは、エレン側の救済みたいなニュアンスです。

エレンの行為によって多くの人命が失われた、それは事実です。でもそれとは別の事実として、彼の選択と行動はこの世界から巨人の力を失くしたという全ての人類に恩恵があるといっても過言ではない結果も残しています。そしておそらく、世界の8割が踏み潰されたのは力の均衡という話なのだろうと私は思っています。全人類が同じ土俵に立ったことによって報復という負の連鎖が不可能になり、以降は争うにしろ分かり合うにしろフラットな状態から始められるということ。地鳴らしだけにフラットになったと、これ半分冗談のようですが本気でそういうことだと思います。そのこと自体は、世界の人々にとっても益があったと見なすことができるはずです。エルディア側は巨人の力を失ったことでかつての帝国のような行動には出られず、世界は復興でそれどころじゃないところまで破壊されたためかつてのマーレのような行動にも出られず。

実際のところエレンがしたことって、大事な仲間を守るというよりもより大きな、神の視点から世界のバランスを整えてるようなニュアンスがあるように思います。ちなみに壁の王がしたことは、同様に神の視点からバランスを整えようとしたのですが、自らの手を汚すことも、誰かを犠牲にすることも避けようとした場合のモデルケースになっている感じがあります。

そしてそのたった一つの目的のために、エレン自身はもとより、グリシャ、カルラ、ジークと、イェーガー家は全員の命を捧げています。生物がこの世界に生まれた時点で当然持っている、生きること増えることという目的や、繋いでいくということすら放棄して人類に利することを成し遂げているような一面があるわけです。

なので物語としてのイェーガー家の救済な感じです。イェーガーという家名も歴史も途絶えてしまったけど、わずかながらその血は残りましたよといった感じ。

ちなみにもしあの子がエレンの子供であると周知されていたならば、今のパラディ島の状況では英雄かなにかの象徴として政治的に利用される可能性が十二分に考えられると思います。これは憶測にしかなりませんが、ヒストリアはそれを予見して子供に「重い荷物」を背負わせない方法を選んだ可能性が考え得るのではないかと思います。

 

もう一点はほんとにメタな話。

 

記事本文にて「愛」という概念に関して疑問を呈するようなことを書きました。進撃ではこれまでも「正義」や「夢」などといった、美しくて曖昧な酔っぱらう対象になる概念の本質が描かれてきたと思っています。

 

ところで、今回なぜヒストリアの件があまり話題にならなかったか、私なりに推測があります。断言はしませんが。


それは、エレンがミカサへの想いを口にしたからだと思います。


おそらくその時点で「じゃあヒストリアとは無いな」という思い込みが形成されたのではないかと思います。

 

ここでハッとなった方は後は適当に読み飛ばしてください。そりゃそうだろって思ってしまった方がもしいらっしゃったら、ちょっと考えてみてください。

あなただって、複数の異性に良く想ってもらいたいと思ったことくらいありますよね? 私はありますよ。そしてそれは普通に「人間らしい」ことだとも思っています。もちろん本当にそうでない方もいらっしゃるでしょう。あるいは頑なに否定する方もいらっしゃることでしょう。

じゃあそういう人を見かけたことはないでしょうか?

 

社会の通念とか、あえて言うなら倫理観とかいうやつでは「愛とは一途であること」が求められます。だからそういうポーズを取ることは理に適っています。「みんなに好かれたい」なんてカミングアウトしたら叩かれるのが目に見えてますからね。

でも、ポーズでやってるならいいんですが、いつも細かい伏線から伏線でないものまで拾いあげる多くの人々が、前述したようなあからさまな描写さえ拾えなかったのだとしたら結構恐いことだと思うのは私だけでしょうか。それって「愛とは一途であるべきだ」という考えに囚われて、思考停止させられ、目を逸らされていたってことになりますよね。作中の言葉で言えば、愛に酔っぱらって、背中を押されていたということじゃないかなと思います。

 

エレンがミカサへの想いを口にした=ヒストリアと結ばれた可能性は無い

 

こんな等式が全く成り立たないことは、ちゃんと考えたら誰にでも分かりますよね。でもそう思い込んだ方が美しい愛という概念を保つのには都合が良いわけです。というか、ついさっきまでこれが成り立つと思っちゃってませんでしたか?

ちなみにこれは断言できますが、愛とは誰か一人だけを想い想われることではありません。それが正しいわけでも、だから美しいわけでもありません。単に、現代の日本や他の国でそれっぽいルールがあって社会的にそれが歓迎されてるというだけの話です。そのルールは愛を規定しているわけでもありませんけどね。要するに単なる「私の常識」であり、思い込みでしかないんです。


といった感じの仕掛けなんだと思います。あー、もうニヤニヤしてていいから加筆分は期待してますよ。50ページくらいお願いします。


まぁ実際のところは、本当に目を逸らされていた方もいらっしゃれば、そうでない方、あるいは頑なに否定される方もいらっしゃると思いますが、もし一人でも「目を逸らされていた」ことを実感してもらえたなら、このブログをやった甲斐があるかなぁとは思います。

そして前述した数々の根拠の他に、あの子がエレンの子だとすると様々な意味合いが生まれてくるわけです。私はこれを ”描かれている” と受け止めます。また、これを不道徳だとか曖昧な言葉で否定するのも違うと思います。だって仮にですが、もうすぐ死ぬ好きな人の子供を欲しいって思って行動に移したんだとしたら、どうなんでしょう。これ美談ですよね、作者があえてはずした描き方してるだけで。ヒストリアはそんな風に見えなかった、とかだったらそれこそ「他人の気持ちを分かった気になるなよ」みたいな話ですし。

「社会の決まり事や伝統などに囚われず自分の大事なものを大事にする人」

ヒストリアはまさにこれをやってるだけなんじゃないかなぁと思うんですけどね。しかもそうであるなら、自身の望みと同時にみんなのことを考えた選択となり、ユミル(104期)の選択とも重なってくることになります。


さて、社会に決められた「愛」とかいう形に囚われてなかったですか? 私は以前、思いっきり囚われてました。

もしご入用であれば、反省会は門戸を広く開いております。もう終わっちゃいますが。

 

 

というわけで、なんかゴリ押しでまとめにかかっている感じになってますが、ツッコミどころがあったの覚えてらっしゃいますか?

 

瞳の色です。

 

実はこれも似たような話だと思っています。


上記の流れがあってそんな「愛」に都合が良いから、”見たこともないのに” あれはサスペンダー君の瞳なんだろうと思い込んで、停止してるかもしれません。これに関しては断言できる部分が一部ありますね。

 

だって誰もそれを見た人はいないんですから。作者がわざと書いてないんですから。

 

 


でもこれ、十中八九、ユミ子ちゃんの瞳じゃないかと思うんですよね(34巻最終話、30巻122話)

 

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最後までお読みくださり、ありがとうございました。

 

それではみなさん、ごきげんよう

 

 

written: 20th Apr 2021
updated: none