083 物語の考察 キース・シャーディスの場合(第71話 傍観者)
みなさんこんにちは。
今回は傍観者からの、意味があるんだかないんだか、そんなおはなし。
この記事は最新話である120話までのネタバレを含んでいるかもしれません。さらに登場人物や現象についての言及などなど、あなたの読みたくないものが含まれている可能性があります。また、単なる個人による考察であり、これを読む読まないはあなた自身に委ねられています。その点を踏まえて、自己責任にて悔いのないご選択をしていただけますよう切にお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。
※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。注記の無いものは全て18巻71話からのものです。
[キース・シャーディスの場合]
先にしょーもない話をさせてください。
実はこの記事の冒頭、キースの腕章の話を導入に利用していました。でもこの記事が仕上がったのが120話が出る前日だったので上げるのを控えたんです。そしたら29巻でこの仕打ち笑(29巻118話)
いやまぁ、良かったとも言えますけどね。なんでこんなこと書いてるかというと・・
そんなわけで、今回はそのキースを取り上げたいと思います(訳:他の導入が思いつかなかったから)
お後がよろしいようで。
さて、キースといえば中年男の悲哀を地でいくような感じですが、彼の哀れな人生はこの作品に一貫して流れている一つのテーマを投げかけてくるものでもあります。それが彼の言った「傍観者」という言葉に込められているもの。
-私は……
-ただの傍観者にすぎなかったのだ…
-私には何も変えることはできないのだから
彼の人生を端的に述べれば、彼は自分が特別であるかどうかということに固執し、そのために自らと仲間の命を危険にさらしていたことに始まります。
-ほざいてろ凡人共
-私が団長にさえなれば成果は出せるのだ
やがて自身の無力さを思い知ると、今度は特別である他者を羨み、妬むような感じになっていきます。
-特別な人間は いる
-何せお前は特別だからな
-私と違って
ここに至っても特別であるか否かという価値判断に変わりはありません。彼の人生は「特別」に支配されています。
ところでこのパターン、誰かさんもよーく似ていたりします(20巻80話)
-そんな勇敢な兵士は誰だ?
-…そう聞かれた時
-それは俺だって… 思っちまったんだ…
自分は他の奴らとは違うんだ、特別なんだと思い込み、やがてそうではないことに気付かされます。そして今度はその特別を他の誰かに見出していくのです(21巻84話、27巻110話)
-悪魔を再び蘇らせる…
-それが俺の使命だったんだ!!
-それがおめおめと生き残っちまった…
-俺の意味なんだよ!!
-このエルディア帝国を救える奴は
-お前しかいないのにな
フロックの場合は他人に見出した特別に対して、その人を信奉することに自身の意味を見出してる点で少し異なるようですが、根本は同じなんですね(28巻113話)
-身のほどをよく弁えているようだな フロック…
-銃口でも向けない限り 貴様らのような小便小僧など
-誰も相手にしないと考えているのなら それは確かだ
お前は特別じゃない、私と同じ傍観者に過ぎないんだ。お前がどんなに頑張ってもイェーガーのような「特別」にはなれないんだ。キースはそう言ってるのかもしれません。ハンジと時を同じくして、彼もフロックとかつての自分を重ねているのでしょうか。それは特別ということにこだわり、何かを変えられると信じ込んで傍若無人に振る舞ったかつての自分自身への哀れみにも似た感情かもしれません。あるいは、自分と同じように特別を他人に見出しながらも自分の価値を諦めきれず、縋るかのようにその特別を持ち上げるフロックへの憐憫、またはその行動に自身との違いを感じているのかもしれません。
行動するということ。私は以前の記事で傍観者と行動者という区別を用いたことがあるのですが、キースの言う傍観者という概念は、そこに一つの解答を与えてくれます。
では、傍観者とは一体なんだったのでしょうか。傍から見てる人。もちろんその通りなのですが・・
キースの言うことを真に受けるならば、エルヴィンは特別だから何かを変えられ、自分は特別じゃないから何も変えられない。その後者を指して傍観者としています。
でも実は持って生まれたものや能力が異なるということではないんです。
まず、キースは無能であったと言われがちですが、作中の表現を見るに必ずしもそうとは言い切れない感じがあります。かつてこんな寸評が描かれていました。
-シャーディス団長は突撃するしか能が無いって話だ
-そのくせ自分だけは生き延びちまうもんだからタチが悪いよ
実はこれ、”それしか能が無い”という部分を差っ引けば、最終的にエルヴィンが選択した戦術となんら変わらないんです。あの時エルヴィンは最善策として突撃を選びました。そしてタチが悪いかどうかはともかく、自分だけは(&まぐれ当たりさんもですが)生き残ってしまいました。それと全く同じことをシガンシナ戦の直前である71話でわざわざセリフとして言わせているんです。両者がやったことに違いは無いという伏線と捉えられるように思います。
そこであの作戦の意味するものを振り返ってみれば、エルヴィンが団長としての責務を果たすという裏の目的がありました。そんな作戦がキースがやっていたことと全く同じ。つまり有能であるかは別として、キースが団長としての責務を全く果たしてなかったとは言えなくなるように思います。そもそも二人が団長を務めていた状況も全く正反対といって良いですしね。調査兵団への風当たりも、壁外遠征の目的も違ってましたから、キースに関しては風評被害的な側面もあるかもしれません。
それはつまり、団長としてそれほど差があったわけではないということです。ハンジが憧れていたという設定もそれを後押ししているのでしょう。それでもキース自身が言っていた通り、両者の間には大きな隔たりがあるはずです。
キースに幻滅したハンジはこう言い放ちました。
-自分が特別じゃないとかどうとかいった…そんな
-幼稚な理由で現実から逃げてここにいる
エルヴィンとキースの違い、そして傍観者の正体とはまさにこれなんです。
キースの価値判断はいつも”自分が特別であるかどうか”という観点によるものでした。自分は特別だから何かをやれる、彼はそう思っていました。そして何もできなかった後には、自分は特別じゃなかったからできなかったと言っています。さらにグリシャやエルヴィンを指して、彼らが何かをできるのは彼らが特別だからと言っているのです。
ここまで噛み砕けばハンジが幻滅したことにも納得がいくでしょう。
要するに、できない言い訳なんです。
できなかったこと、やらなかったことを「特別」とかいうカッコよさげな言葉で飾り立てながら言い訳しているんです。誰に言い訳してるかって、自分自身です。それはつまり、自分ができなかったことを自分自身で認め難いということ。それを「特別」という言葉、さらに対になる「傍観者」という言葉で誤魔化して逃げているんです。
そもそも私は何もできなくて当たり前の傍観者だからできなかっただけなんだ。できる人は最初から特別な人なんだから、傍観者である私ができなくても仕方が無い。別に私がダメだったわけではない。といった具合です。
実際にもよくあるパターンだったりします。特別を才能とか天才とか能力なんかに言い換えれば、聞いたことあるような言葉に早変わり。
私は才能が無かったから〇〇になれなかった
私は頭がないから××に合格できなかった
私は特別じゃないから△△ができなかった
私たち読者は、キースと違ってエルヴィンの内面なんかも見てますから分かります。エルヴィンは確かに切れ者ですが、決して特別な超人などではなく、ただの人です。じゃあエルヴィンとキースはなにが違うのかって、エルヴィンは徹底して考えたり行動したりしながら、とにかく何かをやっただけです。エルヴィンも何度も失敗しています。例え失敗しようが、事前に考えていたことが裏目に出ようがただやり続けた、それだけです。結局やるかやらないかでしかありません。でもキースはできない言い訳をしてやらなかったんです。
ではなぜキースは言い訳をしてしまうのでしょうか。
ひとつ考えられるのは、キースの場合は調査兵団を成功させることが目的では無かった、ということだと思います。彼の本当の目的は一貫して”自分が特別であることを示すこと”でしかありませんでした。調査兵団を成功させるというのはあくまでその手段に過ぎません。
-誰も私を馬鹿にできる者はいなくなる
-皆が私の考えを理解し
-皆が私を認める
別に調査兵団じゃなくても何でも良かったんでしょう、他の人ができないことを自分ができさえすれば。かたやエルヴィンが世界の真実を知る、壁の外へ出ていくこと自体を目的としていたのに対し、キースの目的はただただ自身の承認欲求を充足することでした。言ってしまえば壁の外とかはどうでもよくて、それよりもなによりも成功して承認を得ることが大事だったということです。だから失敗した時、もっともらしい言い訳を見つけて自分の価値を少しでも守ることを優先したのでしょう。
〇〇をする。××を食べる。などなど、その行動自体が目的である時、当たり前ですが言い訳の余地は無いというか、する意味がありません。私たちはただそれをするだけです。言い訳をするのは、〇〇をしなければならない、××を食べなければならないといった、なんらかの理由で強制がある時に限ります。そして必ずしも自分がやりたいわけじゃなくても、やらないと評価が下がりそうな場合に言い訳が生まれます。後者の場合は行動自体も言い訳も、どちらも自身の評価のために行われているということになります。主体的な行動ではなく、評価を得たいという衝動すなわち承認欲求に突き動かされた行動なんです。傍観者とはよく言ったものです(24巻97話)
-でも…皆「何か」に背中を押されて
-地獄に足を突っ込むんだ
悲しい哉、その行動が上手くいって他者の承認を得られたとしても残るのは一時的な満足だけ。より大きな承認を継続的に必要とするようになってしまいます。当然それは義務のようになっていき、しかもやめることは許されません。やめた時に待っているのは自己否定の雨あられ。途中でそれが”やりたいこと”に変わってしまえば良さそうに見えますが、なかなかそう上手くもいきません。もともと別にやりたくなかったことが無理してでもやらなくてはならない義務になり、それができないなら自分は価値の無い存在になるという進退きわまった状態、まさに地獄です。
キースのみならず、この人も同様の地獄に落ちました(25巻100話)
-俺は英雄になりたかった…!!
やっぱり特別でありたいのです。承認欲求と呼ばれる「何か」に突き動かされた彼は、相反する感情を誤魔化しながらも遂行することに専念するうち、心がズタズタになってしまいます(25巻100話)
-もう…嫌なんだ
-自分が…
-俺を…殺してくれ…
-もう…消えたい…
自身の存在の根本的な否定。だからこそイェーガーさんが対称になってくるのでしょう(24巻97話)
-ただし 自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ
-その地獄の先にある何かを見ている
誰にも理解されず、誰からも認められなかろうが、悪者だと誹りを受けようが、そんな地獄が待っていることを知りながら自ら足を踏み入れます(29巻117話)
-…なぜ足掻く?
生に足掻いていると捉えられようが、それで仲間を失おうが、自ら定めた目的に向かってただそれをする。つまりそれが行動するということであり、生きるということなのかもしれません。
-特別じゃなきゃいけないんですか?
-絶対に人から認められなければダメですか?
なぜ特別でありたいのか、なぜ人から認められる必要があるのか。それは自らが存在することに自信を持ちたいからです。裏を返せば自分が存在してていいのかどうかに不安があるんです。それは人間の性質でもあり、社会構造によるものでもあるでしょう。そうして世界には承認欲求が溢れかえっています。多くの人が承認欲求という名の「何か」に背中を押され、別にしたいわけでもないことに時間もお金も、そして心も注ぎ込んでいます。
でも実際はカルラが言っている通り。カルラは疑問の形で言ってますから、もっと分かりやすいように身も蓋もない言い方をすれば、私たちは誰一人として特別な人間なんていません。特に意味もなければ価値もない、ただの肉のかたまりです。しょせん60億分の1の細胞のようなものでしかなく、私たちの身体の細胞のたった1個がそうであるように、私たちそれぞれの人生にはたいした意味なんてありません。人類が何千、何万年に渡って人生の意味について考え続けてきても、明確な解答がいまだに得られていないことがその証左でしょう。そりゃ答えも出ないはずです、最初から無いんですから。
作者はエルヴィンにはっきりこう言わせています(20巻80話)
-まったくもって無意味だ
-どんなに夢や希望を持っていても
-幸福な人生を送ることができたとしても
-岩で体を打ち砕かれても 同じだ
-人は いずれ死ぬ
人から認められようが認められなかろうが、何の意味もありません。ただ生きて、死ぬときは死ぬだけ。その後に彼は”意味”の話を続けはしましたが(20巻80話)
-ならば人生には意味が無いのか?
-そもそも生まれてきたことに意味は無かったのか?
(中略)
-いや、違う!!
残念ながら、これは嘘です(20巻80話)
-そのためにはあの若者達に死んでくれと…
-一流の詐欺師のように体のいい方便を並べなくてはならない
あれは初めから「体のいい方便」なんです。一流の詐欺師というのは嘘が上手い人のこと。では上手い嘘はどうやってつくかといえば(27巻110話)
-上手い嘘のつき方を知っとるか?
-時折 事実を交ぜて喋ることじゃ
エルヴィンは若者達を特攻させるために詐欺師をやったわけですから、特攻に向かわせる部分、すなわち意味を託すことについて語った部分が嘘ということになります。そして事実を交ぜているとするなら、その反対である意味は無いとしているくだりが事実ということになるでしょう。
作中にあるとはいえ、あんまり人生に意味が無いなんて繰り返してると気持ちが暗くなってしまわれるかもしれません。でもそうではないんです。作中にはもう一人「無意味」に言及している人物がいます(22巻89話)
-どうもこの世界ってのは
-ただ肉の塊が騒いだり動き回っているだけで
-特に意味は無いらしい
-そう 何の意味も無い
-だから世界は素晴らしいと思う
ユミルは無意味だからこそ素晴らしいんだと言っています。それはこういうことだと思います。
例えば、私たちの人生にはなにか意味があると仮定してみましょう。
その場合、巷によくあるように私たちは自分の人生の意味探しとやらをしなくてはいけないかもしれません。
幸いにも意味が見つかったとしましょう。私たちはその瞬間から、見つけた意味に適った、意味のある人生というのを送らなくてはならなくなります。
私の人生の意味とやらが、私が思い描くような意味では無い可能性も多分に存在します。でも、もし望むような意味じゃなかったとしても、その意味通りにしなかったら「意味のある人生を送ってない」ことになるでしょう。
あるいは、その意味とやらが見つからなかった場合、もしくは探さなかった場合、やはり私の人生は「本来の人生の意味を成さなかった」ということになるのでしょう。
他にやりたいことがあっても、人生の意味に反することだったらしてはいけない感じになりそうです。
果たしてそこに自由はあるんでしょうか。
人生の意味という名の、あらかじめ決まったレールが敷かれているだけ、ってことにはならないでしょうか。
こんな人生の意味、あった方がいいんでしょうか?
だから無意味であることが素晴らしいんです。しかも幸いなことに、実際に無意味なんです。今までどんな天才も、人生の意味はこれですって答えを出すことができていないんです。それはつまり、好きなことをする自由しない自由があるということです。
-なぜ凡人は何もせず死ぬまで生きていられるかわかるか?
-まず想像力に乏しいからだ
-その結果 死ぬまで自分の命以上の価値を見出すことに失敗する
-それ故クソを垂らしただけの人生を恥じることもない
言葉にはそれを発する人の心理が表れるもの。可哀そうなキースは自らの価値を見出そうとして失敗し、何も得ることができなかったばかりか、自己否定という地獄に落ちてしまいました。一番の失敗は、自分の価値に囚われすぎてしまったことでしょう。想像力が乏しかったので自分が追い求めてる特別さとか価値が意味するものに気付けず、実在しないものを必死に追うことだけに人生を費やしてしまいました。結果、何もない人生、クソを垂らしただけの人生を送ることになったのです。
彼は失敗してもなお現実から目を逸らし続けましたが、心の奥深くではわかっているんだと思います。
だから、涙が溢れてくるのでしょう。
本当は、他人から見てどうとかではなく、ただ自分がしたいことをすれば良かっただけなのに。
-暴言-
宗教というか思想系なんかで、人生の意味を探すのが人生だ、なーんて言ったりとかもあるんです。まぁ言いたいことは分からんでもないんですが、生きてる意味を見つける頃には年食って人生ほぼ終わってますよねって。それこそ人生の無駄です、無駄。
そもそも、人生の意味や自分の価値を探さ「なくてはならない」時点で、何かに背中を押された傍観者の道です。
ちなみに自分の価値を確認したい衝動ってのは無意識から湧き上がってくるようなものなので、けっこう手強いはずですし消し去るのは難しいです。意識は知らぬ間に自分の価値や人生の意味があるはずって信じ込まされてしまいます。なので自己肯定感の問題とかもあるとはいえ、結局これは本人が気付くことができるかどうかだと思います。
まぁキースみたいな人をいまさら諭そうとは思ってないので、年寄りは傍観者のままでも仕方がないなとは思うんですが(うちの父も筋金入りの傍観者だと思うし笑)、でもでも作者がこういうテーマを少年誌に持ってきたあたりはメッセージなんだろうなぁと思わずにはおれません。
-暴言おわり-
本日もご覧いただきありがとうございました。
written: 12th Aug 2019
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