進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

105 世界観⑨ 自由


みなさんこんにちは。

 

※これは133話の記事ではありません、悪しからず。

 

 

!!閲覧注意!!
あまりに尻切れ感が否めないので続きの部分だけどうにかこうにか仕上げましたよっと。これも完結後にご覧いただくことを強く推奨しておきます。相変わらずクソ長いです。くどいし。まとまり皆無。かなり早口。@3。なぜ片言。ty.

 

 

 

 


この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は27巻109話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[自由]

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ようやく自由のおはなし。

 

自由というのは「美しい言葉」じゃないかと思うんです。目下、エレンは自由を求めて地ならしを行っており、夢を心に抱くアルミンもまた自由を追い求めていると表現することもできるでしょう。どちらも賛否両論はあると思いますが、俗に「自由に伴うリスク」などと言われるように、問題になるのは自由を手に入れるためのやり方やその際に失うものであって、自由という概念そのものは否定されていないような感じもあります。かつての私は自由という言葉を見たり誰かが口にするのを聞いた時、「なんでもできる」「本来誰もがそういう状態にあるべきもの」といった尊いものであるかのような印象を持ってたりしました。

ここまで書けばピンときた方も多いだろうと思いますが、これが「美しい言葉」と評した理由です。要するに、正義や仲間、信頼、英雄などなどと同様に、人々が酔っぱらう対象となる概念ではないかということです。そもそもポジティブな側面ばかりが思い浮かんでいる時点で、そう思いこみたいであろう感じも見出せます。

 

では自由とはなんなのか――

 

物語の要点を整理しながら、考えてみたいと思います。

 

 

 

 

さて、現在エレンが鋭意遂行中の地鳴らし。その意図を簡潔にまとめれば、パラディ島のエルディア人もしくはユミルの民が生きるために障害となる存在をねじ伏せる行為です。このことを、

 

地鳴らしとは、生きるための行為である

 

という感じでベースにしていきたいと思います。これはエレンや進撃が「生きる意志」そのものであったとしても納得がいく行動です。

 


ところで「生きる」ということに関して、かつてエレンはこんなことを言っています(1巻1話)

 

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-一生 壁の中から出られなくても……
-メシ食って寝てりゃ生きていけるよ…
-でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか…

ついでにこれも付け加えておきましょう(28巻112話)

 

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-オレがこの世で一番嫌いなものがわかるか?
-不自由な奴だよ
-もしくは家畜だ

後者によるとエレンが言う「家畜」というのは「不自由な奴」と同義だと考えられます。それを踏まえて前者を超訳すれば、「不自由ならば生きていないも同然だ」といった感じになるでしょうか。それをベースに加えると、

 

地鳴らしとは生きるための行為であり、その生きるとは自由であることが必須である

 

といった感じになります。ここまでは問題ありませんね。

 


とはいえさっそく自由という概念が絡んできてしまってめんどくさいことになってきました。自由・不自由に関する話はどうしても哲学ライクになってしまい答えが出なくなってしまいがちです。ので、ひとまずそれを避けるために指標として、よく言われる「選択できるか否か」というのを持ち出すことにします。明瞭で分かりやすいですよね。


作中では不自由の代表例として始祖ユミルが登場しました。彼女は奴隷の立場にありましたから、フリッツ氏を始めとする支配者側の言いなりで行動も制限されていたことでしょう。つまり彼女には往々にして選択の余地がありません。結婚への憧れのような描写もありましたが、実際に彼女が持つことができた家族の形は必ずしも本人の意思が介在しているとは言い切れないものでした。彼女は言ってしまえば家畜のような扱いを受けており、エレンの忌み嫌う不自由な奴とも重なるはずです。

死してなお座標で馬車馬し続ける彼女に思うところがあったのでしょうか、(30巻122話)

 

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-誰にも従わなくていい
-お前が決めていい

-決めるのはお前だ
-お前が選べ

エレンはそんな彼女に選ばせます。ここは以前もツッコミを入れましたが、もし始祖ユミルが現状維持を選んでいたら今までエレンがやってきたことは水泡に帰していたはずです。それでも彼は選ばせることを望みました。それはつまり他のなによりも始祖ユミルに選択させることを優先したということです。というわけで「選択できるか否か」は取り込んで良さそうです。


地鳴らしとは生きるための行為であり、その生きるとは自由であることが必須であり、自由とは選択できることである

 

 

少し余談めいたものを挟みますが、このエレンの行動はあの場面を思い出させます(6巻25話)

 

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-だから…まぁせいぜい…
-悔いが残らない方を自分で選べ

兵長はかつてエレンに選択を促しました。いえ、選択肢を与えました。さらに当時の兵長はこんなことも言っています(6巻25話)

 

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-お前と俺達との判断の相違は経験則に基づくものだ
-だがな… そんなもんはアテにしなくていい

自分たちの判断や選択は経験則によるのだと。経験則とはすなわち過去の複数の記憶を参照し、それらを鑑みてより確実性の高い方を割り出すということです。ただしその過去の経験は自分たちとエレンとではだいぶ異なりますから、自分たちに見えているものとエレンに見えているものは違うだろうと考え、その上でむしろそんな経験やなんかに縛られずに好きな方を選べと言っているわけです。

つまり、兵長は「過去などに囚われない真に自由な選択」をお膳立てしてくれています。とはいえご存知の通り、当時のエレンは「仲間とは信じるべきものだ」といった固定観念に囚われた選択をし後悔することになります。「こうあるべきだ」といった考えに縛られて自分の行動を決定するというのは、最近描かれていた矜持なんかにも共通性を見出すことができると思います。

 

その選択の是非はともかく、またエレンがこの時の後悔を考慮しているのかは定かではありませんが(物語としてはそう捉えるべきなんでしょうが)、少なくともエレンが始祖ユミルに選択させたことは、兵長がエレンにしたことと重なっているだろうと思います。当時の兵長は「部下に丸投げなんておかしい」という批判に曝されたようです(軍隊として考えればもっともな批判だと思います)が、同様にエレンの始祖ユミルへの行動も後先を考えていないと批判できると思いますし、これまた同様に、「真に自由な選択」を与えているとも言えると思います。

いかに選択肢があるように見えたとしても、そこになんらかの誘導や圧力がかかってしまえば、それは選んでいるのではなく選ばされていると言った方が適切になってしまうのではないでしょうか。

 

実際、件の場面ではペトラが誘導してしまっているんです(6巻25話)

 

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-…信じて

もちろん本人に悪気はないでしょう。でもこれによってエレンは「信じる」という方向付けがなされ、自らの固定観念とか願望とも相まって選択させられてしまったと見ることもできます。そしてこの選択への後悔があるからこそ、始祖ユミルに自分の思惑を一切押し付けないことがより強く、真の自由を志すものであると強調されるように思います。

というわけで、少し補足を付け加えます。

 

地鳴らしとは生きるための行為であり、その生きるとは自由であることが必須であり、その自由とは選択できることである。ただし過去などの影響や誰かの意志が介在しているなら本当に選択ができているかは疑わしい

 

ここまでは133話ですでに答え合わせがなされたと思いますのでみなさんもご納得いただけるのではないかと思います。エレンはみんなに真に自由な選択肢を与えようとしているわけです。


ただし、もうひとつ重要なピースが欠けていると思います。

 


その前に少し例え話をさせてください。


始祖ユミルは奴隷なので不自由ですよね。

ところで、私もあなたも奴隷ではないはずですよね。


ということは、奴隷でない私やみなさんは当たり前のように自由なんでしょうか、不自由ではないのでしょうか。


たとえばのはなし。これから大事なアポイントがある場所に電車でもバスでも行けるとします。でも電車なら定刻に間に合うけどバスだと遅れるのが確実、この場合って選択肢があると言えるでしょうか。おそらくほとんどの方は、ほぼ無いと考えるのではないかと想像します。

我ながら稚拙な例えですみませんがそれはともかくとして、この場合に選択肢を奪っているものはなにかと言えば、定刻ですよね。もっと砕いて言えば、私たちは定刻に遅れるという行為によって、自らの社会的な信用や評価に傷を付けることを避けるためにバスを選べないわけです。それを端的に言えば社会によって行動を制約されているということになるでしょう。

自分の普段の生活を振り返ってみたら、このような制約を受けていることが至るところにあります。だからこそ毎日ほぼ同じようなパターンで生活しているという感じさえあります。でも普段はこんなことには思いも至りません。上記の例もそうですが、そもそも選択肢があるとは思うまでもなく選ばされているように思います。

よくよく考えてみれば、なぜ学校に行かなければいけないのか、なぜ周囲の人々と良好な関係を作らないといけないのか、なぜ見栄えの良い服で着飾らないといけないのか、なぜみんなが知っていることなどを同じように知ろうと(もしくは知っているフリをしようと)するのか、明確な理由を持たないまましている行動がそこらじゅうに溢れています。明確な理由を持たないということは、そこに自分の意思はないということ、選ばされているということではないかと思います。要するに、不自由であると。

それが良いとか悪いとかいう話ではないんです。いやむしろ、できるだけいい学校を出てできるだけいい会社に入って・・みたいな社会が敷いたレールに沿うことは最も堅実で賢くてイージーな生き方だと思います。だからこそみんな明確に意識しないままそれをしているし、レールからはみ出すことに恐れを抱くのだと思います。英語で人間のことを packed animal なんて表現をしたりしますが、まさに人間は集団という枠の中でないと生きていくのが困難な動物です。たくさんの見知らぬ誰かが全体の中で役割を果してくれていることで、私たちは何もせずともできていることがたくさんあります。私たちがひとつの役割を果すことで、その恩恵を受けている見知らぬ誰かがたくさんいます。社会とはそうして成立しているわけで、それを維持するために枠からはみ出る者には圧がかかるようになっています。レールを大きくはみ出すと、風当たりが強くなり恩恵も受け難くなっていきます。これがよく言われる「自由に伴うリスク」というやつですよね。

言ってしまえば私たち人間には社会の奴隷といっても差し支えない側面があると思います。誰しも漠然とした不自由さや窮屈さを感じるようなことがあるんじゃないかと思いますが、もしかしたらそれは心の奥底で不自由であることに気が付いているということなのかもしれません。であれば、不自由な自分が持っていないもの、すなわち自由に憧れのような印象を持つことも自然だと思います。

人間は当たり前に持っていると感じているものには憧れませんから。

 

さて、だいぶ脇道に逸れてしまった感があるので与太話はこれくらいにして物語に戻りましょう。


作中には自由に関するとてもとても興味深いセリフがあります。

 

「お前は自由だ」

 

あのラストの予告で話題になったセリフです。そしてみなさんもご存知の通り、これと全く同じセリフがすでに二度ほど使われています(22巻87話、30巻122話)

 

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これまたどちらも酷い場面で使われてますね。口では自由だとか言いながら全然自由にしてないじゃないかぁぁまだ話し合ってないじゃないかぁぁぁって感じでしょうか。もしくは二人とも悪趣味ですって?笑


確かにその通り。でもおそらく、こんなの当たり前だという描写なんだろうと思います。


もちろんフリッツ氏やグロス曹長が非道なのは否定しません。でも彼らの行動は否定し切れないし、ユミルもグライス氏も自由になっているとも思います。


まず、奴隷という言葉は、自由と正反対でネガティブワードだと思います。奴隷といえば理不尽にひどい扱いを受けている可哀そうな、救済されるべき不自由な人々といった印象があるでしょうか。私はそんな感じに思いますし、そしてそれは何も間違っていないとも思います。

ただし、決して無視できない事実として、望むと望まないとに関わらずそれでも庇護下にあるんです。グライスはマーレ国、ユミルなら古代エルディアという集団の中に、奴隷という立場・役割で属している形になっており、最低限かもしれませんが社会から衣食住を与えられて生かされています。集団側の視点から見れば、わざわざ安くないコストを支払って彼らを生かしていることになるはずです。人ひとりを養うのでさえどれだけ大変かは家庭をお持ちの方なら容易に想像できますよね。しかも大量生産もおぼつかないであろう古代エルディアにおいてです。

そんな奴隷が自由になるということは、もう奴隷でなくなるということです。それはまた同時に庇護から外れることも意味します。それを集団側から見れば、今までは少なくともこっち側だった者がこっち側ではなくなるということです。近隣部族と争っているような古代エルディアから見れば、彼女はいずれ敵対勢力に与するかもしれません。彼女が産んだ男子が勇猛な兵士となって攻めてくる可能性さえあります。単純に限りある食料資源を奪い合う相手ということもできます。グライス氏だってもしかして巨人になってマーレに危害を与える可能性はゼロではありません。もしそうなれば、グロス曹長自身やその家族、さらにはマーレの国民が彼に食われる可能性だって無いとは言い切れないわけです。

 

フリッツ氏やグロス曹長の行動、どうでしょうか? 当然とるべき行動をしたとも言えるのではないでしょうか。いやむしろ、それをしなかったら部族の長や国を守る軍人としては失格だとすら言えるかもしれないと、個人的には思います。

どうも社会のレールの話と根本的に似ている感じがします。世が世なら、レールをはみ出した時点で排除されることだってあり得るわけです。そして私たちが社会に与えられた役割をレールを踏み外さないようにこなし、その庇護を受けているという点において、果たしてユミルやグライス氏とどれほどの違いがあるのでしょうか。

 

 

さて、図らずも自由になったユミルやグライス氏でしたが、仮に彼らがそのまま生き続けていくとしたら何をする必要があったのでしょう。

もちろん具体的なことは言いようもありませんが、それはもう ”自らの力で自らの生を掴み取っていくしかない” ということに尽きるだろうと思います。他の国を頼るにしろ、自然の中で自給していくにしろ、全てのことに自ら立ち向かっていくしかないはずです。そして相手が人間であれ野生動物であれ、何かを得るには自ら勝ち取るしかないはずです(26巻106話)

 

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-勝てなきゃ死ぬ…
-勝てば …生きる

そこには確かに、普段私たちが思い描くような「なんでもできる自由」という側面も存在すると思います。でもそれと同時に、何もしなければ何も進まないし、何もしないのも自由だとしても食べる必要はあるでしょう。そのためには狩猟の技術やそのための力、採集の知識、火を起こし安全な水を確保することが求められます。雨露をしのげる寝床を確保し、外敵があれば自ら身を守らなければなりません。怪我や病気への対処も自分でしなければなりません。

現代人の大部分はそうだと思いますが、その技術も力も持っていなかったらどうなることでしょう。

病気が恐いので下手なものを口にすることもできず、満足に食事を取ることもできないかもしれません。夜も安心して眠ることさえ叶わないかもしれません。野生の猛獣の気配があれば、近隣をうろつくことさえできなくなりそうです。たとえ何かやりたいことがあったとしても、それをできる自由はあったとしても、できなくなっていくかもしれません。

 

つまり、力無き者にとって自由とは何よりも不自由であるとも言えるのではないかと思います。逆に言えば、自由とは力があって初めて成立するものだと言えるかもしれません。これこそが自由という美しい言葉に隠された本質ではないかと、私は思います。

 

もちろん力と言っても腕力に限った話ではありません。それに上に挙げたような知識や技術はもともと人間が編み出してきたものですから、仮に私たちがそんな状況に放り出されたとしてもたどり着ける可能性はあるわけです。ならばそこで明暗を分けるものは、本人がやろうとするかどうか、生きるためにあがこうとするかどうかに尽きるのではないかと思います。そしてその「行動する」ということこそ、エレンの言葉を借りれば「戦う」ことであり、だからこそ「戦わなければ生きられない」となるのでしょう。自由には戦うことが付き物であり、自由はそういった意思を伴った力を要求してくるのです(26巻106話)

 

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-戦わなければ 勝てない

 

でも私たちは普段こんなことを意識することはありませんよね。なぜなら社会は私たちを奴隷にしているかもしれませんが、奴隷でいる限りはそんな厳しい現実から目を逸らせるように守ってくれているからです。そしてたとえ力の無い者でも不自由なく、自由を謳歌しながら生きられるようにしてくれているわけです。まぁ奴隷のようなものという部分を差っ引くならば、かりそめの自由とでも言ったほうが適切なのかもしれませんが。


それってつまり・・

記憶改竄によって厳しい現実から目を逸らされ、壁によって力無き者でも生きていける擬似的な自由を与えられていた、ということです。それが人類の楽園であり、人間の社会です。


とはいえミカサの覚醒エピソードでも描かれていたように、目を凝らせば私たちの目と鼻の先では人間以外の生物が、残酷で自由な世界で食いつ食われつ自らの力だけで必死に戦いながら生きています。そして当たり前ですがその残酷で自由な世界は私たちの住む世界と地続きですから、決して他人事ではありません。

人間は幸いにも天敵と呼べる存在がいなくなりました。そしてその代わりに人間同士で戦うようになりました。さすがに同種で滅ぼし合うのはよろしくないので社会が決まり事によって制限するようになりましたが、さらにその代替行為として今度は地位を巡って争うようになります。それは今現在も、国家間から個人間まであらゆるところで常日頃から起こっています。それこそ人類が一人だけにならない限り無くなることはないでしょう。そしてそこに勝ち負けによる格差が生まれます。言わばこれが社会というフィルターを通った後の残酷な世界の残滓だと思います。

 

少し前にこんな描写がありました(32巻128話)

 

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-ただ世間が狭くなるだけのことです
-相も変わらず同様の殺し合いを繰り返すことでしょう…

その前にもフロックが強権的な姿勢を見せていましたが、順調にいけば彼らはかつての憲兵団のようになっていたかもしれません。フロックがヒィズルの技術者を独占しようとし、それが無理なら殺そうとしたことも、かつて中央憲兵が銃の技術発展を阻害し対人立体機動の優位性を確保していたのと同じです。ジャンが与するか揺れる場面もありましたが、セントラルの一等地が外縁地域より良いというのはそこに格差があるから、区別・搾取される人々がいるからこそ生じるものです。結局、何も変わらないんです。地位を得たものは権力を振りかざし、地位を維持するために障害となる者を迫害ないしは排除します。世界の規模が小さくなろうが人間がやることなんて、いや動物がやることなんて変わりません。

イェーガー派に迎合している民衆の中には、これで何かが変わるかもしれないと期待している人々もいるんじゃないかと思います。でもおそらく何も変わりません。

 

誰かに与えられた立場に甘んじている者は、世界が変わっても結局また同じような立場になっていくと思います。

 

因果応報。これが因果応報の本来の意味です。自らの行動が、良くも悪くも自らの未来を決めます。言葉にすると当たりまえにしか聞こえないんですけど、流されてる人ってのは流されていくし、何もしなければ何も起きません。何かをすれば良しにつけ悪しきにつけその結果が出ます。だから、奴隷としての行動をしている人は奴隷であり続けるわけです。やっぱり当たり前。

ちなみに因果応報は悪い事をするとバチが当たるみたいなニュアンスで使われるようになってきていますが、普通に考えればそんな都合の良いことになっていないのは明白ですよね。もしそうなら警察も裁判所も存在してないでしょう。いや、そもそも人類がまだ絶滅していないことがそのなによりの証明です。とんでもなく酷い目にあった善人も、裁かれることなく美味い汁を吸いっぱなしの悪人もこの世界にはごまんといる。そんな辛い現実から目を逸らしたい人々の願望なのでしょうか。勧善懲悪の物語が巷に溢れているのと同じなんだと思います。そうではないからこそ、人間は憧れるわけです。

与太話はともかく、だからこそ自らの意思による行動こそが重要になってくるんだと思います。そしてそれが選択するということですよね。きっとこうなるだろうとか、誰かがこうしてくれるだろうとかいうのを、日本語では他力本願または運任せといいます。ハンジ自ら「不甲斐ない理想論」と振り返っていましたが、マーレに乗り込んだことは良かったけれども人権団体に期待し失望したところで何も起こりません。彼ら自身の内面には何か変化はあったかもしれないけれど、世界には何の影響も与えてません。その後パラディとマーレのどちらが行動を起こしたかと言えばもちろんマーレだけでした。そして行動を起こした側にはそれに対する結果が出ますし、行動しなかった側には行動しなかった結果が出たはずです。たった一人例外だったエレン・イェーガーの行動が無ければ、ですが。

 

 

さて、長らく脱線してしまった気がしますが、ここまで来るとエレンの考えや行動がはっきりと見えてくるように思います。改めてベースを整理しますと、


地鳴らしとは生きるための行為であり、その生きるとは自由であることが必須であり、その自由とは選択できることである。ただし過去などの影響や誰かの意志が介在しているなら本当に選択ができているかは疑わしい。そして自由とは戦うことなしには成立しない。

もすこし砕きながら補足しますと、この世界ってのは元は当たり前に自由な世界だっていう前提です。そこでは自分のやりたいことも含めて当然のように戦って勝ち取るしかありません。自ら選択をして行動するしかないのです。そしてそれこそが生きるってことだろうと。自分のやりたいことも我慢したりしながら社会や誰かの言いなりにしていれば生き永らえることはできるかもしれないけど、それって家畜と同じで生かされているだけだろって感じになるでしょうか。


エレンは大事な人たちに自由に生きていって欲しいわけです。でも今後の世界がどのような形になるのであれ、彼ら自身に生きることを戦って勝ち取る意思がないのであれば、再び家畜に甘んじることが容易に想像できます。パラディだけの世界になったとしてもフロックたちに組み敷かれるだろう片鱗がすでに描かれています。家畜だけならまだしも、かつての憲兵団が調査兵団にしようとしていたように排除される可能性だって充分考えられます。だからこそ、大事だからこそ彼ら自身に戦って欲しいんだろうと思います。それは自らが率先して世界と戦うことによっても示していると思います。エレンが彼らを守ってあげるんじゃダメなんです。彼らの人生はまだまだ続いていくんです。たとえエレンが外敵を討ち滅ぼしたとしても、彼らひとりひとりが戦わないと、自らの意思で行動しないと、いずれにしてもこの残酷な世界を先々まで生き抜いていくことは困難なんです。おそらくエレンの考え方はこんな感じではないかと思います。

そう考えれば、エレンがだんまりを続けていた理由にも察しがつきます。それも彼らの自由を奪わないため、自分の意思に引きずられないようにということなんでしょう(1巻3話、11巻46話)

 

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-頼んでねぇだろそんなことは!

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-まさか… こっちに向かってねぇよな?
-そんなことしたら… 皆無事じゃすまないぞ……

もともとエレンは仲間を巻き込むことを良しとしてませんでした。アルミンやミカサはいつだってエレンを止めに行くのが自分たちの「役割」だと思っているかもしれませんが、エレンはそれを望んでいたわけではなさそうです。ただ壁内の頃のケースは、エレンの視点から見ればアルミンやミカサも自分と同じく必死に戦おうとしてるとも見えたでしょうから、否定はできないはずです。

であればこそ「ジークにすべてを委ねる」とだけ伝え「一人でもやるつもりだった」レベリオ襲撃では、仲間たちが戦うため、生きるために来てくれたと思ってさぞかし嬉しかったことでしょう(25巻101話)

 

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-よかった…
-みんな来てくれたんだな

また、イェーガー派を自由にやらせていたことにも納得できると思います。少なくともイェーガー派が生きるために必死になって戦っていたことはルイーゼのセリフなんかからも伝わります。手段の是非はともかく、それは否定できません。そんな彼らを縛り付けるのはおかしいですよね。必死に戦わなきゃ生きていけない世界では、必死に戦おうとすることは何も間違っていません。むしろ必死になってない者を手厚く保護する方が違うと思います。その人のためにもならないでしょうし、それはエレンの庇護下に入るという意味合いも持つことでしょう。エレン自ら彼らを奴隷に貶めることになってしまいます。そして誰かが必死になれば必ずどこかで衝突が起こり、命を落とす者が出てくるでしょう。でもそれこそが残酷な世界の理であって、その時生き抜くのは、より必死に生きようとしていた者なんじゃないでしょうか。守ることばかりが大事にすることではないと思います。

 


こうして考えていくと、エレンのやっていることは非常に理に適っているようにも見えます。

 

たとえばこのまま地ならしが完了すれば少なくとも外患は取り除けます。パラディのみんなを守るという目的は果たされ、それ以外の問題に関してはまた別のお話になるでしょう。

そうでない場合。仲間たちがエレンを戦ってでも止めるならば、それは彼らが自らの意思で生きるために戦ったということになるはずです。であれば彼らはその後も生きるために戦っていくことができるはず。特にエレンはアルミンの実力に高い評価を与えていますから、彼が自らどんな相手とでも戦う意思さえ持つならば大丈夫だと思えるんじゃないかと思います。そんなアルミンだからこそ、マーレ編以降に絵空事だけ言って流されているだけなのがイラついたのでしょう。もちろんそれはアルミンに限ったことではありませんが、高評価の裏返しというやつです。できる奴だと思っているからこそです。

もしかしたら未来を見て知っているかもしれませんが、なんにせよ自分を止めることができるとしたら彼らしかいないというのは感じているような気がします。そして彼らに生きるために戦う意思さえあるなら、交渉できる可能性だって十分に考え得るだろうと思います。世界なんてダズと同じで日和見であることは想像に難くありません。誰だって自分がかわいいのです。133話でアルミンが言っていたことは絵に描いた餅ではありますが、実際その通りだろうと思います。今まさに圧倒的な力で殺しに来てる相手が交渉を持ち掛けてきたなら、疑いはすれど自分の国や家族を危険にさらしてまで勝ち目のない戦いを挑もうとする国も人もないと思います。あるとすれば物語の中の正義のヒーローくらいでしょうか。嫌われ国家マーレが世界を味方につける様も目の当りにしてるわけですから、交渉の余地があることはいくらでも想像できるんじゃないかと思います。

ヴィリーやカルヴィ元帥がこのあたりまで予見していたら面白いのですがこれはまぁ妄想の域を出ませんね。おそらくユミルの民の歴史を俯瞰した時、彼らの「行動」もこれから起こる「結果」に大きく寄与したといった感じになるのではないかと思います。ユミルの民全体の意思みたいな話にもなるかもしれません。

ところで危害を与えた強者から頭を下げて国交の第一歩が踏み出せたとしたら、それはまさに壁の王の悲願成就とも言えそうです。そしてその先陣はすでに大天使ガブリエルちゃんがジャンに対して体を張って示していますし、英雄側のお題目は「理解することをあきらめない」ですからね。

なんにせよ、どっちに転んでもエレンの勝ちのようなもの、「エレンの望みが叶う」土台は出来ているように思います。それは言うなれば、エレンは行動したからその結果を受け取るのであり、ジークあたりは行動させられていたから、という感じに帰結するのではないかと思います。もちろん今後ジークが行動を起こす可能性は充分考えられますが、それはまた別のお話。

 

 

 

というわけで、この残酷で自由な世界では、私たちの気付かないところで今日も生物たちが必死に生きようともがいています。彼らはその生きようとする本能に従って、やられればやり返し、やられる前にやろうとします。そんな世界において、見ず知らずの「世界のみんな」とやらのために、見知った仲間だった者や自身の命をも殺してしまうのはおそらく人間だけのはずです。つまり良くも悪くも、それが生物界で随一の高い知能や理性を持ってしまった人間による人間らしい所業といったところなんでしょう。英雄たちの行動とエレンの行動とが、理性と本能との対比になっているのだと思います。さらに大人と子供というのも同様の対比になるでしょう。おそらく父と子というのも然りです。あとはあの謎の古生物がどちらの側になるかは・・たぶん言うまでもないですよね。

それはそのまま「擬似的自由を与えられる人間社会」と「残酷で自由な世界」が対応していると思います。ですので理性側の人々がエレンへ向ける感情は、そのまま社会的な人間が残酷で自由な世界に対して抱いてる感情とも重ねられていると思います。

人間は自由とはいつもそこにあって、守るべきものだと思ってたりします。でもそれは社会が目隠ししてくれているからで、普段は気付かないけれども自由にはとても残酷な本質があります。それを垣間見た時、ミカサのフラッシュバックなどのように漠然とした恐れを抱いたりするかもしれません。それでもミカサが見て見ぬふりをしていたように、人間はひたすら目を背けようとしてしまいます。僕の知っている自由(エレン)はこんなんじゃない、僕達の隣にはいつだって自由(エレン)が供にあったじゃないかって。自由は残酷なものじゃないんだって、僕の思ってる自由こそが本当の自由だって信じたいわけです。だけど考えれば考えるほど自由ってのはもともと残酷なものなんじゃないかという疑念は拭えません。エレンを自由に置き換えてこちらを読んでみてください(31巻123話)

 

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-誰もがエレンは変わったと言う
-私もそう思った
-でもそれは違うのかもしれない

-エレンは最初から何も変わっていない
-あれがエレン本来の姿だとしたら
-私は…エレンの何を見ていたのだろう

-私達は…気付かなかった
-もしくは… 気付きたくなかったのだろう

社会が発達し利便性が上がるほどに、私たちは残酷な世界から遠ざかっているかのように思います。今やほとんどの人が豚や鳥があげる断末魔の悲鳴を聞くこともなく血を見るのが嫌だとのたまうことができます。だけれども機械のように毎日同じ生活ルーティンを繰り返すうちに、なにか居心地の悪さを感じ、ぼんやりとした自由への夢想が積み上がっていくのでしょうか。思えば、正義や信頼、仲間、英雄などなど、どれも社会の中にだけ存在するものです。だからそれを美しいと思わないことには始まらない、やってられないのかもしれません。そして人間が思い描くなんでもできるという意味合いの自由も、社会によって与えられた幻想のようなものと言えるのかもしれません。

けれども人間の探求心は誰かに言われて抑えられるものではなく、真実を知りたがってしまうのでしょうか。いやどうかな、夢を夢のままで終わらせたくない感じ、の方が適切な気がします。だからこそそれが現実味を帯びてきた時に自分の思っていたものと異なったりすると、目を背けてしまうのではないかと思います。

ただ、こと自由に関して言えば、幾世代に渡って忘れつつあった記憶を取り戻そうとしているようなところもあるのかもしれません。なぜなら弱肉強食の世界って、どなたも他の作品でも触れたことあるくらい普遍的なテーマですよね。それだけ需要がある、みんなが感じたがっているってことなんじゃないかなと。

あ、念のためフォローしておきますが、弱肉強食自体はありふれたテーマだと思いますけど進撃の場合はそこに社会性やそれに伴う精神構造、自由のその先まで絡めてさらに深いところへ突っ込んでるあたり稀有な存在だと思ってます、それも少年誌で。そこまで描いてる作品って、私の貧相な脳内ライブラリでは「火の鳥」くらいしか思い当たりませんので。

 

閑話休題

 

ところで、エレンにしてみればレベリオ戦において、みんなが生きるために戦うことを選んでくれた! と上がったところから落とされた時の落胆はいかばかりかと考えます。より頑なになってもおかしくないし、鏡に向かって「戦え」と自分を鼓舞するのも痛々しいくらいです。だからといって虐殺が良いという話ではないですけどね。

それでもなんでも、エレンは生きるために戦うことを続け、周囲に生きるために戦うということを振り撒き続けていくのだと思います。そのためなら自分の命なんて惜しくないというのは本人の弁。

 

生きるとは自由であること。自由とは戦うこと。戦うのが生きること。

 

この作品は、戦士隊の襲撃によって人類が家畜である屈辱を思い出したことで始まりました。そして壁内人類はエレンと進撃の巨人の存在によって生きるために戦うことに目覚めました。やがて時は過ぎ、今度は世界がその日人類は思い出しましたよね。彼らが思い出したのは、巨人でも始祖の巨人でもなく「進撃の巨人」でした。英雄たちは依然としてモヤモヤしているようですが、すでにアニ父を皮切りにレベリオのエルディア人は生きるために戦うことに目覚めつつあるようです。ガビやファルコも然り。もちろんそのきっかけは良くも悪くもエレンであり進撃の巨人です。

ただしイェーガー派のことに関しては、英雄たちもやられたから、そしてやられる前にやった側面があります。つまりそこで本能に少し寄ったと捉えることができ、話し合いだなんだと理性によって四の五の言っていた英雄たちは、あのあたりからようやく「生きる」ことをし始めたということではないかと思います。

生とは戦って自ら掴み取るものだという、この残酷で自由な世界の原理。それを体現し周囲に振り撒いていくエレンはすなわち、「生き方を教えている」ということになるでしょうか。世界の人々もそうなるのか、もしくはユミルの民が生きることに目覚めたことを目の当りにしたという事なのかは分かりませんが、少なくともユミルの民にとっての「進撃の巨人」というのはそういう存在なんじゃないかと思うのです。


なぜエレンがそんな存在になったのか。鶏が先か卵が先かは分かりませんが始まりのひとつとして、(32巻130話)

 

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「お前は自由だ」

まだ確定してないのにこの書き方はどうかと思いますが、彼は生まれながらにして自由に関わってしまったということかもしれません。具体的にイメージするなら、生まれてすぐのまっさらな頭の中に「じゆう」という音が刻まれたとしましょう。当然この「じゆう」という音は、彼の脳内の大部分を占めることになります。どうなることでしょう。

エレンはそれ以来、自由とはなんなのかをずっと考え続けてきたのかもしれません。そして彼にとって自由とは、生まれた時から自分の大部分を占める当たり前のようなものだったのでしょうか。

見方によっては、グリシャは気付かぬ内に愛する我が子をとても残酷な世界に放り込んでいた、とも言えるのかもしれません。ジークは社会の中へ、エレンは残酷で自由な世界へ。やはりこれはグリシャが始めた物語なのかもしれませんね。

 


そして残酷で自由なエレンは、いや「進撃の巨人」という作品は、平和ボケした私たちにも何かを振り撒いていくのでしょう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

-おまけ・辛さひかえめ減塩タイプ-

 

133話に少しだけ触れておきます。ネタバレ注意。それと少しだけ辛口ですので甘党の方は要注意(以下、注記の無い画像は別冊少年マガジン11月号・133話より引用)

 

 

 

 


☆今月のMVP☆

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ライナー・ブラウンさん(21歳/レベリオ区)

 

 


ライナーさんが呼び水になりました。

だんだんと相手の目線に立つことを覚えつつある英雄さんたちですが、人間はなかなか分かり合うことができません。コニーのストレートな言動によって彼らが歩み寄りつつあることが明示されてはいますが、結局話が噛み合うことはなく物別れに終わりました。どっちもどっちと言えなくもないですが、各人のセリフを吟味していると少し異なるニュアンスが見えてくるように思いました。


まずエレンの言葉ですが、どれも英雄たちの、主にアルミンの言葉に対する返答になっています。虐殺は必要ないと言うから地ならしはやめない旨を返してますし、アルミンが希望的観測を述べているから運任せにはしないと返しています。巨人の力はなぜ?に対してもお前たちからは何も奪わないと。いちおうちゃんと ”キャッチボール” になっているのがお分かりいただけるはずです。

そして、おそらくキモになっているのは英雄側だと思います。

彼らの言葉の意味するところをひとつひとつほどいてみると、彼らは最初から最後まで「説得」をしています。説得という日本語について説明は要らないでしょうが敢えて書きますと、説得とは異なる考えの相手を自らの考えに沿わせようとする言動です。コミュニケーションやディスカッションにおいて最初につまづきやすいやつですが、要するに相手の意見を聞かずにハナから自分の意見を押し付けているんです。

で、なんでそんなことになっているかと読み込んでみると、彼らの言葉には総じて前提があるんです。その前提は「エレンは自分たちに止めて欲しいと思っている」です。だから彼らはそれはもう必死に「もう大丈夫だ」とか言って図らずも説得してしまっているんです。でも先に挙げたようにライナーは「そう思うってだけ」のことを言ったに過ぎません。つまり推測です。彼らはただの推測を元に相手の考えを決めつけて、それを前提にした意見を言っているわけですから噛み合うはずもありません。だからMVP。別にライナーが悪いとかいうことではないですよ。こうして人は誤解し、すれ違うということなんでしょう。

以前から同じことばかり書いてるようで恐縮ですが、人間は他者の頭の中を直接覗けるようにはできていません。だから他者の考えを知るにはそれこそアルミンが言っていた通り話すことが肝要なはずですが、実際やっていることはそれとかけ離れてしまっています。自分を基準にして相手を推し量って自分と同じだと決めてかかる、自他の境界線が曖昧ってやつですね。自分の目線での当て推量っていうのは自分の思い至る枠の中から出られませんし、こうあって欲しいというバイアスもかかります。だからこそというか、

 

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-僕らはずっと一緒だ!!

って言えてしまいます。でもこれ、エレンの視点から見たらとっても薄っぺらい軽い言葉だなと個人的には思わなくもないです(26巻106話、27巻108話、26巻105話)

 

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エレン自身はどうなんでしょうね。アルミンやミカサの想いは受け止めたとしても、もうそこはとっくに通り過ぎてる感じかなと想像します。

そもそも説得してしまってる時点で考えが一緒ということはあり得ないという矛盾が英雄側にはあるわけですが、それでもちゃんと「考えが違うんだから戦うしかないだろ」と返してくれているあたり達観したなぁと思います。もう少し言ってしまうと、エレンは彼らの言っていることと自分のやっていることをちゃんと理解した上で「じゃあ戦うしかないよな」とはっきり分からせてくれているわけですが、たぶん英雄たちは自分が発した言葉の意味するところを正確には理解していないと思います。自分を俯瞰できていないということです。そのため仲間想いな言葉を言ってるという美しいオブラートにくるまれて本人たちも気付いてないのでしょうが、彼らが言っていることの本質を端的に表現すれば、寄ってたかって「お前が間違っている」って言っているに過ぎないと私は思いますが、まぁどうなんでしょうね(30巻122話)

 

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今回の記事テーマに沿って言うならば、エレンは諸々を思い悩んだ末、リスク等を承知した上で自らの意思で行動を選択した行動者だと思います。対して、133話の前半を読み返してみて欲しいのですが、

英雄たちは、やれ「〇〇を殺してしまったから地ならしを止めないわけにはいかない」とか、はたまた「贖うことはできないから世界を救うしかない」といったような、なにやらわけのわからない理由を付け加えだしてしまいました。まぁでもこういうのって気持ちは分からなくもないですよね。要は罪の意識に耐え難いからそれをどうにか他のことで消化あるいは昇華しようとしているのだと思います。ああ、若い頃のグリシャと同じ感じでもありますね。

自己正当化。


自分なりに、たとえそれが他者に分かってもらえないとしても、きちんと目的が明確に意識できていたらこんな意味の分からない理由付けは要りません。だって理由はすでにあるはずなんですから。でもそれをしてしまうということは。

面白いので大事なところなのでもう一回ちゃんと書いておきます。

 

お前は間違っていると言っている彼らが地ならしを止める理由のひとつは、

「仲間を大勢殺し、それを無意味な殺戮にするわけにはいかないから」です。

あるいは、

「仲間を殺したことを贖うことができなくてもとにかく世界を救うしか、やるしかねぇから」です。

ちょっと意味が分からないというか、苦しい感じですよね。なんとかして理屈をつけたい感じが伝わってきます。つまり彼らはまだ理由が曖昧、言い換えれば迷ってる部分があるのでしょうか。いや、迷ってるというよりは責任を負うことから逃げているのかもしれません。もちろん無自覚だと思いますが。

以前の記事で長々と虐殺の是非について考えましたが、この世界に絶対というものが無い以上、万人が納得する理由なんて無いと言ってしまってもいいと思います。じゃあそこで重要なのは何かって、それこそハンジが理屈抜きで「虐殺は認められない」と言っていたように、自分がどうしたいかということでしかないんじゃないでしょうか。だって自分の行動、自分のことなんですから。そして自分のしたいこと同士が相反するならば、お互いに決して譲れないならば、それこそエレンの言う通り戦うしかないかもとも思います。

けれども社会に馴らされ選択させられることに慣れてしまった人間はなにかと理由を付けずにはいられないのかもしれませんね。彼らの言葉のように何かのせいにしておけば、後でどのような結果が出ても「仕方なかった」って言えますから。今回はその擦り付ける相手が過去の罪だったわけです。逆に言えば彼らは過去の罪によって突き動かされ、思考停止し、流され、選択をさせられているんです。だから罪に囚われた人達。罪人達。

 

というわけで案の定と言いますか、アルミン新団長の第一回チキチキ「エレンとの対話」は話し合いでも分かり合いでもなく、シガンシナでの対ベルトルさんを思い起こさせる駆け引きのような感じになってしまいましたとさ。


あとこれは皮肉ではなく見たまんまを言っているのだと思いますが、傍で見ていた兵長もこう表現してらっしゃいます。

 

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-交渉の望みは潰えたらしい

あっ、はい、どこからどう見ても「交渉」でした。 親友とは? 仲間とは? 

 

まぁ団長としては然るべき姿勢・・なの・・かも・・・かな・・?

 


最後に、僭越ながらアルミン団長にはブーメランを贈呈しておきたいと思います(14巻55話)

 

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-今相手にしている敵は僕らを食べようとしてくるから殺すわけじゃない
-考え方が違うから敵なんだ…

 


理解することをあきらめないアルミンさんが今後どう転がっていくのか、ますます楽しみになってきました。いろんなパターンが考えられると思いますが、現状の個人的な予想としては、

(b)自分の分かり合いたい理想は他者とぶつかるのを恐れる言い訳のようなものだったと気付いてエレンと戦う腹を決める。そうやって自身を俯瞰した上でそれでも存在する分かり合いたいという気持ちは世界の方へ向いていく。エレンはアルミンが自由になった(自らの意思で選択した)ことに満足死。アルミンはもっと早く気付けていればエレンを殺さずに済んだかもと後悔。

こんなのはどうでしょうか、だいぶ希望的観測ではありますが。

 

でも (c)すれ違ったまま分かり合えないまま終わり というのも最近の展開を見てると捨てがたいです。団長という社会的地位を手に入れてしまったことも含めて。でもさすがに何も変わらないというのはちょっと・・ですよね。いやどうかな、うーん。

 

-おまけおわり-

 

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 20th Oct 2020
updated: none