進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

091 世界観③ バタフライ・エフェクト


みなさんこんにちは。

 

※訂正 2020/01/20 - 記事末部分を一部訂正しました。

 

ちょっと本編の展開からはみ出しすぎるのでうーんってなって投げ出してたのですが、もともとそういうカテゴリーで書き始めたので突き進むことにしました。まぁこのブログの余命もあと1年くらいですので書き残しの無いようにですね。生命の記事と同様に長いものを分割してますので、やたら理屈っぽい上にたいしたオチのない前説みたいな記事が続くと思います。特に今回はいちばん理屈っぽいあたりなのでスルー推奨です。ご興味のある方だけ生温かい目でどうぞ。

 

 

!!閲覧注意!!
この記事は 生命-I から始まる一連の記事の他、当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にてご覧いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は31巻125話からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[バタフライ・エフェクト]

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前回(と言ってもだいぶ間があいてしまい恐縮ですが)、最後に話がだいぶ逸れてしまったので世界観の方へ軌道修正していこうと思います。

 

 

さてさて・・

 


ここしばらくで判明したことを考えるに、どうも決定論的な世界観がハッキリしてきたような感じが否めません。作者は121話でグリシャにこう言わせています(30巻121話)

 

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-…そういう未来だと決まっている

そういう未来だと決まっているから私はそうする、なんともため息をつきたくなるセリフではあります。未来が決まっているとしたら、人間はその道筋をなぞるだけの存在ということになるでしょうか。ただしここでグリシャは、その確定しているはずの未来に対し迷いを見せました(30巻121話)

 

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-できない…
-私に…子供を殺すなど…
-私は…
-人を救う… 医者だ…

あれあれ?やっぱり未来は確定していないかもしれません。そう思ったのも束の間、エレンのけしかけによってやっぱり決まっている未来へ進んでしまった・・のでしょうか。

 

 

などと一喜一憂もしましたが、考えてみればグリシャは初めからレイス家を殺していたのでした。もしグリシャがフリーダを食わなければ、エレンが座標にたどり着くことは起こり得ません。当然、エレンがグリシャをけしかけることも起こらないことになります。今回の時間旅行でけしかけたエレンがまだ子供だった時も、必ずグリシャはレイス家を滅ぼしているはずです。

いちおう可能性ということで言えば、もともとグリシャは自身の意思で殺した→今回はエレンたちの干渉で迷いが生じる→けしかけたことでやっぱり殺した、という可能性もあるかもしれません。であればエレンは過去を変えたと考えることもできなくはないのですが(30巻121話)

 

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-父親に何も知らされぬまま巨人を継承させられ
-父親の望み通り戦い続けている

エレンは「そうじゃない」とでもいうような顔をしているように見えます。後の展開を知ってから見れば「オレは父親の望み通り戦っているんじゃない、父親がオレの望み通り戦ったんだ」と思っていたような感じでしょうか。そしてこの場面は今回けしかけるよりも前のこと。であれば、エレンは自分が父親をけしかけることを以前から知っていたと考えられるでしょう。

するとやはり、過去に干渉したように見えて結局のところ何も変わっておらず、全ては歴史の筋書き通りだったと考えざるを得ないような気がします。086 時間旅行 で書いた「タイムトラベルも歴史の一部」というパターンのような感じです。

 


こういった「全ては決まっている」みたいな考え方を決定論なんて言ったりしますが、実はこの感じ、最近になって急に出てきたわけではありません。というのも、あの有名なセリフなんですが(22巻89話)

 

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-ミカサやアルミン
-みんなを救いたいなら 使命を全うしろ

これがすでに決定論を示唆していることにお気付きでしょうか。

 

このセリフは、この時点で「これからエレンが生まれてミカサやアルミンに出会い、巨人を継承する」ことまで全て決まっていることを意味しており、然してその通りになっています。それはつまり、この物語の1話で起こった出来事は偶然でも誰かの気まぐれでもなく、その10年以上前にはすでに確定していた必然だったと考えられるわけです。

なんかゾクゾクする感じになってきましたね。作者は一方で「自由意思」とか「選択」などを描きながらも、その裏ではそれらの全否定に繋がりかねない決定論的世界を描いているかもしれません。


とりあえず、進撃ではどうも決定論を思わせる表現が散見されることが確認できたかと思います。

 

 

 

 

ところで、私は以前から気軽に決定論という言葉を使ってますし、みなさんもなんとなくイメージはあると思いますが、ここで決定論というものについておさらいしておきたいと思います。というのも決定論は自由意思と切っても切れない関係にありますので、作者が自由意思という言葉を使用した以上、おそらく決定論に関してなにかしら思うところがあることは間違いないと思うからです。


決定論とは科学や哲学から生まれてきた考え方です。かなり古い時代から、人間であれ地球であれこの世界にある物質はみな一様に同じもの(現在は素粒子と呼んでいます)から出来ていると考えられてきました。錬金術という発想もこのあたりの考え方が元になっています。その素粒子は一定の法則性を持っているだろうと考えられていて、それを解き明かすことが科学の第一義でもありました。

やがて科学の発展と共に次々と判明していった物理法則は、まさにそれを裏付けるかのようでした。するとこんなことを言い出す科学者が現れます。

 

今この瞬間の全ての素粒子の状態を把握できたとすれば、次の瞬間の素粒子の状態が法則によってはじき出せるだろう。ならばそれを繰り返していけば、未来における全ての素粒子の状態も計算できるはずだ。つまり未来とは計算で予測できる確定したものである、と。

 

当時はもとより、現在の最先端コンピュータでも到底不可能な計算ですのであくまで仮定の話ではありますが、理論上はそうなるはずと考えるのは至って自然な流れだったのです。こうして”ガチガチの決定論”が生まれました。全てが計算で割り出せるとすれば、当然そこには自由意思などといった不確定なものが介在する余地はありません。ガチガチの決定論が実証されれば自由意思は完全に否定されることになります。

 

でもご安心ください。100年くらい前、二つの理論によってガチガチの決定論は崩れていきます。

その一つがカオス理論という数学の理論です。”バタフライ・エフェクト”という言葉はどなたも聞いたことがありますよね。日本語で言う「風が吹けば桶屋が儲かる」というアレです(ちょっとニュアンスが異なりますが。) バタフライ・エフェクトというのはカオス理論の例え話で、蝶が羽ばたくか羽ばたかないかというほんの些細な違いが、竜巻が生じるか否かというような大きな違いに繋がり得るかも、といった仮定の話です。一般的な計算では、計算する最初の値が近い数値であるほどそれぞれの解も似たような傾向の数値が出ます。でも場合によっては最初の値がほとんど変わらないのに、その少しの違いが大きく異なる解を導き出す計算があることが分かってきたのです。

雑に例えるならば一般的な計算はボウリングです。上手い人が投げる球は投げる角度や強さ、位置などの初期値がほぼ同じなのでほぼ同じ軌道を描きます。もちろん人間ですから多少のズレはあるはずですが、ほとんど結果は変わりません。次に下手な人が投げると初期値がブレるので球の行方も安定しないわけですが、それでもせいぜい隣のレーンに飛び込むとかの程度までで、普通に想定できる挙動をします。球の行き先という観点で言えば、上手い人との結果の差はたかだか数メートル横にずれただけでしかありません。

カオスの方はビリヤードです。ゲームの途中で、すでにプール上にボールが散らばっている状態だとします。白球を撞くと、ある球にぶつかりはね返って、別の球に跳ね返ってまた別の球に、といった感じで移動していきます。この場合、白球を撞く位置や角度がほんの1ミリずれただけでも、白球が最後に辿り着く先は全く違う場所になります。初期値のほんの小さな違いが大きく異なった結果を導き出すわけです。

では空気中で酸素原子なんかがぶつかり合っている場合を考える時、どちらを考慮すべきでしょうか。

 

それともう一つが量子力学です。量子力学によって、素粒子というのは単なる粒ではなく、あたかもA地点とB地点に同時に存在しているかのような、波のような状態であると考えられるようになりました。それがAにあるかBにあるかというのは確率でしか表せません。つまり確定できないのです。

これらを組み合わせて考えると、素粒子の位置を完全に確定することができない上に、それがAにあるかBにあるかという些細な違いが全く異なる結果を生み出す可能性が出てきます。であれば確定した一つの未来を割り出すというのは不可能ですので、ガチガチの決定論は否定されることになります。ああ良かった。


ひとつ混同しないように気を付けたいのは、決定論が否定された=自由意思の存在が確定した、とはなりません。

なぜなら素粒子の位置は確率で決まるからです。

確率で決まるというのは意思とは関係がありません。例えばビンゴゲームって一定の確率で当たるかどうかが決まっているわけですが、私の意思は一切関与していません。無作為に数字が並べられたカードが適当に配られるのを受け取り、会場で無作為に選ばれた数字群が運良くカード上に並んでいたら当たりとなるだけです。仮にカードを私の意思で「これだっ!!」とか思いながら選んだとしても、当たる確率は変わりません。

自由意思の存在証明ってのはなかなかに困難なんですね。まぁそんなこともあって、ガチガチの決定論は滅びましたが、決定論は確率なども取り入れながら形を変えて生き残っていくことになります。

 

 

ところで、先だってバタフライ・エフェクトを日本語で言うと「風が吹けば桶屋が儲かる」だと冗談交じりに書きましたが、「風が吹けば~」のような小噺に限らず、いわゆる王道と呼ばれるような物語のほとんどはバタフライ・エフェクトを思わせるような構成をしていることが多いです。たとえば田舎町に住む少年がひょんなことから冒険に出て、だんだん仲間が出来て大きな潮流になって世界を救うとか、一人の少女のちょっとした優しさが連鎖していって・・みたいな、みなさんもいくらでも心当たりが浮かんでくるのではないかと思います。もちろん進撃も壁内編は王道路線でしたから、その例に漏れません。

とはいえ、どんな大きな出来事も因果の元をたどれば誰かの小さな行動にたどり着くのは当たり前とも言えますので、自然とそのような構成になってしまうのかもしれません。ここで考えたいのは作者の世界観ですので、構成ではなくもっと具体的なものが欲しいのですが、それは普通に見つかります(18巻73話)

 

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-だが ある少年の
-心に抱いた小さな刃が

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-巨人を突き殺し
-その巨大な頭を大地に踏みつけた

少年エレンが抱いた「戦わなきゃ勝てない」といったほんの小さな想いが、別の何かに波及していったということです。それはいまや世界を滅ぼすか否かといった大きな出来事にまで膨れ上がりました。

 

さらにエレン少年の大元を辿っていけば・・(22巻88話)

 

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-お前が始めた物語だろ

といった感じで、グリシャ少年が何気なしに「妹に飛行船を見せてやりたい」と思ったことが始まりだと強調されているわけです。ここでグリシャがそう思わなかったり、あるいは実行しなければ、そもそもエレンは生まれてこなかったかもしれませんし、であれば世界は滅亡の危機に瀕していなかったかもしれません。まさにほんの小さな蝶の羽ばたきが未曽有の竜巻を起こすかのような、「風が吹けば~」という因果の流れを作者は明確な描写で表現しているわけです。もちろんそれは「選択」や、それを選ぶにあたっての「自由意思」が持つ意味合いがとても大きいことも意味しますよね。

 

すると先ほどの決定論の話と同じで、グリシャ少年が思ったか思わないか、そんな些細なことがこれほどの大きな変化を与えてしまうのであれば、決定論なんてまるで成り立つはずがないと考えられるわけです。


あれ?


おかしなことになってきました。バタフライ・エフェクトや選択や自由意思によって決定論は否定されそうです。にも関わらず作者は最近に至っても決定論を思わせるような展開を描いていることは冒頭で確認しました。なんだか矛盾しているかのような・・

 

 

 

というわけで再び実際の話に戻るんですが、実はこれらは共存できます。そもそもカオス理論というのは決定論の範疇での理屈だったりもします。あくまで最初の小さな違いが大きな違いを生み出すことがあると言っているに過ぎません。違いが無ければ解は同じなのです。ビリヤードだって、全く同じ条件・角度・力でそれこそ微粒子レベルで寸分たがわず撞くことができれば、全く同じ結果が出るはずなのです。


バタフライ・エフェクトはその由来となった「蝶の羽ばたきが竜巻に」という例えが気象関係から来ていますので、よく天気予報を引き合いに出されます。天気予報ってあまり当てにならないですよね。年々観測技術が上がっているはずなのに今をもってなお天気予報が外れるのは、大気の状態を完璧に捉えることができないからです。ほんの小さな誤差が大きな変化をもたらす、まさにバタフライ・エフェクトが起こっているためです。だから明日の天気でさえなかなか読み切れません。

でも、一歩引いて考えてみましょう。

私は天気予報に関する専門知識をほとんど持ち合わせていません。でも一年を通じた日本の気候の変化はだいたい分かります。みなさんもそうですよね。

ところで今年の8月は暑くなると思います。これは未来の予言ですし、しかも99.99%くらいの確率で当たるはずです。なぜなら未来は決まっているから。

屁理屈っぽいですか?

 

こう考えてみてください。視点の問題です。

地球という大きな視点から見ると、天候というのはほぼ一定のパターンを繰り返しています。寒冷期などへの変化は非常に緩慢で、年単位で少しずつ少しずつ変化していく程度です。小さな違いが大きな違いを生むといっても、今年の8月は暑いけど来年の8月は雪の日が続くなんてことは起こりません。一定のパターンを取るというのは、言い換えれば”決まっている”ということです。

 

つまり、大きな流れはほぼ決まっているんだと思います。

 

地球は同じパターンで太陽の周りを回っています。水は山に降り注ぎ、川となって海へ流れ込み、雲となってまた山に降ります。人間は同じことを延々と繰り返しています。例を挙げたらキリが無いのでやめますが、この世界はパターンに満ち満ちています。

もちろん一個人の視点に戻れば、明日の天気は大きな関心事です。エレンがしたことは、人々にとって重大な出来事です。

でももしかしたら、もっと大きな視点で見たら、たいした問題ではないのかもしれません。つまり種としての巨人族、ユミルの民の向かう先は、自然の流れでだいたい決まっているのではないか、なんて考えます。もちろん当人たちや周囲の人間たちにしてみれば、「選択」や「自由意思」がもたらす地球にとっては極々小さな変化が非常に大きな意味を持つことは間違いないでしょうが。

 

 

 

※2020/01/20 訂正
以下に関しまして、いただいたコメントにより「地ならし後の小さな世界を前提としたセリフである」という解釈だとしっくりきますので、訂正します。いちおう削除せずに残しておきますが、お読みになる場合は”削除扱い”のものとしてお楽しみくださいませ。これが噂のバイアスです笑


そんなことを考えていたら、125話でどうも意味深なセリフが飛び出してきました(31巻125話)

 

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-こじんまりした今後の人類史に
-大きく影響するだろうから!

おそらくほとんど気にも留められていないセリフだとは思うのですが、よくよく見るとちょっと違和感ありませんか?

 

解釈としては、自分がこれからすることがたいした影響を与えるわけでもない、みたいな自虐的な感じに受け取ることもできなくはないですが、「こじんまりした人類史」という言い方はなんかしっくりこない気がします。だって現在起こっていることは世界規模で、人類史的にも大ごとなのは間違いないですし。

でも先ほどの大きな視点で考えたらどうでしょう。地球や宇宙の歴史から考えれば、ユミルの民か人間のどちらが生きようが滅びようが、極めてちっぽけな、取るに足らないような出来事です。そんな「こじんまりした」人類の歴史が自分たちには重大だから今できることをやる。どうもそんなことを言っているように思えて仕方がありません。いや、そう受け取らないことには、どうにも違和感が拭えないセリフではないかと思うのですが、はたして。

 

ちなみになんでアルミンがそんな視点になるのって話は、未来を見てきたかのような予言をしたり、正解を導く(≒知っている?)人であることを考えれば別に不思議ではないとも思ったりしますが、それはまた別のお話。

 

※2020/01/20 追記
訂正後の解釈としては、未来うんぬんではなく、アルミンは現在の状況をしっかりと受け止めた上でその先の最善策を模索し始めている表現という感じですね。さすがの切り替えの早さ、ということになるでしょう。

 

次回に続きます。

 

 

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。

 


written: 18th Jan 2020
updated: 20th Jan 2020