進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

106 世界観⑩ 女神様


みなさんこんにちは。

 


なぜか今さらユミル(104期)の話です。長くなったので次の記事と分割してこちらが前半です。あと劇物かもしれません。アニメで来てる方はまだ読んじゃダメですよ。

 

 

 

 

この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は12巻50話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[女神様]

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ユミルのことをまともに記事にするのはこれが初めてだったかと思います。この記事でユミルと表記しているのは全て104期のユミルのことですのでそのつもりでご覧ください。

 

 

 

まず初めに、なぜここへきてユミルの話なのかということで先に結論を述べておきます。

 

私が思うに、ユミルの最後の選択はおそらく作中におけるひとつの到達点というか、理想的とでも言うべきムーブとして描かれているんじゃないかと思うからです。

 

言うまでもなく、彼女はあの時「ヒストリアと一緒にいること」を選ぶことができました。むしろそうなって当然の流れでしたし、彼女もずっとそれを望んでいたハズです。エレンに力があることも判明し壁内に留まることに希望を見いだせたことも本人が独白しています。にもかかわらず彼女はライナーとベルトルさんを選びました。

すでにこの段階で彼女がなんらかの意思を持って「選択をした」ということは見えてきます。では、それはいったいどんな意味を持つのでしょうか。

 

 

 


まずはそこに至る経緯として、ざっくりとですが生い立ちから振り返りたいと思います。

 


ユミルの幼少期に関してはアニメ版も補完材料としていることをお断りしておきますが、雑に言えばジークっぽいところがあると思います。みんなの希望として祭り上げられ、みんなのために死ぬという方向性。

けれどジークと大きく異なるのは、彼女がストリートチルドレンだったこと。

ジークは生まれた時からみんなの希望であり、全体の中での役割を期待され、そこに義務感や重圧を感じていきました。やがてそれが務めを果たしきれない自身への責めになり、反転して父への憎しみに変わり、捻じれていってみんなのためには自分たちが滅ぶべきだとなっていきましたよね。流れとしては必要とされる子から要らない子へという感じです。天才の悲哀みたいなものも感じさせます。

対してユミルはもともと要らない子だったのが、必要とされる子になります。だからジークと違って必要とされることに対して重圧より心地よさを感じていたようです。その点に関してはエレンに近いと言えるでしょうか(3巻12話、17巻68話)

 

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-オレは… ならなきゃいけないんだ…
-みんなの希望に…

 

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-どこかで自分は特別だと思っていたんだ

エレンもどちらかと言えば平凡だった人間が必要とされるようになり、そこに心地よさを感じていた節がありました。さらに言えばユミルがストリートで暮らしていたことも、物心ついた時から既に残酷で自由な世界を身近に感じていたと捉えれば、基盤となる部分にも共通性を見出すことができるのかもしれません。

 

 

 

さて、それから時が経ち偶然にも顎を捕食したユミルは、本人の言葉によれば「第2の人生」を歩み始めることになります。彼女は今までのしがらみから解き放たれて自由になったと感じたわけですね。(22巻89話)

 

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-再び目を覚ますと そこには自由が広がっていた

 

そして彼女は心に誓います(10巻40話)

 

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-私は…大勢の人の幸せのために 死んであげた
-……でも その時に心から願ったことがある
-もし生まれ変わることができたなら…
-今度は自分のためだけに生きたいと…
-そう…強く願った

前回はみんなのために死んであげた人生だったから今回は自分のために生きると。その決意のままに、人の迷惑などは顧みずに我を通すような無法者としての生き方をしていきます。無法者、社会のルールを無視する者、彼女の場合は盗賊でした。おおざっぱに言えばやってることはラムジーと同じです。

それはさておき、このことはストリートチルドレンから人生をやり直してると解釈することもできると思います。そして前回の記事のノリで言えば、ユミルもラムジーも生きることに対して真摯で必死であるゆえに他者の都合、社会の都合などは顧みない。自分が生きるための行動の犠牲になる者のことも考えない。少し地ならしに似ているところもなくはありません。

 

そんなユミルはふとしたことから過去の自分と似た境遇にあるというヒストリアの噂を耳にし、接近していきます。そしてヒストリアを守るような行動をしていくことになります。また誰かのために生きるのかというツッコミを入れたくなりますが、本人も言っている通りそれが自分のしたいことだと言われれば納得せざるを得ません。まぁなんにせよ、ユミルはまるで母であるかのようにヒストリアを導いていき、みんなのためじゃなく自分のために生きるという考え方を育み、それがヒストリアの自立に繋がっていったのはみなさんもご存知の通り。

 

ただし、ユミルに導かれたヒストリアは、当のユミルに対しても最後にこうやり返します(12巻50話)

 

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-…私?
-また私は守られるの?

どうやらユミルにはこれが刺さった模様です。なにかに気付いた、のでしょうか。

そのひとつはおそらくこんな感じでしょうか。ヒストリアをかつての自分の境遇と重ね、かつての自分みたいにならないよう守るというか誘導していたのでしょうが、その守られること自体がヒストリア本人にとって枷になりつつあったと。棘のある言い方をすれば、ユミルのやっていたことは度が過ぎて自己満に過ぎなくなっていたとも言えるでしょうか。

 

さらにヒストリアは畳みかけます(12巻50話)

 

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-人のために生きるのはやめよう
-私たちはこれから!
-私達のために生きようよ!!

さっきのツッコミじゃないですが、まさにブーメランが返ってきていて、お前も私のために生きるなよって。ユミルに言わせれば自分の好きなように、自由に生きているはずだったのになぜこう言われるハメになったのでしょうか。彼女はヒストリアのことを大事に思ったから守ろうとしたのでしょうし、それが自分の意思で選択した自分のやりたいことだったはず・・はずなんですが、

 

ちょっと違ったわけです。

 

なぜなら先ほどおさらいした通り、ユミルはわざわざヒストリアを探して守りにいっているからです。

どういうことかと言いますと、探しに行っている時点で、ヒストリアが友人として大事だから守りたいというのとは出発点が違うことが分かりますよね。かつての自分の境遇と似た感じを覚える人をわざわざ見つけにいき、かつての自分のようにならないよう誘導する。極端な言い方をすれば境遇さえ似てればヒストリアじゃなくても良かった。そうならないようにすること自体に意味があるんです。つまりユミルはかつての自分の人生に後悔があったのです。言い方を変えれば、かつての人生に突き動かされていたんです。彼女が言うようなまっさらな第2の人生ではなく、結局は最初の人生の続きでしかなかったんです。

そして「誰かのために死んだ」という過去(歴史)の呪縛によって、「今度は自分のために生きる」という考えに囚われ、だからこそ境遇に類似性を感じた誰かが同じにならないように守るという行為に固執し、ブーメランが返ってくるハメになったんだと思います。結局自分は自分のために自由に生きておらず、「自分のために自由に生きる」という考えに縛られてしまっていたわけです。

今度こそ、絶対に、なにがなんでも「自分のために生きるんだ」と。

 

・・ということに、ユミルは気付かされたんじゃないかと思います。

 

とどのつまり自分も歴史や周囲の環境によって動かされていたに過ぎない、なのにそれを自由だと勝手に思い込んで、思いたくて、「自由であること」に固執していたに過ぎない。そしてあわやヒストリアの自由を奪う周囲の環境になりかけていた。実際は自分も世界という大きな社会に組み込まれた one of them に過ぎなかった。そんな自分に気付いたのだと思います。いや、ヒストリアが ”見つけ出してくれた” と言った方が適切なのかもしれません(12巻48話)

 

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-頼む…誰か… お願いだ…
-誰か僕らを見つけてくれ…

だからこそ少し前になにやら刺さっていたこの言葉が、兵士としての one of them ではなくて他の何物とも異なる心も感情も持ったベルトルト・フーバーという「個としての叫び」が、彼女を動かしたのだと思います。いわばベルトルさんたちにも教えてもらったとも言えるでしょうか(12巻50話)

 

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-お前の声が聞こえちまったからかな…


おそらくヒストリアの言葉で目が覚めたユミルは、今まで固執していたものを捨てて、また今後のことや敵だ味方だみたいなことも超越して、ライナーとベルトルさんの気持ちにも寄り添い、「彼らを助けたい、見つけてあげたい」という自分の純粋な気持ちに従った行動を選択したのだろうと思います。その時本当に自分がしたいと思った事をしているという意味では、「自分のために生きようよ」と言ったヒストリアの意を汲んでいることにもなるでしょう。これが理想的と述べた一因です。でも、それだけではありません。


なによりユミルの選択がすごいのは、生きることを無視しているところにあると思います。

 

彼女はライナーたちの方へ行けば自分が近々死ぬことになると明確に分かっていました。でもそれ自体を意に介してないかのように自分のしたい行動を選択しているのです。それは「生きたい」とか「死にたくない」というのとは異なるところに優先順位があったということでもあると思います。

誰でも死ぬのは恐いですよね。それは進撃においても同様で、どんなに勇敢な兵士でも今わの際には「死にたくない」と思ったり叫んだりしながら死ぬ様がこれでもかと強調されて描かれてきました。余談ながら例外もいまして、それがエレンとアルミン、それから「エレンに生き方を教えてもらった」ミカサだったりします(2巻7話)

 

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-死んでしまったらもう……
-あなたのことを思い出すことさえできない
-だから――何としてでも勝つ!
-何としてでも生きる!!

アルミンは少しだけ毛色が異なるのですが、それでも彼らは生きるべくして生きていることが描かれていると思います。それは死なないように生きるのとは別物だ、と私は思います。端的に言えば受動と能動という違いですが、「死にたくない」というのは「生」を主目的にしてしがみついている感じ、エレンたちは他に主目的があってそのために生きている必要性がある感じです。生死だと身近な感じがしないかもしれませんが、前回お話したような社会的な立場などに置き換えていただければ分かりやすいかもしれません。「誰かに負けないように」「みんなに遅れを取らないように」やっている事と、「自分がこうしよう」と思ってやっている事って別物ですよね。

エルヴィンがこんなことを言っていました(7巻28話)

 

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-最善策に留まっているようでは
-到底 敵を上回ることはできない
-すべてを失う覚悟で挑まなくてはならない
-必要なら大きなリスクも背負う

「死なないように」という最善策に留まるということは、死ぬ可能性のある選択肢を排除するということです。その排除した選択肢にはもちろん死ぬリスクが多分に含まれているわけですが、そのリスクから目を背けず勘案するならば選択の幅が広がることになります。いくら死なないように気をつけていても死ぬことがあるのは現実も同じです。であれば時に、死のリスクが高まってもさらなる何かに繋がる可能性も高い行動を選ぶことが大事なこともある、エルヴィンはそういったことを言っていると思います。

ですが私達には死への恐怖だったり、社会においては負けることや蹴落とされることへの拒絶感などがあり、その衝動に流されがちだと思います。つまり何かに背中を押されているんです。

そう、背中を押すものがあるんです。

んん?なにか引っ掛かります。そもそも「死なない」でも「生きる」でもいいんですけど、なぜそれほどまでに私達は生に執着してしまうのでしょうか。


答え:本能だからです。


・・と言ってしまえば終わってしまう話ではあるのですが、これは思考停止に思えて仕方ありません。私は今までの記事でほとんどの物事を「生きるため」ということでまとめてきたはずです。そして多分ですが、みなさんはそれにある程度ご納得、というかなんとなく分かる感じを抱いていただけたのではないかと想像しています。でも改めて考えてみると、


じゃあなんでその本能とかいうヤツは私達を生きようとさせてるんだよ


って不思議じゃないですか?


少し余談を挟みますが、どうも「生きるため」っていうのは最高の「美しい言葉」じゃないかと思えてしまいます。とても便利で免罪符にもなったりしているように感じます。免罪符というのは例えば、これは私が見た狭い範囲の話でしかないかもしれませんが、ラムジーが悪者として叩かれているような言説はほとんど見かけたことがない気がします。それはなぜかと考えてみれば、彼が子供ながらに必死に「生きるため」に戦っているからではないでしょうか。スリは確かに悪いことだけど、家族や自分が生きるため、そして社会の環境がそうさせているといったような印象が強いのではないかと思います。

でも仮に、こんな裏話があったらどうでしょう。

たとえばラムジーが奪った金は、とある真面目な父親が子供の手術費用のためにコツコツと貯めた金だった。それを奪われたので子供は死にました、とか。あるいはラムジーに金を奪われたことによって借金が返せなくなった人が、首が回らなくなり追い詰められて自殺しました、とか。

そしてラムジーはその奪った金で酒盛りに興じているようなものであると。

印象が変わってくるでしょうか。それでも「そんなの分からないじゃん」と擁護したくなるでしょうか。もちろん作中にそんな描写はありません。なぜならラムジーはそんなことは「知らない」し、おそらくエレンあたりの視点からも見えてないからです。でも普通にあってもおかしくない話で、ラムジーは間接的に全く関係のない他人を殺しまくってるかもしれません。ユミルの盗賊時代もそうですが、それは言ってしまえば超小型の地ならしと言っても過言ではないかもしれません。

でも、地鳴らしもそうですが、「生きるため」というのはそれだけで何か正当な理由のひとつとなってしまうような感じがあります。この世界において絶対的な正義に最も近いのが「生きるため」なんじゃないかという気さえしてきます。

 

話を戻します。

 

「生きるため」と言えば、今までたびたび承認欲求を取り上げ、それも「生きるため」だと結んできたと思います。実際、人から認められるよう地位を上げたり、マウントを取るという行動は社会の中で生きるにあたってとても有効であることは否定できません。時にそれが他人を傷つけたり社会的に殺したりしますけど、やっぱり生きるためですので。

また承認欲求の他にも人間が持つ強い衝動の一例として、俗に言う三大欲求なんてのもあります。

食欲は食べることでエネルギーや身体を構成する物質を補給することですから、やっぱり「生きるため」です。人間はなんやかんやと理屈を付けて食べていますが根本は生きるための栄養摂取に他なりません。そしてそのために他の生物を大虐殺しております。生きるためですので。

睡眠はまだ不明な点も多いですが、意識をアイドリング状態にしている間に身体のメンテナンスをしているのは確かなようです。眠らないでいるとどんどん体調が悪化していきますから、そうならないよう衝動によって眠らされています。これもやはり「生きるため」ですよね。睡眠が他人に迷惑をかけることはそれほど無いでしょうから、どうぞ欲求のおもむくままに。

あとひとつが問題です。性欲。実は性欲は私個人が「生きるため」への直接の関与が見当たりません。私の子供が生きていても、私という個体が死ねば私は消えて無くなります。私の親から見れば、私が生きていたって彼ら自身が死ねば、彼ら自身の「生きるため」は成就されません。

子供が生きていればいいじゃないかと言うのは心情的には分かりますが、ベルトルさんの「見つけてくれ」を無視することに他ならないはずです。いわば「お前が子供のために犠牲になるのは当たり前だ」と言うのと同じことです。

しかも、これだけ「生きるため」に寄与していないにも関わらずこの性欲という衝動は極めて強いもので、それに負けて犯罪に手を染めたり社会的な信用を破壊してしまう者が後を絶ちません。それでは「生きるため」に寄与しないどころか、反していることになってしまいます。何かがおかしい。どうも性欲は私が生きるために存在しているのでは無さそうということになります。


じゃあ何のためかって、現在では私と子供と両親の間に共通するものが既に見つかっています。それはご存知の通り、遺伝子です。そして私やその子供が性欲に従って子々孫々と続いていく限り、相方の遺伝子と折半しながら遺伝子は生き残っていくことになります。つまり性欲は「遺伝子が生きるため」に存在すると仮定せざるを得ません。

翻って承認欲求、食欲、睡眠欲・・どれも私個人が生きるためと同時に遺伝子が生きるためにも有用です。そしてそのどれもが内から湧き出てくるもので、私個人では理由を説明できない力によって突き動かされるような衝動です。私がそうしようというより、なにかにそうさせられている感じでもあります。そういえば、それらの欲求のどれもが心地よい感覚がご褒美として与えられることによって、私個人はなんとなくそうしたくなるように仕向けられているようです。

 

ああなるほど。たしか衣食住といった何かを与えられつつ誰かの言いなりにさせられているのを奴隷とか呼ぶんでしたっけ。

ということは、私たち人間は遺伝子の奴隷と呼んでも差し支えないはずです。

 

そして遺伝子の視点から考えてみると全てが鮮明に見えてくる感じがします。私個人という”物”に固執する必要は全くありません。むしろ私より長く生きる可能性のある鮮度の良い個体、すなわち子供を大事にする方が、そう仕向けた方が理に適ってます。できるだけそれを増やし、自分(遺伝子)が存続する可能性をあげるべきです。そして実際に私たちは内なる見えない力に背中を押されるかのようにそんな思考を持ってたりしますよね。「子供が生きていればいいじゃないか」 あれ?愛ってなんだっけ?

まぁここは深追いすると恐いことになりそうなので割愛しますが、要するに遺伝子から見れば私個人というのは替えのきく器でしかないんです(14巻57話)

 

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-だとすればエレンは器であって
-交換可能な存在なんだ

もちろんこれは全ての生物に当てはまります。私たちは知能を持たない生物を見下したりしますが、そんな考えることさえできない生物でさえ、目的意識と呼べそうなある一つのルールに従って動いていることを知っています。それが「生きるため」。 だから人間も例外ではないのですが、知能が発達した人間だけは自己内省が可能になってしまったためその理由を必要とするようになったのだと思います。あるいは遺伝子視点で言えば、目を逸らす必要でしょうか。おそらくそれが酔っぱらう対象であり、私が「美しい言葉」と呼んでいるものではないかと思います。

 

作中にこんな描写がありました(6巻25話)

 

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-兵長が説明すべきではないと判断したからだ!

軍隊の話なんかで良く出てくるのでご存知の方も多いと思いますが、need to know という考え方です。知る必要があれば知らされるし、知る必要が無ければ知らされない。余計な情報を知ることによって迷いなどが生まれて作戦に支障をきたさないため、言い方を変えれば「黙って言われた通りのことをやれ」という縦社会のルールでもあります。軍隊や大企業といった大規模集団では立場によってやることも見えてるものも全く異なりますので、それぞれの役割を円滑に果たすためにこうした仕組みが必要なんですね。

 

さて、私たちはなにゆえ生きるのか、なにゆえ他者にマウントを取ってしまうのか、なにゆえ子を成し大事にするのかといったことの明確な理由を知らされているでしょうか。

否、ですよね。

これがつまりご主人様が上の方にいるようなものであるという根拠にもなるのですが、そもそも私たちはご主人様がいることも知らされていないので、自分が主体だと思っている(思いたい)わけです。だからこれらには明確な理由があるはずだと理由探しを始めたのだろうと思います。でも明確なものが見つからないので、人生の意味だ正義だ愛だといった概念が生まれ、そこに心酔するようになっていったのかもしれません。その言葉を唱えることで思考を停止してくれるのはご主人様にとっても都合が良いことでしょう。だからそれを「美しい」と感じるようになったと。


つまり私たちはご主人様あるいは内なる見えない力に背中を押されて「生きること」に囚われた存在であると言えるわけですが、もちろんこんなこと言っても詮の無いことです。誰もがそうなのですから。いやそれどころか全ての生物、もとい万物がそうなのです。先ほども書いたように、動物でも虫でも知能の無い生物はただ生きるために生きてますよね。ただ生きているというか「生きるため」という原理原則に従って動いている。さてあの古生物はどうでしょう。

ユミルの民にとってあの古生物は半身のようなもの、あるいは先ほど述べたご主人様のようなものとして重ねられるかもしれません。そして道に囚われ無感情に土をこねることによって道を通じて「生」を送り続ける少女。なにやら繋がってきそうです。

 

ところで先ほど能動的に生きる人の話をしましたが、エレンだってもちろん生きることに囚われていると言うこともできると思います。ただ他の死なないように生きている人たちと異なるのは、前回本人の言葉を参照した通り、彼はただ生きているなら死んでいるのと変わらないと感じ行動していることです。彼にとっては生きることと自由であることが等価というか、むしろ自由であることが優先度が高いわけです。生きるということに関して言えば、他の人たちと比べて囚われていないと言えるかもしれません。あくまで比較的には、という話ですが(4巻14話)

 

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-炎の水でも氷の大地でも 何でもいい
-それを見た者は この世界で一番の自由を手に入れた者だ
-戦え!!
-そのためなら命なんか惜しくない

もちろんこれを自由に囚われているということはできます。実際作中にあっても目に入ってくる不自由をどうしても我慢できない感じなので、自由への固執と言ってしまっても差し支えないと思います。その当事者が不自由を感じているかをあまり斟酌してない部分もありますから、彼なりの自由の押し付けになっているような部分もあると思います。

 

あれ?ユミルと重なってきましたね。


というわけで、ここでようやくユミルに戻ってきてもらいますが、彼女は最終的に「生きること」に囚われない行動を選択しました。その自分自身の行動を彼女はこう評しています(12巻50話)

 

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-女神様もそんなに悪い気分じゃないね

ここで彼女が言っている女神様というのは、自身がかつてヒストリアを揶揄して言った言葉であると考えるのが自然でしょう(10巻40話)

 

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-そんで私に女神クリスタ様の伝説を託そうとしたんだろ?

承認欲求に背中を押されて自らの命を投げ打とうとするヒストリアを皮肉るために放った言葉、それが「女神様」でした。それを自分に対して使ったわけです。ただしユミルの最後の選択がヒストリアの行動と異なるのは明らかで、その行動はパラディ側には意味不明だと ”わざわざ” 記述があります(12巻50話)

 

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-ユミルが取った行動の意味はわからなかったが

同様にヒストリアにさえ分からないと言わせています。マーレ側にも「なんで返してくれたのか謎だけどラッキー」くらいの感じがありました。ベルトルさんとライナーの二人には感謝されるでしょうが、それ以外の誰からも認められることがないのは分かり切ったことで、根本的に「女神様」とは異なるわけです。

ところが動機や内面の違いはあれど、結果的にやっていることだけ見れば自分も同じだと半ば自嘲しているのだと思います。

 

「かつてみんなのために生きたから今度は自分のために生きよう」という想いに固執し紆余曲折あった結果、最終的に「自分のために」する行動が「みんなのため」の行動になっていたと。もちろん彼女にとってはそれが「自分のために」したいことだったので、たとえ女神様な行動だとしてもそれも悪くないと言ってるのでしょう。それはまた1度目の人生への自己承認でもあると思います。

生きることにも承認欲求にも囚われていない、利己でも利他でもない、それでいてみんなに良い結果をもたらす選択。ユミルの命が失われる点だけがマイナス要素ですが、それをひっくるめて彼女自身が満足している様子。過去にも未来にも囚われず、個の満足と全体の満足を同時に満たす選択。

これがユミルの選択が究極だと私が思う理由です。

 


そしてここからはただの推測に過ぎませんが、おそらくラストはこの選択に重ねてくるんじゃないかと思います。

アルミンが英雄様としてヒストリアの女神様に重ねられているであろうことは以前の記事で指摘しました。エレンとユミルの類似点については今回書いた通りです。つまりヒストリアとユミルの行為が結果的に同じになったのと同様、エレンとアルミンも結果的には同じ着地点に落ちる感じになるだろうと。世間の誰からも認められない”英雄様”になるんじゃないかということです。

メタな予想でいうとそれはエレンとアルミンという正反対な二人の共同作業のようでもあり、たぶんミカサがその間を取って結実する感じになるんじゃないかと予想します。そしてたぶん、これを王道面から見ると「やっぱり親友だけあって最後は同じだったね。やっぱ友情は偉大だね!」ってなりそうだし、当ブログらしく歪んだ見方をすれば、「人間のやることなんて突き詰めれば同じだよね」ってことになりそう笑

先にちらっと書きましたが、もし古生物が「生きること」だけに従った行動機序を持っていてユミルの民のご主人様みたいなものであるとするなら。ここはアルミンがツッコミそうな気もするけどまぁ分からないですが、エレンというか進撃というかにとって「ただ生きること」を強要され続けるのは窮屈であるんじゃないかとも思うんですね。道というものが進撃を縛り付ける鎖でもあることになるわけです。たぶんですがエレンの感じている不自由さの根源はここにあり、それを社会に投影してしまっている部分がありそうに思います。もしそうなら失くさないと。

それと同時に。相手を理解することを諦めないならば、それこそウーリがやったように相手に目線を合わせて相手と同じ土俵に立つことも必要だったりするわけです。あの一件はケニーの言ったように暴力が先になければ実現しなかったのは否定できない事実でしょうが、それでもウーリは「力」で解決することをしなかった、それ以上「力」を振るわずに地上に降りて行ったわけです。世界の人々がユミルの民を憎み恐れる根源は「巨人の力」にあります。なら失くさないと。地上に降りないと。

 

そして、全ての巨人は駆逐されましたとさ。


・・といった感じになるのかどうかは分かりませんが、ラストが楽しみですね。

 


さて、私は今までさんざん承認欲求だとか抑圧だ無意識だ個だ全体だとか囚われてる縛られてると、まるで狂ったように繰り返し進撃から抜き出してきました。しまいには社会や遺伝子の奴隷だとかまでのたまってるわけですが、それがなんなのってあたりをまとめていきたいと思いますが長くなったので後編に続きます。

 

 

 

 

 

 

 


-おまけ-

ユミルついでで、記事にする機会が無かったけどずっとユミルに関して思っている疑惑。とはいえそうであろうが間違っていようがもはや作中で語られる可能性はとても低そうな与太話なので、時間の無駄を覚悟の上でどうぞ。

 

 

 


とりあえず結論というかその疑惑から書きますが、

 

ユミルってやっぱ王家筋じゃないかな?


もともとこれを思ったのは幼少期のエピソードからなんですが、そう考えないと不自然に思えて仕方がありませんでした。なぜって多くの人が信じているからです。たとえばそれが事実かどうかはともかく「王家のご落胤がどこかにいる」なんて噂がまことしやかに語られていたとすれば、いきなり子供を連れてこられても信じる人が多いだろうし、そもそも適当な子供を連れてくるという発想自体にも繋がると思います。でもそういったのが一切無かったらどうなんだろうと。

もちろんベルトルさんのご先祖(注:確定もなんもしてません)が一流の詐欺師だった可能性もありますし、何かに縋りたくなるような時代だったからと言えばなんとでもなるとは思いますが。

 

次にこれ(22巻89話)

 

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ここはアニメでも同じシーンがあるわけですが、アニメの方には続きがあって上空に見える道が8本に枝分かれしていきます。これには2つ解釈が私の中にありまして、まずユミルのいる場所が9本目、すなわち顎の道であるという解釈です。普通に考えると多分こっちではないかと思いますが、だとして、原作では作者は2本の部分までしか書かなかったんですよ。じゃあ9本あるはずの道が2本だけ見えるのはどこですかと言えば、元々3姉妹で3本に分かれた内の1本、それも根元に近いあたり、もしくは座標そのものみたいに考えられるわけです。でもどうしてただの捨て子のユミルがそんなところに行けるんでしょう。そもそも道だか座標だかに行けてるだけでも特殊なわけですし。つまり3家の内のどれか1家の系統であるのではないかと。

もう一つの解釈というのは、以前書いた進撃が道からロストしたことにより8本だったというものです。当時はまだ襲撃前でフリーダが進撃を思い出してないはずですからね。でもそうするとユミルのいる場所は座標そのものである可能性が高くなり、結局上と同じなんですがなんでそんなとこに行けたのってなるわけです。

まぁこれも「過去に道を見た者もいる」というセリフがあるので、確たる根拠にはならないのですが。

 

最後は少しメタな話です(10巻40話)

 

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-私は生まれ変わった!
-だがその際に元の名前を偽ったりはしてない!
-ユミルとして生まれたことを否定したら負けなんだよ!

このセリフ。今回の記事を読んでいただいてるとピンとくる方も多いのではないかと思いますが、これもやっぱりブーメランだと思うんです。要するにヒストリアが家名というものに縛られていたことに対する指摘で言ってるわけですが、その実ユミルも過去の人生、ユミルという名前を与えられた人生にガチガチに固執していたわけです。だから名前を捨てられない。

もちろんそれで完結してはいるのですが、最初にたらればで挙げたようなことがあったとすると、非常に興味深いセリフになるかもしれません。

 

巨人大戦後、王家の末裔が迫害されていたことは作中で明確に描かれていますよね。ユミルが生まれたのは壁の襲撃時点からおよそ70~80年くらい前と推定できます。つまり終戦後20~30年程度、戦後第1~2世代目くらいになります。巨人大戦の頃子供だった、あるいは戦後まもなくして生まれた王家の人間がいれば、ちょうど子供ができてもいい頃合いでもあり、そしておそらくその王家の人々は暗澹たる人生を送っていたはずです。せめて子供だけでもマシな人生を送らせてあげたい、そう考えるのが親心かもしれません。

彼らが命を狙われ迫害されるのは "フリッツ氏” であるからです。だったらフリッツの名なんて捨ててしまえと。赤子を直接捨てたかどうかは分かりませんが、いずれにしてもフリッツ家の子供でいるよりマシだろうと考えてもおかしくないんじゃないかと思います。もし実際にそういうことがあり、もしユミルが本当にその子だったとすれば、ユミルの身体的特徴はより詐欺師にとって都合が良かったはずですから、奇しくもユミルとして祭り上げられることにも説得力が生まれます。

そしてもうお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、もしこういう感じだとするとクシェル・アッカーマンがしたことと重なってくるんです。名乗る価値のない名前。ただの〇〇。クシェルはせめて息子だけでもとアッカーマン姓を与えなかったわけです。

 

パラディの壁の王はフリッツの名前を捨て今までの歴史と決別したかった。その壁の王に反発して迫害されたアッカーマンは名前を捨て今までの歴史と決別したかった。大陸ではカリナはエルディア人であることを捨て今までの歴史と決別したかった。ライナーは自分であることを捨て自分はマルセルだと言った。

そこにもう1ピース加わることになります。

大陸では壁の王のしたことによりフリッツ家が迫害され名前を捨て今までの歴史と決別したかった。

負の連鎖なんですが、やった方もやられた方も酷いことになっているのがより鮮明になります。みんなが「個」を捨てていくという構図、「全体」の中で生きるために「個」を捨てる他なかった。でも本当は誰かに見つけて欲しかった、自分という「個」を。

 

だからそこに異議を唱える者が現れた(10巻40話)

 

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-私はこの名前のままでイカした人生を送ってやる
-それが私の人生の復讐なんだよ!!
-生まれ持った運命なんてねぇんだと立証してやる!!

そして彼女は「個」を見つけるために奔走したんです。このセリフはそういったことにならないでしょうか。


そしてこれは同時に親への反発の構図にもなります。もちろんユミルは知る由もないでしょうが、親がたとえ子の幸せを願って個を捨てさせようとしたのだとしても、そんな敷かれたレールはごめんだ、私は私の「個」のままユミルと言う名でハッピーになってやるという個の決意、子の反発。

分かりますか? 親は子の幸せを願って良い学校を出ろ、良い会社に勤めろと社会に従順であることを教えます。だけれども子はそこに何とも言えない束縛を感じ、反発するんです。

しかもそれを、大陸側の旧王家の末裔が島の新王家の末裔に説くという図式です。かつて子である新王家に反発された親が、子に対して「おまえはおまえらしく生きろ。無理に名前にこだわって偽ったりする必要もない」と言っているのと同じことになると思います。それってつまり、親からの承認ですよね。

 

ユミルが王家だとすると綺麗に話が繋がるんです。

ちなみにこの妄想は綺麗にはまり過ぎるだけに捗りまして、ヒストリアはまだ「私の本当の名前」を言ってないんじゃないかと思っています。いや、ヒストリア自身はレイス家の生まれだからそれでいいかもですが、島の王家はまだ本当の名前を取り戻してないですよね。

ラストでヒストリアがあくまで人間の一家としてフリッツ家を名乗り外の世界と向き合っていく。無いかな~。

 

-おまけおわり-

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 31st Jan 2021
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