進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

107 世界観⑪ being human being(s)


※この記事は1本の記事を分割した後半ですので、まずは前半からどうぞ。

 


みなさんこんにちは。

 

後半はだいぶ堅めの話、進撃の話だけど進撃の話をしていません。つまらない自覚があります。でも書かないと進まないのです。

 

 


この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は3巻11話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[being human being(s)]

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さて、割と今までの総括みたいな話なのでどこから話そうかと考えまして、あの日のことを思い浮かべました。というわけで、もはや今さらみたいな感じにはなってしまっていますが、134話のはなしから始めたいと思います。書いた当時のままだったりして違和感のある部分もあるかもしれませんがご容赦ください。

 


134話でまず注目するべきはここでしょう(33巻134話)

 

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-…この責任は 我々すべての大人達にある

まずはB面、すなわち王道物語としての側面からお話しますね。このスラトア基地の司令官による自分たちの過去の行いを顧みる言葉や、パラディ島という敵であるはずの人々が地鳴らしを止めようとしているのを知ったことは、和解への糸口に当然なり得ると思います。現在は英雄たちが英雄になるシーケンスだと思いますので、司令官がやたらと察しがいいこともご愛嬌といったところでしょうか。ここは多少皮肉が込められているかもしれませんが、司令官の言ったことがほぼ世界の人々の総意になっていく、こんな主語全体化した展開は王道物語ではわりとよく見られることだと思いますし、おそらくそういう感じだろうと思います。

ここで思い出すのが、サシャ父が言っていた森のはなし。

大人は子供に過去の責任を負わせるべきじゃないみたいな感じでした。134話は子供が強調されまくっていましたから、サシャ父の言葉を思い返した方も多かったのではないでしょうか。子供たちを憎しみの歴史から解放してあげるためにも互いを思いやることを忘れてはいけない、確かにその通りだと思います。

 


ではA面の話に戻しますね。

 


じゃあそれって、具体的には何をするんでしょうか? 相手を思いやるように努めるんでしょうか。間違っているとは言いませんけど、それで何かを変えられると本当に思えるでしょうか。

それって「きっと分かり合える」「何かが変わるかもしれない」と遠くを見つめるのと違いがあるのでしょうか。


もしくはこういう考え方もできるかもしれません。こうした悲劇が生まれないように争うことのむごたらしさを子どもたちにもちゃんと伝えていかなければって。これも間違ってるとは言いませんが、作中では半ば否定されているかもしれません。だってこれ、親が子供に思想を植え付けるということにもなりかねませんよね。


まぁでも、子供にどうこうではなくとも自分だけでも思いやりを持とうとすること、まずは身近な人たちを大事にすることから始めようと思うのは、ぼんやりとはしてますけど大切なことだと思います。


それによって地鳴らしが起きたようなところもありますけども。

 


じゃあなんだってんだってところで、133話が効いてくると思うんです。


ところで前回の記事をあげた後になって、おまけ部分に書いておくべきだったことに気が付きました。

133話で英雄たちがやっていたことは、あの、世界中から愛されているヴェールマン隊長がやっていたこととほぼ同じだと思います(3巻10話)

 

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-もう一度問う!!
-貴様の正体は何だ⁉

あの時の隊長は「巨人は人類に危害を及ぼす敵である」という壁中人類がそれまでに得ていた知見に従っていただけなのですが、話し合いの全過程においてその前提条件を崩すことがなかったので幼馴染三人組と全く話が噛み合いませんでした。これを読者は幼馴染側の視点から見ているので、おそらく隊長のことは頭おかしいクソ野郎くらいに思った方も多いはずです。

でも彼がやっていたことは、敵である可能性が十二分に考え得る存在に対してできるだけ被害を出さないように排除しようとしていただけです。実際取り囲んでいた兵士に怪我人が出ないよう再三の注意を促してますし、本人も言ってましたが規律通りの動きをしているはずです。確かに間違っていません。気が小さいとかはどうでもいいことで、彼はルールで決められていることをクソ真面目に守って職責を全うしていただけなんです。何も悪いことはしていないし、だからピクシス司令も一切の叱責をしていません。

当時のアルミンの決意表明はそれはもう見事なものでしたし、兵士たちも心を動かされていましたが、それでも隊長には通じませんでした。なぜでしょうか。

それは、隊長が前提としていた「巨人は敵である」そして「エレンは巨人である」というフィルターを通してしか物事を考えなかったからですよね。そしてそれを覆すことに抵抗感があった。だから人間の言葉を使って惑わせてきてるに違いないみたいな、その前提に沿った考えばかりが浮かんでいたわけです。

同じですよね。「エレンは自分たちに止めて欲しいと思っている」という前提を通してしか物事を考えていないから、話が噛み合わないんです。

でも133話をB面の視点から見ると、というか普通に読むと「英雄たちは分かり合おうと努力したけど叶いませんでした」というエピソードになっていると思います。それはつまりヴェールマン隊長も「分かり合おうと努力したけど叶わなかった」ってことなんですよ。「きっと分かり合える」とずっと願ってきて、口でも頭でも分かり合おうと努めていたはずのアルミンですらあの体たらくなんです。「分かり合えるように努める」なんてのがどれほどのものか、それは幼馴染視点でのヴェールマン隊長を思い出していただければハッキリ分かるはずです。

 

でも、それが人間なんです。人間ってそういうものなんだってことだと思うんです。

 

そもそもの話、134話って「司令官が遂に分かってくれてわーい」でも「カリナが気付いてくれてライナー良かったね」でもないですよね。おそらく「やっとかよ」って思った方も多いのではないでしょうか。

そうなんです。この人たち、ものすっごく都合がよろしいんです。この人たちがそう思ったのは、自分が死ぬということをほぼ確信したからです。バカは死ななきゃ治らないを地でいってるというか、それまでは対岸の火事に無視を決め込んでいたんですよ。そしてもし地鳴らしが無くてパラディが制圧されていたなら、今でも島の悪魔どもとか言いながら奴隷扱いしていただろうことは容易に想像できます。この人たちがやっていることは、散々人を小馬鹿にしたあげく、ナイフを突き付けられたら「ごめんなさい、もうしません」、これです。

 

でもこれが人間です。

 

日本は戦争の過ちを後世に伝えようと平和的な憲法を掲げ、二度と繰り返さないといった感じで教育においても強調していますよね。戦後70余年しか過ぎていませんが、果たして現在の私たちのどれほどが戦争について真剣に考えているのでしょうか。中東やアゼルバイジャンで何かが起こっても知ったこっちゃないですよね。それよりも今日のメシが大事です。諸外国に対してヘイトスピーチを巻き散らしている日本人もたくさんいます。おそらく私たちが戦争や平和について本当に真剣に考えだすのは、どこか他国が日本に攻めようとしてきた時でしょうか。後世に伝える?何ソレ?

 

でもこれが人間です。

 

進撃を読んでいろいろ思うところがあった方も多いのではないかと思います。差別は良くないとか決意を新たにした方もいらっしゃるかもしれません。でも、連載が終わって遅くとも1年くらいしたらだいたい忘れますよね? 少なくとも私は今までの自分を振り返るにそんな感じになるだろうと予想しています。1年もったらたいしたものです。1か月もすれば忘れるまではいかずとも決意なんて薄れているのは間違いありません。

 

でもこれが人間です。

 

 


さて、アルミンほどの賢い人が、理詰めでどんな問題も解決できてしまうほどの人が、「分かり合う」くらいのことをこうもできないのはなぜでしょうか。

それはおそらく、彼が「分かり合えると思っている」からです。

「分かり合えると思っている」というのはどういうことかと言いますと、話をしたりとかすれば自分は他の人と分かり合うことができると思っているということです。そのまんまか。

でも前回指摘したように、彼は分かり合うことのスタートラインにも立っていないような方法で話し合いに臨んでしまっているわけです。つまり、彼は「自分が分かり合う方法を分かってないことを分かってない」、あるいは「自分が分かり合おうとできていないことを分かってない」んです。

自分ができもしないことをできてると思い込んでいるんです。

これはアルミンが賢い人物であることによって「アルミンほどの人でも」ということでより強調されているのだと思いますが、みんなそうなんだと思います。あれほど聡明で物事をなんでも見通すことができてしまうアルミンでさえ、唯一と言ってもいいくらい見えていないものが、

自分自身なんです。

どうも人間と言うのは自分が一番見えにくくできているようです。それは今まで書いてきた承認欲求を始めとする内なる衝動やそれに伴う防衛機制などの心の仕組みが、目を逸らすように働きかけていたりするからでもあるでしょう。上で「人間なんてこんなもんだ」ということを連発しましたが、あれに反発なりもやもやした感じを抱いたならば、おそらくあなたの直視したくない何かに刺さったり、かすったりしたのかもしれません。あれはグロス曹長と同じくありのままをただ言ったに過ぎないはずです。それを認めたくない内なる力が、あなたの思考の方向性に影響を与えている可能性があります。

グリシャは妹を死なせました。グリシャが壁の外に連れ出したから妹は死にました。連れ出さなければ妹は死にませんでした。それ以上でもそれ以下でもありません。でも彼は「自分が妹を死に導いた」という事実を認めたくないため、父やマーレを悪と呼ぶことで心の折り合いをつけていきました。もちろん言うまでもなくグリシャ自身は「自分が妹を殺したなんて認めたくないからあいつらが悪いことにしよっと」なんて考えていたわけではなかったですよね。当時の彼は本当にマーレが悪いんだって心の底から信じていたわけです。本人の知らない自身の心の動きに背中を押され、さらに自身の正当性を塗り固めるために都合の良さそうな資料を都合良く解釈し、相手が悪だということを証明することに明け暮れていきました。

マーレがやっていたことと同じなんです。彼はマーレを悪だと糾弾しながら、そのマーレと全く同じことをしていたわけです。しかも本人にはその自覚は全くありません。

傍から見ていると、あきれるほどの客観性の無さではないでしょうか。でもこれが人間の性質なのです。他人の行動は客観的に見ることができたとしても自分のことになると途端に見えなくなってしまったりします。

だからこんな話を見ながら「グリシャはバカだなぁ」って思ったりしてしまうわけです。自分は違うんだと。

自分はこんな人たちとは違うから、関係ない。自分はもっと上手くできる。自分が団長にさえなればすごい結果が出せるのだ。

そのココロは「自分が特別だと思っている(思いたい)」でしたよね。

そして自分の特別さを証明するために躍起になっていきます。そのためなら他人に迷惑をかけようが、団員を無駄死にさせようが関係ありません。時に嘘でもなんでも使って特別な自分を演出していき、その嘘が露見しないようにさらなる嘘で塗り固めたりなんてこともしてしまいます。あるいは自分の正当性を示すため、自分を相対的に上げるために人の悪いところを探したり生み出してしまったりします。マーレは悪だ。エルディア人は悪魔だ。

グリシャは後にクルーガーに対して後悔や反省を語っていましたが、これもまさにマーレの司令官そのものです。


でも仮に、グリシャが人間の心の仕組みを知っていたらどうなったんでしょう。

「あ、今じぶんは嫌なことから目を背けようとしているかも」「今じぶんが怒っているのは、さっき言われたあの言葉に痛い所を突かれたからかも」

そんな視点を持てていたかもしれません。

「あれ、私はライナーを自分の復讐の道具にしていないか?」
「あれ、僕はエレンが止めて欲しいって決めてかかってないか?そう思いたいってことか?」

これが自分を俯瞰するということではないでしょうか。ようやくではありましたが、司令官もカリナも自分を客観視したんです。そしてこれこそが、他者と本当に分かり合うということの、あるいは森を抜けようとすることの、第一歩なのではないかと私は思います。さらにこれが進撃が放っている大きなメッセージだろうとも思います。


とはいえ、自分を俯瞰すると言われてもピンとこないかもしれません。だって私たちはすでに常日頃から他人には見えない自分の心と向き合ってるはずですからね。

でも今まで書いてきたように、それを妨害するというか、思考を誘導する見えないものが人間には備わっているんです。

だから自分を俯瞰するには、つまり自分を知るには、人間を知る必要があると思います。というか私は自分を知ることの大部分がそれだと思います。なのにあまりにも私たちは人間の性質を知らない。

それどころか人間の性質という言葉に違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。かつて私がそうでした。なぜなら、人間は知性や意思があって、それぞれ個性があるんだから、性質なんてひとくくりにできるものじゃないだろって信じていたからです。そう思いたかったんですね。そのくせ、犬は喜ぶと尻尾を振りますみたいな動物の性質・習性は普通に受け入れていました。わかりますか?この根底にそこはかとなく流れている「人間は特別だ」という感じ。

私は特別だ。「私」はその時の都合によって拡大解釈され、うちの会社・学校はすごい、日本人は特別だ、人間は特別だって思いたがってしまうわけです。いやいやそんなことないよって顔をしながら「日本人は優しい」なんて言われるとちょっと気持ちよくなっちゃたりします。脳内の報酬系と呼ばれる部分で心地よくなる物質が分泌されるんです。そしてもっとそれが欲しくなり、自分が特別である材料を手あたり次第に求めていくのです。

うちのめんどくさいブログを読んでくださってるようなみなさんには当てはまらないかもしれませんが、実際に「人間は宇宙を記録するために生まれた存在である」とか「人間は全生物を代表して地球のバランスを守る使命がある」なんて信じてる人がいるんです。

こうやって聞くと笑ってしまいますが、現代においても人間を指して万物の霊長なんて言葉が使われ続けています。ご存知の通りあらゆる生物より秀でた存在くらいの意味ですが、残念ながら人間はそこらへんに転がっている石ころとたいして変わらない存在です。でもそんな言葉が廃れずに残ってしまうくらいみんなそうだと思いたいんです。

近年インターネット上で流行ったサービスの数々、インスタ、ツイッターyoutubetiktokフェイスブック、ブログ、どれもが承認欲求に訴えかけるものです。みんな自分が特別であると思いたい、それを示したいんです。

そう思ってしまうのがダメとかいう話じゃないですよ。これが人間の性質なんです。そして自分だけはそうじゃないと思ってしまう、それも人間の性質なんです。


さて、こういった今まで書いてきたような人間の性質について、みなさんは知らなかったわけじゃないのではとも思います。おそらくみなさんは知っていたけど知らなかったんじゃないでしょうか。

つまり、「初めて知った!」のではなく、「言われてみれば・・」くらいの感じではないでしょうか。知らなかったわけじゃないけど目を逸らされていた。その光景は何度も何度も見てきたけど、見てなかった。

そしてもう手遅れになって初めて、司令官やカリナやグリシャのように気付き、後悔と反省の弁を述べるわけです。英雄が必ずしも現れるとは限らないにも関わらず。

でも進撃を読んでいる私たちは、既に人間の性質を知る取っ掛かりを得ていると思います。あとは自分が人間という生物であることを受け入れるだけ。自分が他の何物とも違う存在だと思っていたら受け入れるのは難しいでしょう。漫画のことなんて関係ない、架空の人物がなんだよくらいのことは思い浮かんでもおかしくありません。それもまた人間の性質。そしてそれに身を委ねるのも個人の自由です。


承認欲求さんの名誉のために言っておきますが、必ずしも悪者なわけではありません。むしろ承認欲求が無かったら、これほどの科学や文化の発達も、スポーツの大記録も生まれていなかったでしょう。それどころか人間という種がとっくに滅んでいた可能性もおそらく高いと思います。強い原動力にもなるので社会で成り上がるのにも承認欲求は有効に働いていると思います。なのでおそらく、みなさんが承認欲求に背中を押されて邁進している方が日本は強くなるんじゃないかと思う部分も多々あります。だからみなさんはそのままのあなたでいてね、という感じもなくはないのですが、生存ということに関して急速にリスクが減少した現代ではその強さを持て余している感もあり、満たしても満たしても際限なく満足することを要求してくる承認欲求に苦しむこともあるかもしれません。そういった場合は承認欲求や人間の性質について「知る」ことはいいんじゃないかなとも思います。

まぁ言葉で四の五の言われてもピンとこないかもしれませんので、少し体感してもらうのも一興かもしれません。一歩引いたところから自分の心を見つめてみることを試みるのもなかなか面白いです。特に怒りの感情が見えやすいと思いますので、怒った時が一番いいと思います。最初は衝動に抗えなかったりするでしょうから怒ってしまっていいです。その感覚や記憶が鮮明なうちに思い出してください。何かの言葉や見たものなどをきっかけに、心がグイっともっていかれる感じが見て取れたりします。そしてその瞬間から風景というか、心の色が変わったかのように、その怒っている事柄に関する怒りを増幅させるような思考が、心の奥底から次々に湧き上がってくるのも見えてきたりします。自分は考えようとしていないのにどんどん湧き上がってきます。時にそれを思い出してる内に着火して再び色が変わることさえあります。まぁ見え方はおそらく人それぞれだと思いますが、後になってよくよく考えてみるとそこまで怒るほどのことにも思えないのに、その時は考えも及ばなくなっている自分がいたりします。

私たちには個性があり、自由の定義によるとはいえ少なくとも自立して思考できる自由意思はあると思います。だけれどもその自由意思の方向性に影響を与えている見えない何かが確かにあるようなのです。でもこの仕組みを人間が性質として持っていることを知らないと、かつての私がそうでしたが、それは自分の思考だと信じ切ってしまうんです。そのくせ後々になってなにかあった時に矛盾に気付いて司令官やカリナのようになってしまったり、あるいは気付かないまま矛盾を覆い隠すようにエルディア復権に邁進してしまったりするんです。


今まで「人が発する言葉はその人の心の中にあるものが表れてくる(のでブーメランになる)」みたいなことを何度か書いてきたと思います(21巻84話)

 

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-私情を捨てろ

 

アルミンはかつて「分かり合える」と夢見心地に語っていました。それは自分が分かり合えてないことを心の奥底で感じていたからこそ憧れているのではないかとも書いた覚えがあります。その実、やっぱり分かり合える土台ができていませんでした。

そんなアルミンを複雑な表情で見ながら、そんな夢物語じゃなくてとばかりに現実的な方策を述べるエレンが何度か描かれていました。そして一番ガキくさい夢を見ていたのがエレンだったというわけです。

他者は自分を映す鏡とはよく言ったもので、周囲の人に対して嫌に思ったりするのって自分の嫌な部分だったりすることが多いように思います。自分の嫌な部分を見せつけられてるようで目を背けたいから反発・非難するわけです。あるいは人になにか言われて腹を立てるのもそうであることが多いでしょうか。後で考えると自分の考えていることとやっていることがちぐはぐなことってあると思います。でも他者にそれを指摘されると腹が立つんですね。本当はどこかでその矛盾に気付いているからです。知っているのに知らない。それを怒りで覆い隠して知らなかったことにしていきます。本当はそうやって言ってくれる人は貴重です。訓練兵時代のエレンに対するジャンのような人、近すぎる人よりも少し距離のある人の方が客観的に見たままを言ってくれたりします。でも距離のある人だから腹が立つんです「お前に何が分かるんだよ」って(22巻90話)

 

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-お前がアルミンの何を知ってるって言うんだ?

まぁ八つ当たりみたいなものなんですが、だからこそ叩くのに都合の良い根拠をどこかから探してしまったりします。それはたとえば一般論的な正義だったり「以前からあの人は~」みたいな全然関係ない素行だったりします(18巻72話)

 

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-てめぇこそ何で髪伸ばしてんだこの勘違い野郎!!

まぁこれはもう仲良しこよしですが、以前からこういうことをやってたわけです。そうやって自分の方が正しいと補強に補強を重ね、周囲の同意も得られたりすると心地よい感覚のご褒美がもらえ、エスカレートすると棒を振り回すようになってしまったりします。

でももうご存知の通り、怒りや心地よい感覚ってのはご主人様が私たちを誘導するために用意してるんです。そのことを知っていたら立ち止まれるかもしれませんよね。あれ?私は今ご主人様の思惑に踊らされてるのかって。

 

そういう意味では(28巻112話)

 

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-無知ほど自由からかけ離れたもんはねぇって話さ

このエレンの言葉は真理を突いているかもしれません。ブーメランであるとも思わなくはないですけど。


私たち人間には思考をすることのできる高い知能があります。思考ができるゆえ、今まで書いたようなことで思い悩んだり、苦しんだり、誰かに裏切られたと憎しみを抱いたりすることができてしまいます。何も考えずにただ生きている生物の方がよほど幸せであるとも言えるかもしれません。これが人間のクソな点。

逆に思考ができるゆえに感じられているものもたくさんあるわけで、やっぱりここに行き着いてしまうように思います(22巻89話)

 

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-どうもこの世界ってのは
-ただ肉の塊が騒いだり動き回っているだけで
-特に意味は無いらしい
-そう 何の意味も無い
-だから世界は素晴らしいと思う

思考があるからこそ生きることだけに囚われずに行動する自由があるんです。もし人間に思考が無ければただ「生きるため」というルールに従って生きていくだけでしょう。あるいはアリやなんかのように集団が生きることを重視して生きていくだけ、たいした違いはありません。でも人間は思考ができるゆえ気付くことができます、人生に意味なんてないことに。これが人間の良い点だと思います。

 

意味が無いから、なんでもできる自由が、選択肢があるんです。

 

もちろん自由と言っても、こんなことは書くまでもないでしょうが、それをどんなことでもしていいと捉えて無法者になるのはお子様の理論です。誰かの作った食材を食べ、誰かの作った衣服を着て、誰かの整備した電気や水を利用している時点で私たちは社会の恩恵を受けています。他者の都合や社会のルールを完全に無視するのは、子供が「僕を見て~」と駄々をこねているのとなんら変わりません。

だけれども社会の要請は事細かく、自らの承認欲求なども相まって強迫観念のように襲い掛かってくるかもしれません。「~しなければならない」「~であるべきだ」、人付き合いを始めとする儀礼、地位や名誉、家柄、家族の期待、会社の期待、国の期待、全てを背負い込んでいたら人生がいくらあっても足りないでしょう。でも全体の視点から見ると個人は替えの効く器でしかないんです。その役割を果す以上のことは求められていません。そこに自由はあるんです。社会に対しては適切な折り合いさえ付けていけばそれでいい、なのに実際は内なるものに背中を押される形で自ら背負い込んでいるだけなことも多いように思います。


だから後は社会に心臓を捧げるなり自分のやりたいことを優先するなり、自分がしたい方を選択すればいいのだと私は思います。承認欲求に身を委ねる人生も、他人に迷惑をかけなければ、まぁいいんじゃないでしょうか。

でも自分がしたいことをするには、やはり周囲と折り合いをつけていかなければなりません。もし自分の都合だけを押し付ければ、それに反発する他者は必ず現れます。だから相手の都合をも考える必要があるのですが、その時私たちは自分の尺度で自分の都合の良いように相手を想像するように出来ています。そのことを知らなければ往々にしてぶつかってしまうわけです。だからまずは自分を知ること、自分の思っていることが果たして正確なのかどうか客観視すること、それによって初めて他者の視点というものを掛け値なしに考え始めることができるのではないか、そう私は思います。

 

ひとつだけ言えるのは、「子供には過去の遺恨を背負わせたくないよね」って遠い空を見つめながら願ったところで、決して何も変わることはないということです。残念ながらそれはみんながいい人であることを前提にしないと成り立ちません。もしそれが可能なら、シンドラーのリストのような映画が世界的にヒットした時点でとっくに差別なんて無くなってるはずなんです。でもそうはなっていません。

だからユミルの選択だと思うんです。ユミルはヒストリアの中に見出した自分を見つめ、そして他者を見つめ、誰もが満足できて何物にも囚われない「選択」を「実行」しました。

もちろん世界の平和がどうだとか、行く末がどうだとか、そんな大きなことを個人でどうこうなんて考えてもほぼ無意味です。でもフラクタルを思い出してください。自分の家族や周囲というのも、小さな世界であり社会です。それは言わば社会全体の縮図であり、逆にその小さな社会が集まって社会全体が形作られているわけです。だから身近なことから始めようというのは決して無意味ではありません(15巻61話)

 

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-一人一人の選択が この世界を変えたんだ

 

 

 


次回に続きま・・続くはずですが更新未定ということで。

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえば、記事中で怒った瞬間から心の色が変わるみたいなことを書きましたが、たぶんこれが「座標」の意味、というか「座標」がスイッチした瞬間じゃないかと思ってますが、どうかな。

つまり、座標が移ると世界の色が変わるんです。

 

 

 

 

 


-以下駄文-

 

メッセージみたいな話をしてて思い出したことをひとさし。

 

アニメで現在やっているあたりはちょうど私が進撃を読み始めた頃の話なので非常に感慨深いものがあるのですが、ふと最初に読み始めた頃と今とでガラッと見方が変わってることに気付きました。

最初に読んだ頃、私は「強いメッセージ性もあって深い物語だ~。」くらいの感じに思ってたんです。深いという点は今も変わらないのですが、メッセージ性みたいなものについては相対的に弱いと感じていたりします。

というのも、巷に溢れるいわゆる王道ストーリーって、ものすごく強いメッセージを放っているんです。

「勇気があれば困難は克服できる!きみはなんでもやれるんだ!」
「愛って美しい!素晴らしい!世界に愛を溢れさせよう!」
「友情を大事にしよう!友を信じる心はなによりも大事だ!」

みたいな。超テキトーにたった今考えただけなので雑なのはご容赦いただきたいのですが、まぁだいたいこんな感じのを放っているように感じます。そして私たちはそれにあてられて、映画館を出てしばらくは強くなった気分になってたり、愛に溢れた人になってたり、正義や友情を信条とする人になってたりするわけです。だいたい30分くらいは効き目が持続します(※効果は個人差があります) 

それにひきかえ進撃ときたら、ご存知の通りマーレの視点を描いちゃうし、英雄視点と大魔王の視点を行ったり来たりしてしまうしで、何が正しくて何が悪いのやらさっぱり分からない始末です。要するに王道ストーリーの正義のヒーローが正義の名の元にぶっとばす相手側を克明に描くことで、じゃあ正義って一体なんなんだみたいな疑問を惹起してるわけですよね。

で、これって真の報道ではないかと思うんです。

昨今というか、昔は知りませんが少なくとも私が物事をそれなりに理解できるようになってから見ている報道って、「強大な権力や圧力に屈せず、大衆の正義を行使する」みたいな偏った印象が強いです。

権力に屈しないのはいいんですが(そもそもおよそ全ての報道関係自体が強大な権力になってしまっている点は置いておくとしても、)報道が正義を振るうってのは違うと思いませんでしょうか。しかも国民の代弁者気取りで「国民に謝罪はないんですか?」とかって、なぜか報道が人を裁いているんです。

進撃を読んでいるみなさんはご存知の通り、この世界に絶対の正義なんて存在しませんし、物は言いようで誰かを神に仕立てることも悪魔に貶めることもできます。社説やコラムなどといった自社のスタンスや考えを表明する場ならともかく、報道において一方に偏った視点から物事を伝えるのは違うだろうと思うんですね。

 

少し話が逸れましたが、作者はこんなことも描いています(22巻90話)

 

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-情報は納税者に委ねられる

つまり、調査兵団は手前の意見を述べる立場にあらず、ただただできるだけ正確な情報を渡した上で後は納税者が判断するべきだと。その実、物語においても決して片方に寄り過ぎることなく、双方がどう考え、どんな理由で戦っているのか行動しているのかを描き、それを通じて人間というものがどういう性質を持っていて良くも悪くもどう作用しているのかを描いています。そして作者はこう言っています(6巻25話)

 

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-悔いが残らない方を自分で選べ

つまりは進撃というのは人間に関する最高の報道だと思うんです。そういう意味では、今まで私が戦えとか行動しろとか俯瞰しろとかってメッセージとして紹介してるのは適切ではないんです。あくまで作者は、人間というものをできるだけ開示した上で、それをどう噛み砕くかに関しては私たちそれぞれに選択肢を与えていると思うんです。

だからあなたが選んでください。

 

 

最後に余談の余談ですが、先だって書いたのは単なるマスメディア批判ではなくて、これも人間の性質や社会構造が絡んだ話だと思っています。

たとえばですけど、ツイッターなんかで芸能人が急に政治的な発信をしたりすることってたまにありますよね。そしてそのファンの人々がそれに賛同するような流れ。だいたいこういうのは物事の一部を切り取って全部を批判するみたいなパターンが多いんですけど、得てしてそのファンたちはこんな感じのことが多いように思います。「政治のことは分からないけど、大好きなあの人が言ってるし、言ってることは間違ってないように思えるからそうなんだろう」と。もちろんツイッターやなんかはそういう場ですから、こういった個人の発言自体に問題はありません。

ただこういうのがトレンドになったりして、ひとつの世論として利用されたりしている場合もあるでしょう。つまり影響力を持つということです。で、たとえばその内容が「エルディア人はこれこれこういう理由で悪魔だ」だったらどうでしょう。上記のような単純に無自覚に追従する人もいれば、長いものに巻かれる人もたくさんいると思います。エルディアは悪魔であることを肯定しておいた方が得、あるいは無難ですからね。そうこうしているうちにそれは既成事実となっていきます。

じゃあそこでエルディアはこういう悪い部分もあるけど良い部分もあるよ、なんて報道がなされればそれは大変気骨のあることだと思いますけど、王政編の新聞社も及び腰になっていたように彼らにも生活というものがあるわけです。だからそういった報道をすることは困難であると考えるべきでしょう。あなたが報道関係だったら、批判されたからって生活を捨ててまで書かないですよね。批判すること自体が無意味だとは思いませんが、そこに期待しても無駄でしょう。

つまり、新聞であれテレビやインターネット、著名人や高名な学者であれ、全ては必ずと言っていいくらい ”偏っている” と考えるべきだと思うんです。もちろん私が書いていることだって例に漏れません。

だから一番危ういのは誰かの言っていることを盲目的に信じてしまうことだと思います。つまりは客観性の欠如ということです。これは宗教や怪しい団体とかで起こる問題にも同様に言えると思います。あるいは詐欺や「あばたもえくぼ」からの離婚にも言えるかもしれません。

詐欺はなぜ無くならないのでしょう。怪しい団体がなぜ存続できているのでしょう。無くなるどころか次から次へと出てきます。

それは、盲目的に信じる人がたくさんいるからです。


「私」だけは、違いますけどね笑

 

 


-以上駄文-

 

  


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 31st Jan 2021
updated: none