進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

097 世界観⑤ 々

 

※2020/3/27 一部削除:おまけ部分が全体の主旨にそぐわないので削除しました。本文には一切の変更はありません。

 

みなさんこんにちは。

 

 

なんとなく自分で書いた127話の記事を読み返していたら、冗長だなって思ってしまいました。もう少しスリムにできなかったものかと。

ところで、今回の記事はかなり長い期間を使ってスリム化を図ってきましたので、より冗長になりました。自分でもなんだかよく分かりませんが、そういう理由でスルー推奨です。というか今回は、表面的にはもはや進撃と関係ないだろと言われても否定しきれない感じもありますので、お好きな方だけどうぞ。

 


!!閲覧注意!!
この記事は 生命-I から始まる一連の記事の他、当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は22巻89話からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[々]

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すでに寒さも和らぐ兆しをみせつつある昨今、みなさんいかがお過ごしでしょうか。今冬は記録的な雪の少なさだったそうですが、そのわりに首都圏で先日降った雪はかなり遅めの記録でもあるらしいです。

ところで雪といえば、どなたも雪の結晶は見たことがあると思います。たとえば理科の教科書だったり、あるいはデザインのモチーフとしてもよく使われたりします。その幾何学的な模様は自然が生み出したとは思えないような美しさがありますよね。また一説にはひとつとして同じ模様の結晶はないとも言いますから驚きを禁じ得ません。

 

そんな雪の結晶の模様をよく観察すると、それぞれの模様は違えども、どれもひとつの法則に則ったような構造をしています。まず中心となる大きな部分があってハブのようになっており、そこから6本の枝のようなものが生えています。そしてそれぞれの枝からは再び小さな枝が規則的に生えています。枝それぞれも小さなハブのようになっている感じです。

こういった大→中→小といった具合で似たような形が繰り返されていくような形状のことを、フラクタルとかフラクタル構造と呼んだりします。

 

雪の結晶の他に自然界のフラクタルの例としてよく出てくるのが海岸線なのですが、ちょっとグーグルアースでも見ているつもりになって日本地図をイメージしてください。そこで海岸線に注目して、三陸なんかは凸凹してるなぁって思いながらズームしていくとします。すると岩手あたりの海岸線はずっとでこぼこな感じですね。さらにその凸か凹のひとつにズームしていって市町村レベルくらいまで拡大して見ても、やはりでこぼこしています。さらにさらに一つの湾とか小さな半島の先っぽレベルまで拡大していってもやっぱりでこぼこしているんです。

長崎の五島に面したあたりも、でこぼこに加えて小さな島が入り混じる感じが拡大しても縮小しても同じように見られます。逆に九十九里のようになめらかな線を描く海岸は拡大してもやっぱりなめらかだったりします。

もちろん海岸線は雪の結晶のように整った幾何学模様とは言えませんので厳密なフラクタル構造ではありませんが、そこにはなにやら不思議な大から小への相似、フラクタル様(よう)とでも言うような形が見出せます。

 

フラクタル様ということで考えてみれば、先ほど雪の結晶の時に”枝”という表現をしましたが、樹木もそうですよね。まず中心となる幹があって、そこから似たような枝がいくつも生えていて、さらにその枝には似たような小枝が生えていて、その小枝にはまた、といった具合です。枝だけ見ても木全体と同様の形ですし、小枝だけでもやっぱり同様です。

以前の記事で超銀河団と動物の神経細胞ネットワークの相似について書きましたが、これもフラクタルと言えます。ネットワークといえば私たちがたった今使っているインターネットもそうですし、前回お話した記憶の結びつきというのもフラクタルです。

それから銀河というのは中心のブラックホールの周りを恒星が回っています。その恒星系では太陽の周りを地球などの惑星が回っていて、その地球の周りを月が回っています。さらに地球を構成する原子は原子核の周りを電子が回っているような感じで、フラクタルです。

はたまた私たち人間の構造は、中心となる身体から五つの枝のようなものが生えていて、その各枝からはこれまた五つの指が生えています。頭だけは非対称的ではありますが、感覚器と脳という五つの用途を持った”指”があると言えなくもないかもしれません。フラクタル・・でしょうか。

 

なぜこのように多くの物が規則的な構造を取っているのかと考えてみれば、上記の全てに共通するなにか、すなわちそれらを形作る素粒子がそういう性質を持っているからだろうと考えられます。

 

では素粒子から出来ている”物”にはその性質が各所に現れているとして、物じゃないものはどうでしょう。

たとえば組織。

組織ならなんでもいいのですが、とりあえず会社で例えてみます。会社というのは引っ越ししても同じ会社であることに変わりはありませんから、建物や場所のことではありません。同様に、社長が変わったとしても会社は存続しますから、人のことでもありません。会社とはその構成自体を示す概念のようなものです。少なくともなにかの物質ではありません。

会社は物質ではありませんが、やはり社長や役員といった経営陣を中心として各部署という枝が生えており、さらに各部署には各課・係といった小枝が生えるというようなフラクタルになっています。会社で例えましたが、軍隊でも学校でも国や自治体でもなんでも、およそどんな組織もだいたい似たような構造をしているはずです。

 

そういえば以前、手段の目的化みたいな話をしましたが、これも言ってみればフラクタルのような話です。

たとえば「健康を維持しよう」という目的があったとします。これが結晶の中心です。そしてその目的を達成するためにいくつかの手段を思いつきます。これが枝です。その中の一つに「毎日ランニングしよう」というような手段があったとすると、今度はそのために「何時に帰ってきて時間を作ろう」といった手段のための手段が生まれます。これ小枝です。さらにその時間に帰るために「飲み会は断ろう」とかいった風にさらに小さな枝が生えていきます。

当初の目的は健康を維持することですから、健康さえ維持できていれば別に走らなくても良いはずですが、ややもすると「毎日走ること」が義務というか目的のようになってしまったりします。それにこだわり過ぎて体調が悪いのに走って悪化したり、悪天候の中を走って怪我したり、職場での人間関係が上手くいかなくなって精神的なものから体調を崩したりということもあったりするかもしれません。本末転倒という話ですが、手段が目的に成り代わったようになってしまう、つまり枝であるはずのものが狭い視野で見たら中心のように振る舞っているわけです。フラクタルです。


このように物質ではない概念や思考の流れのようなものにもフラクタルが見出せます。それこそありとあらゆるところに、言ってみればこの世界はフラクタルに満ち満ちています。

 

じゃあ。

 

この宇宙全体をも含む世界の構造はどうでしょう。それがフラクタルでないと言い切れるものでしょうか。いやむしろ、フラクタルであると考えた方が自然な気もしてきます。

世界がフラクタルだとしたらどういうことになるでしょう。まず中心になるものがあって、そこから枝が生えていて、枝からまた小枝が生えている。私は分岐する並行世界をイメージする時、木だったりトーナメント表のようなツリー形状を思い描くのですが、まさにそのものです。並行世界なんて言うとファンタジー疑似科学のように捉える向きはあるのですが、意外と真実味のある話かもしれないんですね。

それが偶然かどうかは分かりませんが、古代インドが発祥と言われている曼荼羅にはそういう世界観を描いているものがたくさんあるそうです。それこそフラクタルだの量子力学だのと科学が言い始めるよりはるか昔から、人間は何かに気付いていたのかもしれません。「真実とは往々にして意外と単純なもの」というのは科学の常だったりもします。

 

長くなってしまいましたが、並行世界ってそれほど荒唐無稽じゃないよってくらいの話でした。

 

 


さてさて、前置きみたいな話はこれくらいにして、いいかげん例の問題に取り掛からねばなりません(30巻121話)

 

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-あんたがオレを親父の記憶に連れ込んだおかげで
-今の道がある

ちょっと間があいて引っ張った感じになってしまったのでアレなんですが、これまでの長くてつまらない話を読んでくださっている方にはわりと単純な話ではないかと思います。いちおう前提として「おかげで今の道がある」というセリフをそのまま言葉通りに捉えて、今までは違う道があった、すなわち並行世界あるいは分岐世界のようなものが、見えるかどうかは別として存在しうると仮定した上での話ということになりますが。

 


まず結論から言えば、過去現在未来が同時に存在するのであれば過去現在未来は同時に生ずる、つまり鶏も卵も先である、といった感じになると思います。

 


過去現在未来が同時に存在するという時間の捉え方の話はさんざんしてきたので説明はいらないと思います。そこで前回書いたシンクロしているような場面によれば、グリシャは未来の記憶を見ることでその言動を変化させているようです。つまりその時点で未来はすでに存在していなければなりませんので、過去現在未来が同時に存在するというのは進撃世界において正であると言って良いかと思います。

 

そこで「今まで進さんが見てきた世界線」という枝があったとして、誰かの選択などによってそこに新たな分岐、すなわち「今の道」という小枝が生えるとします。

その小枝はどうやって生えてくるかと考えてみれば、分岐が生まれた瞬間に同時に小枝の先まで完成しているはずです。木に例えているため分岐点からにょきにょき生えてくる感じをイメージしてしまいそうになりますが、それだと分岐した直後は未来が存在していないことになり矛盾します。だから小枝は瞬時にその先まで、すなわち未来まで同時に完成しなくてはなりません。

おそらくこの点が私たち人間の持つ「時間は過去から未来へ流れる」という普段の感覚、あるいは固定観念と衝突する部分なのだと思います。だからこそ過去現在未来が同時に存在すると言われてもピンとこないし、鶏が先か卵が先かと頭を悩ますか、曖昧にして触れないようにするしかなくなってしまうのだと思います。


そこでいったん過去現在未来という観念を捨て、全ての時間は細かく切り刻まれた瞬間が並列に並んでいるようなものと考えてみてください。そしてそれぞれの瞬間にはそれぞれの現在の私たちがいて、そのだれもが「私は現在の自分だ」と思っていて、それぞれの瞬間ごとに自分なりの判断や選択を行っているイメージです。それが同時に、並列で起こります。

ただしこの世界にはひとつだけルールがあって、あるひとつの方向からの情報だけは保持してしまうようになっています。どの時点の私たちから見てもひとつの方向、それは言葉としては手前でも後ろでも右でも左でもなんでもいいのですが、それこそが私たちが過去と呼んでいるものです。

余談ですがこのルールこそが時間に流れがあると感じさせる根源のようです。それは仮にこのひとつの方向の情報、すなわち過去の記憶を全く覚えていられない状態を想像して頂ければ分かると思います。その場合、私たちはなんの手掛かりも持たずにただ漫然と選択をしていくような瞬間が断続的に続くことになり、時間が流れる感覚がなくなるはずです。過去を知っているから、1秒前のことを知っているから、今がその1秒後だと認識できるわけですね。

 


余談はさておき、実際の場面に当てはめて考えてみます(30巻120話)

 

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このあたりの流れ、可能性の話をすればジークがエレンを過去に連れて行く「今の道」とは別に、連れていかない道もあることになります。それはそのまま、グリシャがレイス家を殺すかどうか迷った際にジークとエレンがその場に現れた「今の道」と、現れない道というそれぞれの可能性を伴います。

 ジークが連れて行く→エレンたちが現れる
 ジークが連れて行かない→エレンたちは現れない

ただ前回お話した通り、正確に言えば彼らはその場に現れたのではなく、当時のグリシャと記憶の結びつきを持ったという感じです。つまりジークの選択は過去そのものに直接変化を与えているのではなく、「エレンの記憶と繋がっているグリシャ」という可能性を生み出しただけということになると思います。グリシャが未来そのものを見たわけではなく、未来のエレンの記憶だけを見ていることからもそれは裏付けられます。

 訂正版
 ジークが連れていく→エレンの記憶と繋がったグリシャ
 ジークが連れて行かない→エレンの記憶と繋がらないグリシャ

未来を見ることは次元を超えるか超能力でも無いとできませんが、未来の記憶を見ることは、未来のエレンと記憶の結びつきを持てるという設定の下であれば過去の記憶を見ることとなんら違いはないと考えられます。

つまりエレンたちが現れた瞬間、記憶の結びつきができる瞬間までのグリシャは過去の記憶しか持っていなかったとして、その次の瞬間のグリシャからはエレンの記憶も過去と同様に保持している状態になるわけです。だからグリシャは物理的な干渉は一切されておらず、普段と変わらずただ記憶を頼りに行動を選択したというだけのことになります。その参照した記憶の中に過去と未来のものが同じように含まれているというだけです。

 最終版
 ジークが連れて行く→自分の記憶とエレンの記憶により行動するグリシャ
 ジークが連れて行かない→自分の記憶だけにより行動するグリシャ

おそらくこう考えるのが一番矛盾がなくてシンプルなのではないかと思います。

 

こちらの場面も同様に(22巻88話)

 

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-立て
-戦え

この時点で、グリシャが立ち上がる場合と、立ち上がらない場合の両方の可能性が存在しています(22巻88話)

 

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そしてここでグリシャが立ち上がろうと思った瞬間には「今の道」の方に入っていることになります。同時に「今の道」に連なるそれぞれの瞬間において、選択が行われています。

たとえばグリシャはカルラと結婚することを選択しています。エレンは調査兵団に入ることを選択しています。ジークはエレンを説得するために記憶にダイブすることを選択しています。そしてエレンがクルーガーの記憶を思い出すこともしていますので、そこには未来のエレンの記憶と繋がったクルーガーという可能性が生じます。ですのでクルーガーは自分の記憶の中に存在する(エレンの記憶由来の)情報を頼りに(22巻89話)

 

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このセリフを言った、ということになるのではないかと思います。どちらのケースも記憶によって言動が変わっただけであり、直接干渉されたわけではないということです。記憶の世界、すなわち「道」の世界はおそらく高次元で現実の時間とは異なる時空ですから、そこで結びつきが生まれた生まれないということが現実での一瞬で起こったとしても全く問題がないと思います。

 

 

ただし、という話になるのですが、この記憶によって行動が変わるというのは当たり前のようでいて、ものすごく示唆に富んだ話のように思います。

 


いちおう私見としておきますが、基本的に私たちは過去に縛られた存在だと思います。

どういうことかと言いますと、たとえばある瞬間の私が左に行くか右に行くか迷った末に、右に行こうと選択して右足を踏み出そうとしたとします。次の瞬間の私はそれに従って右足を踏み出すだけで、ほぼ選択の余地はありません。もちろん思い直すことも無いとは言えませんが、右へ行くと決めた思考の過程も知っているわけですからそのまま右へ行く可能性の方がおそらく高いです。その次の瞬間も然り、その次の次も同様です。可能性は無限に広がっていると言えども選択の余地というのはそれほど無いのかもしれません。

さらに最初に右へ行くと決めた私はなぜ右を選択したかと言うと、過去の経験や過去に知り得た情報から類推して選んだか、もしくは”なんとなく”といった感じでしょう。この”なんとなく”というのが無意識に選ばされている可能性があることは自由意思の記事でお話しました。無意識だって自身により良いと考えられる方を選ぼうとするわけですから、過去の情報から類推しているわけです。であればいずれにせよ過去の影響は免れ得ません。ちなみに思い直して左に行ったとしても、それもやっぱり過去の経験か”なんとなく”に基づいている場合がほとんどなのではないかと思います。

こうして考えてみると、本当の意味で自由な選択とはなんだろうという疑問が湧いてきます。


今まで書いてきた「~の場合」と題した記事群では作中の各人のトラウマ的なものを抽出し、それによって本人がどう考え行動しているかについて考えてきました。ひとことで言えば「抑圧」を取り上げてきたつもりです。

サシャは他者への恐れを隠すかのように強がってみせた結果、なりたくもなかった兵士になる選択をしたと捉えることができます(5巻21話)

 

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-…う…嫌だよぉ…
-こわいぃ…
-村に帰りたい……

またミカサは家族や自身が死ぬ恐怖や殺す恐怖などから目を背けるかのように、エレンの考え方が正しいんだ、だから仕方ないんだといった感じで過剰にエレンに傾倒し、エレン中心にものを考えるようになっていきました。

グリシャは「妹は自分が殺したようなもの」という罪悪感から目を背けるかのように、エルディアを盲信する半生を歩んでいきました。

これらは抑圧という心の機能によって、本人が直視したくない事柄から目を逸らすような思考に導かれた結果と考えられます。でもそれって要するに過去の記憶や心の機能によって行動を選択させられているってことだと思うのですが、どうでしょうか。

そもそも抑圧とか小難しいことを考えるまでもなく、私たちの普段の選択も普通に過去に引きずられています。(以前やって楽しかったから)またしたい、(恐い思いをしたから)もうやらない、(今回は)別の道を行く、などなど。全て過去ありきの選択です。

それは例えるならドミノのような感じです。ずらっと並んだドミノがそれぞれの瞬間の私だとすれば、それらのどれもが「私は今を生きているんだ」って、「私は自由な意思で行動しているんだ」って思いながら選択をしているつもりです。でも、実際にはあるひとつの方向からの影響によって決まった方向へ倒れていきます。先述したルールの通り、そのひとつの方向というのは過去です。

 

作中の人々の抑圧は極端なケースによって分かりやすく描かれているものと思いますが、こういった心の作用は大なり小なり常日頃から私たちにも起こっていることで他人事ではありません。当たり前の話ですが、ほぼ誰にでも当てはまるからこそ、それを心の機能として見出してきたわけです。

そして抑圧の作用をシンプルに言えば、「〇〇の記憶があるから、それをごまかすかのように心が動く」といった感じです。もっと単純化すれば「AというインプットがあったからBというアウトプットを返す」という脊髄反射というか、機械的な動作に近いものでもあります。

 

 

つまりはパターンなんです。

 

 

 歴史は繰り返す―――

 

進撃のみならず、現実においてもよく使われる言葉です。だいたいは戦争やら悲劇的なことが起こった時に言われることが多いかと思います。そしてそんな時によくセットで語られるのが「歴史に学べ」といった言葉。およそ悲劇や困難が起こった後の話ですので、「なぜ歴史に学ばないのか」といった非難するような論調で使われることが多いように思います。

確かに歴史に学ぶという考え方自体は良いと思いますが、悲劇が起こってしまった事後に言うのは違うよなぁと常々思います。なんの具体的な解決策の提示にもなっていないし、もっともらしい七光り的な言葉を振り回しているだけにしか聞こえません。結局言っていることは、なぜか自分を差し置くかのように上から目線で「なんで過去の過ちを反省してないんだ、なんて愚かなんだ」って人間を卑下して嘆いているに過ぎないように思います。

 

なんで歴史が繰り返すのかというのはたぶん単純な話で、別に人間が愚かとかそういうことではなく、人間が前述したような心の性質を持っているからだと思います。それこそ万物が冒頭に挙げたフラクタルのようなパターン化する性質を持っていることが基になっていると思います。

進化という観点で言えば現代の人間とウン千年前の人間はたいして変わっていません。どちらも同じような心の性質を持ち、同じようなパターンで行動しているとすれば、同じような出来事が起こるのは当たり前と言っても過言ではないような気がします。

私は小さい頃、なんの根拠もない漠然としたイメージですが、現代人と比べて昔の人は劣っているといったようなどこか馬鹿にしたようなイメージを持っていました。今にして思えば、それは自分が特別であると思いたい、ひいては自分が所属する現代人も特別であるだろうという人間原理のような心理が心の奥底にあったのだろうと分かります。結局パターンにのっていただけなんです。

人間は誰しも自分が特別だと思いたい。特別なのだから当然他とは違って、少なくとも自分は自らの知識や経験に基づいて正しい判断をしていると思っているし、思いたい。だから「なんで歴史に学べないんだ」というやや上からのような物言いが出てきてしまうのかもしれません。

 

特別な自分がこの目で見たことを元に判断しているのだから絶対正しいというのは、まさに以前のガビちゃんがそうでした(26巻105話)

 

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-私も
-見てない

自分が(ファルコも)見てないことが正しいと認められるはずもない、ということです。そんな彼女も諸々あって気付きに至ります(29巻118話)

 

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-私達は…
-見たわけでもない人達を 全員悪魔だと決めつけて
-飛行船に… 乗り込んで…
-ずっと同じことを…
-ずっと同じことを繰り返している…

注目して欲しいのは、彼女が言っているのは「私」ではなく「私たち」なんです。私が悪魔と決めつけて飛行船に乗り込んだということではなくて、もちろん私とファルコがということでもなくて、私たち誰もがずっと同じことを繰り返していることに気付いたんです。自分の見聞きしたことや考えたことだけが正しいとみんなが思い込んで、それに従って行動してきた結果、それはつまりみんなが自分は特別で他人とは違うと思おうとしてきた結果、実際にはみんな同じようなことをしていたんです。皮肉なものですが。

だから悲劇が繰り返されないように考えるべきこととは、歴史に学べといったそれっぽく聞こえるだけの言葉ではなく、過去を参考にするということでもなく、人間が、いや自分自身がそういうパターンで行動する性質を持っているということを知り、受け入れ、それを踏まえて物事を考えることではないかと思ったりするのです。そうして自分を俯瞰できるようになることが、本当の自由な思考への第一歩だろうと。自分は絶対に自分の意思で動いていると思いたがっているうちは、大きな流れに翻弄されるドミノに過ぎないのではないかとさえ思います。みんながそう思いたがってきたからこそ、知らぬ間に同じことが繰り返されてきたんじゃないかと。


そして人々がパターンに準じた行動をしていく傾向があるとするならば、たとえ可能性は無限に広がっているとしても、その選択は過去というインプットに応じたパターン化されたアウトプットの影響を多大に受け、ある程度似たような「道」を辿る可能性が高いと考えられます。

でなければ、無限に広がる可能性の中で「今の道」にこだわる必要は無いはずです。あらゆる可能性が実際に広がっているのであれば、すでにあらゆる可能性の世界は存在するはずなのです。でもそうではないからこそジークの選択によって「今の道」が生まれたことに意味があるのではないかと思います。つまり、人々の行動はある程度”決まって”いるため、何もしなければ辿り着くことのできない「道」があるのだと思います。

作中に感じられる決定論的なものはおそらくその表現じゃないかと思うんです。そもそも矜持なんて思いっきり過去の縛りと言っても差し支えないものですし、作中には他にも血縁や環境というものが過去の縛りとして描かれています。選んでいると思っているつもりが、選ばされている。何かに背中を押されている。じゃあそんな中での自由とか、それに基づく選択とはどういうことなのでしょうか。

 

 

というわけで、次回はようやく本丸のあの人の話です。

 

 

 


ああぁぁ、でも次回に続く前に、

 

やっぱり自分でも”進撃とあまり関係ない話をしてる感”があって悔しいので、ひとつだけなんかを置いておこうと思います。それは最初も最初、ハンネスさんによるこの物語で最初の「選択」のエピソードです(1巻2話)

 

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-確実に… 確実に二人だけは助ける方を取るか…
-巨人と戦って全員助ける賭けに出るか…

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-カルラの願いに応えるか…
-オレの恩返しを通すか…!!

ハンネスさんは、近づきつつあるダイナ巨人によって究極の選択を迫られます。カルラの願いに応えてエレンミカサだけ助けるか、自らの恩を返すという矜持と少し似たようなこだわりに従って一か八かの勝負に打って出るかという選択です。そして(1巻2話)

 

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結果はご存知の通りで、エレンとミカサだけを助けることになりました。でも言うまでもなく、これはハンネスさんがカルラの願いに応える選択をしたのではなく、恐怖心によって選択させられたことが描かれています。物語の冒頭で丸々2ページ以上使って描かれている初めての「選択」がこれです。

 

さらに言えばこの時の記憶が、後のハンネスさんの勇敢さ、あるいは無謀さ、言い方はどちらでもいいですが、ダイナ巨人に単身挑んでいく行動を選ばせていることも描かれています(1巻3話、12巻50話)

 

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-すまねぇな…
-お前らの親救えなくて……

 

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-見てろよ!
-お前らの母ちゃんの仇を!!
-俺が!! ぶっ殺す所を!

 

私たちの思考や行動というのは、過去の記憶やそこから生み出される感情といった、意識ではどうにもならないものによって支配されているのかもしれません。

 


次回に続きます。

 

 

 

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 24th Mar 2020
updated: 27th Mar 2020