進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

066 最新話からの考察 114話② 自分のために

みなさんこんにちは。

 

 

読み返したらほとんど114話と関係ありませんが、まぁ前回の続きみたいな感じということで・・

 

 


この記事は最新話である114話までのネタバレを含んでおります。さらに登場人物や現象についての言及などなど、あなたの読みたくないものが含まれている可能性があります。また、単なる個人による考察であり、これを読む読まないはあなた自身に委ねられています。その点を踏まえて、自己責任にて悔いのないご選択をしていただけますよう切にお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。

 

 

 

 

 


[自分のために]

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-お前が始めた物語だろ(22巻88話)

 

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クルーガーの言葉通り、「進撃の巨人」はグリシャが始めた物語です。もし彼が壁の外に出なければ、エレンもジークも生まれていないでしょう。その二人が軸になって起こっている現在のパラディ島の内紛も、レベリオ襲撃も無かったかもしれません。それどころか850年に戦士隊がウォール・ローゼを破って終了していた可能性もおおいに考えられます。

 

 


さて、そのグリシャに対しては鬼畜・毒親・諸悪の根源などなど、あらゆる悪評が飛び交っています。そこでひとつ、明確にしておいたほうが良さそうに思うことがあります。


まず、ジークにとってグリシャが良い親でなかったことは、114話で記憶も新たなところですので説明は要らないでしょう。当時の彼は「みんなのため」という理想に邁進しており、ひいてはそれがジークのためでもあり全エルディア人のためであると盲信していたようです。そのためジーク個人に目を向けることはなく、自分の思想を押し付けることに終始してしまいました。”エルディア人みんなの希望”として勝手に期待し、勝手に落胆し、その結果としてジークは告発せざるを得ない状況に追い込まれたと言えます(22巻87話)

 

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-「王家の血を引く子」でも「エルディア復権の希望」でもなく
-ジーク自身と向き合ったことが一度でもあっただろうか

本人も後悔していた通り、ジーク個人に目を向けずに自分の思想を押し付けた、これが数々の悪名を轟かせている理由でしょう。

 

 

そんな後悔と共に時は流れ・・

 


調査兵団に入りたいと思っている子供がいました(1巻1話、12巻50話)

 

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-何を考えているの⁉
-壁の外に出た人類がどれだけ死んだか分かっているの⁉

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-駄目だからね
-調査兵団なんてバカなマネ

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-あんたは男だろ?
-たまには堪えて ミカサを守ってみせな

 

エレン個人の意志は、尊重されていません。
”壁の外に出てはいけない”
”男とはこうあるべき”
これらはカルラ個人の思想です。


別にカルラを貶めるつもりはありません。ただ淡々と事実を並べ立てただけです。実際やっていることはグリシャとたいして変わりないことが分かります。でもカルラは”良い親”と言われます。カルラが良い母親だったのは否定しませんが、決して聖母でも女神でもない普通の親だと思います(1巻1話)

 

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-どうして外に出たいんだ?

カルラが全否定しかしてない事柄に対し、グリシャはきちんとエレンの意見に耳を傾け、その意志を尊重するような態度を取っています。もちろんジークへの後悔からきているのは間違いないでしょうが、なんにせよカルラよりもグリシャの方が、エレン個人に目を向け、自分の思想を押し付けることなく本人の思想を尊重しているのは明白です。

前述の定義によればグリシャの方がカルラより”良い親”になりますので、カルラを引き合いに出すまでもなく”ジークに対するグリシャ”と”エレンに対するグリシャ”を比べてみれば、ジークとエレンの間に横たわる違いが見えてくるかもしれません。ではその違いは何なのでしょうか、やっぱり”愛”ってキーワードが出てくるんでしょうか。そもそもここでいう”愛”って何なのでしょう。

 


作中ではグリシャがエレンを叱る場面が一度だけ描かれています(2巻6話)

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-私はお前が自分の命を軽々に投げ打ったことを咎めているんだ!!

これはグリシャがエレンのことを想って言っているのは間違いないでしょう。カルラが調査兵団に反対している態度もこれとほとんど同じですね。つまり、二人ともエレンを想ってうるさく言っていたわけです。余談ですがこの時もグリシャはエレンの意見をちゃんと聞き、それ以上何かを言うことはありませんでした。

 

では、かつてのグリシャはジークのことを想っていなかったということでしょうか。

 


ここは、ちょっと自分のことだと思って想像してみてください。

-妄想開始-

私たちは区市町村など、生まれた場所から出ることを法律で許されてないとします。都会へ遊びに行くことはおろか、海や山へ出かけることもできません。そこで国の定めたルールにきちんと従って外出許可を取って外に出てみたら、何もしてないのに水を浴びせられたり石を投げられます。あげくの果てに子供を産み育てるという人として当たり前のことまで非難されます。でもその非道を訴え出たところで国は絶対にそれを取り締まることは無く、下手をすればこちらが罰せられます。

そして、それは一生続くことが分かっています。

いや一生どころか、自分の子供も孫もその先も、同じような思いをしながら生きていかなければならないことが目に見えています。

-妄想おわり-

 

どう思いましたか。少なくとも私は「黙って壁の中で生きることが正しい」なんて言えなくなってしまいました。むしろそれをなんとかしようという思想は、善悪は抜きにして非常に勇敢だし、自分の子供や未来の子供たちを”想って”いるのではないかとさえ思います。そして、もしそれが成功すれば、その人は英雄とか救世主と呼ばれるに足る人物なのではないかと。

グリシャやダイナも子供のことを想っていたのではないでしょうか。どちらも子供への愛によるものだとすれば、いったい何が違うというのでしょうか。

 


いや、違いはありました。

 


わざとらしく遠回りしてすみません。そもそもグリシャが後悔していた通りです。

グリシャとカルラはエレン”個人”を想って叱っていますが、グリシャとダイナはジーク”個人”ではなく”みんな”を想っているのです。乱暴な言い方をすれば、ジークはあくまで”みんな”に含まれる一人でしかありません。グリシャとダイナは”子供たち”を助けたかったのです。

というわけで、愛はあっても個と全体という親の思想が両者を分かつことが見えてきました。

 

”みんなのため”という考え方では、個人は全体のために奉仕することが求められます。極端に言えば個人は全体のためのコマに過ぎませんから、一人一人の個性はさほど重要ではありません。それが先鋭化していくと個性を邪魔なものとさえ考えるようになったりもします。コマは余計なことをせず全体の意思通りに動いてくれるほうが都合が良いわけです。軍隊というのはまさにその典型の一つで、作中でも通過儀礼として各個人の固定観念の破壊が描かれていましたよね。ジークはそんな考え方を持った両親のもとで、みんなのために”王家の血を引く者”という役割を全うすることを求められていたのです。

それに対してエレンは、改心したグリシャとカルラの個を重視する考え方のもとで生まれ育っています。人はみな個性と呼ばれるそれぞれ異なる性格を持っていますが、その性格形成においてとても大きな影響を持つものが、幼少期の親との関わり合いによって生じます。

それが自己肯定感です。

ご存知の方も多いでしょう。自己肯定感を言葉で表現するのは難しいのですが、”あるがままの自分の存在を受け入れる感覚”といった感じでしょうか。あくまで感覚ですので、本人が意識的にそう思っているかどうかではなく、心のもっと深いところにある根源的なもので、生まれてから幼児くらいまでにそのベースが出来上がるようです。

自己肯定感が高いと、文字通り「自分は存在していい」と無条件に感じています。対して自己肯定感が低いと「自分は存在していい」と肯定できない、つまり否定ではありませんが「していいのだろうか?」という疑問のようなものを持っている感じになります。自己肯定感が高い子にしてみれば「存在していい」のは当たり前なので、そもそも疑問すら覚えようがない感じです。

 


ところで、「みんなのため」は割と多くの人が少年期から思春期あたりにかかる一過性の病みたいなところがあります。自我が成長していく過程で”私ってなに?”、”私はなんのために存在しているの?”という疑問に辿り着きます。そこで多くの子がいったん「みんなのため」に酔いしれます。特に男の子がヒーローに憧れるのはだいたいコレのようです。

”私はなんのために存在しているのか”という問いは、哲学の永遠のテーマのようなもので、大昔から数多の天才たちが挑んできましたが明確な解答は出ていません。つまり、子供たちが思い悩んだところで答えが出ない、あるいは考えても意味がない問いだと言えるかもしれません。

そこで自己肯定感が高い子は、そもそも自分のあるがままの存在を肯定する感覚があるわけですから、私が存在することに理由は要りません。ですので、答えの無いその問いをなんとなく消化しやすい傾向があります。

ところが自己肯定感が低い場合は、もともと持っている「私は存在していいのか否か」という疑問のような感覚と一致してしまい簡単には決着が付けられません。存在していいと思うためにはなにか根拠が必要になります。例えば、他人より自分が優れていたらそれは理由になり得そうですよね。ですので他者との比較というのが重要になってきます。そして自分が他者より優れていることを何より実感できるのは、他者が自分を認めた時です。

そんな時に「みんなのため」がもの凄く都合が良いのがお分かりになると思います。自分がみんなのために役に立つ人間であれば、一気に「みんな」の賞賛を得ることができ、「みんな」より優れていることを確かめられそうです。とはいえこれ自体は別に悪いことではないんです。これが原動力になって一芸に秀でて大活躍する人もたくさんいますので。

ただこの場合の他者承認というのは一時しのぎにしかなりません。他者に認められることが自分の価値であるとすると、ずっと他者に認められ続けていないと価値が無くなってしまうからです。それは自分の才能をさらに伸ばすモチベーションにもなるのですが、”しなければならない”という義務感や強迫観念のようなものも付きまとうので、無理をして自壊を招くことが多々あるようです。自分を犠牲にしてでも「みんなのため」に何かをしなければならない、となってしまうわけです。

 


エレンは言うまでもなく個の申し子のようであり、小さい頃から自分の意見をしっかりと主張できる子に育っています。自分という基盤がしっかりありますので、他人は他人と考えることができ、他人の考え方が異なることも受け入れやすいです。だから異なる意見に対して思ってることはちゃんと言えるし、相手の方が正しいと感じれば素直に取り入れることができます。

ジークは全体の中で育ったので、自分は全体のために”王家の血を引く者”の役割を全うしなければ存在価値がない、という感覚があります。だから両親にも祖父母にもそれぞれに対して”いい子”を演じる必要があり、本来の自分がどんどん出せなくなっていきます。相手の意見が間違っていると思っていてもなかなか言い出せず、自分の中に貯めこまざるを得ません。自分を出すことは「みんなのため」に反する、つまり本来の自分は「みんな」にとって不要だという感覚が育っていきます。王家の子でない”ただのジーク”では生きていけなくなってしまうのです。

自己肯定感の高低や個と全体のどちらが正しいということではありませんが、こうして比べてみれば、個の方が”自由”だと言うことができるかもしれません。生きることに理由が必要なければ、理由を得ることを強制されないからです。

 


ところでアルミンの性格は自己肯定感が低い方にかなり当てはまり、そのエレンとの対照こそが物語の主軸であると考えられます。やっぱり主役はジークよりアルミンでしょう。ただエレンとアルミンは全く違う親から生まれた全く繋がりのない人間ですから、違って当たり前な感じがあります。そこでグリシャという同じ親、同じ血を持って生まれながらも、対称的な性格・思想を持つに至ったエレンとジークが意味を持ってきます。つまりこれは親が一緒でも起こりうることであって血縁による違いではないんですよ、ってことだと思います。たしか作者がそんな感じのコメントを言っていたらしいですけど、たぶんこのことだと思います。よく王家とかの血筋のことのように言われますが、そちらはエレンもアルミンもそれなりの血筋がこれから出てきそうに思います。そして「どこが血筋は関係ないんだよ」って話題になりそうな感じはあります。たぶんですけど。


それはさておき、前回から「みんなのため」をだいぶあげつらってますので、そんなに個の方が正しいのかよと思われてしまうかもしれません。が、もちろんそんなことはありません。誰もが自分勝手に好き放題していたら社会は成り立ちませんから、全体のことを考えることも必要です。要はバランスなんですけど、「みんなのため」は聞こえも良いし同調圧力も強いので、少し警戒しておくくらいの方が丁度よいかなとも思ったりします。本当に大事なのは、自分を素直に受け止めてあげること。自分が存在するのに理由なんていらないし、自分の人生に意味なんて必要ないって気付くことでしょうか。

”自分探し”って言葉が一時期流行りましたけど、あれも一歩間違うと危険だなと思います。別に無理して”自分”とかいう、もやっとしたものを探す必要なんてありません。やりたいことが見つからなかったのは、やりたいことが無かったから、ただそれだけです。それが自分の本当の気持ちであって、自分はもう見つかってるんです。そして、やりたいことが無いことってカケラも悪いことじゃありません。むしろ悪いと言うなら理由を聞いてみたいくらい、人生の無駄とかなんだそりゃです。無駄かどうかは本人が決めること。別に他人から見て充実した生活を送ることに意味なんて無いし、平凡にただ生きることだって、何事も無く穏やかでとてもいいものです(18巻71話)

 

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-生まれてきてくれたんだから

みんな生まれてきた時点で偉いんです。別に人から賞賛されなくても、後世に名を残さなくても、立派な家を建てなくても、偉いんです。自分が頑張りたいなら頑張っていいけど、無理してるなら頑張らなくてもいいんです(9巻36話)

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-いいじゃねぇか!
-お前はお前で!!

ユミルとヒストリアはどちらも”要らない子”でした。そんな自己肯定感の低い二人は、ユミルの一つの決心からお互いのありのままを認め合うことで、ありのままの自分自身を受け入れることに向かっていきました。そして(12巻50話)

 

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これは決して誰かの賞賛を得るためでもなく、自分の生きる理由を得るためでもなく、誰かに頼まれたわけでもありません。「みんなのため」のようなくだらない自己欺瞞や承認欲求にむりやり突き動かされたわけでもありません。自分のために、自分の欲求に素直に従って彼らを救う決断をしたんです(12巻50話)

 

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-人のために生きるのはやめよう
-私たちはこれから!
-私達のために生きようよ!!

 

やっぱりこれが”メッセージ”だと思うんです。

 

 

 

 

 

 -始まりと終焉-

※以下、ラストの予想が少し含まれてますので自己責任にてご閲覧ください。当たってますので知りたくない方は見ないほうがいいです。(当たってるはもちろん冗談ですが、それくらいの覚悟でお願いします)

 

 

 

 

 

 

 

 

この自己肯定感というもの、本人も両親も知らないうちに染みついているこれこそが「夢と呪い」の源泉なのではないかと考えます(21巻86話)

 

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-きっと この子は私達を勝利に導いてくれるぞ

ジークはエルディア人を救うという夢を託されながら、みんなの役に立たなくてはいけないという呪いをかけられました(18巻71話)

 

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-生まれてきてくれたんだから

ところがエレンは生まれただけで偉いという存在肯定をもらっていますが、これは夢ではあっても呪いとは言えそうにありません。

 

いや、先述した通りエレンとジークが血縁によらない対称を成している以上、やはり比較するべきは”全体のグリシャ”と”個のグリシャ”であるべきでしょう。

 

 

 

全体の考え方によって全てを失ったことを悔やんだグリシャが、壁に辿り着いて最初に得た感情は驚きでした(18巻71話)

 

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-戦っているのか?

彼は壁内に対して「自分たちを置き去りにして、壁の中でぬくぬくと暮らしている同族」というイメージを持っていたと思います。まさか壁の外へ出ようとして戦っているとは思わなかったのでしょう。さらに彼はもう一つ感嘆しています(18巻71話)

 

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-この壁の中は平和なんだな…
-少なくとも
-巨人に怯えて生きているわけではない…

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-…よかった

壁中の人々は巨人に怯えることなく平和に暮らしていました。壁の外の人間に怯えているレベリオとは大違いだったのです。しかも壁の中にいれば平和であるにも関わらず、壁外への自由を求めて戦っている人たちがいたことは、かつての自分を思い起こさせたかもしれません。かつての自分は自身の無力さも知らずにただ自由を求めるばかりでしたが、この人たちは違う。だからこそ巨人と戦う調査兵団は彼にとって勇敢さの象徴でもあり、リスペクトの対象になったんでしょう。これらから察するに、彼は壁内のことをこんな感じに思っていたのではないでしょうか。

 

壁の外へ出なければ平和に暮らせる、壁の外を求めるのは危険だが、それをすることもできる。つまりどちらも自らの意志で選ぶことができる。ここには自由を求める自由があり、求めない自由もある。ここは自由だ、と。

 

 

(22巻88話)

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-すべては…
-エルディアのためだったと信じてる…

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-…俺は未だ
-あの時のまま
-戸棚の隙間から世界を見ているだけなのかもしれない…

クルーガーは自身がしてきた行いを、自由への夢を寂しそうに語っていました。かつてのグリシャと同じように、無力で、でも自由が欲しくて、やっぱり叶えられなくて。

 


グリシャはそんなクルーガーに伝えたかったんだと思います。壁内で見つけた自由を(??巻???話)

 

-お前は自由だ

 

だから息子にエレンと名付けたんだと思います。クルーガーへの手向けとして、そして自分もクルーガーもそれを得ようと必死にあがいた”自由”という夢を託して。

 


エレンはそんなグリシャの想いの通り、存在理由を得ることに縛られない自由な子に育っていきました。よくグリシャがエレンに継承させたことをまた押し付けたと言われますが、そうではないと思います。あれは本人の自由への意志を聞いていたグリシャが、夢を実現できる力を与えたんだと思います。エレンの意志を尊重して背中を押してあげたんだと思います。結果論で言っても、継承してなかったらエレンはトロスト区で死んでましたから、巨人を駆逐することも、母の仇を討つこともできなかったでしょう。そしてなにより、壁の外へ出たいという夢が叶うことは無かったでしょう。

 

ただ最近のエレンは自分に言い聞かせるかのように「俺は自由だ」と繰り返し、自由であることに囚われているかのような素振りを見せていました(28巻112話)

 

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-オレは自由だ

そういえば壁の外へ出たい気持ち、トロスト区奪還戦での独白、海の先に夢見ていたもの、どれもこれもが自由でした。なぜエレンがそれほどまでに自由を求めるのか。

 

-お前は自由だ

 

つまり、呪いなのではないかと。

 

 

そして、グリシャから始まった物語は、彼の与えた夢と呪いによって幕を閉じるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

-謝辞-

最後までお読みいただきありがとうございました。ちょっと自分語りになって恐縮なのですが、このブログを始めてからちょうど一年が経過いたしました。しばらく前にエゴサみたいなことをしていて気づいたのですが、進撃の巨人ググると大きな企業さんや販売ページに挟まれて、けっこうな位置に出てきます。それだけたくさんの方に見て頂いてるんだなということを実感させられました。

飽きっぽい私がここまで続けてこられたのも、みなさまからたくさんのアクセスをいただき、コメントを頂いたり、ツイッターで感想を読ませていただいたおかげです。本当にありがとうございました。

またこの場を借りて、シンプルで見やすいブログを提供してくださってる、はてなブログさんにも御礼申し上げます。はてなさんを選んで大正解でした。

もちろん原作あってのサイトですので、こんな素晴らしい作品を生み出してくださった諌山先生には感謝の念でいっぱいです。とても言葉では言い表せないほどに。


みなさま本当にありがとうございました。


相変わらずマイペースな更新になるとは思いますが、引き続き懲りずにお付き合いいただけたら幸いです。この楽しい時間が少しでも長く続くことを願いつつ。


written: 24th Feb 2019
updated: none