進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

108 世界観⑫ 国産黒毛和牛リブロース ステーキカット ¥685/100g


みなさんこんにちは。

 

 

この記事はちょっと予定外なので後の記事とかぶってしまう可能性があるんですが、このタイミングの方が上手くはまりそうな気もしたので急遽ねじ込みました。ので浮いているかもしれません。ところでこれは原作漫画の方の記事なのでアニメで来てる人はまだ読んじゃダメですよ。

 

 

 

 

 

 


この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。個別表記の無いものは全て26巻1〇5話から引用しております。また、扉絵は18巻72話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[国産黒毛和牛リブロース ステーキカット ¥685/100g]

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-まえがき-

 

クソみたいなタイトルで何事かと思った方もいらっしゃるかもしれませんが、この記事はちょうどテレビでやったばかりの ni ku の話です。アニメが始まって古い記事にアクセスがあったりして当時の記事を読み返す機会を得たのですが、いろいろ見えているものも変わってきていました。当時思っていた以上に濃い一話だったというか。ですので過去に書いたことの修正というか、ニュアンスの補強みたいな意味合いもあります。

もう一度言いますが、アニメで来てる人は今すぐ立ち去った方がいいです。今後数か月の楽しみが台無しになるかもしれませんよ。

 

そしてお読みいただく方にはご不便をかけるようで恐縮なのですが、念のため検索避け目的で伏字表現を多用させていただきます。以下の通りです。

☆主な登場人物☆
加害者〇ビ  → 以下、「ガブリエル」と表記します
被害者サ〇ャ → 以下、「サ」と表記します
辞世の句である「二 く」 → 以下、「サーロイン」と表記します
エレンあたりはどの記事にも出てくるのでまぁ大丈夫でしょう。

あと該当話の引用に関しては記事の最初に一括で「1〇5話」という形で表記していますが、これも伏字表現になっていることをあらかじめお断りしておきます。

 

-まえがきおわり-

 

 

 

では。

 

 


まずひとつの視点を共有していただきたいので、22巻以前の壁内編のことはいったん無かったことにしてください。この物語は100年前の戦争で裏切って逃げた悪い人たちのせいで、奴隷収容区でみじめな生活を強いられている人々の物語です。

 

そんな悲惨な場所でも人間の生の営みは綿々と続いていき、年端もいかぬ少年少女が懸命に生きています。

ある少女は、「収容区」などというロクでもない名詞で呼ばれるロクでもない場所だけど、そこは自分が生まれ育った場所であり、大事な人達がいる家や故郷なんだと言います。そしてそんな大事な人達が、これ以上みじめな想いをしないで済むように自分が頑張らないとと心に決めます。その甲斐もあってか、少女は社会から評価を受けるようになりました。このままいけばみんなが楽しく暮らせる日々を実現できる、故郷を救うことができる、少女はそう確信を持ちます。

ところがある日、100年前の悪い人たちの子孫が突如として収容区の壁を越えて攻撃してきました。そして身近な友人知人や故郷の人たちが次々に殺されていきます。状況は絶望的で、もちろん少女にはそれに抗う力もありません。友を守る力も無ければ、敵を抑える力さえ持っていませんでした。

それでも少女は言います。

私達は敵に負けたのだろう。でも私はあきらめない、最後まで戦ってやる。でなければ死んだ人たちの想いが無駄になる。私は彼らの意志を受け継ぎ戦い続け、その意志はきっと誰かが受け継いでくれる。そのためなら自分の命なんて惜しくない、と。

そして彼女は自らの命を投げ打つように、敵の真っただ中へと特攻していくのでした・・

 

さて、

 

わざわざ長々と書く必要も無かっただろうと思いますが、ご存知の通りこれが「ガブリエルの視点」です。今となってはどなたも掛け値なしに見ることができるのではないかと思いますが、完全に王道的なヒーローのムーブをしていることが改めてお分かりいただけると思います。大事なみんなを助けたくて、そんな力が自分に無いのも分かっていて、でもみんなの意志を受け継ぎたくて、命をかけて強大な敵に立ち向かっていく。もちろんかつてのエレンなんかに重ねられているのもそうだと思いますが、より理想的なヒーローのムーブであるように感じます。


ではここでもう一つの視点、「読者の視点」というのを登場させたいと思います。これは今この記事を読んでいるあなたの視点ではありません。あくまで別物の、どちらかと言えば「(当時の)読者の視点」くらいで捉えていただくといいと思います。

当時原作を追っていてネットでも進撃の情報を見ていた方は、あちらこちらで「ガブリエル死ね」「頭おかしい」「クソ」みたいなのが飛び交っていたのはご存知かと思います。もちろんこれには声が大きい人が騒いでた側面もあるでしょうし、そうでない意見も見られました。サイレントマジョリティーみたいな話も実際にはあるでしょう。ただ、じゃあ容易にカウントできる程度の人数が騒いでいただけなのかと言うとそうでもない印象があります。そうした風潮はそれ以前からもあったのですが、サが撃たれたこの一話で加速した感もありました。

まぁそうした声が大きい人たちの意見は、調査兵団に感情移入しすぎて客観性を失ってしまっている極端な例であることは容易に見て取れるはずです。今さら改めて取り上げるほどのものではありません。ガブリエルが必ずしも悪いわけでもないみたいな話も、最新話まで原作を読んでいるみなさんにはするまでもないだろうと思います。

 

なのでもう一歩踏み込んでみたいと思います。

 


実は、極端で分かりやすい方々よりむしろ恐いのは「ガブリエルは責められない、なぜなら洗脳されているから」みたいな意見の方ではないかと思ったりします。しかもこれは、あくまで私の印象でしかありませんが、わりと一般的な意見ではないかと思います。ちなみに当時は私もそんな感じに思っていましたので、以降は自分語り調を織り交ぜてみようと思います。

 


さて、英雄道をひた走るガブリエルを止め、ファルコはこう言います。

 

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-踏みにじられたからだ…

「よく言ってくれた」「なんとかガブリエルの洗脳を解いてくれ」といった感じで、ここのファルコは読者の代弁者になっていると思います。そしてここの会話はとても巧みだと思います。ファルコの言ったことに対してガブリエルはこんな返しをするのですが、

 

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-あんたは…
-それを…見たの?

このやり取りでファルコは言い返せなくなってしまいます。ガブリエルの言っていることはもっともですからね。でも当然これはブーメランになっていて「私は自分の目で見たものしか信じない」と言っている彼女が、続くセリフでは「島は悪魔」という見てもいないのに信じていることを語りだすわけです。そしてその矛盾を察した読者は「やはり洗脳は良くない」「教育は大事だ」と改めて考えるわけです。もとい、そういう仕掛けになっていると考えます。


ところがここで、代弁者ファルコはその矛盾にツッコミを入れてくれないんです。なぜだと思いますか?

 


いったん話を変えます。

 


「読者の視点」というのは、よく「神の視点」に例えられます。全てを見通せる客観的な視点くらいのニュアンスです。実際、読者は壁内編を見てきていることでガブリエルたちが見ていない事を知っています。だからエレンを通じて少しでもそれを知ったファルコに期待してしまいます。「洗脳を解いてくれ」「真実を教えてやってくれ」って、

 

「ガブリエル、客観的に見たら君が今やろうとしていることは間違っている。だから止まってくれ」と。

 

少なくとも私はそう思っていました。

 

ここでひとつだけ認識の修正、というか擦り合わせをさせていただこうと思います。

ガブリエルの状態を「洗脳されている」と表現するのはあまり適切ではないんじゃないかと思います。彼女は拘束や拷問を受けたりなにかの装置や薬などを使用されたわけでもなく、ただそう教えられただけです。つまり洗脳というよりは教育です。

もちろんそんな厳密な意味で使っているわけではないことも、最初からそう思っていた方が普通にいることも分かっているつもりです。でもこれはもの凄く大事なことだと思いますので。

 

 

そして先ほどの質問への私なりの答えなのですが、


私は、私が教えられただけの見たことも無いものを、たくさん信じていたんです。いや、今でもそうです。


だから代弁者たるファルコは言い返せないんです。


そして当時の私が思いっきり勘違いしていたことがあって、それはファルコがエレンの言葉を思い出すところなんですが、

 

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-海の外も 壁の中も 同じなんだ

私はこれを「エレンの言葉を聞いていたファルコは、マーレで教えられていたことが間違っていたことに気付いた」と解釈していたんです。マーレでは壁内は悪魔だと教えてるけど、エレンはどっちも同じだと言っている、だからマーレは間違っていると。でも全然違いました。

 

ファルコは「マーレが間違っていることに気付いた」のではないんです。それだったらガブリエルの矛盾にツッコむはずなんです。彼はなんとしてでも大好きなガブリエルを止めたかったわけですから。

そうではなく、彼は「エレンの言っていることも本当かどうかは分からない」ことに気付いたんですね。もちろん同時に「マーレの教えてることもどうか分からない」なぜなら「見てない」から、という疑問を抱いた状態に至ったんだと思います。ガブリエルの言葉によって、その直前に見てもいないのにエレンの言葉を鵜呑みにしていた自分自身に気が付いたんです。

 

それはむしろガブリエルが言った「見たものしか信じられない」ということの肯定でもあるんです。彼女の言っていることが正しいと認めたからこそツッコまないし、だからこそ彼は自分の目で見ようと行動したんです。自分が彼女以上に物事を見て真実を見極めることが鎧の巨人の継承者の資格として必要だし、それが彼女を守る術だからです。

ところが当時の私は、エレンの言っていることは正しいからファルコは見てもいないのに信じて、マーレの言っていることは見てないから間違っていると感じたという、わけのわからない矛盾だらけのことを信じて疑わなかったんです。視点をごちゃ混ぜにしてしまってるのもありますし、パラディは正しくてマーレは間違ってるみたいなバイアスもありそうですね。

 


ちなみにマーレで教えられていることをイェーガー翁とヴィリーの話なども参考に要約するとこんな感じになると思います。

エルディアは巨人の力を使って世界を支配した。ひどいこともたくさんした。だから奴らは悪魔だ。そして正義の国マーレが反旗を翻して島に追いやった。その際に置いて行かれたエルディア人どもも生かしてやるから感謝しろ。そしてあの悪党どもとは違うことを証明してみせろ。

煽動するような部分やレッテルを貼って人々に言い訳を与えている点はよくないのでしょうが、マーレやレベリオ民の視点から見れば大筋は「間違っている」とは言い切れない感じなんです。しかも「世界を滅ぼす危険性のある悪魔だ」というのが本当だったのは既にみなさんもご存知の通りです。もちろんそれはこういった考え方が悪魔を生み出した、つまり「マーレという人の想いが現実になった」という表現でもあると思いますが、いずれにせよ安直に「間違っている」と断じれるような代物ではないと思います。むしろ「マーレの言っていることが間違っていることを証明してみよう」と考えてみれば分かると思いますが、グリシャが用いたようなトンデモ理論を持ち出さない限りかなり困難です。

マーレ国においてマーレの視点で教育を施すことが間違っているとは言えないはずです。もしそれを洗脳と言うなら、私たちはみんな洗脳されていることになってしまうかもしれません。実際そういう部分もないとは言い切れませんが、なんにせよ自分が受けた教育は正しい「教育」でガブリエルが受けた教育は「洗脳」のようなものだから「間違っている」と断じてしまうのは、いささか滑稽にすぎるように思います。

大人になってから現在発行されている教科書を見る機会があったりすると気付いたりするんですが、自分が習ったこととは変わっていることがちらほら見つけられたりします。幸いにも(?)最近はさほど大きな変化は無かったようで些細なものしかありませんが、大幅な変更が起こらない保証なんて無いんです。歴史に限らず私たちは教えられたことを元に自分の考えとか常識というものを作り上げ、それを元にして世界や物事を見ているわけですが、その根幹となっているものが変わる可能性って普通にあるんです。そんな足元のおぼつかない「自分の常識」を、世界の常識か真理かなにかのように勘違いしてしまうんですね。

だからこう思ってしまいました。

 

「ガブリエル、客観的に見たら君が今やろうとしていることは間違っている。だから止まってくれ」と。

 

マーレの教えていることが彼らにとって必ずしも間違っていないとすれば、ガブリエルの言っていることや信じていることも間違っていないことになります。冒頭に書いた通り、彼女自身やレベリオの視点から見れば彼女のやっていることは英雄的行為以外の何物でもありません。その、何も間違ったことをしていないガブリエルという年端もいかない少女に対して「考えを改めろ」って強要していたんです。「私の常識」を一方的に押し付けていたんです。「客観的」とかなんとか、片腹おかしい感じです。

で、他人に自分の意見を押し付けるからには正当化する必要があるので、「悲劇の連鎖を食い止めるため」みたいな麗しいお題目を掲げるわけです。そのちょっと前に「ミカサきた」「アルミンきたー」なんつって喜んでいた自分を忘れて、なぜか少女にだけ悲劇の連鎖を食い止めるために自制することを要求してしまっていたんです。

自分は客観視していると信じて疑わないのに、もの凄くパラディに寄っているんです。そして自分は客観視していると信じて疑わないんです。


なのでこんな考えが首をもたげたりしてきます。

だって私は壁内編を「見て」いるから

確かに見ていたんですけどね、あれは作者から読者に与えられた教科書みたいなものかもしれません。読者はもちろんそれを事実だと信じて疑わないわけですけども、実はもの凄く限定的な「調査兵団の視点」というものしか見ていないのも事実です。クルーガーがなんか言ってましたよね。

でもそれでなにか全てを知ったかのように思ってしまって、自分は客観視できていると思い込みながら、実際には教科書の通りに調査兵団の視点に偏った意見を綺麗事で飾り立てながら述べてしまっていたわけです。

それは無自覚に自分の常識を「正義」として振るっていたということでもあるでしょう。無自覚なあたりが余計にたちが悪い。そしてこれは状況的に偶々ではあるかもしれませんが、大人よりも子供に責任を押し付けてしまっていたんです(もちろん作者は狙っていると思います。)


このしばらく後にガブリエルとカヤの会話でこんな話が出てきます(27巻109話)

 

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-お母さんは誰も殺していない!!

これも調査兵団、というかパラディ視点から見ていると、「少なくとも今の世代において先に仕掛けてきたのはマーレだ」という考えに陥りそうになってしまいます。

でも歴史っていうのは切っても切り離せなくて、カヤはマーレの襲撃があるまでは穏やかな暮らしをしていたと思われますが、ガブリエルやその両親は、彼ら自身は何も悪いことはしてなくても生まれた時から酷い立場に追いやられていたのも事実なんですよね。だからカヤが責任を感じろとかいう話ではなく、どちらも悪いと言えば悪いと言えるし、どちらも悪くないと言えば悪くないと言えてしまうような話なんです。マーレさんとエルディアさんの関係も同じことです。でも私たちは「客観的」と称しながらどちらかが悪いということを決めてしまいたくなる、白黒つけてしまいたくなる。それがまた争いの種となっていくのだと思います。

だからこそ(現在の相手の立場を)理解することを諦めないことが大事なんだろうと改めて思いますし、同時にファルコが見せてくれたように誰かの言っていることを鵜呑みにしないということ、疑問を持つということの大事さも感じたりするのです。そして前回の記事に付け加えるとするならば、自分自身も必ず偏っていると常々考えるべきではないかなとも思います。

分かりやすく暴言を吐いてる人なんてのは意外と害は無いんです。分かりやすいので社会はまともに取り合いませんから。でも客観的なつもりで実は片側に偏ってやんわりと否定する、同じようにみんな自分が客観的だと思いながら伝播していく。これって恐いことだと思いませんか?

 

 

 

さて、サーロインの話を全然してませんでしたが、実は今までのが本題のようなものになってしまってここからはおまけな感じです。看板に偽りがあってすみませんがサクッと早口でいきます。

 

少し前の記事で取り上げたように、エレンの意図というのは生きるために自らの意思を持って戦ってほしい、あるいは必ずしも戦うではないにしても自ら行動をして欲しいといった感じだろうと考えられます。だからこそみんながレベリオに来た時には少し喜ぶような節がありました。でもその後のミカサのセリフ、アルミンの表情、兵長の態度を見るにつけどうもそうではないらしいと分かり始め、そしておそらくハンジの言葉がトドメになっていると思います。

 

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-お望み通り こちらは選択の余地無しだよ

エレンとしてはみんなが自分の意思で戦うことをして欲しくて選択肢を与えたつもりだったのに、彼らはそう受け止めてはいなかった。エレンが特別な力を持っているがために仲間たちにとってエレンは失ってはならない存在になってしまっていたわけですね。義務です義務。エレンが一人でもやるつもりだったというのは彼の言動を考えればその通りでしょうから、本人は自分を人質にするつもりなど無かったと考えられます。だからこれはおそらく直前のジークのセリフが暗喩のようにかかっていて、エレンにとっての「誤算」だったということなのだと思います。

で、サの話に移りますが、以前の記事で書いた通りサは訓練兵団時代のユミルやヒストリアとの交流をきっかけに、カヤの村での出来事の最中に気付きを得ました。さらに親の承認も得て自立を果しています。以降、他人の目を気にして方言を隠すことをしなくなったり(社会のルールを気にしすぎて無駄に本来の自分を殺すことをしない、)それでいて仲間やニコロともしっかり関係を築いたり(社会や他者という外部との距離を適切に取っている。仲間だけじゃないというのもポイント、)雑な言い方ではありますが104期の中でも大人の階段を一番早く上っていると思います。

サは元々エレンと同じ感じに「個」に寄った人で、教官の前で芋を食うというのも「社会のルールに合わせることよりも自分の欲求を優先する」という表現であると考えられます。そしてこれもエレンと似ているのですが、社会に馴染んだ者(読者も含め)からそれを見ると異様に見えるわけです。エレンと同じく異端なんです。そんな彼女が、だんだんと社会との付き合い方を身に付けて、それでいて方言などといった個を見失わずに成長したわけです。

そこでサーロインなんですが、当時の訓練兵たちが意を決して調査兵団を選ぶに至った理由はそれぞれでしょうが、だいたいは様々なものに背中を押されていると思います。本当は戦いたくないけど巨人と戦わなくちゃいけなくて、自分がやらなきゃいけないとか、みんなが行くならとか、誰かの意志に報いるとか、あるいは正義みたいな概念もあるかもしれません。そんな中で一番バカに見えたサが一番明確な目的意識を持っていたんです。土地を奪還して牛や馬を増やし、食べるに困らない状態にする。それが目的であって巨人を倒すのはあくまでその手段なんです。そして彼女はその目的に対しての行動を選択していたということです。もちろんサにも背中を押されていた部分が無かったとは言い切れませんけどね。

そして前回の記事で書かなかったんですが、彼女も例外の一人なんです。彼女は「死にたくない」とかではなく、最後の最後までその目的に向かっていたんです。だから最期の言葉がサーロインなんです。

当然このセリフを思い出します(24巻97話)

 

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-ただし 自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ
-その地獄の先にある何かを見ている
-それは希望かもしれないし
-さらなる地獄かもしれない

エレンから見てサはまさに「自分で自分の背中を押した奴」だろうと思うんです。で、言うなればその末路を目の当りにしたようなものでもあります。あるいは背中を押されてる者より真っ先に死んでしまうあたりにも皮肉めいたものを感じていたかもしれません。

そう考えると自分がファルコに言ってたことに対する自嘲めいたニュアンスも浮かび上がってくるように思います。そして先の「誤算」の件も合わせて、よりいっそう周囲をどうこうしようとするのではなく、自分は自分の行動をするだけだと「戦え」と自らを鼓舞しながら進んでいったのが納得できるように思います。まぁそれでもアルミンとミカサには思うところがあったのでしょうけど。


で、こうやって考えていくと恐ろしいのは、おそらくサはあの場面でジャンやコニーが死んだとしてもエレンのことを客観視できてしまうんじゃないかと思うんです。そしてそれを仲間に伝えてしまう。だからサはあそこで死ななければならなかったんだろなぁと思えてしまうんですね。そしてジャンやコニー、調査兵団の客観性を破壊する必要があったと。もちろんこれにも裏があって、6名の戦死者が出ようがそこまでではなかったジャンやコニー、そして読者。それから民衆がたくさん死んでもなんとも感じなかった読者に対して、大好きなサを殺すことで一変してしまう人間の不条理な偏り方を演出しているわけですよね。

それと少し皮肉めいているのはロボフさんとサという、子供を撃たなかった二人が死んでいること。逆に責務に忠実に子供でも殺そうとしたジャンは命拾いしています。そして偶然にも殺せなかったことで生き残ったジャンが、今度は子供を殺すことを拒否するのも面白いですね。ちなみにこれを大きな流れで見てかっこよく言うと、彼らの子供を殺さないという選択が現在の展開を生み出したという感じになります。もし殺してしまっていたら、英雄たちはもう終わっていたかもしれませんよね。うーん美しい。今の展開はサとロボフさんの心臓が捧げられることなしにはあり得なかったと。あくまでかっこよく言えば、ですけどね。もしそれを言うならサネスがエルヴィンの父をころ・・ゴホンゴホン

 

それとこの一話で個人的に好きなのはこのセリフです。

 

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-今は勝てなくても…
-みんなが私の思いを継いでくれるでしょ?

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-ジーク戦士長が遺した意志は同胞が引き継ぐ!!

王道物語ではとっても美しく描かれる「誰かの意志を継ぐ」とか「想いを託す」みたいなカッコイイやつです。それが敵であるガブリエルが言うと、なんかおぞましいようなちょっと頭おかしいような感じに聞こえてくる感じ。まぁみなさんがどう感じたかは分かりませんが。もちろんこれは最近のB面展開でも描かれていましたし、このセリフは当然「エレンは海を見てくれる」と重なってもいるわけで、徹底的に両面を描いてくるこのあたりが素敵だなと思います。

もちろん、科学技術にしろ文化にしろ人間そのものにしろ、全てはその「継承」によって積み上げられてきたものですから、ただ否定できるものではありません。だけれどもそれは時に枷にも呪いにもなったりするわけです。王道物語だとキレイな部分しか描かれないでしょうが。

 

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それに関連して仲良くじゃれあってるこの二人。兵長は最近悩んでましたよね、なんで俺はこのミッションを達成できないんだって。これが誰かの残した意志が枷になっている例だと思います。個人的な予想では兵長ジークを許すことになる、というかその必要があると思っています。なぜかと言うと彼はこの事に固執して客観性を失っている部分があるからです。しかもこれ、やっぱり思い込みなんです。兵長が勝手に「ヤツの意志を継ぐ」みたいに思い込んでいるだけなんです。

というのも、エルヴィンはそんな命令を下してなんかいないからです。

あの時エルヴィンがした命令は、戦術的な目標を倒すことで絶望的な状況を打開し、最悪でもエレンの帰還、付け加えてリヴァイや他の生存者が一人でも多く帰還すること、もしくは上手く討ち取れれば獣を奪った上に敵の撤退を呼び込めるかもしれないという一発逆転の策です。

目的は全く別のところに明確にあって、あくまでそのターゲットとして敵のリーダーである獣の巨人を倒せと命令してるんです。別にジーク・イェーガーが憎たらしいからあいつを殺せって命令したわけじゃないんです。もし車力が撃手でリーダーだったら命令は車力を殺せだったはずです。そして、当時の作戦目的は既に達成しているからもはや獣の巨人とかジーク個人はどうでもいいんです。

でも、兵長はまさにジーク・イェーガーが憎たらしいから殺そうとしてますよね。それがヤツの命令だからと理由を付けて。これは想いを受け継ぐみたいなのが悪い方に作用しているように感じます。

ちなみに兵長が「誓った」と言い出したエピソードは「約束」。矜持、罪人達あたりと並べて、人を縛り付けることもあるもの、背中を押してしまうことになるものの一端ということなんだろうと思います。おそらく英雄たちはその想いのリレーによってひとつの結果を掴み取ることになると思いますが、その一方でそれが美しいだけではないんだという感じじゃないかと思いますが、どうでしょうね。想いと想いのぶつかり合いみたいなところもあるかもしれません。

 


あと一つだけ。

 

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-君は我々を信頼し…
-我々は君への信頼を失った

「信頼」という言葉。これも一般的に美しく使われている言葉のように思います。

エレンのことを言っている方に関しては、エレンはすでに巨大樹の森で「信じる」という概念は崩れ去ってると思いますので、ハンジの言っていることが的確とは思えませんがまぁそれはいいとして(ハンジも自分の常識でエレンの意図を考えてるわけです。)

 

我々は信頼を失った。

 

信頼ってなんでしょうね。


前後の彼らの態度なんかから考えてみるとこんな感じでしょうか。

君を信頼していた  → 今まで君の言動は好意的に受け止めてた
君への信頼を失った → これから君の言動は悪意と疑いを持って受け止めるよ

あながち的外れではない気がします・・ということは「偏って見ます」という宣言? あるいはその状態ということ?

 

うーん、信頼ってなんでしょうね。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

本日もご覧いただきありがとうございました。

 

そういえばアニメの放送予定ってどうなってるんでしょう。今のペースでぶっ通しでいくなら最終巻発売とそれほど変わらない頃に最終話になりそうですが。それともインターバルが公表されてたり、現在の枠の次の作品が判明してたりするんでしょうか。もしなにかご存知の方いたら教えてください。


written: 6th Feb 2021
updated: none

 

107 世界観⑪ being human being(s)


※この記事は1本の記事を分割した後半ですので、まずは前半からどうぞ。

 


みなさんこんにちは。

 

後半はだいぶ堅めの話、進撃の話だけど進撃の話をしていません。つまらない自覚があります。でも書かないと進まないのです。

 

 


この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は3巻11話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[being human being(s)]

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さて、割と今までの総括みたいな話なのでどこから話そうかと考えまして、あの日のことを思い浮かべました。というわけで、もはや今さらみたいな感じにはなってしまっていますが、134話のはなしから始めたいと思います。書いた当時のままだったりして違和感のある部分もあるかもしれませんがご容赦ください。

 


134話でまず注目するべきはここでしょう(33巻134話)

 

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-…この責任は 我々すべての大人達にある

まずはB面、すなわち王道物語としての側面からお話しますね。このスラトア基地の司令官による自分たちの過去の行いを顧みる言葉や、パラディ島という敵であるはずの人々が地鳴らしを止めようとしているのを知ったことは、和解への糸口に当然なり得ると思います。現在は英雄たちが英雄になるシーケンスだと思いますので、司令官がやたらと察しがいいこともご愛嬌といったところでしょうか。ここは多少皮肉が込められているかもしれませんが、司令官の言ったことがほぼ世界の人々の総意になっていく、こんな主語全体化した展開は王道物語ではわりとよく見られることだと思いますし、おそらくそういう感じだろうと思います。

ここで思い出すのが、サシャ父が言っていた森のはなし。

大人は子供に過去の責任を負わせるべきじゃないみたいな感じでした。134話は子供が強調されまくっていましたから、サシャ父の言葉を思い返した方も多かったのではないでしょうか。子供たちを憎しみの歴史から解放してあげるためにも互いを思いやることを忘れてはいけない、確かにその通りだと思います。

 


ではA面の話に戻しますね。

 


じゃあそれって、具体的には何をするんでしょうか? 相手を思いやるように努めるんでしょうか。間違っているとは言いませんけど、それで何かを変えられると本当に思えるでしょうか。

それって「きっと分かり合える」「何かが変わるかもしれない」と遠くを見つめるのと違いがあるのでしょうか。


もしくはこういう考え方もできるかもしれません。こうした悲劇が生まれないように争うことのむごたらしさを子どもたちにもちゃんと伝えていかなければって。これも間違ってるとは言いませんが、作中では半ば否定されているかもしれません。だってこれ、親が子供に思想を植え付けるということにもなりかねませんよね。


まぁでも、子供にどうこうではなくとも自分だけでも思いやりを持とうとすること、まずは身近な人たちを大事にすることから始めようと思うのは、ぼんやりとはしてますけど大切なことだと思います。


それによって地鳴らしが起きたようなところもありますけども。

 


じゃあなんだってんだってところで、133話が効いてくると思うんです。


ところで前回の記事をあげた後になって、おまけ部分に書いておくべきだったことに気が付きました。

133話で英雄たちがやっていたことは、あの、世界中から愛されているヴェールマン隊長がやっていたこととほぼ同じだと思います(3巻10話)

 

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-もう一度問う!!
-貴様の正体は何だ⁉

あの時の隊長は「巨人は人類に危害を及ぼす敵である」という壁中人類がそれまでに得ていた知見に従っていただけなのですが、話し合いの全過程においてその前提条件を崩すことがなかったので幼馴染三人組と全く話が噛み合いませんでした。これを読者は幼馴染側の視点から見ているので、おそらく隊長のことは頭おかしいクソ野郎くらいに思った方も多いはずです。

でも彼がやっていたことは、敵である可能性が十二分に考え得る存在に対してできるだけ被害を出さないように排除しようとしていただけです。実際取り囲んでいた兵士に怪我人が出ないよう再三の注意を促してますし、本人も言ってましたが規律通りの動きをしているはずです。確かに間違っていません。気が小さいとかはどうでもいいことで、彼はルールで決められていることをクソ真面目に守って職責を全うしていただけなんです。何も悪いことはしていないし、だからピクシス司令も一切の叱責をしていません。

当時のアルミンの決意表明はそれはもう見事なものでしたし、兵士たちも心を動かされていましたが、それでも隊長には通じませんでした。なぜでしょうか。

それは、隊長が前提としていた「巨人は敵である」そして「エレンは巨人である」というフィルターを通してしか物事を考えなかったからですよね。そしてそれを覆すことに抵抗感があった。だから人間の言葉を使って惑わせてきてるに違いないみたいな、その前提に沿った考えばかりが浮かんでいたわけです。

同じですよね。「エレンは自分たちに止めて欲しいと思っている」という前提を通してしか物事を考えていないから、話が噛み合わないんです。

でも133話をB面の視点から見ると、というか普通に読むと「英雄たちは分かり合おうと努力したけど叶いませんでした」というエピソードになっていると思います。それはつまりヴェールマン隊長も「分かり合おうと努力したけど叶わなかった」ってことなんですよ。「きっと分かり合える」とずっと願ってきて、口でも頭でも分かり合おうと努めていたはずのアルミンですらあの体たらくなんです。「分かり合えるように努める」なんてのがどれほどのものか、それは幼馴染視点でのヴェールマン隊長を思い出していただければハッキリ分かるはずです。

 

でも、それが人間なんです。人間ってそういうものなんだってことだと思うんです。

 

そもそもの話、134話って「司令官が遂に分かってくれてわーい」でも「カリナが気付いてくれてライナー良かったね」でもないですよね。おそらく「やっとかよ」って思った方も多いのではないでしょうか。

そうなんです。この人たち、ものすっごく都合がよろしいんです。この人たちがそう思ったのは、自分が死ぬということをほぼ確信したからです。バカは死ななきゃ治らないを地でいってるというか、それまでは対岸の火事に無視を決め込んでいたんですよ。そしてもし地鳴らしが無くてパラディが制圧されていたなら、今でも島の悪魔どもとか言いながら奴隷扱いしていただろうことは容易に想像できます。この人たちがやっていることは、散々人を小馬鹿にしたあげく、ナイフを突き付けられたら「ごめんなさい、もうしません」、これです。

 

でもこれが人間です。

 

日本は戦争の過ちを後世に伝えようと平和的な憲法を掲げ、二度と繰り返さないといった感じで教育においても強調していますよね。戦後70余年しか過ぎていませんが、果たして現在の私たちのどれほどが戦争について真剣に考えているのでしょうか。中東やアゼルバイジャンで何かが起こっても知ったこっちゃないですよね。それよりも今日のメシが大事です。諸外国に対してヘイトスピーチを巻き散らしている日本人もたくさんいます。おそらく私たちが戦争や平和について本当に真剣に考えだすのは、どこか他国が日本に攻めようとしてきた時でしょうか。後世に伝える?何ソレ?

 

でもこれが人間です。

 

進撃を読んでいろいろ思うところがあった方も多いのではないかと思います。差別は良くないとか決意を新たにした方もいらっしゃるかもしれません。でも、連載が終わって遅くとも1年くらいしたらだいたい忘れますよね? 少なくとも私は今までの自分を振り返るにそんな感じになるだろうと予想しています。1年もったらたいしたものです。1か月もすれば忘れるまではいかずとも決意なんて薄れているのは間違いありません。

 

でもこれが人間です。

 

 


さて、アルミンほどの賢い人が、理詰めでどんな問題も解決できてしまうほどの人が、「分かり合う」くらいのことをこうもできないのはなぜでしょうか。

それはおそらく、彼が「分かり合えると思っている」からです。

「分かり合えると思っている」というのはどういうことかと言いますと、話をしたりとかすれば自分は他の人と分かり合うことができると思っているということです。そのまんまか。

でも前回指摘したように、彼は分かり合うことのスタートラインにも立っていないような方法で話し合いに臨んでしまっているわけです。つまり、彼は「自分が分かり合う方法を分かってないことを分かってない」、あるいは「自分が分かり合おうとできていないことを分かってない」んです。

自分ができもしないことをできてると思い込んでいるんです。

これはアルミンが賢い人物であることによって「アルミンほどの人でも」ということでより強調されているのだと思いますが、みんなそうなんだと思います。あれほど聡明で物事をなんでも見通すことができてしまうアルミンでさえ、唯一と言ってもいいくらい見えていないものが、

自分自身なんです。

どうも人間と言うのは自分が一番見えにくくできているようです。それは今まで書いてきた承認欲求を始めとする内なる衝動やそれに伴う防衛機制などの心の仕組みが、目を逸らすように働きかけていたりするからでもあるでしょう。上で「人間なんてこんなもんだ」ということを連発しましたが、あれに反発なりもやもやした感じを抱いたならば、おそらくあなたの直視したくない何かに刺さったり、かすったりしたのかもしれません。あれはグロス曹長と同じくありのままをただ言ったに過ぎないはずです。それを認めたくない内なる力が、あなたの思考の方向性に影響を与えている可能性があります。

グリシャは妹を死なせました。グリシャが壁の外に連れ出したから妹は死にました。連れ出さなければ妹は死にませんでした。それ以上でもそれ以下でもありません。でも彼は「自分が妹を死に導いた」という事実を認めたくないため、父やマーレを悪と呼ぶことで心の折り合いをつけていきました。もちろん言うまでもなくグリシャ自身は「自分が妹を殺したなんて認めたくないからあいつらが悪いことにしよっと」なんて考えていたわけではなかったですよね。当時の彼は本当にマーレが悪いんだって心の底から信じていたわけです。本人の知らない自身の心の動きに背中を押され、さらに自身の正当性を塗り固めるために都合の良さそうな資料を都合良く解釈し、相手が悪だということを証明することに明け暮れていきました。

マーレがやっていたことと同じなんです。彼はマーレを悪だと糾弾しながら、そのマーレと全く同じことをしていたわけです。しかも本人にはその自覚は全くありません。

傍から見ていると、あきれるほどの客観性の無さではないでしょうか。でもこれが人間の性質なのです。他人の行動は客観的に見ることができたとしても自分のことになると途端に見えなくなってしまったりします。

だからこんな話を見ながら「グリシャはバカだなぁ」って思ったりしてしまうわけです。自分は違うんだと。

自分はこんな人たちとは違うから、関係ない。自分はもっと上手くできる。自分が団長にさえなればすごい結果が出せるのだ。

そのココロは「自分が特別だと思っている(思いたい)」でしたよね。

そして自分の特別さを証明するために躍起になっていきます。そのためなら他人に迷惑をかけようが、団員を無駄死にさせようが関係ありません。時に嘘でもなんでも使って特別な自分を演出していき、その嘘が露見しないようにさらなる嘘で塗り固めたりなんてこともしてしまいます。あるいは自分の正当性を示すため、自分を相対的に上げるために人の悪いところを探したり生み出してしまったりします。マーレは悪だ。エルディア人は悪魔だ。

グリシャは後にクルーガーに対して後悔や反省を語っていましたが、これもまさにマーレの司令官そのものです。


でも仮に、グリシャが人間の心の仕組みを知っていたらどうなったんでしょう。

「あ、今じぶんは嫌なことから目を背けようとしているかも」「今じぶんが怒っているのは、さっき言われたあの言葉に痛い所を突かれたからかも」

そんな視点を持てていたかもしれません。

「あれ、私はライナーを自分の復讐の道具にしていないか?」
「あれ、僕はエレンが止めて欲しいって決めてかかってないか?そう思いたいってことか?」

これが自分を俯瞰するということではないでしょうか。ようやくではありましたが、司令官もカリナも自分を客観視したんです。そしてこれこそが、他者と本当に分かり合うということの、あるいは森を抜けようとすることの、第一歩なのではないかと私は思います。さらにこれが進撃が放っている大きなメッセージだろうとも思います。


とはいえ、自分を俯瞰すると言われてもピンとこないかもしれません。だって私たちはすでに常日頃から他人には見えない自分の心と向き合ってるはずですからね。

でも今まで書いてきたように、それを妨害するというか、思考を誘導する見えないものが人間には備わっているんです。

だから自分を俯瞰するには、つまり自分を知るには、人間を知る必要があると思います。というか私は自分を知ることの大部分がそれだと思います。なのにあまりにも私たちは人間の性質を知らない。

それどころか人間の性質という言葉に違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。かつて私がそうでした。なぜなら、人間は知性や意思があって、それぞれ個性があるんだから、性質なんてひとくくりにできるものじゃないだろって信じていたからです。そう思いたかったんですね。そのくせ、犬は喜ぶと尻尾を振りますみたいな動物の性質・習性は普通に受け入れていました。わかりますか?この根底にそこはかとなく流れている「人間は特別だ」という感じ。

私は特別だ。「私」はその時の都合によって拡大解釈され、うちの会社・学校はすごい、日本人は特別だ、人間は特別だって思いたがってしまうわけです。いやいやそんなことないよって顔をしながら「日本人は優しい」なんて言われるとちょっと気持ちよくなっちゃたりします。脳内の報酬系と呼ばれる部分で心地よくなる物質が分泌されるんです。そしてもっとそれが欲しくなり、自分が特別である材料を手あたり次第に求めていくのです。

うちのめんどくさいブログを読んでくださってるようなみなさんには当てはまらないかもしれませんが、実際に「人間は宇宙を記録するために生まれた存在である」とか「人間は全生物を代表して地球のバランスを守る使命がある」なんて信じてる人がいるんです。

こうやって聞くと笑ってしまいますが、現代においても人間を指して万物の霊長なんて言葉が使われ続けています。ご存知の通りあらゆる生物より秀でた存在くらいの意味ですが、残念ながら人間はそこらへんに転がっている石ころとたいして変わらない存在です。でもそんな言葉が廃れずに残ってしまうくらいみんなそうだと思いたいんです。

近年インターネット上で流行ったサービスの数々、インスタ、ツイッターyoutubetiktokフェイスブック、ブログ、どれもが承認欲求に訴えかけるものです。みんな自分が特別であると思いたい、それを示したいんです。

そう思ってしまうのがダメとかいう話じゃないですよ。これが人間の性質なんです。そして自分だけはそうじゃないと思ってしまう、それも人間の性質なんです。


さて、こういった今まで書いてきたような人間の性質について、みなさんは知らなかったわけじゃないのではとも思います。おそらくみなさんは知っていたけど知らなかったんじゃないでしょうか。

つまり、「初めて知った!」のではなく、「言われてみれば・・」くらいの感じではないでしょうか。知らなかったわけじゃないけど目を逸らされていた。その光景は何度も何度も見てきたけど、見てなかった。

そしてもう手遅れになって初めて、司令官やカリナやグリシャのように気付き、後悔と反省の弁を述べるわけです。英雄が必ずしも現れるとは限らないにも関わらず。

でも進撃を読んでいる私たちは、既に人間の性質を知る取っ掛かりを得ていると思います。あとは自分が人間という生物であることを受け入れるだけ。自分が他の何物とも違う存在だと思っていたら受け入れるのは難しいでしょう。漫画のことなんて関係ない、架空の人物がなんだよくらいのことは思い浮かんでもおかしくありません。それもまた人間の性質。そしてそれに身を委ねるのも個人の自由です。


承認欲求さんの名誉のために言っておきますが、必ずしも悪者なわけではありません。むしろ承認欲求が無かったら、これほどの科学や文化の発達も、スポーツの大記録も生まれていなかったでしょう。それどころか人間という種がとっくに滅んでいた可能性もおそらく高いと思います。強い原動力にもなるので社会で成り上がるのにも承認欲求は有効に働いていると思います。なのでおそらく、みなさんが承認欲求に背中を押されて邁進している方が日本は強くなるんじゃないかと思う部分も多々あります。だからみなさんはそのままのあなたでいてね、という感じもなくはないのですが、生存ということに関して急速にリスクが減少した現代ではその強さを持て余している感もあり、満たしても満たしても際限なく満足することを要求してくる承認欲求に苦しむこともあるかもしれません。そういった場合は承認欲求や人間の性質について「知る」ことはいいんじゃないかなとも思います。

まぁ言葉で四の五の言われてもピンとこないかもしれませんので、少し体感してもらうのも一興かもしれません。一歩引いたところから自分の心を見つめてみることを試みるのもなかなか面白いです。特に怒りの感情が見えやすいと思いますので、怒った時が一番いいと思います。最初は衝動に抗えなかったりするでしょうから怒ってしまっていいです。その感覚や記憶が鮮明なうちに思い出してください。何かの言葉や見たものなどをきっかけに、心がグイっともっていかれる感じが見て取れたりします。そしてその瞬間から風景というか、心の色が変わったかのように、その怒っている事柄に関する怒りを増幅させるような思考が、心の奥底から次々に湧き上がってくるのも見えてきたりします。自分は考えようとしていないのにどんどん湧き上がってきます。時にそれを思い出してる内に着火して再び色が変わることさえあります。まぁ見え方はおそらく人それぞれだと思いますが、後になってよくよく考えてみるとそこまで怒るほどのことにも思えないのに、その時は考えも及ばなくなっている自分がいたりします。

私たちには個性があり、自由の定義によるとはいえ少なくとも自立して思考できる自由意思はあると思います。だけれどもその自由意思の方向性に影響を与えている見えない何かが確かにあるようなのです。でもこの仕組みを人間が性質として持っていることを知らないと、かつての私がそうでしたが、それは自分の思考だと信じ切ってしまうんです。そのくせ後々になってなにかあった時に矛盾に気付いて司令官やカリナのようになってしまったり、あるいは気付かないまま矛盾を覆い隠すようにエルディア復権に邁進してしまったりするんです。


今まで「人が発する言葉はその人の心の中にあるものが表れてくる(のでブーメランになる)」みたいなことを何度か書いてきたと思います(21巻84話)

 

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-私情を捨てろ

 

アルミンはかつて「分かり合える」と夢見心地に語っていました。それは自分が分かり合えてないことを心の奥底で感じていたからこそ憧れているのではないかとも書いた覚えがあります。その実、やっぱり分かり合える土台ができていませんでした。

そんなアルミンを複雑な表情で見ながら、そんな夢物語じゃなくてとばかりに現実的な方策を述べるエレンが何度か描かれていました。そして一番ガキくさい夢を見ていたのがエレンだったというわけです。

他者は自分を映す鏡とはよく言ったもので、周囲の人に対して嫌に思ったりするのって自分の嫌な部分だったりすることが多いように思います。自分の嫌な部分を見せつけられてるようで目を背けたいから反発・非難するわけです。あるいは人になにか言われて腹を立てるのもそうであることが多いでしょうか。後で考えると自分の考えていることとやっていることがちぐはぐなことってあると思います。でも他者にそれを指摘されると腹が立つんですね。本当はどこかでその矛盾に気付いているからです。知っているのに知らない。それを怒りで覆い隠して知らなかったことにしていきます。本当はそうやって言ってくれる人は貴重です。訓練兵時代のエレンに対するジャンのような人、近すぎる人よりも少し距離のある人の方が客観的に見たままを言ってくれたりします。でも距離のある人だから腹が立つんです「お前に何が分かるんだよ」って(22巻90話)

 

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-お前がアルミンの何を知ってるって言うんだ?

まぁ八つ当たりみたいなものなんですが、だからこそ叩くのに都合の良い根拠をどこかから探してしまったりします。それはたとえば一般論的な正義だったり「以前からあの人は~」みたいな全然関係ない素行だったりします(18巻72話)

 

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-てめぇこそ何で髪伸ばしてんだこの勘違い野郎!!

まぁこれはもう仲良しこよしですが、以前からこういうことをやってたわけです。そうやって自分の方が正しいと補強に補強を重ね、周囲の同意も得られたりすると心地よい感覚のご褒美がもらえ、エスカレートすると棒を振り回すようになってしまったりします。

でももうご存知の通り、怒りや心地よい感覚ってのはご主人様が私たちを誘導するために用意してるんです。そのことを知っていたら立ち止まれるかもしれませんよね。あれ?私は今ご主人様の思惑に踊らされてるのかって。

 

そういう意味では(28巻112話)

 

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-無知ほど自由からかけ離れたもんはねぇって話さ

このエレンの言葉は真理を突いているかもしれません。ブーメランであるとも思わなくはないですけど。


私たち人間には思考をすることのできる高い知能があります。思考ができるゆえ、今まで書いたようなことで思い悩んだり、苦しんだり、誰かに裏切られたと憎しみを抱いたりすることができてしまいます。何も考えずにただ生きている生物の方がよほど幸せであるとも言えるかもしれません。これが人間のクソな点。

逆に思考ができるゆえに感じられているものもたくさんあるわけで、やっぱりここに行き着いてしまうように思います(22巻89話)

 

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-どうもこの世界ってのは
-ただ肉の塊が騒いだり動き回っているだけで
-特に意味は無いらしい
-そう 何の意味も無い
-だから世界は素晴らしいと思う

思考があるからこそ生きることだけに囚われずに行動する自由があるんです。もし人間に思考が無ければただ「生きるため」というルールに従って生きていくだけでしょう。あるいはアリやなんかのように集団が生きることを重視して生きていくだけ、たいした違いはありません。でも人間は思考ができるゆえ気付くことができます、人生に意味なんてないことに。これが人間の良い点だと思います。

 

意味が無いから、なんでもできる自由が、選択肢があるんです。

 

もちろん自由と言っても、こんなことは書くまでもないでしょうが、それをどんなことでもしていいと捉えて無法者になるのはお子様の理論です。誰かの作った食材を食べ、誰かの作った衣服を着て、誰かの整備した電気や水を利用している時点で私たちは社会の恩恵を受けています。他者の都合や社会のルールを完全に無視するのは、子供が「僕を見て~」と駄々をこねているのとなんら変わりません。

だけれども社会の要請は事細かく、自らの承認欲求なども相まって強迫観念のように襲い掛かってくるかもしれません。「~しなければならない」「~であるべきだ」、人付き合いを始めとする儀礼、地位や名誉、家柄、家族の期待、会社の期待、国の期待、全てを背負い込んでいたら人生がいくらあっても足りないでしょう。でも全体の視点から見ると個人は替えの効く器でしかないんです。その役割を果す以上のことは求められていません。そこに自由はあるんです。社会に対しては適切な折り合いさえ付けていけばそれでいい、なのに実際は内なるものに背中を押される形で自ら背負い込んでいるだけなことも多いように思います。


だから後は社会に心臓を捧げるなり自分のやりたいことを優先するなり、自分がしたい方を選択すればいいのだと私は思います。承認欲求に身を委ねる人生も、他人に迷惑をかけなければ、まぁいいんじゃないでしょうか。

でも自分がしたいことをするには、やはり周囲と折り合いをつけていかなければなりません。もし自分の都合だけを押し付ければ、それに反発する他者は必ず現れます。だから相手の都合をも考える必要があるのですが、その時私たちは自分の尺度で自分の都合の良いように相手を想像するように出来ています。そのことを知らなければ往々にしてぶつかってしまうわけです。だからまずは自分を知ること、自分の思っていることが果たして正確なのかどうか客観視すること、それによって初めて他者の視点というものを掛け値なしに考え始めることができるのではないか、そう私は思います。

 

ひとつだけ言えるのは、「子供には過去の遺恨を背負わせたくないよね」って遠い空を見つめながら願ったところで、決して何も変わることはないということです。残念ながらそれはみんながいい人であることを前提にしないと成り立ちません。もしそれが可能なら、シンドラーのリストのような映画が世界的にヒットした時点でとっくに差別なんて無くなってるはずなんです。でもそうはなっていません。

だからユミルの選択だと思うんです。ユミルはヒストリアの中に見出した自分を見つめ、そして他者を見つめ、誰もが満足できて何物にも囚われない「選択」を「実行」しました。

もちろん世界の平和がどうだとか、行く末がどうだとか、そんな大きなことを個人でどうこうなんて考えてもほぼ無意味です。でもフラクタルを思い出してください。自分の家族や周囲というのも、小さな世界であり社会です。それは言わば社会全体の縮図であり、逆にその小さな社会が集まって社会全体が形作られているわけです。だから身近なことから始めようというのは決して無意味ではありません(15巻61話)

 

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-一人一人の選択が この世界を変えたんだ

 

 

 


次回に続きま・・続くはずですが更新未定ということで。

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえば、記事中で怒った瞬間から心の色が変わるみたいなことを書きましたが、たぶんこれが「座標」の意味、というか「座標」がスイッチした瞬間じゃないかと思ってますが、どうかな。

つまり、座標が移ると世界の色が変わるんです。

 

 

 

 

 


-以下駄文-

 

メッセージみたいな話をしてて思い出したことをひとさし。

 

アニメで現在やっているあたりはちょうど私が進撃を読み始めた頃の話なので非常に感慨深いものがあるのですが、ふと最初に読み始めた頃と今とでガラッと見方が変わってることに気付きました。

最初に読んだ頃、私は「強いメッセージ性もあって深い物語だ~。」くらいの感じに思ってたんです。深いという点は今も変わらないのですが、メッセージ性みたいなものについては相対的に弱いと感じていたりします。

というのも、巷に溢れるいわゆる王道ストーリーって、ものすごく強いメッセージを放っているんです。

「勇気があれば困難は克服できる!きみはなんでもやれるんだ!」
「愛って美しい!素晴らしい!世界に愛を溢れさせよう!」
「友情を大事にしよう!友を信じる心はなによりも大事だ!」

みたいな。超テキトーにたった今考えただけなので雑なのはご容赦いただきたいのですが、まぁだいたいこんな感じのを放っているように感じます。そして私たちはそれにあてられて、映画館を出てしばらくは強くなった気分になってたり、愛に溢れた人になってたり、正義や友情を信条とする人になってたりするわけです。だいたい30分くらいは効き目が持続します(※効果は個人差があります) 

それにひきかえ進撃ときたら、ご存知の通りマーレの視点を描いちゃうし、英雄視点と大魔王の視点を行ったり来たりしてしまうしで、何が正しくて何が悪いのやらさっぱり分からない始末です。要するに王道ストーリーの正義のヒーローが正義の名の元にぶっとばす相手側を克明に描くことで、じゃあ正義って一体なんなんだみたいな疑問を惹起してるわけですよね。

で、これって真の報道ではないかと思うんです。

昨今というか、昔は知りませんが少なくとも私が物事をそれなりに理解できるようになってから見ている報道って、「強大な権力や圧力に屈せず、大衆の正義を行使する」みたいな偏った印象が強いです。

権力に屈しないのはいいんですが(そもそもおよそ全ての報道関係自体が強大な権力になってしまっている点は置いておくとしても、)報道が正義を振るうってのは違うと思いませんでしょうか。しかも国民の代弁者気取りで「国民に謝罪はないんですか?」とかって、なぜか報道が人を裁いているんです。

進撃を読んでいるみなさんはご存知の通り、この世界に絶対の正義なんて存在しませんし、物は言いようで誰かを神に仕立てることも悪魔に貶めることもできます。社説やコラムなどといった自社のスタンスや考えを表明する場ならともかく、報道において一方に偏った視点から物事を伝えるのは違うだろうと思うんですね。

 

少し話が逸れましたが、作者はこんなことも描いています(22巻90話)

 

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-情報は納税者に委ねられる

つまり、調査兵団は手前の意見を述べる立場にあらず、ただただできるだけ正確な情報を渡した上で後は納税者が判断するべきだと。その実、物語においても決して片方に寄り過ぎることなく、双方がどう考え、どんな理由で戦っているのか行動しているのかを描き、それを通じて人間というものがどういう性質を持っていて良くも悪くもどう作用しているのかを描いています。そして作者はこう言っています(6巻25話)

 

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-悔いが残らない方を自分で選べ

つまりは進撃というのは人間に関する最高の報道だと思うんです。そういう意味では、今まで私が戦えとか行動しろとか俯瞰しろとかってメッセージとして紹介してるのは適切ではないんです。あくまで作者は、人間というものをできるだけ開示した上で、それをどう噛み砕くかに関しては私たちそれぞれに選択肢を与えていると思うんです。

だからあなたが選んでください。

 

 

最後に余談の余談ですが、先だって書いたのは単なるマスメディア批判ではなくて、これも人間の性質や社会構造が絡んだ話だと思っています。

たとえばですけど、ツイッターなんかで芸能人が急に政治的な発信をしたりすることってたまにありますよね。そしてそのファンの人々がそれに賛同するような流れ。だいたいこういうのは物事の一部を切り取って全部を批判するみたいなパターンが多いんですけど、得てしてそのファンたちはこんな感じのことが多いように思います。「政治のことは分からないけど、大好きなあの人が言ってるし、言ってることは間違ってないように思えるからそうなんだろう」と。もちろんツイッターやなんかはそういう場ですから、こういった個人の発言自体に問題はありません。

ただこういうのがトレンドになったりして、ひとつの世論として利用されたりしている場合もあるでしょう。つまり影響力を持つということです。で、たとえばその内容が「エルディア人はこれこれこういう理由で悪魔だ」だったらどうでしょう。上記のような単純に無自覚に追従する人もいれば、長いものに巻かれる人もたくさんいると思います。エルディアは悪魔であることを肯定しておいた方が得、あるいは無難ですからね。そうこうしているうちにそれは既成事実となっていきます。

じゃあそこでエルディアはこういう悪い部分もあるけど良い部分もあるよ、なんて報道がなされればそれは大変気骨のあることだと思いますけど、王政編の新聞社も及び腰になっていたように彼らにも生活というものがあるわけです。だからそういった報道をすることは困難であると考えるべきでしょう。あなたが報道関係だったら、批判されたからって生活を捨ててまで書かないですよね。批判すること自体が無意味だとは思いませんが、そこに期待しても無駄でしょう。

つまり、新聞であれテレビやインターネット、著名人や高名な学者であれ、全ては必ずと言っていいくらい ”偏っている” と考えるべきだと思うんです。もちろん私が書いていることだって例に漏れません。

だから一番危ういのは誰かの言っていることを盲目的に信じてしまうことだと思います。つまりは客観性の欠如ということです。これは宗教や怪しい団体とかで起こる問題にも同様に言えると思います。あるいは詐欺や「あばたもえくぼ」からの離婚にも言えるかもしれません。

詐欺はなぜ無くならないのでしょう。怪しい団体がなぜ存続できているのでしょう。無くなるどころか次から次へと出てきます。

それは、盲目的に信じる人がたくさんいるからです。


「私」だけは、違いますけどね笑

 

 


-以上駄文-

 

  


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 31st Jan 2021
updated: none

 

106 世界観⑩ 女神様


みなさんこんにちは。

 


なぜか今さらユミル(104期)の話です。長くなったので次の記事と分割してこちらが前半です。あと劇物かもしれません。アニメで来てる方はまだ読んじゃダメですよ。

 

 

 

 

この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は12巻50話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[女神様]

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ユミルのことをまともに記事にするのはこれが初めてだったかと思います。この記事でユミルと表記しているのは全て104期のユミルのことですのでそのつもりでご覧ください。

 

 

 

まず初めに、なぜここへきてユミルの話なのかということで先に結論を述べておきます。

 

私が思うに、ユミルの最後の選択はおそらく作中におけるひとつの到達点というか、理想的とでも言うべきムーブとして描かれているんじゃないかと思うからです。

 

言うまでもなく、彼女はあの時「ヒストリアと一緒にいること」を選ぶことができました。むしろそうなって当然の流れでしたし、彼女もずっとそれを望んでいたハズです。エレンに力があることも判明し壁内に留まることに希望を見いだせたことも本人が独白しています。にもかかわらず彼女はライナーとベルトルさんを選びました。

すでにこの段階で彼女がなんらかの意思を持って「選択をした」ということは見えてきます。では、それはいったいどんな意味を持つのでしょうか。

 

 

 


まずはそこに至る経緯として、ざっくりとですが生い立ちから振り返りたいと思います。

 


ユミルの幼少期に関してはアニメ版も補完材料としていることをお断りしておきますが、雑に言えばジークっぽいところがあると思います。みんなの希望として祭り上げられ、みんなのために死ぬという方向性。

けれどジークと大きく異なるのは、彼女がストリートチルドレンだったこと。

ジークは生まれた時からみんなの希望であり、全体の中での役割を期待され、そこに義務感や重圧を感じていきました。やがてそれが務めを果たしきれない自身への責めになり、反転して父への憎しみに変わり、捻じれていってみんなのためには自分たちが滅ぶべきだとなっていきましたよね。流れとしては必要とされる子から要らない子へという感じです。天才の悲哀みたいなものも感じさせます。

対してユミルはもともと要らない子だったのが、必要とされる子になります。だからジークと違って必要とされることに対して重圧より心地よさを感じていたようです。その点に関してはエレンに近いと言えるでしょうか(3巻12話、17巻68話)

 

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-オレは… ならなきゃいけないんだ…
-みんなの希望に…

 

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-どこかで自分は特別だと思っていたんだ

エレンもどちらかと言えば平凡だった人間が必要とされるようになり、そこに心地よさを感じていた節がありました。さらに言えばユミルがストリートで暮らしていたことも、物心ついた時から既に残酷で自由な世界を身近に感じていたと捉えれば、基盤となる部分にも共通性を見出すことができるのかもしれません。

 

 

 

さて、それから時が経ち偶然にも顎を捕食したユミルは、本人の言葉によれば「第2の人生」を歩み始めることになります。彼女は今までのしがらみから解き放たれて自由になったと感じたわけですね。(22巻89話)

 

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-再び目を覚ますと そこには自由が広がっていた

 

そして彼女は心に誓います(10巻40話)

 

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-私は…大勢の人の幸せのために 死んであげた
-……でも その時に心から願ったことがある
-もし生まれ変わることができたなら…
-今度は自分のためだけに生きたいと…
-そう…強く願った

前回はみんなのために死んであげた人生だったから今回は自分のために生きると。その決意のままに、人の迷惑などは顧みずに我を通すような無法者としての生き方をしていきます。無法者、社会のルールを無視する者、彼女の場合は盗賊でした。おおざっぱに言えばやってることはラムジーと同じです。

それはさておき、このことはストリートチルドレンから人生をやり直してると解釈することもできると思います。そして前回の記事のノリで言えば、ユミルもラムジーも生きることに対して真摯で必死であるゆえに他者の都合、社会の都合などは顧みない。自分が生きるための行動の犠牲になる者のことも考えない。少し地ならしに似ているところもなくはありません。

 

そんなユミルはふとしたことから過去の自分と似た境遇にあるというヒストリアの噂を耳にし、接近していきます。そしてヒストリアを守るような行動をしていくことになります。また誰かのために生きるのかというツッコミを入れたくなりますが、本人も言っている通りそれが自分のしたいことだと言われれば納得せざるを得ません。まぁなんにせよ、ユミルはまるで母であるかのようにヒストリアを導いていき、みんなのためじゃなく自分のために生きるという考え方を育み、それがヒストリアの自立に繋がっていったのはみなさんもご存知の通り。

 

ただし、ユミルに導かれたヒストリアは、当のユミルに対しても最後にこうやり返します(12巻50話)

 

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-…私?
-また私は守られるの?

どうやらユミルにはこれが刺さった模様です。なにかに気付いた、のでしょうか。

そのひとつはおそらくこんな感じでしょうか。ヒストリアをかつての自分の境遇と重ね、かつての自分みたいにならないよう守るというか誘導していたのでしょうが、その守られること自体がヒストリア本人にとって枷になりつつあったと。棘のある言い方をすれば、ユミルのやっていたことは度が過ぎて自己満に過ぎなくなっていたとも言えるでしょうか。

 

さらにヒストリアは畳みかけます(12巻50話)

 

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-人のために生きるのはやめよう
-私たちはこれから!
-私達のために生きようよ!!

さっきのツッコミじゃないですが、まさにブーメランが返ってきていて、お前も私のために生きるなよって。ユミルに言わせれば自分の好きなように、自由に生きているはずだったのになぜこう言われるハメになったのでしょうか。彼女はヒストリアのことを大事に思ったから守ろうとしたのでしょうし、それが自分の意思で選択した自分のやりたいことだったはず・・はずなんですが、

 

ちょっと違ったわけです。

 

なぜなら先ほどおさらいした通り、ユミルはわざわざヒストリアを探して守りにいっているからです。

どういうことかと言いますと、探しに行っている時点で、ヒストリアが友人として大事だから守りたいというのとは出発点が違うことが分かりますよね。かつての自分の境遇と似た感じを覚える人をわざわざ見つけにいき、かつての自分のようにならないよう誘導する。極端な言い方をすれば境遇さえ似てればヒストリアじゃなくても良かった。そうならないようにすること自体に意味があるんです。つまりユミルはかつての自分の人生に後悔があったのです。言い方を変えれば、かつての人生に突き動かされていたんです。彼女が言うようなまっさらな第2の人生ではなく、結局は最初の人生の続きでしかなかったんです。

そして「誰かのために死んだ」という過去(歴史)の呪縛によって、「今度は自分のために生きる」という考えに囚われ、だからこそ境遇に類似性を感じた誰かが同じにならないように守るという行為に固執し、ブーメランが返ってくるハメになったんだと思います。結局自分は自分のために自由に生きておらず、「自分のために自由に生きる」という考えに縛られてしまっていたわけです。

今度こそ、絶対に、なにがなんでも「自分のために生きるんだ」と。

 

・・ということに、ユミルは気付かされたんじゃないかと思います。

 

とどのつまり自分も歴史や周囲の環境によって動かされていたに過ぎない、なのにそれを自由だと勝手に思い込んで、思いたくて、「自由であること」に固執していたに過ぎない。そしてあわやヒストリアの自由を奪う周囲の環境になりかけていた。実際は自分も世界という大きな社会に組み込まれた one of them に過ぎなかった。そんな自分に気付いたのだと思います。いや、ヒストリアが ”見つけ出してくれた” と言った方が適切なのかもしれません(12巻48話)

 

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-頼む…誰か… お願いだ…
-誰か僕らを見つけてくれ…

だからこそ少し前になにやら刺さっていたこの言葉が、兵士としての one of them ではなくて他の何物とも異なる心も感情も持ったベルトルト・フーバーという「個としての叫び」が、彼女を動かしたのだと思います。いわばベルトルさんたちにも教えてもらったとも言えるでしょうか(12巻50話)

 

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-お前の声が聞こえちまったからかな…


おそらくヒストリアの言葉で目が覚めたユミルは、今まで固執していたものを捨てて、また今後のことや敵だ味方だみたいなことも超越して、ライナーとベルトルさんの気持ちにも寄り添い、「彼らを助けたい、見つけてあげたい」という自分の純粋な気持ちに従った行動を選択したのだろうと思います。その時本当に自分がしたいと思った事をしているという意味では、「自分のために生きようよ」と言ったヒストリアの意を汲んでいることにもなるでしょう。これが理想的と述べた一因です。でも、それだけではありません。


なによりユミルの選択がすごいのは、生きることを無視しているところにあると思います。

 

彼女はライナーたちの方へ行けば自分が近々死ぬことになると明確に分かっていました。でもそれ自体を意に介してないかのように自分のしたい行動を選択しているのです。それは「生きたい」とか「死にたくない」というのとは異なるところに優先順位があったということでもあると思います。

誰でも死ぬのは恐いですよね。それは進撃においても同様で、どんなに勇敢な兵士でも今わの際には「死にたくない」と思ったり叫んだりしながら死ぬ様がこれでもかと強調されて描かれてきました。余談ながら例外もいまして、それがエレンとアルミン、それから「エレンに生き方を教えてもらった」ミカサだったりします(2巻7話)

 

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-死んでしまったらもう……
-あなたのことを思い出すことさえできない
-だから――何としてでも勝つ!
-何としてでも生きる!!

アルミンは少しだけ毛色が異なるのですが、それでも彼らは生きるべくして生きていることが描かれていると思います。それは死なないように生きるのとは別物だ、と私は思います。端的に言えば受動と能動という違いですが、「死にたくない」というのは「生」を主目的にしてしがみついている感じ、エレンたちは他に主目的があってそのために生きている必要性がある感じです。生死だと身近な感じがしないかもしれませんが、前回お話したような社会的な立場などに置き換えていただければ分かりやすいかもしれません。「誰かに負けないように」「みんなに遅れを取らないように」やっている事と、「自分がこうしよう」と思ってやっている事って別物ですよね。

エルヴィンがこんなことを言っていました(7巻28話)

 

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-最善策に留まっているようでは
-到底 敵を上回ることはできない
-すべてを失う覚悟で挑まなくてはならない
-必要なら大きなリスクも背負う

「死なないように」という最善策に留まるということは、死ぬ可能性のある選択肢を排除するということです。その排除した選択肢にはもちろん死ぬリスクが多分に含まれているわけですが、そのリスクから目を背けず勘案するならば選択の幅が広がることになります。いくら死なないように気をつけていても死ぬことがあるのは現実も同じです。であれば時に、死のリスクが高まってもさらなる何かに繋がる可能性も高い行動を選ぶことが大事なこともある、エルヴィンはそういったことを言っていると思います。

ですが私達には死への恐怖だったり、社会においては負けることや蹴落とされることへの拒絶感などがあり、その衝動に流されがちだと思います。つまり何かに背中を押されているんです。

そう、背中を押すものがあるんです。

んん?なにか引っ掛かります。そもそも「死なない」でも「生きる」でもいいんですけど、なぜそれほどまでに私達は生に執着してしまうのでしょうか。


答え:本能だからです。


・・と言ってしまえば終わってしまう話ではあるのですが、これは思考停止に思えて仕方ありません。私は今までの記事でほとんどの物事を「生きるため」ということでまとめてきたはずです。そして多分ですが、みなさんはそれにある程度ご納得、というかなんとなく分かる感じを抱いていただけたのではないかと想像しています。でも改めて考えてみると、


じゃあなんでその本能とかいうヤツは私達を生きようとさせてるんだよ


って不思議じゃないですか?


少し余談を挟みますが、どうも「生きるため」っていうのは最高の「美しい言葉」じゃないかと思えてしまいます。とても便利で免罪符にもなったりしているように感じます。免罪符というのは例えば、これは私が見た狭い範囲の話でしかないかもしれませんが、ラムジーが悪者として叩かれているような言説はほとんど見かけたことがない気がします。それはなぜかと考えてみれば、彼が子供ながらに必死に「生きるため」に戦っているからではないでしょうか。スリは確かに悪いことだけど、家族や自分が生きるため、そして社会の環境がそうさせているといったような印象が強いのではないかと思います。

でも仮に、こんな裏話があったらどうでしょう。

たとえばラムジーが奪った金は、とある真面目な父親が子供の手術費用のためにコツコツと貯めた金だった。それを奪われたので子供は死にました、とか。あるいはラムジーに金を奪われたことによって借金が返せなくなった人が、首が回らなくなり追い詰められて自殺しました、とか。

そしてラムジーはその奪った金で酒盛りに興じているようなものであると。

印象が変わってくるでしょうか。それでも「そんなの分からないじゃん」と擁護したくなるでしょうか。もちろん作中にそんな描写はありません。なぜならラムジーはそんなことは「知らない」し、おそらくエレンあたりの視点からも見えてないからです。でも普通にあってもおかしくない話で、ラムジーは間接的に全く関係のない他人を殺しまくってるかもしれません。ユミルの盗賊時代もそうですが、それは言ってしまえば超小型の地ならしと言っても過言ではないかもしれません。

でも、地鳴らしもそうですが、「生きるため」というのはそれだけで何か正当な理由のひとつとなってしまうような感じがあります。この世界において絶対的な正義に最も近いのが「生きるため」なんじゃないかという気さえしてきます。

 

話を戻します。

 

「生きるため」と言えば、今までたびたび承認欲求を取り上げ、それも「生きるため」だと結んできたと思います。実際、人から認められるよう地位を上げたり、マウントを取るという行動は社会の中で生きるにあたってとても有効であることは否定できません。時にそれが他人を傷つけたり社会的に殺したりしますけど、やっぱり生きるためですので。

また承認欲求の他にも人間が持つ強い衝動の一例として、俗に言う三大欲求なんてのもあります。

食欲は食べることでエネルギーや身体を構成する物質を補給することですから、やっぱり「生きるため」です。人間はなんやかんやと理屈を付けて食べていますが根本は生きるための栄養摂取に他なりません。そしてそのために他の生物を大虐殺しております。生きるためですので。

睡眠はまだ不明な点も多いですが、意識をアイドリング状態にしている間に身体のメンテナンスをしているのは確かなようです。眠らないでいるとどんどん体調が悪化していきますから、そうならないよう衝動によって眠らされています。これもやはり「生きるため」ですよね。睡眠が他人に迷惑をかけることはそれほど無いでしょうから、どうぞ欲求のおもむくままに。

あとひとつが問題です。性欲。実は性欲は私個人が「生きるため」への直接の関与が見当たりません。私の子供が生きていても、私という個体が死ねば私は消えて無くなります。私の親から見れば、私が生きていたって彼ら自身が死ねば、彼ら自身の「生きるため」は成就されません。

子供が生きていればいいじゃないかと言うのは心情的には分かりますが、ベルトルさんの「見つけてくれ」を無視することに他ならないはずです。いわば「お前が子供のために犠牲になるのは当たり前だ」と言うのと同じことです。

しかも、これだけ「生きるため」に寄与していないにも関わらずこの性欲という衝動は極めて強いもので、それに負けて犯罪に手を染めたり社会的な信用を破壊してしまう者が後を絶ちません。それでは「生きるため」に寄与しないどころか、反していることになってしまいます。何かがおかしい。どうも性欲は私が生きるために存在しているのでは無さそうということになります。


じゃあ何のためかって、現在では私と子供と両親の間に共通するものが既に見つかっています。それはご存知の通り、遺伝子です。そして私やその子供が性欲に従って子々孫々と続いていく限り、相方の遺伝子と折半しながら遺伝子は生き残っていくことになります。つまり性欲は「遺伝子が生きるため」に存在すると仮定せざるを得ません。

翻って承認欲求、食欲、睡眠欲・・どれも私個人が生きるためと同時に遺伝子が生きるためにも有用です。そしてそのどれもが内から湧き出てくるもので、私個人では理由を説明できない力によって突き動かされるような衝動です。私がそうしようというより、なにかにそうさせられている感じでもあります。そういえば、それらの欲求のどれもが心地よい感覚がご褒美として与えられることによって、私個人はなんとなくそうしたくなるように仕向けられているようです。

 

ああなるほど。たしか衣食住といった何かを与えられつつ誰かの言いなりにさせられているのを奴隷とか呼ぶんでしたっけ。

ということは、私たち人間は遺伝子の奴隷と呼んでも差し支えないはずです。

 

そして遺伝子の視点から考えてみると全てが鮮明に見えてくる感じがします。私個人という”物”に固執する必要は全くありません。むしろ私より長く生きる可能性のある鮮度の良い個体、すなわち子供を大事にする方が、そう仕向けた方が理に適ってます。できるだけそれを増やし、自分(遺伝子)が存続する可能性をあげるべきです。そして実際に私たちは内なる見えない力に背中を押されるかのようにそんな思考を持ってたりしますよね。「子供が生きていればいいじゃないか」 あれ?愛ってなんだっけ?

まぁここは深追いすると恐いことになりそうなので割愛しますが、要するに遺伝子から見れば私個人というのは替えのきく器でしかないんです(14巻57話)

 

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-だとすればエレンは器であって
-交換可能な存在なんだ

もちろんこれは全ての生物に当てはまります。私たちは知能を持たない生物を見下したりしますが、そんな考えることさえできない生物でさえ、目的意識と呼べそうなある一つのルールに従って動いていることを知っています。それが「生きるため」。 だから人間も例外ではないのですが、知能が発達した人間だけは自己内省が可能になってしまったためその理由を必要とするようになったのだと思います。あるいは遺伝子視点で言えば、目を逸らす必要でしょうか。おそらくそれが酔っぱらう対象であり、私が「美しい言葉」と呼んでいるものではないかと思います。

 

作中にこんな描写がありました(6巻25話)

 

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-兵長が説明すべきではないと判断したからだ!

軍隊の話なんかで良く出てくるのでご存知の方も多いと思いますが、need to know という考え方です。知る必要があれば知らされるし、知る必要が無ければ知らされない。余計な情報を知ることによって迷いなどが生まれて作戦に支障をきたさないため、言い方を変えれば「黙って言われた通りのことをやれ」という縦社会のルールでもあります。軍隊や大企業といった大規模集団では立場によってやることも見えてるものも全く異なりますので、それぞれの役割を円滑に果たすためにこうした仕組みが必要なんですね。

 

さて、私たちはなにゆえ生きるのか、なにゆえ他者にマウントを取ってしまうのか、なにゆえ子を成し大事にするのかといったことの明確な理由を知らされているでしょうか。

否、ですよね。

これがつまりご主人様が上の方にいるようなものであるという根拠にもなるのですが、そもそも私たちはご主人様がいることも知らされていないので、自分が主体だと思っている(思いたい)わけです。だからこれらには明確な理由があるはずだと理由探しを始めたのだろうと思います。でも明確なものが見つからないので、人生の意味だ正義だ愛だといった概念が生まれ、そこに心酔するようになっていったのかもしれません。その言葉を唱えることで思考を停止してくれるのはご主人様にとっても都合が良いことでしょう。だからそれを「美しい」と感じるようになったと。


つまり私たちはご主人様あるいは内なる見えない力に背中を押されて「生きること」に囚われた存在であると言えるわけですが、もちろんこんなこと言っても詮の無いことです。誰もがそうなのですから。いやそれどころか全ての生物、もとい万物がそうなのです。先ほども書いたように、動物でも虫でも知能の無い生物はただ生きるために生きてますよね。ただ生きているというか「生きるため」という原理原則に従って動いている。さてあの古生物はどうでしょう。

ユミルの民にとってあの古生物は半身のようなもの、あるいは先ほど述べたご主人様のようなものとして重ねられるかもしれません。そして道に囚われ無感情に土をこねることによって道を通じて「生」を送り続ける少女。なにやら繋がってきそうです。

 

ところで先ほど能動的に生きる人の話をしましたが、エレンだってもちろん生きることに囚われていると言うこともできると思います。ただ他の死なないように生きている人たちと異なるのは、前回本人の言葉を参照した通り、彼はただ生きているなら死んでいるのと変わらないと感じ行動していることです。彼にとっては生きることと自由であることが等価というか、むしろ自由であることが優先度が高いわけです。生きるということに関して言えば、他の人たちと比べて囚われていないと言えるかもしれません。あくまで比較的には、という話ですが(4巻14話)

 

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-炎の水でも氷の大地でも 何でもいい
-それを見た者は この世界で一番の自由を手に入れた者だ
-戦え!!
-そのためなら命なんか惜しくない

もちろんこれを自由に囚われているということはできます。実際作中にあっても目に入ってくる不自由をどうしても我慢できない感じなので、自由への固執と言ってしまっても差し支えないと思います。その当事者が不自由を感じているかをあまり斟酌してない部分もありますから、彼なりの自由の押し付けになっているような部分もあると思います。

 

あれ?ユミルと重なってきましたね。


というわけで、ここでようやくユミルに戻ってきてもらいますが、彼女は最終的に「生きること」に囚われない行動を選択しました。その自分自身の行動を彼女はこう評しています(12巻50話)

 

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-女神様もそんなに悪い気分じゃないね

ここで彼女が言っている女神様というのは、自身がかつてヒストリアを揶揄して言った言葉であると考えるのが自然でしょう(10巻40話)

 

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-そんで私に女神クリスタ様の伝説を託そうとしたんだろ?

承認欲求に背中を押されて自らの命を投げ打とうとするヒストリアを皮肉るために放った言葉、それが「女神様」でした。それを自分に対して使ったわけです。ただしユミルの最後の選択がヒストリアの行動と異なるのは明らかで、その行動はパラディ側には意味不明だと ”わざわざ” 記述があります(12巻50話)

 

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-ユミルが取った行動の意味はわからなかったが

同様にヒストリアにさえ分からないと言わせています。マーレ側にも「なんで返してくれたのか謎だけどラッキー」くらいの感じがありました。ベルトルさんとライナーの二人には感謝されるでしょうが、それ以外の誰からも認められることがないのは分かり切ったことで、根本的に「女神様」とは異なるわけです。

ところが動機や内面の違いはあれど、結果的にやっていることだけ見れば自分も同じだと半ば自嘲しているのだと思います。

 

「かつてみんなのために生きたから今度は自分のために生きよう」という想いに固執し紆余曲折あった結果、最終的に「自分のために」する行動が「みんなのため」の行動になっていたと。もちろん彼女にとってはそれが「自分のために」したいことだったので、たとえ女神様な行動だとしてもそれも悪くないと言ってるのでしょう。それはまた1度目の人生への自己承認でもあると思います。

生きることにも承認欲求にも囚われていない、利己でも利他でもない、それでいてみんなに良い結果をもたらす選択。ユミルの命が失われる点だけがマイナス要素ですが、それをひっくるめて彼女自身が満足している様子。過去にも未来にも囚われず、個の満足と全体の満足を同時に満たす選択。

これがユミルの選択が究極だと私が思う理由です。

 


そしてここからはただの推測に過ぎませんが、おそらくラストはこの選択に重ねてくるんじゃないかと思います。

アルミンが英雄様としてヒストリアの女神様に重ねられているであろうことは以前の記事で指摘しました。エレンとユミルの類似点については今回書いた通りです。つまりヒストリアとユミルの行為が結果的に同じになったのと同様、エレンとアルミンも結果的には同じ着地点に落ちる感じになるだろうと。世間の誰からも認められない”英雄様”になるんじゃないかということです。

メタな予想でいうとそれはエレンとアルミンという正反対な二人の共同作業のようでもあり、たぶんミカサがその間を取って結実する感じになるんじゃないかと予想します。そしてたぶん、これを王道面から見ると「やっぱり親友だけあって最後は同じだったね。やっぱ友情は偉大だね!」ってなりそうだし、当ブログらしく歪んだ見方をすれば、「人間のやることなんて突き詰めれば同じだよね」ってことになりそう笑

先にちらっと書きましたが、もし古生物が「生きること」だけに従った行動機序を持っていてユミルの民のご主人様みたいなものであるとするなら。ここはアルミンがツッコミそうな気もするけどまぁ分からないですが、エレンというか進撃というかにとって「ただ生きること」を強要され続けるのは窮屈であるんじゃないかとも思うんですね。道というものが進撃を縛り付ける鎖でもあることになるわけです。たぶんですがエレンの感じている不自由さの根源はここにあり、それを社会に投影してしまっている部分がありそうに思います。もしそうなら失くさないと。

それと同時に。相手を理解することを諦めないならば、それこそウーリがやったように相手に目線を合わせて相手と同じ土俵に立つことも必要だったりするわけです。あの一件はケニーの言ったように暴力が先になければ実現しなかったのは否定できない事実でしょうが、それでもウーリは「力」で解決することをしなかった、それ以上「力」を振るわずに地上に降りて行ったわけです。世界の人々がユミルの民を憎み恐れる根源は「巨人の力」にあります。なら失くさないと。地上に降りないと。

 

そして、全ての巨人は駆逐されましたとさ。


・・といった感じになるのかどうかは分かりませんが、ラストが楽しみですね。

 


さて、私は今までさんざん承認欲求だとか抑圧だ無意識だ個だ全体だとか囚われてる縛られてると、まるで狂ったように繰り返し進撃から抜き出してきました。しまいには社会や遺伝子の奴隷だとかまでのたまってるわけですが、それがなんなのってあたりをまとめていきたいと思いますが長くなったので後編に続きます。

 

 

 

 

 

 

 


-おまけ-

ユミルついでで、記事にする機会が無かったけどずっとユミルに関して思っている疑惑。とはいえそうであろうが間違っていようがもはや作中で語られる可能性はとても低そうな与太話なので、時間の無駄を覚悟の上でどうぞ。

 

 

 


とりあえず結論というかその疑惑から書きますが、

 

ユミルってやっぱ王家筋じゃないかな?


もともとこれを思ったのは幼少期のエピソードからなんですが、そう考えないと不自然に思えて仕方がありませんでした。なぜって多くの人が信じているからです。たとえばそれが事実かどうかはともかく「王家のご落胤がどこかにいる」なんて噂がまことしやかに語られていたとすれば、いきなり子供を連れてこられても信じる人が多いだろうし、そもそも適当な子供を連れてくるという発想自体にも繋がると思います。でもそういったのが一切無かったらどうなんだろうと。

もちろんベルトルさんのご先祖(注:確定もなんもしてません)が一流の詐欺師だった可能性もありますし、何かに縋りたくなるような時代だったからと言えばなんとでもなるとは思いますが。

 

次にこれ(22巻89話)

 

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ここはアニメでも同じシーンがあるわけですが、アニメの方には続きがあって上空に見える道が8本に枝分かれしていきます。これには2つ解釈が私の中にありまして、まずユミルのいる場所が9本目、すなわち顎の道であるという解釈です。普通に考えると多分こっちではないかと思いますが、だとして、原作では作者は2本の部分までしか書かなかったんですよ。じゃあ9本あるはずの道が2本だけ見えるのはどこですかと言えば、元々3姉妹で3本に分かれた内の1本、それも根元に近いあたり、もしくは座標そのものみたいに考えられるわけです。でもどうしてただの捨て子のユミルがそんなところに行けるんでしょう。そもそも道だか座標だかに行けてるだけでも特殊なわけですし。つまり3家の内のどれか1家の系統であるのではないかと。

もう一つの解釈というのは、以前書いた進撃が道からロストしたことにより8本だったというものです。当時はまだ襲撃前でフリーダが進撃を思い出してないはずですからね。でもそうするとユミルのいる場所は座標そのものである可能性が高くなり、結局上と同じなんですがなんでそんなとこに行けたのってなるわけです。

まぁこれも「過去に道を見た者もいる」というセリフがあるので、確たる根拠にはならないのですが。

 

最後は少しメタな話です(10巻40話)

 

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-私は生まれ変わった!
-だがその際に元の名前を偽ったりはしてない!
-ユミルとして生まれたことを否定したら負けなんだよ!

このセリフ。今回の記事を読んでいただいてるとピンとくる方も多いのではないかと思いますが、これもやっぱりブーメランだと思うんです。要するにヒストリアが家名というものに縛られていたことに対する指摘で言ってるわけですが、その実ユミルも過去の人生、ユミルという名前を与えられた人生にガチガチに固執していたわけです。だから名前を捨てられない。

もちろんそれで完結してはいるのですが、最初にたらればで挙げたようなことがあったとすると、非常に興味深いセリフになるかもしれません。

 

巨人大戦後、王家の末裔が迫害されていたことは作中で明確に描かれていますよね。ユミルが生まれたのは壁の襲撃時点からおよそ70~80年くらい前と推定できます。つまり終戦後20~30年程度、戦後第1~2世代目くらいになります。巨人大戦の頃子供だった、あるいは戦後まもなくして生まれた王家の人間がいれば、ちょうど子供ができてもいい頃合いでもあり、そしておそらくその王家の人々は暗澹たる人生を送っていたはずです。せめて子供だけでもマシな人生を送らせてあげたい、そう考えるのが親心かもしれません。

彼らが命を狙われ迫害されるのは "フリッツ氏” であるからです。だったらフリッツの名なんて捨ててしまえと。赤子を直接捨てたかどうかは分かりませんが、いずれにしてもフリッツ家の子供でいるよりマシだろうと考えてもおかしくないんじゃないかと思います。もし実際にそういうことがあり、もしユミルが本当にその子だったとすれば、ユミルの身体的特徴はより詐欺師にとって都合が良かったはずですから、奇しくもユミルとして祭り上げられることにも説得力が生まれます。

そしてもうお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、もしこういう感じだとするとクシェル・アッカーマンがしたことと重なってくるんです。名乗る価値のない名前。ただの〇〇。クシェルはせめて息子だけでもとアッカーマン姓を与えなかったわけです。

 

パラディの壁の王はフリッツの名前を捨て今までの歴史と決別したかった。その壁の王に反発して迫害されたアッカーマンは名前を捨て今までの歴史と決別したかった。大陸ではカリナはエルディア人であることを捨て今までの歴史と決別したかった。ライナーは自分であることを捨て自分はマルセルだと言った。

そこにもう1ピース加わることになります。

大陸では壁の王のしたことによりフリッツ家が迫害され名前を捨て今までの歴史と決別したかった。

負の連鎖なんですが、やった方もやられた方も酷いことになっているのがより鮮明になります。みんなが「個」を捨てていくという構図、「全体」の中で生きるために「個」を捨てる他なかった。でも本当は誰かに見つけて欲しかった、自分という「個」を。

 

だからそこに異議を唱える者が現れた(10巻40話)

 

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-私はこの名前のままでイカした人生を送ってやる
-それが私の人生の復讐なんだよ!!
-生まれ持った運命なんてねぇんだと立証してやる!!

そして彼女は「個」を見つけるために奔走したんです。このセリフはそういったことにならないでしょうか。


そしてこれは同時に親への反発の構図にもなります。もちろんユミルは知る由もないでしょうが、親がたとえ子の幸せを願って個を捨てさせようとしたのだとしても、そんな敷かれたレールはごめんだ、私は私の「個」のままユミルと言う名でハッピーになってやるという個の決意、子の反発。

分かりますか? 親は子の幸せを願って良い学校を出ろ、良い会社に勤めろと社会に従順であることを教えます。だけれども子はそこに何とも言えない束縛を感じ、反発するんです。

しかもそれを、大陸側の旧王家の末裔が島の新王家の末裔に説くという図式です。かつて子である新王家に反発された親が、子に対して「おまえはおまえらしく生きろ。無理に名前にこだわって偽ったりする必要もない」と言っているのと同じことになると思います。それってつまり、親からの承認ですよね。

 

ユミルが王家だとすると綺麗に話が繋がるんです。

ちなみにこの妄想は綺麗にはまり過ぎるだけに捗りまして、ヒストリアはまだ「私の本当の名前」を言ってないんじゃないかと思っています。いや、ヒストリア自身はレイス家の生まれだからそれでいいかもですが、島の王家はまだ本当の名前を取り戻してないですよね。

ラストでヒストリアがあくまで人間の一家としてフリッツ家を名乗り外の世界と向き合っていく。無いかな~。

 

-おまけおわり-

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 31st Jan 2021
updated: none

 

105 世界観⑨ 自由


みなさんこんにちは。

 

※これは133話の記事ではありません、悪しからず。

 

 

!!閲覧注意!!
あまりに尻切れ感が否めないので続きの部分だけどうにかこうにか仕上げましたよっと。これも完結後にご覧いただくことを強く推奨しておきます。相変わらずクソ長いです。くどいし。まとまり皆無。かなり早口。@3。なぜ片言。ty.

 

 

 

 


この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は27巻109話から引用しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[自由]

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ようやく自由のおはなし。

 

自由というのは「美しい言葉」じゃないかと思うんです。目下、エレンは自由を求めて地ならしを行っており、夢を心に抱くアルミンもまた自由を追い求めていると表現することもできるでしょう。どちらも賛否両論はあると思いますが、俗に「自由に伴うリスク」などと言われるように、問題になるのは自由を手に入れるためのやり方やその際に失うものであって、自由という概念そのものは否定されていないような感じもあります。かつての私は自由という言葉を見たり誰かが口にするのを聞いた時、「なんでもできる」「本来誰もがそういう状態にあるべきもの」といった尊いものであるかのような印象を持ってたりしました。

ここまで書けばピンときた方も多いだろうと思いますが、これが「美しい言葉」と評した理由です。要するに、正義や仲間、信頼、英雄などなどと同様に、人々が酔っぱらう対象となる概念ではないかということです。そもそもポジティブな側面ばかりが思い浮かんでいる時点で、そう思いこみたいであろう感じも見出せます。

 

では自由とはなんなのか――

 

物語の要点を整理しながら、考えてみたいと思います。

 

 

 

 

さて、現在エレンが鋭意遂行中の地鳴らし。その意図を簡潔にまとめれば、パラディ島のエルディア人もしくはユミルの民が生きるために障害となる存在をねじ伏せる行為です。このことを、

 

地鳴らしとは、生きるための行為である

 

という感じでベースにしていきたいと思います。これはエレンや進撃が「生きる意志」そのものであったとしても納得がいく行動です。

 


ところで「生きる」ということに関して、かつてエレンはこんなことを言っています(1巻1話)

 

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-一生 壁の中から出られなくても……
-メシ食って寝てりゃ生きていけるよ…
-でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか…

ついでにこれも付け加えておきましょう(28巻112話)

 

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-オレがこの世で一番嫌いなものがわかるか?
-不自由な奴だよ
-もしくは家畜だ

後者によるとエレンが言う「家畜」というのは「不自由な奴」と同義だと考えられます。それを踏まえて前者を超訳すれば、「不自由ならば生きていないも同然だ」といった感じになるでしょうか。それをベースに加えると、

 

地鳴らしとは生きるための行為であり、その生きるとは自由であることが必須である

 

といった感じになります。ここまでは問題ありませんね。

 


とはいえさっそく自由という概念が絡んできてしまってめんどくさいことになってきました。自由・不自由に関する話はどうしても哲学ライクになってしまい答えが出なくなってしまいがちです。ので、ひとまずそれを避けるために指標として、よく言われる「選択できるか否か」というのを持ち出すことにします。明瞭で分かりやすいですよね。


作中では不自由の代表例として始祖ユミルが登場しました。彼女は奴隷の立場にありましたから、フリッツ氏を始めとする支配者側の言いなりで行動も制限されていたことでしょう。つまり彼女には往々にして選択の余地がありません。結婚への憧れのような描写もありましたが、実際に彼女が持つことができた家族の形は必ずしも本人の意思が介在しているとは言い切れないものでした。彼女は言ってしまえば家畜のような扱いを受けており、エレンの忌み嫌う不自由な奴とも重なるはずです。

死してなお座標で馬車馬し続ける彼女に思うところがあったのでしょうか、(30巻122話)

 

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-誰にも従わなくていい
-お前が決めていい

-決めるのはお前だ
-お前が選べ

エレンはそんな彼女に選ばせます。ここは以前もツッコミを入れましたが、もし始祖ユミルが現状維持を選んでいたら今までエレンがやってきたことは水泡に帰していたはずです。それでも彼は選ばせることを望みました。それはつまり他のなによりも始祖ユミルに選択させることを優先したということです。というわけで「選択できるか否か」は取り込んで良さそうです。


地鳴らしとは生きるための行為であり、その生きるとは自由であることが必須であり、自由とは選択できることである

 

 

少し余談めいたものを挟みますが、このエレンの行動はあの場面を思い出させます(6巻25話)

 

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-だから…まぁせいぜい…
-悔いが残らない方を自分で選べ

兵長はかつてエレンに選択を促しました。いえ、選択肢を与えました。さらに当時の兵長はこんなことも言っています(6巻25話)

 

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-お前と俺達との判断の相違は経験則に基づくものだ
-だがな… そんなもんはアテにしなくていい

自分たちの判断や選択は経験則によるのだと。経験則とはすなわち過去の複数の記憶を参照し、それらを鑑みてより確実性の高い方を割り出すということです。ただしその過去の経験は自分たちとエレンとではだいぶ異なりますから、自分たちに見えているものとエレンに見えているものは違うだろうと考え、その上でむしろそんな経験やなんかに縛られずに好きな方を選べと言っているわけです。

つまり、兵長は「過去などに囚われない真に自由な選択」をお膳立てしてくれています。とはいえご存知の通り、当時のエレンは「仲間とは信じるべきものだ」といった固定観念に囚われた選択をし後悔することになります。「こうあるべきだ」といった考えに縛られて自分の行動を決定するというのは、最近描かれていた矜持なんかにも共通性を見出すことができると思います。

 

その選択の是非はともかく、またエレンがこの時の後悔を考慮しているのかは定かではありませんが(物語としてはそう捉えるべきなんでしょうが)、少なくともエレンが始祖ユミルに選択させたことは、兵長がエレンにしたことと重なっているだろうと思います。当時の兵長は「部下に丸投げなんておかしい」という批判に曝されたようです(軍隊として考えればもっともな批判だと思います)が、同様にエレンの始祖ユミルへの行動も後先を考えていないと批判できると思いますし、これまた同様に、「真に自由な選択」を与えているとも言えると思います。

いかに選択肢があるように見えたとしても、そこになんらかの誘導や圧力がかかってしまえば、それは選んでいるのではなく選ばされていると言った方が適切になってしまうのではないでしょうか。

 

実際、件の場面ではペトラが誘導してしまっているんです(6巻25話)

 

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-…信じて

もちろん本人に悪気はないでしょう。でもこれによってエレンは「信じる」という方向付けがなされ、自らの固定観念とか願望とも相まって選択させられてしまったと見ることもできます。そしてこの選択への後悔があるからこそ、始祖ユミルに自分の思惑を一切押し付けないことがより強く、真の自由を志すものであると強調されるように思います。

というわけで、少し補足を付け加えます。

 

地鳴らしとは生きるための行為であり、その生きるとは自由であることが必須であり、その自由とは選択できることである。ただし過去などの影響や誰かの意志が介在しているなら本当に選択ができているかは疑わしい

 

ここまでは133話ですでに答え合わせがなされたと思いますのでみなさんもご納得いただけるのではないかと思います。エレンはみんなに真に自由な選択肢を与えようとしているわけです。


ただし、もうひとつ重要なピースが欠けていると思います。

 


その前に少し例え話をさせてください。


始祖ユミルは奴隷なので不自由ですよね。

ところで、私もあなたも奴隷ではないはずですよね。


ということは、奴隷でない私やみなさんは当たり前のように自由なんでしょうか、不自由ではないのでしょうか。


たとえばのはなし。これから大事なアポイントがある場所に電車でもバスでも行けるとします。でも電車なら定刻に間に合うけどバスだと遅れるのが確実、この場合って選択肢があると言えるでしょうか。おそらくほとんどの方は、ほぼ無いと考えるのではないかと想像します。

我ながら稚拙な例えですみませんがそれはともかくとして、この場合に選択肢を奪っているものはなにかと言えば、定刻ですよね。もっと砕いて言えば、私たちは定刻に遅れるという行為によって、自らの社会的な信用や評価に傷を付けることを避けるためにバスを選べないわけです。それを端的に言えば社会によって行動を制約されているということになるでしょう。

自分の普段の生活を振り返ってみたら、このような制約を受けていることが至るところにあります。だからこそ毎日ほぼ同じようなパターンで生活しているという感じさえあります。でも普段はこんなことには思いも至りません。上記の例もそうですが、そもそも選択肢があるとは思うまでもなく選ばされているように思います。

よくよく考えてみれば、なぜ学校に行かなければいけないのか、なぜ周囲の人々と良好な関係を作らないといけないのか、なぜ見栄えの良い服で着飾らないといけないのか、なぜみんなが知っていることなどを同じように知ろうと(もしくは知っているフリをしようと)するのか、明確な理由を持たないまましている行動がそこらじゅうに溢れています。明確な理由を持たないということは、そこに自分の意思はないということ、選ばされているということではないかと思います。要するに、不自由であると。

それが良いとか悪いとかいう話ではないんです。いやむしろ、できるだけいい学校を出てできるだけいい会社に入って・・みたいな社会が敷いたレールに沿うことは最も堅実で賢くてイージーな生き方だと思います。だからこそみんな明確に意識しないままそれをしているし、レールからはみ出すことに恐れを抱くのだと思います。英語で人間のことを packed animal なんて表現をしたりしますが、まさに人間は集団という枠の中でないと生きていくのが困難な動物です。たくさんの見知らぬ誰かが全体の中で役割を果してくれていることで、私たちは何もせずともできていることがたくさんあります。私たちがひとつの役割を果すことで、その恩恵を受けている見知らぬ誰かがたくさんいます。社会とはそうして成立しているわけで、それを維持するために枠からはみ出る者には圧がかかるようになっています。レールを大きくはみ出すと、風当たりが強くなり恩恵も受け難くなっていきます。これがよく言われる「自由に伴うリスク」というやつですよね。

言ってしまえば私たち人間には社会の奴隷といっても差し支えない側面があると思います。誰しも漠然とした不自由さや窮屈さを感じるようなことがあるんじゃないかと思いますが、もしかしたらそれは心の奥底で不自由であることに気が付いているということなのかもしれません。であれば、不自由な自分が持っていないもの、すなわち自由に憧れのような印象を持つことも自然だと思います。

人間は当たり前に持っていると感じているものには憧れませんから。

 

さて、だいぶ脇道に逸れてしまった感があるので与太話はこれくらいにして物語に戻りましょう。


作中には自由に関するとてもとても興味深いセリフがあります。

 

「お前は自由だ」

 

あのラストの予告で話題になったセリフです。そしてみなさんもご存知の通り、これと全く同じセリフがすでに二度ほど使われています(22巻87話、30巻122話)

 

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これまたどちらも酷い場面で使われてますね。口では自由だとか言いながら全然自由にしてないじゃないかぁぁまだ話し合ってないじゃないかぁぁぁって感じでしょうか。もしくは二人とも悪趣味ですって?笑


確かにその通り。でもおそらく、こんなの当たり前だという描写なんだろうと思います。


もちろんフリッツ氏やグロス曹長が非道なのは否定しません。でも彼らの行動は否定し切れないし、ユミルもグライス氏も自由になっているとも思います。


まず、奴隷という言葉は、自由と正反対でネガティブワードだと思います。奴隷といえば理不尽にひどい扱いを受けている可哀そうな、救済されるべき不自由な人々といった印象があるでしょうか。私はそんな感じに思いますし、そしてそれは何も間違っていないとも思います。

ただし、決して無視できない事実として、望むと望まないとに関わらずそれでも庇護下にあるんです。グライスはマーレ国、ユミルなら古代エルディアという集団の中に、奴隷という立場・役割で属している形になっており、最低限かもしれませんが社会から衣食住を与えられて生かされています。集団側の視点から見れば、わざわざ安くないコストを支払って彼らを生かしていることになるはずです。人ひとりを養うのでさえどれだけ大変かは家庭をお持ちの方なら容易に想像できますよね。しかも大量生産もおぼつかないであろう古代エルディアにおいてです。

そんな奴隷が自由になるということは、もう奴隷でなくなるということです。それはまた同時に庇護から外れることも意味します。それを集団側から見れば、今までは少なくともこっち側だった者がこっち側ではなくなるということです。近隣部族と争っているような古代エルディアから見れば、彼女はいずれ敵対勢力に与するかもしれません。彼女が産んだ男子が勇猛な兵士となって攻めてくる可能性さえあります。単純に限りある食料資源を奪い合う相手ということもできます。グライス氏だってもしかして巨人になってマーレに危害を与える可能性はゼロではありません。もしそうなれば、グロス曹長自身やその家族、さらにはマーレの国民が彼に食われる可能性だって無いとは言い切れないわけです。

 

フリッツ氏やグロス曹長の行動、どうでしょうか? 当然とるべき行動をしたとも言えるのではないでしょうか。いやむしろ、それをしなかったら部族の長や国を守る軍人としては失格だとすら言えるかもしれないと、個人的には思います。

どうも社会のレールの話と根本的に似ている感じがします。世が世なら、レールをはみ出した時点で排除されることだってあり得るわけです。そして私たちが社会に与えられた役割をレールを踏み外さないようにこなし、その庇護を受けているという点において、果たしてユミルやグライス氏とどれほどの違いがあるのでしょうか。

 

 

さて、図らずも自由になったユミルやグライス氏でしたが、仮に彼らがそのまま生き続けていくとしたら何をする必要があったのでしょう。

もちろん具体的なことは言いようもありませんが、それはもう ”自らの力で自らの生を掴み取っていくしかない” ということに尽きるだろうと思います。他の国を頼るにしろ、自然の中で自給していくにしろ、全てのことに自ら立ち向かっていくしかないはずです。そして相手が人間であれ野生動物であれ、何かを得るには自ら勝ち取るしかないはずです(26巻106話)

 

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-勝てなきゃ死ぬ…
-勝てば …生きる

そこには確かに、普段私たちが思い描くような「なんでもできる自由」という側面も存在すると思います。でもそれと同時に、何もしなければ何も進まないし、何もしないのも自由だとしても食べる必要はあるでしょう。そのためには狩猟の技術やそのための力、採集の知識、火を起こし安全な水を確保することが求められます。雨露をしのげる寝床を確保し、外敵があれば自ら身を守らなければなりません。怪我や病気への対処も自分でしなければなりません。

現代人の大部分はそうだと思いますが、その技術も力も持っていなかったらどうなることでしょう。

病気が恐いので下手なものを口にすることもできず、満足に食事を取ることもできないかもしれません。夜も安心して眠ることさえ叶わないかもしれません。野生の猛獣の気配があれば、近隣をうろつくことさえできなくなりそうです。たとえ何かやりたいことがあったとしても、それをできる自由はあったとしても、できなくなっていくかもしれません。

 

つまり、力無き者にとって自由とは何よりも不自由であるとも言えるのではないかと思います。逆に言えば、自由とは力があって初めて成立するものだと言えるかもしれません。これこそが自由という美しい言葉に隠された本質ではないかと、私は思います。

 

もちろん力と言っても腕力に限った話ではありません。それに上に挙げたような知識や技術はもともと人間が編み出してきたものですから、仮に私たちがそんな状況に放り出されたとしてもたどり着ける可能性はあるわけです。ならばそこで明暗を分けるものは、本人がやろうとするかどうか、生きるためにあがこうとするかどうかに尽きるのではないかと思います。そしてその「行動する」ということこそ、エレンの言葉を借りれば「戦う」ことであり、だからこそ「戦わなければ生きられない」となるのでしょう。自由には戦うことが付き物であり、自由はそういった意思を伴った力を要求してくるのです(26巻106話)

 

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-戦わなければ 勝てない

 

でも私たちは普段こんなことを意識することはありませんよね。なぜなら社会は私たちを奴隷にしているかもしれませんが、奴隷でいる限りはそんな厳しい現実から目を逸らせるように守ってくれているからです。そしてたとえ力の無い者でも不自由なく、自由を謳歌しながら生きられるようにしてくれているわけです。まぁ奴隷のようなものという部分を差っ引くならば、かりそめの自由とでも言ったほうが適切なのかもしれませんが。


それってつまり・・

記憶改竄によって厳しい現実から目を逸らされ、壁によって力無き者でも生きていける擬似的な自由を与えられていた、ということです。それが人類の楽園であり、人間の社会です。


とはいえミカサの覚醒エピソードでも描かれていたように、目を凝らせば私たちの目と鼻の先では人間以外の生物が、残酷で自由な世界で食いつ食われつ自らの力だけで必死に戦いながら生きています。そして当たり前ですがその残酷で自由な世界は私たちの住む世界と地続きですから、決して他人事ではありません。

人間は幸いにも天敵と呼べる存在がいなくなりました。そしてその代わりに人間同士で戦うようになりました。さすがに同種で滅ぼし合うのはよろしくないので社会が決まり事によって制限するようになりましたが、さらにその代替行為として今度は地位を巡って争うようになります。それは今現在も、国家間から個人間まであらゆるところで常日頃から起こっています。それこそ人類が一人だけにならない限り無くなることはないでしょう。そしてそこに勝ち負けによる格差が生まれます。言わばこれが社会というフィルターを通った後の残酷な世界の残滓だと思います。

 

少し前にこんな描写がありました(32巻128話)

 

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-ただ世間が狭くなるだけのことです
-相も変わらず同様の殺し合いを繰り返すことでしょう…

その前にもフロックが強権的な姿勢を見せていましたが、順調にいけば彼らはかつての憲兵団のようになっていたかもしれません。フロックがヒィズルの技術者を独占しようとし、それが無理なら殺そうとしたことも、かつて中央憲兵が銃の技術発展を阻害し対人立体機動の優位性を確保していたのと同じです。ジャンが与するか揺れる場面もありましたが、セントラルの一等地が外縁地域より良いというのはそこに格差があるから、区別・搾取される人々がいるからこそ生じるものです。結局、何も変わらないんです。地位を得たものは権力を振りかざし、地位を維持するために障害となる者を迫害ないしは排除します。世界の規模が小さくなろうが人間がやることなんて、いや動物がやることなんて変わりません。

イェーガー派に迎合している民衆の中には、これで何かが変わるかもしれないと期待している人々もいるんじゃないかと思います。でもおそらく何も変わりません。

 

誰かに与えられた立場に甘んじている者は、世界が変わっても結局また同じような立場になっていくと思います。

 

因果応報。これが因果応報の本来の意味です。自らの行動が、良くも悪くも自らの未来を決めます。言葉にすると当たりまえにしか聞こえないんですけど、流されてる人ってのは流されていくし、何もしなければ何も起きません。何かをすれば良しにつけ悪しきにつけその結果が出ます。だから、奴隷としての行動をしている人は奴隷であり続けるわけです。やっぱり当たり前。

ちなみに因果応報は悪い事をするとバチが当たるみたいなニュアンスで使われるようになってきていますが、普通に考えればそんな都合の良いことになっていないのは明白ですよね。もしそうなら警察も裁判所も存在してないでしょう。いや、そもそも人類がまだ絶滅していないことがそのなによりの証明です。とんでもなく酷い目にあった善人も、裁かれることなく美味い汁を吸いっぱなしの悪人もこの世界にはごまんといる。そんな辛い現実から目を逸らしたい人々の願望なのでしょうか。勧善懲悪の物語が巷に溢れているのと同じなんだと思います。そうではないからこそ、人間は憧れるわけです。

与太話はともかく、だからこそ自らの意思による行動こそが重要になってくるんだと思います。そしてそれが選択するということですよね。きっとこうなるだろうとか、誰かがこうしてくれるだろうとかいうのを、日本語では他力本願または運任せといいます。ハンジ自ら「不甲斐ない理想論」と振り返っていましたが、マーレに乗り込んだことは良かったけれども人権団体に期待し失望したところで何も起こりません。彼ら自身の内面には何か変化はあったかもしれないけれど、世界には何の影響も与えてません。その後パラディとマーレのどちらが行動を起こしたかと言えばもちろんマーレだけでした。そして行動を起こした側にはそれに対する結果が出ますし、行動しなかった側には行動しなかった結果が出たはずです。たった一人例外だったエレン・イェーガーの行動が無ければ、ですが。

 

 

さて、長らく脱線してしまった気がしますが、ここまで来るとエレンの考えや行動がはっきりと見えてくるように思います。改めてベースを整理しますと、


地鳴らしとは生きるための行為であり、その生きるとは自由であることが必須であり、その自由とは選択できることである。ただし過去などの影響や誰かの意志が介在しているなら本当に選択ができているかは疑わしい。そして自由とは戦うことなしには成立しない。

もすこし砕きながら補足しますと、この世界ってのは元は当たり前に自由な世界だっていう前提です。そこでは自分のやりたいことも含めて当然のように戦って勝ち取るしかありません。自ら選択をして行動するしかないのです。そしてそれこそが生きるってことだろうと。自分のやりたいことも我慢したりしながら社会や誰かの言いなりにしていれば生き永らえることはできるかもしれないけど、それって家畜と同じで生かされているだけだろって感じになるでしょうか。


エレンは大事な人たちに自由に生きていって欲しいわけです。でも今後の世界がどのような形になるのであれ、彼ら自身に生きることを戦って勝ち取る意思がないのであれば、再び家畜に甘んじることが容易に想像できます。パラディだけの世界になったとしてもフロックたちに組み敷かれるだろう片鱗がすでに描かれています。家畜だけならまだしも、かつての憲兵団が調査兵団にしようとしていたように排除される可能性だって充分考えられます。だからこそ、大事だからこそ彼ら自身に戦って欲しいんだろうと思います。それは自らが率先して世界と戦うことによっても示していると思います。エレンが彼らを守ってあげるんじゃダメなんです。彼らの人生はまだまだ続いていくんです。たとえエレンが外敵を討ち滅ぼしたとしても、彼らひとりひとりが戦わないと、自らの意思で行動しないと、いずれにしてもこの残酷な世界を先々まで生き抜いていくことは困難なんです。おそらくエレンの考え方はこんな感じではないかと思います。

そう考えれば、エレンがだんまりを続けていた理由にも察しがつきます。それも彼らの自由を奪わないため、自分の意思に引きずられないようにということなんでしょう(1巻3話、11巻46話)

 

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-頼んでねぇだろそんなことは!

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-まさか… こっちに向かってねぇよな?
-そんなことしたら… 皆無事じゃすまないぞ……

もともとエレンは仲間を巻き込むことを良しとしてませんでした。アルミンやミカサはいつだってエレンを止めに行くのが自分たちの「役割」だと思っているかもしれませんが、エレンはそれを望んでいたわけではなさそうです。ただ壁内の頃のケースは、エレンの視点から見ればアルミンやミカサも自分と同じく必死に戦おうとしてるとも見えたでしょうから、否定はできないはずです。

であればこそ「ジークにすべてを委ねる」とだけ伝え「一人でもやるつもりだった」レベリオ襲撃では、仲間たちが戦うため、生きるために来てくれたと思ってさぞかし嬉しかったことでしょう(25巻101話)

 

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-よかった…
-みんな来てくれたんだな

また、イェーガー派を自由にやらせていたことにも納得できると思います。少なくともイェーガー派が生きるために必死になって戦っていたことはルイーゼのセリフなんかからも伝わります。手段の是非はともかく、それは否定できません。そんな彼らを縛り付けるのはおかしいですよね。必死に戦わなきゃ生きていけない世界では、必死に戦おうとすることは何も間違っていません。むしろ必死になってない者を手厚く保護する方が違うと思います。その人のためにもならないでしょうし、それはエレンの庇護下に入るという意味合いも持つことでしょう。エレン自ら彼らを奴隷に貶めることになってしまいます。そして誰かが必死になれば必ずどこかで衝突が起こり、命を落とす者が出てくるでしょう。でもそれこそが残酷な世界の理であって、その時生き抜くのは、より必死に生きようとしていた者なんじゃないでしょうか。守ることばかりが大事にすることではないと思います。

 


こうして考えていくと、エレンのやっていることは非常に理に適っているようにも見えます。

 

たとえばこのまま地ならしが完了すれば少なくとも外患は取り除けます。パラディのみんなを守るという目的は果たされ、それ以外の問題に関してはまた別のお話になるでしょう。

そうでない場合。仲間たちがエレンを戦ってでも止めるならば、それは彼らが自らの意思で生きるために戦ったということになるはずです。であれば彼らはその後も生きるために戦っていくことができるはず。特にエレンはアルミンの実力に高い評価を与えていますから、彼が自らどんな相手とでも戦う意思さえ持つならば大丈夫だと思えるんじゃないかと思います。そんなアルミンだからこそ、マーレ編以降に絵空事だけ言って流されているだけなのがイラついたのでしょう。もちろんそれはアルミンに限ったことではありませんが、高評価の裏返しというやつです。できる奴だと思っているからこそです。

もしかしたら未来を見て知っているかもしれませんが、なんにせよ自分を止めることができるとしたら彼らしかいないというのは感じているような気がします。そして彼らに生きるために戦う意思さえあるなら、交渉できる可能性だって十分に考え得るだろうと思います。世界なんてダズと同じで日和見であることは想像に難くありません。誰だって自分がかわいいのです。133話でアルミンが言っていたことは絵に描いた餅ではありますが、実際その通りだろうと思います。今まさに圧倒的な力で殺しに来てる相手が交渉を持ち掛けてきたなら、疑いはすれど自分の国や家族を危険にさらしてまで勝ち目のない戦いを挑もうとする国も人もないと思います。あるとすれば物語の中の正義のヒーローくらいでしょうか。嫌われ国家マーレが世界を味方につける様も目の当りにしてるわけですから、交渉の余地があることはいくらでも想像できるんじゃないかと思います。

ヴィリーやカルヴィ元帥がこのあたりまで予見していたら面白いのですがこれはまぁ妄想の域を出ませんね。おそらくユミルの民の歴史を俯瞰した時、彼らの「行動」もこれから起こる「結果」に大きく寄与したといった感じになるのではないかと思います。ユミルの民全体の意思みたいな話にもなるかもしれません。

ところで危害を与えた強者から頭を下げて国交の第一歩が踏み出せたとしたら、それはまさに壁の王の悲願成就とも言えそうです。そしてその先陣はすでに大天使ガブリエルちゃんがジャンに対して体を張って示していますし、英雄側のお題目は「理解することをあきらめない」ですからね。

なんにせよ、どっちに転んでもエレンの勝ちのようなもの、「エレンの望みが叶う」土台は出来ているように思います。それは言うなれば、エレンは行動したからその結果を受け取るのであり、ジークあたりは行動させられていたから、という感じに帰結するのではないかと思います。もちろん今後ジークが行動を起こす可能性は充分考えられますが、それはまた別のお話。

 

 

 

というわけで、この残酷で自由な世界では、私たちの気付かないところで今日も生物たちが必死に生きようともがいています。彼らはその生きようとする本能に従って、やられればやり返し、やられる前にやろうとします。そんな世界において、見ず知らずの「世界のみんな」とやらのために、見知った仲間だった者や自身の命をも殺してしまうのはおそらく人間だけのはずです。つまり良くも悪くも、それが生物界で随一の高い知能や理性を持ってしまった人間による人間らしい所業といったところなんでしょう。英雄たちの行動とエレンの行動とが、理性と本能との対比になっているのだと思います。さらに大人と子供というのも同様の対比になるでしょう。おそらく父と子というのも然りです。あとはあの謎の古生物がどちらの側になるかは・・たぶん言うまでもないですよね。

それはそのまま「擬似的自由を与えられる人間社会」と「残酷で自由な世界」が対応していると思います。ですので理性側の人々がエレンへ向ける感情は、そのまま社会的な人間が残酷で自由な世界に対して抱いてる感情とも重ねられていると思います。

人間は自由とはいつもそこにあって、守るべきものだと思ってたりします。でもそれは社会が目隠ししてくれているからで、普段は気付かないけれども自由にはとても残酷な本質があります。それを垣間見た時、ミカサのフラッシュバックなどのように漠然とした恐れを抱いたりするかもしれません。それでもミカサが見て見ぬふりをしていたように、人間はひたすら目を背けようとしてしまいます。僕の知っている自由(エレン)はこんなんじゃない、僕達の隣にはいつだって自由(エレン)が供にあったじゃないかって。自由は残酷なものじゃないんだって、僕の思ってる自由こそが本当の自由だって信じたいわけです。だけど考えれば考えるほど自由ってのはもともと残酷なものなんじゃないかという疑念は拭えません。エレンを自由に置き換えてこちらを読んでみてください(31巻123話)

 

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-誰もがエレンは変わったと言う
-私もそう思った
-でもそれは違うのかもしれない

-エレンは最初から何も変わっていない
-あれがエレン本来の姿だとしたら
-私は…エレンの何を見ていたのだろう

-私達は…気付かなかった
-もしくは… 気付きたくなかったのだろう

社会が発達し利便性が上がるほどに、私たちは残酷な世界から遠ざかっているかのように思います。今やほとんどの人が豚や鳥があげる断末魔の悲鳴を聞くこともなく血を見るのが嫌だとのたまうことができます。だけれども機械のように毎日同じ生活ルーティンを繰り返すうちに、なにか居心地の悪さを感じ、ぼんやりとした自由への夢想が積み上がっていくのでしょうか。思えば、正義や信頼、仲間、英雄などなど、どれも社会の中にだけ存在するものです。だからそれを美しいと思わないことには始まらない、やってられないのかもしれません。そして人間が思い描くなんでもできるという意味合いの自由も、社会によって与えられた幻想のようなものと言えるのかもしれません。

けれども人間の探求心は誰かに言われて抑えられるものではなく、真実を知りたがってしまうのでしょうか。いやどうかな、夢を夢のままで終わらせたくない感じ、の方が適切な気がします。だからこそそれが現実味を帯びてきた時に自分の思っていたものと異なったりすると、目を背けてしまうのではないかと思います。

ただ、こと自由に関して言えば、幾世代に渡って忘れつつあった記憶を取り戻そうとしているようなところもあるのかもしれません。なぜなら弱肉強食の世界って、どなたも他の作品でも触れたことあるくらい普遍的なテーマですよね。それだけ需要がある、みんなが感じたがっているってことなんじゃないかなと。

あ、念のためフォローしておきますが、弱肉強食自体はありふれたテーマだと思いますけど進撃の場合はそこに社会性やそれに伴う精神構造、自由のその先まで絡めてさらに深いところへ突っ込んでるあたり稀有な存在だと思ってます、それも少年誌で。そこまで描いてる作品って、私の貧相な脳内ライブラリでは「火の鳥」くらいしか思い当たりませんので。

 

閑話休題

 

ところで、エレンにしてみればレベリオ戦において、みんなが生きるために戦うことを選んでくれた! と上がったところから落とされた時の落胆はいかばかりかと考えます。より頑なになってもおかしくないし、鏡に向かって「戦え」と自分を鼓舞するのも痛々しいくらいです。だからといって虐殺が良いという話ではないですけどね。

それでもなんでも、エレンは生きるために戦うことを続け、周囲に生きるために戦うということを振り撒き続けていくのだと思います。そのためなら自分の命なんて惜しくないというのは本人の弁。

 

生きるとは自由であること。自由とは戦うこと。戦うのが生きること。

 

この作品は、戦士隊の襲撃によって人類が家畜である屈辱を思い出したことで始まりました。そして壁内人類はエレンと進撃の巨人の存在によって生きるために戦うことに目覚めました。やがて時は過ぎ、今度は世界がその日人類は思い出しましたよね。彼らが思い出したのは、巨人でも始祖の巨人でもなく「進撃の巨人」でした。英雄たちは依然としてモヤモヤしているようですが、すでにアニ父を皮切りにレベリオのエルディア人は生きるために戦うことに目覚めつつあるようです。ガビやファルコも然り。もちろんそのきっかけは良くも悪くもエレンであり進撃の巨人です。

ただしイェーガー派のことに関しては、英雄たちもやられたから、そしてやられる前にやった側面があります。つまりそこで本能に少し寄ったと捉えることができ、話し合いだなんだと理性によって四の五の言っていた英雄たちは、あのあたりからようやく「生きる」ことをし始めたということではないかと思います。

生とは戦って自ら掴み取るものだという、この残酷で自由な世界の原理。それを体現し周囲に振り撒いていくエレンはすなわち、「生き方を教えている」ということになるでしょうか。世界の人々もそうなるのか、もしくはユミルの民が生きることに目覚めたことを目の当りにしたという事なのかは分かりませんが、少なくともユミルの民にとっての「進撃の巨人」というのはそういう存在なんじゃないかと思うのです。


なぜエレンがそんな存在になったのか。鶏が先か卵が先かは分かりませんが始まりのひとつとして、(32巻130話)

 

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「お前は自由だ」

まだ確定してないのにこの書き方はどうかと思いますが、彼は生まれながらにして自由に関わってしまったということかもしれません。具体的にイメージするなら、生まれてすぐのまっさらな頭の中に「じゆう」という音が刻まれたとしましょう。当然この「じゆう」という音は、彼の脳内の大部分を占めることになります。どうなることでしょう。

エレンはそれ以来、自由とはなんなのかをずっと考え続けてきたのかもしれません。そして彼にとって自由とは、生まれた時から自分の大部分を占める当たり前のようなものだったのでしょうか。

見方によっては、グリシャは気付かぬ内に愛する我が子をとても残酷な世界に放り込んでいた、とも言えるのかもしれません。ジークは社会の中へ、エレンは残酷で自由な世界へ。やはりこれはグリシャが始めた物語なのかもしれませんね。

 


そして残酷で自由なエレンは、いや「進撃の巨人」という作品は、平和ボケした私たちにも何かを振り撒いていくのでしょう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

-おまけ・辛さひかえめ減塩タイプ-

 

133話に少しだけ触れておきます。ネタバレ注意。それと少しだけ辛口ですので甘党の方は要注意(以下、注記の無い画像は別冊少年マガジン11月号・133話より引用)

 

 

 

 


☆今月のMVP☆

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ライナー・ブラウンさん(21歳/レベリオ区)

 

 


ライナーさんが呼び水になりました。

だんだんと相手の目線に立つことを覚えつつある英雄さんたちですが、人間はなかなか分かり合うことができません。コニーのストレートな言動によって彼らが歩み寄りつつあることが明示されてはいますが、結局話が噛み合うことはなく物別れに終わりました。どっちもどっちと言えなくもないですが、各人のセリフを吟味していると少し異なるニュアンスが見えてくるように思いました。


まずエレンの言葉ですが、どれも英雄たちの、主にアルミンの言葉に対する返答になっています。虐殺は必要ないと言うから地ならしはやめない旨を返してますし、アルミンが希望的観測を述べているから運任せにはしないと返しています。巨人の力はなぜ?に対してもお前たちからは何も奪わないと。いちおうちゃんと ”キャッチボール” になっているのがお分かりいただけるはずです。

そして、おそらくキモになっているのは英雄側だと思います。

彼らの言葉の意味するところをひとつひとつほどいてみると、彼らは最初から最後まで「説得」をしています。説得という日本語について説明は要らないでしょうが敢えて書きますと、説得とは異なる考えの相手を自らの考えに沿わせようとする言動です。コミュニケーションやディスカッションにおいて最初につまづきやすいやつですが、要するに相手の意見を聞かずにハナから自分の意見を押し付けているんです。

で、なんでそんなことになっているかと読み込んでみると、彼らの言葉には総じて前提があるんです。その前提は「エレンは自分たちに止めて欲しいと思っている」です。だから彼らはそれはもう必死に「もう大丈夫だ」とか言って図らずも説得してしまっているんです。でも先に挙げたようにライナーは「そう思うってだけ」のことを言ったに過ぎません。つまり推測です。彼らはただの推測を元に相手の考えを決めつけて、それを前提にした意見を言っているわけですから噛み合うはずもありません。だからMVP。別にライナーが悪いとかいうことではないですよ。こうして人は誤解し、すれ違うということなんでしょう。

以前から同じことばかり書いてるようで恐縮ですが、人間は他者の頭の中を直接覗けるようにはできていません。だから他者の考えを知るにはそれこそアルミンが言っていた通り話すことが肝要なはずですが、実際やっていることはそれとかけ離れてしまっています。自分を基準にして相手を推し量って自分と同じだと決めてかかる、自他の境界線が曖昧ってやつですね。自分の目線での当て推量っていうのは自分の思い至る枠の中から出られませんし、こうあって欲しいというバイアスもかかります。だからこそというか、

 

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-僕らはずっと一緒だ!!

って言えてしまいます。でもこれ、エレンの視点から見たらとっても薄っぺらい軽い言葉だなと個人的には思わなくもないです(26巻106話、27巻108話、26巻105話)

 

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エレン自身はどうなんでしょうね。アルミンやミカサの想いは受け止めたとしても、もうそこはとっくに通り過ぎてる感じかなと想像します。

そもそも説得してしまってる時点で考えが一緒ということはあり得ないという矛盾が英雄側にはあるわけですが、それでもちゃんと「考えが違うんだから戦うしかないだろ」と返してくれているあたり達観したなぁと思います。もう少し言ってしまうと、エレンは彼らの言っていることと自分のやっていることをちゃんと理解した上で「じゃあ戦うしかないよな」とはっきり分からせてくれているわけですが、たぶん英雄たちは自分が発した言葉の意味するところを正確には理解していないと思います。自分を俯瞰できていないということです。そのため仲間想いな言葉を言ってるという美しいオブラートにくるまれて本人たちも気付いてないのでしょうが、彼らが言っていることの本質を端的に表現すれば、寄ってたかって「お前が間違っている」って言っているに過ぎないと私は思いますが、まぁどうなんでしょうね(30巻122話)

 

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今回の記事テーマに沿って言うならば、エレンは諸々を思い悩んだ末、リスク等を承知した上で自らの意思で行動を選択した行動者だと思います。対して、133話の前半を読み返してみて欲しいのですが、

英雄たちは、やれ「〇〇を殺してしまったから地ならしを止めないわけにはいかない」とか、はたまた「贖うことはできないから世界を救うしかない」といったような、なにやらわけのわからない理由を付け加えだしてしまいました。まぁでもこういうのって気持ちは分からなくもないですよね。要は罪の意識に耐え難いからそれをどうにか他のことで消化あるいは昇華しようとしているのだと思います。ああ、若い頃のグリシャと同じ感じでもありますね。

自己正当化。


自分なりに、たとえそれが他者に分かってもらえないとしても、きちんと目的が明確に意識できていたらこんな意味の分からない理由付けは要りません。だって理由はすでにあるはずなんですから。でもそれをしてしまうということは。

面白いので大事なところなのでもう一回ちゃんと書いておきます。

 

お前は間違っていると言っている彼らが地ならしを止める理由のひとつは、

「仲間を大勢殺し、それを無意味な殺戮にするわけにはいかないから」です。

あるいは、

「仲間を殺したことを贖うことができなくてもとにかく世界を救うしか、やるしかねぇから」です。

ちょっと意味が分からないというか、苦しい感じですよね。なんとかして理屈をつけたい感じが伝わってきます。つまり彼らはまだ理由が曖昧、言い換えれば迷ってる部分があるのでしょうか。いや、迷ってるというよりは責任を負うことから逃げているのかもしれません。もちろん無自覚だと思いますが。

以前の記事で長々と虐殺の是非について考えましたが、この世界に絶対というものが無い以上、万人が納得する理由なんて無いと言ってしまってもいいと思います。じゃあそこで重要なのは何かって、それこそハンジが理屈抜きで「虐殺は認められない」と言っていたように、自分がどうしたいかということでしかないんじゃないでしょうか。だって自分の行動、自分のことなんですから。そして自分のしたいこと同士が相反するならば、お互いに決して譲れないならば、それこそエレンの言う通り戦うしかないかもとも思います。

けれども社会に馴らされ選択させられることに慣れてしまった人間はなにかと理由を付けずにはいられないのかもしれませんね。彼らの言葉のように何かのせいにしておけば、後でどのような結果が出ても「仕方なかった」って言えますから。今回はその擦り付ける相手が過去の罪だったわけです。逆に言えば彼らは過去の罪によって突き動かされ、思考停止し、流され、選択をさせられているんです。だから罪に囚われた人達。罪人達。

 

というわけで案の定と言いますか、アルミン新団長の第一回チキチキ「エレンとの対話」は話し合いでも分かり合いでもなく、シガンシナでの対ベルトルさんを思い起こさせる駆け引きのような感じになってしまいましたとさ。


あとこれは皮肉ではなく見たまんまを言っているのだと思いますが、傍で見ていた兵長もこう表現してらっしゃいます。

 

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-交渉の望みは潰えたらしい

あっ、はい、どこからどう見ても「交渉」でした。 親友とは? 仲間とは? 

 

まぁ団長としては然るべき姿勢・・なの・・かも・・・かな・・?

 


最後に、僭越ながらアルミン団長にはブーメランを贈呈しておきたいと思います(14巻55話)

 

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-今相手にしている敵は僕らを食べようとしてくるから殺すわけじゃない
-考え方が違うから敵なんだ…

 


理解することをあきらめないアルミンさんが今後どう転がっていくのか、ますます楽しみになってきました。いろんなパターンが考えられると思いますが、現状の個人的な予想としては、

(b)自分の分かり合いたい理想は他者とぶつかるのを恐れる言い訳のようなものだったと気付いてエレンと戦う腹を決める。そうやって自身を俯瞰した上でそれでも存在する分かり合いたいという気持ちは世界の方へ向いていく。エレンはアルミンが自由になった(自らの意思で選択した)ことに満足死。アルミンはもっと早く気付けていればエレンを殺さずに済んだかもと後悔。

こんなのはどうでしょうか、だいぶ希望的観測ではありますが。

 

でも (c)すれ違ったまま分かり合えないまま終わり というのも最近の展開を見てると捨てがたいです。団長という社会的地位を手に入れてしまったことも含めて。でもさすがに何も変わらないというのはちょっと・・ですよね。いやどうかな、うーん。

 

-おまけおわり-

 

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 20th Oct 2020
updated: none

 

お知らせ

 

 

前略 ごめん…ごめんなさい…

 

 


私事で恐縮ですが、記事の作成に使ってきた愛機であり問題児でもあるS〇〇〇〇〇eくんが画面揺れとファントムタッチが頻発するようになってしまい、継続的な作業が困難になってしまいました。そのため、今後の更新は不定期とさせていただきますのでよろしくご了承ください(今までも不定期と言えばそうでしたが最新話1~2記事+アルファという体にはなっていたので。)

 

 

 

 


せっかく来ていただいたのにこれだけではなんなので少しだけ最新話の話などを。

 

※注:以下、最新131話の内容に言及しています。

 

 

まだ時間軸というか世界軸に関して何とも言えない部分があるのですが、それはともかく少年エレンは言うなれば「誰の中にもある悪魔」の部分と言えるんじゃないかと思います。それはとても純粋で子供じみた想いでもあると。そしておそらく始祖ユミルはそういった想いやそれによって起こる出来事を俯瞰的に見ているのでしょうか。それもおそらく全てのユミルの民のそれを、いや全ての生物くらいかもしれません。もしかしたらエレンもそれに近い状態なんでしょうか。

 

 


ところでエレンにとっては壁の外に人間がいたことで夢が壊されてしまったんですよね。だから地鳴らしで消し去りたいわけです。

 

つまり、地鳴らしが起こった根本的な原因は、壁の外に人間がいることを ”知ってしまったこと” 。

 

アルミンはそれでもどこかに理想の世界が存在すると信じたい、理想郷を夢見ています。でも地鳴らしはそんな可能性すら蹴散らしてしまいます。でももし壁の外に人間がいると ”知らなければ” 、地鳴らしは起こらず夢は夢のままだったかもしれません。

 

壁の外に人間がいることを知らないという閉じた理想郷。

 

なんだかどこかで聞いたような話になってきました。ここは鍵になってくるかもしれません。

 


話変わりますが、進撃では今まで「信頼」とか「仲間」、それから「英雄」や「正義」といったような人々が酔っぱらう対象となる概念、すなわちなんとなく当然のようにそれが正しいような良いことのような感覚を覚えてしまう概念に別角度からスポットライトを当てることで殺してきたわけですが、今度はエレンを通して「自由」を殺してきていると思います(実際には自由はすでに殺されているような描写があるのですが。)

そこで楽しみにしてるのは、人間がなんとなく正しいような当然良いように感じている概念でまだ殺されていないもの、

 

「愛」

 

が殺されるのか、あるいはといったところです。

 

ちなみに「お前は自由だ」がグリシャからエレンへの言葉であることが濃厚になってきたように思いますので、その解釈として「愛」を得たグリシャが夢と願いを込めた言葉が同時に呪いになったのだとすれば、ある意味すでに「愛」は殺されつつあると言えるのかもしれませんが、ここへきて全く別の「愛」にまつわるエピソードを絡めてきたあたりに期待に胸が膨らみます。

 


あと数か月なのは寂しくはありますが、怒涛の展開が予期されますね。最後に愛は勝つのか、それと理性(アルミン)が本能(エレン)を抑え込むのか、などなど楽しみです。

 


草々


written: 16th Aug 2020
updated: none

 

104 最新話からの考察 129話 オールドファッション vs フレンチクルーラー


みなさんこんにちは。

 


久しぶりに簡潔にまとめることができました(大嘘)

 

 

 

 

この記事は最新話である129話までのネタバレを含んでおります。さらに登場人物や現象についての言及などなど、あなたの読みたくないものが含まれている可能性があります。また、単なる個人による考察であり、これを読む読まないはあなた自身に委ねられています。その点を踏まえて、自己責任にて悔いのないご選択をしていただけますよう切にお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。注記の無いものは全て別冊少年マガジン2020年6月7月合併号・129話からのものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[オールドファッション vs フレンチクルーラー]

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えーと、実はあまり書くことがなくて困ってたりしてます。と言っても別に悪い意味じゃなくてですね、とりあえずですけど、

 

 おっちゃんたちがカッコよかったとか、
 ファルコ飛びそうじゃない?とか、
 フロックは船か飛行艇にいそう??

 

とかとか、このあたりはみなさんもお読みになった時に感じたり考えたり、あちらこちらで読んだりしてるから端折っちゃっても良さそうな感じですよね。書いたとしてもそれ以上のなにかは私には書けませんし。

 

 


なんとなく多数の賛同が得られた気がしますのでそういうことにしまして、今回はシンプルに一点集中です。

 

 

 

 

 

 

さて、王道面が描かれた129話でしたが、まさに昔を懐かしむが如く、以前の場面と重なる描写が多数ありました。

 

 

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相手の名前もよく知らないおじ様方が互いを認め鼓舞し合う様は、かつてのエレンとライナーを思わせます(4巻16話)

 

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それから、かつてライナーやアニに助けられたコニーが彼らを助ける場面ももちろん(32巻129話、6巻23話)

 

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綺麗に重なってきます。余談ですが当時のライナーの行動は作戦の遂行こそ念頭にあったでしょうが、その場においてのみ言えばジャンとアルミンを助け、アニを守るような行動であったとも言えるわけですね。

 

それはともかく、

 

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-…賭け

賭けのような作戦に一縷の望みを求めるのもかつての調査兵団を思い出させますし、相手方のフロックも、(32巻129話、7巻27話、12巻49話)

 

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 -死守せよ!!

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 -心臓を捧げよ!!

まるでエルヴィンが乗り移ったとでもいうか、その背中を追いかけ続けているように見えます。他にもフロックがエルヴィンに重ねられ対比されているような描写が多々ありますが、それもみなさんご存知でしょうからとりあえず端折っちゃいましょう。

 


とまぁこんな具合に、一部を切り取っただけでもこれだけ昔と重ねられています。だから「懐古」ということなのかもしれませんが、だとしても「だから何?」とも思えてしまうかもしれません。

 

 


さて、いったん話を切り替えます。

 

 

 

今回、アニやライナーが危惧していたようなことが半分現実のものとなっていました(32巻128話)

 

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-その邪魔をしてくるイェーガー派からは死傷者を出したくない
-…とでも言うつもり?

 

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-お前達4人は戦わなくていい…

 

この話題は「手を汚す」みたいな結論になっていたはずですが、今回途中までまともに戦っていたのはほぼマーレ側の人間(とハンジ)だけでした。ミカサが一番分かりやすく描かれていて、彼女は戦ってはいますが途中まで抜刀していません。

 

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それでも殺傷力は持っているとはいえ、アニやライナーがまさに体を張ってボロボロになっている横でその相手に手心を加えていたことになります。はっきり言ってしまえば中途半端で気持ちが入っていないというか他人事のようというか、あるいは傍観者的とも言えるかもしれません。

 


そんな彼らもその後、流れで言えば前回アルミンを撃とうとしたダズにやむなく手を下したコニーが皮切りになる形で、

 

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-躊躇えば仲間が死ぬ

 

というエピソードが完成し、その後は容赦なく殺しまくります(14巻58話)

 

 

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-あぁ…大いなる目標のためなら殺しまくりだ
-お前だっててめぇのために殺すだろ?

躊躇ってしまうのが人間とはいえ、躊躇えば大事な仲間が死ぬし、仲間が死ねばやがて自分も死にます。目の前の兵士を情に任せて殺さなければ、後にその兵士が放つ雷槍で味方が死ぬかもしれません。そんなのは優しさでも美しくも平和的でもなんでもなく、ただの自殺行為であったと言ってもよいかもしれません。

じゃあ躊躇ってた今までと彼らの中で変わったものはなにかと考えてみれば、それは要するに必死になった、ならざるを得なかったってことだと思うんです。同じ島の人間だから手心を加えるとか、敵であっても島のみんなが一人でも多く生き残って欲しいみたいに四の五の言っている余裕がなくなったという感じでもあると思います。

 


そしてこれこそが最大の「懐古」であり、副題の意味するところではないかと思います。

 


思えば、かつての彼らは常に巨人に命を脅かされていて、とにかくヤツらをなんとか倒すしかありませんでした。相手が得体の知れない存在でしたから当たり前ではあるのですが、当時は「彼らも同じ生き物だから」みたいな理由で峰打ちするようなことは無かったはずです。なぜかと言えばそんなことをする理由も余裕も無かったからです。そんなことをしていたら自分たちが殺されるだけだったんです。

ところが人間っていろいろと見えてきたり周囲との関係が出来あがってくると、四の五のが生まれてくるんです。いろんなものに配慮しなくてはいけなくなって、みんなのことを考えなくてはいけなくなって、自分を害そうとする相手のことまで考えてしまったりして、身動きが取りにくくなっていきます。

王政編あたりではその葛藤が顕著になりつつありましたが、最終的に彼らは戦いました。やらなければ王政や憲兵にやられるということで、やっぱり仲間や自分の命がかかってたわけです。しかしながらその後数年間の”余裕”を経たマーレ編以降が、再び四の五ので溢れかえっていたのは記憶に新しいのではないかと思います。

 

 


そして今回、命のかかった全く余裕のない状況の中で、懐古というか原点に立ち返る部分があったのでしょう。

 

 


原点とはつまり、生きることに必死であるということ。

 

 


今回はこれに尽きるのではないかと思います。重ねるように描写されてる過去の場面は全て、かつての彼らがなんとかして生きるために必死でがむしゃらに戦っていた時のことなのは、言うまでもないと思います。

 

 


というわけで短くて恐縮なんですが、本題というか、今回はこれしか書くことがありません。

あ、でもアルミンくんさんだけ露骨に外されてるのは今後が楽しみですね。それと誰かさんの薫陶を受けてるファルコさんは、彼らよりも先んじて「生きることに必死」だったように思います。

 

 


あとそれを踏まえて余談を少し。

 


今回のキースまわりの話、個人的には美談と捉えていいのか悩ましい部分も多少あるのですが、それはともかく承認欲求のモデルケースみたいな話になってて面白いというか非常に身につまされるので、少しだけ触れておきたいと思います。

 

キースの人生は「特別であること」に縛られたものでした。083 キース・シャーディスの場合 という記事にも書きましたが、彼のかつての行動の全ては自分が特別であることを示すためのものでしかなかったようです。

あくまで目的はそれですので、なにをしたにしても「私はこんな凄いことしてるんだ(チラッ」「ほら私はすごいだろ?(チラッチラッ」みたいな感じです。だからその目的のための手段は、実際は調査兵団じゃなくてもなんでも別に良かったんだと思います、自分の凄ささえ周囲に示せることであれば。

だからこそ今回の行動に妙味がありまして、彼は紆余曲折あった末に ”誰にも知られることなく”、そして名前も肩書もない ”ただのキース・シャーディス” として、ただただ自分の考えに従って行動したんですね。もしかしたら彼にとって、誰かの目を気にせずに行動を起こしたのは最初で最後というくらいなのかもしれません。

 

ところがその ”ただの行動” が、かつて無我夢中で追い求めた「特別」を成すことになってしまうあたりに哀愁が漂います。

 

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ものすっごく皮肉な話なんですが、(18巻71話)

 

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-凡人は何も成し遂げなかった

 

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-特別な人間は いる
-ただそれが 自分ではなかったというだけのこと

今回キースの行動が生んだ結果は、以前の彼が囚われていた考えの全否定になっています。「特別」だからなにかを成し遂げるのではなく、ただのなんでもない人が目的に向かってただ行動した結果、それが時に「特別」なものと呼ばれるだけだったんです。カルラが言ってた言葉を思い返させられるような話でもありますね。


こうやって第三者視点から見ると、承認欲求にまみれていたかつての彼が結果を出せなかった理由も改めてよく分かると思います。彼がずっと関心を持って取り組んでいたのは「他の人からいかに凄く見えるか」ばかりでしたので、関心がなかった調査兵団長を上手くできなかったのも当たり前ですよね、そもそもの目的じゃなかったんですから。あーこれ刺さる、痛い痛い・・

他人の目ばっかり気にするのはやめよう、私たちは私たちのために生きようよと思う今日この頃なのでした。


まぁなんにせよ、今までの人生が否定されてしまったかのようではありますが、彼は他人の目に映る「キースさん」という殻を脱ぎ捨てたことで、最期に少しだけ、「本当のキース」として生きることができたという言い方もできるかもしれません(18巻71話)

 

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-本当の自分に従って生きろ

ほんとブーメランばかりで哀しすぎて笑うしかないんですけど。とはいえ彼もやはり、傍観者から「必死に生きる」方へ向かったことになるんだと思います。

だからこそ必死に生き延びてでもまだやれることがあるようには思ってしまうのですが、アオリ文にもあった通り「死に方を選んだ」ということでもあり、マガト同様に次の世代へ託すことができたということでもあるのでしょう。この作品っぽく言うなら ”継承した” の方がはまるかもしれませんが。

 


ちなみにピークちゃんのこのセリフ、

 

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-…元帥だってば

 

思いっきりおまえが言うな案件なんですが、(29巻117話)

 

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しかも129話でも直前まで言ってたりするんですけど、

 

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舌の根も乾かぬうちにみたいな話はさておき、マガトと同じセリフをピークちゃんが言うようになったと受け止めれば、なんだか感慨深いものもあります。

 


継承された、わけですよね。

 

 

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 14th Jun 2020
updated: none

 

103 最新話からの考察 128話② たゆたう


みなさんこんにちは。

 


そろそろ禁断症状が出てきそうなので記事でも書いて気を散らすことにしました(逆効果)

 

 


この記事は最新話である128話までのネタバレを含んでおります。さらに登場人物や現象についての言及などなど、あなたの読みたくないものが含まれている可能性があります。また、単なる個人による考察であり、これを読む読まないはあなた自身に委ねられています。その点を踏まえて、自己責任にて悔いのないご選択をしていただけますよう切にお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。注記の無いものは全て別冊少年マガジン2020年5月号・128話からのものです。

 

 

 

 

 

 

 

 


[たゆたう]

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前回の記事で端折った部分についてなんとなく考えてたら、面白いような気がしたので書いてみます。

 

英雄たちの立ち位置のはなしです。

 

 

 

まず土台を設置したいのですが、

現在エレンがやっている地鳴らしが途方もない暴虐無人な行為であることは間違いないと思います。今までエレンやパラディ島の人々が受けた被害を見てきた立場からすると感情移入して後押ししたい気持ちもあるのですが、少なくともオーバーキルになるのは明白でしょう。「やられたから」という理屈が成り立つのも対マーレにおいてのみ、百歩譲ってもすでに軍隊を派遣している国があればそこも含められるくらいでしょうか。

それはパラディ島という、世界全体の中での個としての自由の体現であるとは思いますが、やはり自由にはリスクがつきまとうという点でもよろしくないかもしれません。自分たちの都合で他者を一切顧みない行為は、同時に相手の都合でどのような事が起きても一切の非難をすることができなくなることを意味します。むろん現状としては相手方がまともに対抗できるような力を持っておらず、全滅させてしまえばそれまでと言えるかもしれません。しかしながらそういう土壌の基に築かれた次なる世界では、やはり同じ理屈がまかり通るようになってしまいかねません。自分が生きるためなら容赦なく他者を叩け、それが新世界の正義となった時、やがてそれは跳ね返ってくることが予想できます。そして仮に力を持たない自分の子孫がなんの謂れも無く殺されたとしても、それに文句を付ける正当性はありません。そこでできることは再び相手に力で復讐することのみ。やはり悲劇の連鎖しか生まないように思います。

もちろんそれは今までマーレがやっていたことそのものです。マガトが自分たちの行いもエレンの行いも同様に「愚かなもの」と評したのが、改めて言い得てるように感じます。


さて、自分から書き始めておいてなんですが良し悪しみたいな話はとりあえず置いておきまして、エレンはまさに個を突き詰めたような行動をしていると思います。そして前回の記事で書いたようなアルミンの考え方は、その対極にあたる究極の全体に繋がり得ると私は思っています。

絶対的な正しさというのは世界中のみんなにとっての正しさのはずですから、それ以上に正しいことはありません。どんなものにも優先されるものであり、そのためなら仲間であれなんであれ殺す必要があれば殺さなければなりません。「仲間だから殺したくない」みたいな個人的な感情はむしろ自ら握りつぶすべきで、なぜならそれは世界のみんなのためにならないからです。それを突き詰めると、みんなのために自分が滅したほうが良い状況であれば自分は滅びるべきだという壁の王のような思想にも繋がり得ると思います。

まぁ異論もあるやもしれませんが、とりあえずエレンの個とアルミンの全体という両極があって、その間を一本の線で結ぶイメージを土台にしていこうと思います。

 

 

まずマーレ組の話をしたいのですが、アニやライナー、そしてマガトがこれまでやってきたのは自分のための行動でした。ライナーは世界のためだと思い込んでいましたし、マガトもそれに近いものはあったようですが、本人の認識はともかく行動としては自分たちが生きるためにパラディ島を殴り続けてきたことになります。先述した通りそれは地鳴らしと似たようなものですので、エレンと同じような個の行動だったと言えるように思います。

そんな彼らが今回参加したのは故郷を守るという個の動機からではありますが、前回の記事でも指摘した通り相手側の都合に歩み寄る雰囲気になっています。それでも個の行動であることは変わらないでしょうが、少しだけ全体の方へ戻す感じであると受け止められるように思います。

 

 

次に個人的に面白いのがジャンなのですが、ジャンは「現状がよく見える」という評に現れている通り、全体を俯瞰できる人として描かれていると思います。またそれと同時に普通の人代表みたいな部分もあって、比較的フラットで柔軟な目線も持ち合わせてるように感じます。これは良く言えば柔軟ですけど、言い方を変えれば振り回されがちとも言えるかもしれません(25巻102話)

 

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-この戦いの先に何があるのか
-それを見極めるためには…
-生き残らねぇと

もともと冷静な立場にあったジャンですが、この後サシャの死をきっかけにエレンを激しく批判する側に回りました。しかしエレンの狙いが見えてきた時には揺り戻し、今度はまるでエレンを擁護するような言動を繰り返していたのは前話の時に指摘した通りです。ただしそのエレン側に立った発言は対ハンジと対マガトにおいて出てきましたが、そのどちらも彼は折れる形になっています。対マガトに関しては両者が折れて歩み寄ったと言うべきでしょうけど(32巻127話)

 

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そんな中、彼が思い出していたのは「今やるべきことをやる」ということでした。そのためハンジに主張していたような「自分たちが生きるため~」といった地鳴らしへの肯定的な部分や、個人的な夢をもあきらめて、エレンを止める行動に参加することになります。個の主張をあきらめた形ではありますから、やや全体寄りと言えるかもしれません。が、

 


ここで引き合いに出したいのがダズです。

 


今回、ダズはこんなことを言っています。

 

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-お前らなら敵国だろうと…
-エレンの虐殺を止めるんじゃねぇかって…
-そんな気もしたんだ

ダズは、地鳴らしのことを「虐殺」だと明言しているんです。それはもちろん、彼の心の中にはそれが虐殺だという認識があるということです。それと合わせて「お前らなら止める気がした」ということをわざわざ言ってしまう背景を想像するに、彼の中には迷いのようなものがあったんじゃないかと思います。「虐殺なんかしてほんとにいいんだろうか」みたいなモヤモヤするところが心のどこかにあったからこそ、これらの言葉が出てきたのではないでしょうか。実際、彼は飛行艇を爆破することを躊躇しました。

 

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これがフロックだったら、もしくはおそらくサムエルでも、飛行艇はすでに爆破されていたかもしれません。

とはいえダズが虐殺に疑念を抱いたとしても、フロックが圧制を敷き始めている現状の兵団内においてそれを口にすることはできなかっただろうと想像します。そんな疑問を差し挟んだところで、自分は得をしないどころかひどい目にあう可能性しかありません。彼は自身を守るために長いものに巻かれるしかなかっただろうと思います。

そんな彼はおそらく、(虐殺はよくないのかもしれないけど)自分たちが生きるためだから仕方ない、そう自身に言い訳をして正当化していったのではないかと思います。そんな時って、後押しが欲しくなるものですよね。「お前らも仕方ないと思うのか(やっぱりこれでいいんだ、そうだ自分は間違ってないんだ)」みたいな感じで、他の人が同じ意見だと安心するわけです。実際のところは罪の意識のようなものが軽減されるといったところでしょうか。おそらくこれは、同調圧力というものが伝播するパターンのひとつのように思います。

だから仲間であるアルミンたちも同じであって欲しいし、さらに同じであってくれれば争うようなこともしなくて済むので、人とまともにやり合ったことのないダズにとっては願ったりかなったりのはずです。

でもそれと同時に、もしかしたら心のどこかで彼らがどんな答えを返すか興味深く待っていたのかもしれません。ダズから見ればアルミンコニーはシガンシナの英雄であり、同期のヒーローです。そんな彼らがどんな”正しい”答えを出すのか、恐いような興味深いような感じであったからこそあんなセリフが漏れてきたし、それを完全に妨害する行為に躊躇したんじゃないでしょうか。


これはなんとなくなのですが、このダズの立ち位置は世界の国々に通じるものがあるのではないかと思ったりします。世界の国々にしてみれば超大国マーレに反するようなことを言える雰囲気も無ければ、それをするメリットもありません。よほどヒィズルのように秘密裡に独占的な資源を得られるといったメリットでもない限り、無難な態度を取るしかないことでしょう。そうやって重ねてみれば、今回の英雄たちの行動はプチ地鳴らしのように捉えることもできると思います。そしてもしプチ地鳴らしが無ければ、おそらくダズには積極的に英雄たちをどうこうしようなんて考えは無かったと思います。いや、それがあってなお、手を下す事には躊躇しているわけです。彼は単に流されていただけだったんでしょう。これは今後の展開というか、普遍的な人間のありようを示唆しているかもしれません。


さて、少し話が脱線してしまいましたが、ダズやサムエルが登場したことで描かれていたのが「覚悟」の違いでした。当然くぐり抜けてきた修羅場も、それによって培われた矜持などの精神も、ダズサムエルがアルミンコニーにかなうはずもありません。特にアルミンはそのあたりの覚悟がしっかり決まっているようで、

 

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先のダズの言葉に愕然とする二人・・にも見えますが、アルミンは即座に作戦の心配を始めていることから、それが露呈しないかと一瞬ヒヤりとした感じだとわかります。でもおそらくコニーはそこまで覚悟が決まってなかったのでしょう。しばし呆然とし、後に出てくる「俺は…」という言葉に繋がる葛藤が始まっているのだろうと考えられます。

おそらくダズの言った「敵国だろうと」という言葉が刺さって、改めて今自分がしようとしていることを思い知らされた感じではないでしょうか。

 

エレンを止めるということは敵国を利することでもあり、それはつまり自分たちが再び危険になる可能性も孕んでいます。英雄たちの中ではパラディだマーレだ言っている場合ではないといった空気感になっていますが、コニーにしてみればやっぱり母ちゃんもサシャもああなったのは「敵国」によるものだという個人的な感情は簡単に拭い去れるものではないでしょう。

だからこそ、改めてそれを考えた上で、それでも母ちゃんに誇れる兵士であるために「俺は」やらなくてはいけないと覚悟を決めた感じではないかと思います。そう考えるにコニーは全体の方に寄って行ってる感じかもしれません。

 


さて、ここでジャンに話を戻します。

 


今回まるで彼らと対比するかのように、ジャンが銃を構えることさえしていない様子が描かれていました。もっと言うと英雄たちの中で唯一ジャンだけが、戦っているところが描かれていないんです。

もちろんジャンも修羅場をかいくぐってきた一人ですから、私は彼が撃てない殺せないだろうとは全く思いません。

それでもそんな描写がされているのは、彼の中にまだ揺らいでいる部分があるということではないかと思うんです。そういう意味では、アルミンやコニーはもちろん他の面々と比べても「覚悟」が足りてないと言えるのかもしれません。

 


でもそう考えてて思ったのですが、「覚悟」ってなんなのでしょうか?

 


「覚悟」ってなんとなくポジティブなような、持つべきものといったような印象があるように思います。覚悟をしっかりと決めていることが良いことのような感じさえします。

 

でもよくよく考えてみたら、主に全体の考え方の中でこそ使われる言葉なのだと気付きました。というのも、そもそもなぜ「覚悟を決める」のかというと、

やりたくない事をやらなくてはいけない時に躊躇しないため

といった感じですよね。やりたい事だったらただやるだけであって、覚悟なんて決める必要はありません。あるいはやりたいことに付随して躊躇われることがあるようなケースも考えられるでしょうか。自分はそれをしたいけど、それをすると何か周りに迷惑がかかるとか、自分にデメリットが出てくるといったような。

たぶんどちらにしても同じようなことです。やりたくもないのにやらなくてはいけないというのは、社会や他者といった周囲との関係の中で生じてくるものだと思います。それをするメリットも、しないデメリットも無ければ、やりたくないことなんてそもそも誰もやりませんし、やるかやらないかすら考えないでしょう。外部のなにかからの要請があって初めて、やりたくないけどやらなくてはいけない、という事柄が生まれてくるわけです。

そう考えると、「覚悟を決める」というのは全体の中で生きる上で腹を括ること、みたいな話になってくるわけです。

 

まさに通過儀礼のような感じでもあるかもしれません。通過儀礼ってのは成長段階の通過点みたいに使われますけど、要するに社会の一員としてのふさわしさの段階を踏んでいくってことです。私たちが言う「大人になる」ってのはそういうことですよね。細かい言い方をすると、「人間」としての成長というよりは「社会の一員である人間」としての成長という感じの方がより的確なのではないかと思います。

つまりあくまで全体の中でそうあるべき姿ということであって、それが人として絶対的に正しいとかいう話ではないということです。この作品の初期に、シャーディス教官による某古典戦争映画を彷彿とさせる恫喝まがいの通過儀礼が描かれていました。あれを思い返せば、「人間として」ではなく「兵士として」あるべき姿になるためのもの、ということがよく分かる気がします。


つまり、覚悟を決め切れてなかったとしても、別にそれが間違っているわけじゃないってことだと思うんです(15巻59話)

 

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-お前は本当に間違っていたのか?

またそうして一歩引いて考えてみた時、覚悟を決めることに潜む恐ろしさみたいなものも見えてくるように思うんです。

 

たとえば、「自分が生きるためとはいえ、世界中の人間をことごとく抹殺する覚悟」


あるいは、「全体を利することを成すためとはいえ、大事だったはずの仲間をも殺す覚悟」

 

覚悟を決めた者と覚悟を決めてない者、なにか前者が優れているかのような、かっこいいようなイメージがありますが、必ずしもそうではないということなのでしょう。もちろんそれを正しいと思ってかっこよく感じたりするのも間違いじゃありません。というよりむしろ、人間は集団でしか生きられない生き物ですからその方が社会を生きていく上では生き易いはずです。だからみなさんはそのままのあなたでいてね、という話ではありますが、それと同時に迷ったり覚悟を決められない人がいても、それもまた何かを間違っているわけでもなければ、人として劣ったりしているわけでもないということです。


そして上記のような極端な例を考えると、個でも全体でもなくその中間点あたりを右往左往してるようなジャンが、実は一番バランスが取れた立ち位置に近いところにいるんじゃないかとさえ思えてきます。

 

そして、それを先導してきたのがハンジなのだろうと思います。

ここ最近のハンジの言動を見てて思うのですが、彼女はマーレだエルディアだのってことを全く言ってなくて、まるでそんな観点がないかのようなんです。パラディの人間なのに決してパラディ側という感じじゃないと言いますか。ジャンとマガトが言い争った時も、結局ハンジが間に入ったような形になっています。敵とか味方ってのはあっち側かこっち側かみたいな話をしたことがありますが、ハンジはまさにどっち側でもない感じです。それは夜の会議で給食のおばちゃんおねいさんみたいになってたのがいい例だと思うんですけど、(32巻127話)

 

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彼女はド真ん中にいるようなんです。

 

もっと言えば、以前からそうなのですが彼女は過去がどうたらこの先どうたらってのも少なくて、「現状どうするか」っていう現在のことに一番関心を払っているようです。これもやっぱりド真ん中なんです。

もちろんそれは良しにつけ悪しきにつけということで、先々の展望が甘いといった批判にも繋がるとは思うんですけど(私が言ってたんですけどね笑)、前述した覚悟にまつわる話なんかを考えてみれば、たぶん作者の狙いはこのド真ん中にあるんだろうなぁと思うのでした。

 

そういえば、ミカサも以前から敵を殺しきれない甘さを描かれてました。そして今回のことも個人的な「虐殺をさせたくない」という想いではありますが、それはエレンの行為を肯定するものではなく全体をも考えたものと言えますから、やっぱりどちらに振り切るでもなく、真ん中らへんなのかなと。

 

そうやって、英雄たちは揺れ動きながら真ん中へと集まりつつあるのかもしれません。

 

 

そして比べるものでもないんですが、いま一番エレンと話し合いたがってるのってジャンなんじゃないかと思います(32巻127話)

 

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-そうだ そうだよ…!!
-俺達はロクに話し合ってない

そんな想いが強いからこそ、覚悟を決め切れないという曖昧な立ち位置にいるのかもしれません。

 

 

両極があってこその中心ですから、それは両極に揺さぶられながら流されているような感じでもあるし、主体性がないといったネガティブな印象もあります。でもやはり尖っているものってのはどう贔屓目に見ても尖っているわけです。だから尖ってないということは、実はとても大事なことなのかもしれないなぁと考えさせられたのでした。

 

 

 

 

本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 20th May 2020
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