進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

102 最新話からの考察 128話① 「正義」の黄昏


みなさんこんにちは。

 


ここへきての容赦ない展開ごっつぁんでした。ダズとサムエルが出てきた時はいや~な感じがしたんですけども、まさかあれほどとは思いませんでした。ともかく今回はシンプルに要点ひとつだけです。

 

 

 

 

 

この記事は最新話である128話までのネタバレを含んでおります。さらに登場人物や現象についての言及などなど、あなたの読みたくないものが含まれている可能性があります。また、単なる個人による考察であり、これを読む読まないはあなた自身に委ねられています。その点を踏まえて、自己責任にて悔いのないご選択をしていただけますよう切にお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。注記の無いものは全て別冊少年マガジン2020年5月号・128話からのものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[「正義」の黄昏]

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誰が裏切り者かなんて話をしても意味がないかもしれません。むしろ副題はそういうことを言っているのではないかと思いながらも。

 


現在のエルディア国(=パラディ島側)という視点から言えば、ダズとサムエルが言っていた通りに”英雄”たちは裏切り者です。そしてその英雄さんたちから見れば、暴虐無人な行為を続けるフロックとそれに与するダズやサムエルは裏切り者と言えなくもないでしょう。この構図はアズマビトとフロック並びにイェーガー派の間にも同じことが言えると思います。

それは結局、敵か味方か、どっち側か、というだけのことでしかありません。でも人間の習性として、いったん自分の側だと思い込んでいた相手が自分と異なる側だと感じた時に、「裏切られた」という感情と共に通常よりも割り増した憎悪をたぎらせるようです。事実だけを追えば、自分が勝手に同じだと思い込んで、次にそうでないと思い込んだだけなのに。しょせん人間は自分の都合でしか考えられないし、感情でさえも例に漏れないことがよく分かります。

そりゃあいつまで経っても争いがなくならないわけです。

 

ここまでは当たり前と言えば当たり前のような話なんですが、128話はさらにエグい事実を私たちに突き付けているようです。

 

 


敵だとか味方だとか、どっちの陣営だとかいう視点はいったん脇に置いておきます。

 

 

 


そこで、もっともっと尊くて美しいはずの「仲間」という視点だけで見た場合。

 

 

 

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-待てって!!
-落ち着けよ二人共!!

思い入れなどを完全に排して見れば、最初に「仲間」を騙しにかかったのは、つまり仲間を裏切ったのはアルミンとコニーなのは疑いようのない事実です。さらにダズとサムエルはもともと疑いのあった彼らに対しても「仲間だから」ということで話を聞く姿勢を見せていますが、それでもなんとか騙し通そうと一切の真摯な話し合いをするそぶりも見せなかったのはアルミンとコニーです。これが事実。

もちろんアルミンとコニーは現状を打破するためにそうする他なかったのも同じように事実です。でもそれはそれ、これはこれ。いずれにしても、そうせざるを得なかったというのもやっぱり自分たちの都合でしかありませんし、「だから仲間を騙しても良い」というのは理屈が通らないはずです。

 


これが、仲間想いで心優しくて平和を愛する正義の英雄がしたこと、ということなのでしょう。正義だのなんだの言ったとしても、全ては自分の都合に過ぎないということだと思います。今まで長いことかけてやんわりと描かれてきていたとは思いますが、ここにきて「正義」という美しく聞こえる言葉の化けの皮を直接的に剥がしにきた印象があります。正義のために騙す。平和のために殺す。これには私も「正しい」という言葉をうかつに使えなくなってしまいますです。

 

 


そして「自分の都合」という言葉こそ、128話をひとことで言い表すのに一番ふさわしいのではないかと思います。

 

 


アニが前回危惧していた通り、104期とマーレ側の方針の違いがあらわになりました。それを受けて彼女はこんなことをこぼしています。

 

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-あんた達ならあの日…
-壁を壊すことを選ばなかっただろうね
-私達と違って…

アニたちは自分たちのため、自分たちの都合で、犠牲になる人があっても壁を壊す道を選びました。でもきっとあんた達ならば自分たちの都合よりもみんなの方を優先するかもしれないと。それを聞いてライナーは気付きます。

 

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-やっぱりオレは…
-お前と同じだ

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-あれは… そういうことか…

エレンも自分たちが生きるために、自分の都合でレベリオを攻撃しました。その点においてエレンはライナーたちと全く同じことをしています。104期は自分の都合で踏み潰そうとしない点でエレンやライナーと異なります。だからライナーは、自分では「世界を救うため」とか「(世界の)英雄になりたかった」などと理由を付けていたけれども、実のところはただ自分自身のため、自分の都合でしかなかったことに気付いたのでしょう。

そんなライナーから見れば「自分の都合を差し置いても関係ない人を巻き込まないようにすること」こそが104期にとっての「自分の都合」であると見えるでしょうから、こちらの都合に合わせなくていいという感じかと思います。自分たちは自分たちの都合で動くし、お前たちはお前たちの都合で動けと。だからこそ104期は手を出さなくていいと、むしろ手を出すなと言ったのでしょう。アニも同じようなことを言ってますね。前話の時にお話した相手の尊重がここにも表れているように思います。


さらにマガトが後追いします。彼がイェレナに対して急に実力行使を始めたのは、今まさに自国が蹂躙されつつあるからという自分の都合です。だからこそ自分の都合を押し通そうとしたことがガビに土下座までさせてしまったことに思い至り、バツが悪くなったのだと思います。ですのでその振り返った過去に関して104期たちに謝りながら、「正義」という言葉に止めを刺していきます。

 

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-軽々しくも正義を語ったことをだ…
-この期に及んでまだ…自らを正当化しようと醜くも足掻いた
-卑劣なマーレそのものでもある自分自身を直視することを恐れたからだ

自分の都合でやっていたに過ぎないのに、それを「正義」というまやかしの言葉で飾ることによって、まるでそれは世界のどこでも絶対的に正しいことであるかのように話を全体化し、行いを正当化していたことに気付いたのでしょう。それを悟ったマガトはエレンの行為に対しても、

 

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-愚かな行いから 目を逸らし続ける限り
-地獄は終わらない

決して「悪い」とか「正しくない」という表現は使わずに、ただ「愚かな」行いだとしています。そして、

 

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-我々の愚かな行いに…
-今だけ目を瞑ってくれ

エレンはエレンの都合で動いているだけという理解と、それに対する自分たちも自分たちの都合で動いているに過ぎないという理解によって、愚かな行いを止めようとする自分たちの行いも同様に「愚かな」ものだとして全く同列に語っているわけです。

 

正しいとか悪いとかじゃなくて、どちらに非があるとかでもなくて、ただそれぞれの都合がぶつかり合ってるに過ぎないってことなんでしょう。ライナーと全く同じような気付きを得ているわけです。ライナーの気付きとマガトの気付きが同じ背中からの構図になっていることからもそれが分かります。

 

人は得てして「正義」とか「世界のため」といったご大層な名目を掲げて卑劣な行いをします。「正義」という言葉は人々を麻痺させ、「正義」の旗印の下に数々の理不尽な虐殺がなされます。そこに遺恨が生まれ、被害を受けた側は再び「正義」を掲げて報復という名の虐殺をします。これでは争いが無くなるはずもありません。だってそれは「正しい」ことなのだと人々は思いたがって、あるいは思い込んでやっているのですから。戦争の話だと実感が湧かない感じがしますが、SNSなんかの吊し上げとか冤罪事件もこれと同じようなことです。

でも実のところは正義も世界がどうたらも関係無くて、誰もが現在の自分のためにやっているだけです。言ってしまえばその「自分のわがまま」のために全く関係ない人にひどいことをして、自分は「正義」を隠れみのにしてそのひどい行いから目を逸らしているわけです。それをしてたらやっぱり同じことの繰り返し。だからこそ自分が決して「世界」や「正義」のためではなく自分の都合だけで動いてること、相手もまた相手の都合で動いているだろうこと、その理解を持つことで初めて相手の都合に耳を傾けることができるし、まさに今こうして敵同士だった者が互いに分かり合いつつあるじゃないかと。少なくとも我々はもう互いに虐殺しようとは思わないだろうと。だから今だけは、今までの尻ぬぐいで愚かな行為をしなくてはいけないけど見逃してほしい、そしてこれが終わった暁にはこのことを後世に伝えることで一人でも多くの人が「正義」というまやかしから逃れられるようにしよう、ということだと思います。(以前の 050 世界を知らない という記事にも正義とかについて書いています。アニの考え方などなど今回の話と重なる部分も多い記事なのでご興味があれば後でご参照ください。)

 

 


なんかいい感じに相互理解が進んでいるように思います。ただ・・

 

 

 

アルミンはそれに、こう返しています。

 

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-…断ります。
-手も汚さず 正しくあろうとするなんて…

 

彼は、正しいか悪いかというところに、いるんです。

 

 

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え? 

 

私もびっくりしました。まさかあの会話の流れで正義にまつわる言葉が出てくるとは思いませんでした。

 


アルミンは「正しくあろう」としている、ということは、その「正しくある」ためにしたことが仲間を騙すことになります。あ、勘違いのないよう先に言っておきますが、別に非難しようというわけじゃありません。騙すことであれなんであれ、それは目的のために手段を選ばないということであり、とても合理的なやり方だと思います。そもそも彼の作戦が「嘘をついて自分の都合の良いように事を運ぶ」感じなのは今に始まったことではありませんから、そこには驚きもありませんしどちらかと言えば相変わらずだなぁという印象でした。

 

そうそう、たぶん変わってないんです。


「正しくありたい」と思うということは、この世界には絶対的に正しいことと悪いことがあると彼が思っている(思い込んでいる)ということです。絶対的に正しいというのは、もちろん誰にとっても正しいということです。でも実際はそんなものは存在しなくて、それぞれが自分に都合の良いようにあるだけということをマガトが言っているのは前述した通りです。付け加えるならアルミン本人がやっていることも”私たちの目から見れば”絶対的な正義などではなく、彼自身の都合でしかないことは言うまでもないことでしょう。

でもアルミンは、前回のイェレナと同じように自分も他人も一緒くたにして「僕にとっても他のみんなにとっても同じ正しいことがあって、そうあるべきだし、自分はそのように行動している」と思っているようです。

それはつまり、彼は自分が今しようとしていることを「正しいこと」だと思っているんです。もちろんそれは当たり前みたいな話ですが、さらにそれは絶対的に正しいことですので、たとえばダズやサムエルにとっても自分がやっていることが当然正しいと思っているはずなんです。ただダズやサムエルはその正しさをまだ理解していないだけ、みたいな認識だろうと思います。

そういう背景があるからこそ「ほら僕の言った通りだろ?」って、「僕の言うことを正しいと認めているから~」ってセリフが出ていた、ということになるのでしょう。まぁ忌憚なく言えば「自分の正しさの押し売り」とも言えるかもしれません。

 


アルミンが「正しさ」を口にしたセリフの流れだとまるで104期の総意のようにも見えるのですが、少なくともミカサがあの場にいるのはエレンに虐殺をさせたくないからでしょうし、おそらくジャンも正しくあろうとか世界を救おうとは思っていないように思います。アニやライナーは言うに及ばず、それぞれがそれぞれの目的があってあの場に集まっています。でもたぶんアルミンはあの場にいる他のみんなも自分と同じように「正しくあろう」と、「世界を救おう」としていると思っているのでしょう。

実はコニーだけは少しあやしくて少し前に「世界を救う」発言をしています(ミカサの表情が意味深です)(31巻126話)

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ただ前回イェレナが「世界を救う」ことを揶揄した時に思い当たるような反応をしている描写がありますので(32巻127話)

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現状はっきりとは分かりませんが今回吹っ切れたとか葛藤の真っ最中という感じかもしれません。そもそもコニーの本来の目的は明確で「母ちゃんに誇れる兵士」であるために困っている人を助けたいということであって、彼がダズとサムエルを撃ったのもアルミンがまた撃たれそうだったからでしょうし、彼の言う「困っている人」というのはたぶんエレンのことを言ってると思うんですよね。含まれているというか。だとすれば本人が本当の意味でそこに気付くかどうかでしょうか。もしかしたらコニーは間で揺れ動くポジションかもしれませんが。

 

そうやって考えてみると、あの場で「正しくあろう」、すなわち「正義をなそう」とか「世界を救おう」っていうことが明確な目的なのはアルミンだけということになる可能性があります。

 

 


そんなちょっとした認識の違いはどうでもいいとお思いになるかもしれません。

 

 


でもこんなことも考えられるかもしれません。

 

もともとエレンやライナーも敵は悪魔で自分は正義だという観念を持っていました。そして自分の正義を信じて疑わず、人類や世界のために必死で戦っていたわけです。これは現実でもほとんどの人が子供の頃に思い抱く考え方です。他者と関りが出てきた頃に、他者が何を考えているかは直接見ることができないため自分を参考にして似たようなものだろうと推測するからです。自分を相手に投影して同じようなものと感じているということは、自己と他者の境界が曖昧だとも言えます。そんなわけで自分が正しいと思っていることは当然他人にとっても正しい、つまりこの世界には誰にとっても正しいものが存在するとなります。

でもエレンは敵も人間であることを知り、敵も自分なりの正義に従って戦っていただけだということを知りました。それは自分の信じていた正しさが自分においてのみ通用するものだったと知ることでもあり、さらに実際は自他の正しさが異なっていたにも関わらず、同じだと思い込んでいた今までの自分を俯瞰することでもあります。それはつまり他人は違うという事実を突き付けられそれを受け容れたことによって、相手の立場の理解へと繋がり、相手には相手の世界があるのだと尊重することを可能にしているわけです。自己と他者の境界がはっきりしたということでもあります。

前回ジャンとマガトがお互いの正義をぶつけ合って、でもそれはお互いに自分の都合をぶつけ合ってることでしかありませんでした。ただそれがきっかけとなって気付きがあり、相互理解の雰囲気が進みつつあります。しかもそれだけにとどまらず、マガトは世界や自国を脅かしているエレンの立場にさえ理解を示し始めているわけです。

でもアルミンは違うということなんだと思います。アルミンにとってはやっぱり正しいかどうかなんです。

だから今までも、自分が思う正しさと同じ考えならばこっち側(≒正義 ≒味方)だし、違うならあっち側(≒悪 ≒敵)という感じになったりしているのでしょう。そして正しいことというのは彼の中では絶対的なものですから、本当は嫌だとしても、もどす程の感情を抱えながら人を殺したりしても、人を騙したりしても、それが正しいことのために必要なのであればそれが正しい行動なのです。つまりそれを自分の感情に従ってやらなかったりしたら、自分が正しくないということになってしまいます。

だから正しいことをするには、なにかを成し遂げるには、時になにかを捨てる必要があるという考え方に繋がってくるのだと思います。


今回アルミンはベルトルさんのことを思い浮かべていましたが、おそらく彼は(12巻48話)

 

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-誰かがやらなくちゃいけないんだよ…
-誰かが…

って考えていたのではないかと思います。彼の矜持とピッタリはまりますし、少し毒のある言い方をすれば「正義」と同様に目を逸らすのに都合がいいからです。もしそうであれば今回のことは彼の考え方をますます補強した感じになりそうです。

 

 

 

さて、前回のミカサや今回のマガトも言っている通り、彼らは「エレンを止めよう」と思っています。要は愚かな行為をやり切ってしまわないように止めようとしている感じではないかと思います。コニーの言葉通り「困っているエレンを助けよう」という感じとも言えます。


もちろんアルミンも「エレンを止めよう」と思っています。でもそれが「正しくない」から止めようと思っているのだとしたら。

 


まずひとつ考えられるのは、彼は他のみんなも全く同じ「正しいこと」をしようとしているという認識ですから、その「正しいこと」へのアプローチの仕方が他の人とズレてしまった場合、冒頭に書いた「裏切られた」とまではいかないでしょうが、反感を覚えるかもしれません。少なくとも自分がその「正しくある」とか「世界を救う」という目的に対して最短のアプローチだと思える方法が思い付いていれば、他の人の意見に耳を傾けない可能性があります。これが、彼の目的が「正しくあること」であるという意味です。

さらにエレンは「自分の都合」でやっているという理解があるはずです。だから仮にアルミンが「世界が~」とか「みんなが~」などと言ったとしても的外れでしかないと思います。逆に、エレンがなにかを言ったとしてもアルミンにとっては自分の考えと異なるなら「正しくない」ことなので、聞く耳を持てないかもしれません。

 

実際そうやって話し合えるかはまだ分かりませんが、いずれにせよアルミンの「話し合い」が通じなければ、そしてエレンがそれでも「正しくない行為」を止めなければ、アルミンにとってエレンは「悪いこと」をしていることになります(8巻31話)

 

 

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-アニは僕にとって悪い人になるね…


じゃあ、悪い人が目の前にいたらどうしましょう。

 

 

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そりゃ、「(正しい)誰かがやらなきゃいけない」はずですよね。

 

 

 

 

今回のアルミンの作戦を見てたら、ふとシガンシナ戦を思い出したんです。あの時もアルミンが嘘をつく作戦を思いつき、そして失敗しました。そのすぐ後に、彼の一発逆転の策によって”でっかいやつ”を倒しました。

 

 

 


アルミン覚醒の時は近そうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


-ないしょばなし-

 

私は作者がアルミンをどっちに持っていくのか楽しみにしているところがあるのですが、今回を見た限りでは「変わらない」方へいきそうな感じがしています。もし彼がなにかに気付くとしても、本当に最後の最後になりそうです。

 

やっぱり英雄っていうのは自分の正義を信じて疑わず、一貫してなにかをやり遂げてこそ英雄、といったところでしょうか。

 

みんなが少しずつ変わっていく中でひとりだけ変わらないのがアルミンなのかもしれません。たぶん今回の回想の挟み方はそんなイメージが込められているんじゃないかと思います。ライナーはエレンが19歳の時(ライナーは2個上でしたっけ?)のこと、つまり最近のことで、アルミンは15歳の時のこと。もちろんベルトルさんの記憶は15歳の時しかないってツッコまれればその通りです。ただ隠喩のような感じで、アルミンにとって思い出すような強烈な出来事、つまり彼の”現在の”あり方の土台となっている出来事が15歳の時が主であるって感じでもあるんだろうなと。今回はサムエルも15歳当時の肉のことを語りだし、その場面ではそれ以降いろいろと経験してきたコニーとのギャップを感じさせました。つまり雑な言い方をすればアルミンもサムエルも15歳で止まっている部分がある感じ、まだそこかみたいな。それは経験によるものなので同期とか実年齢とか関係ありません。そこにギャップが生まれます。

ミカサのフラッシュバックも9歳で止まっている部分があるってことでしょう。まぁミカサはアッカーマンだったおかげで、それ以外の部分が小さい頃からやたらと大人びてますから別で考えた方がいいとは思いますが。たぶんそんな感じでアルミンは15歳で止まっている部分があるのだと思います。おそらくそれは可哀そうなことに、受け入れ難いかたちで他者と違うという事実を突き付けられてしまったためです。もちろん海の「夢」のはなし。

だから彼はいまだに他者との違いを受け入れられないまま。だから海以降のアルミンは幼稚に描かれているのだとも思っています。

 

そんなわけで、あまり大きな声では言いにくいのですが、アルミンは今の面子の中では少し浮いてるようにも捉えられます。ので、もしユダがいるとするならばアルミンかもしれないと思っています。おそらく今回の副題とあのセリフがそれを示唆しているかもしれないと思います。

ちなみにユダは裏切り者として有名ですが、一説には最も優秀な使徒でイエスの教えを真に実践できたのはユダだけとも言われます。そしてユダはイエスの教えに従った結果としてイエスを死に追い込み、またイエスはそうなることは分かっていてむしろ喜んで死んだとも言います。

ま、そういうことなのかもしれません。

 

-ないしょばなしおわり-

 

 

 

 

・・あとどうでもいい話ですけど、今回の記事のタイトルは「調査兵マガト」にするかどうか最後まで迷いました。

 

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さすがにやめましたけど。ちなみにこれたぶんピークちゃんのお下がりです。ほんとどうでもいいですね。

 

 

 

 

本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 12th Apr 2020
updated: none

 

101 世界観⑧ パンドラの箱


みなさんこんにちは。

 

今回はさっくり繋ぎのような記事でございます。

 

 


!!閲覧注意!!
この記事は 生命-I から始まる一連の記事の他、当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は22巻90話からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[パンドラの箱]

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突然ですが、私はギリシャ神話が苦手です。

 

唐突な自分語りで失礼しました。今まで何度か読破を試みまして、いい大人なのでエログロは全然問題ないのですが、話の展開があまりに荒唐無稽すぎてついていけなかったんです。ギリシャ神話をよくご存じの方にはもしかしたら分かってもらえないかなと。


そんなわけで知識としては部分的には知っているのですが、ニワカもはなはだしい感じです。でもそんなニワカでも知ってる好きなエピソードがひとつありまして、それがパンドラの箱です。

パンドラの箱という言葉自体も慣用表現として使われていますし、どなたも聞いたことあるのではないかと思います。あのエアロスミスがアルバムの名前にしてしまったほどの”伝説のラノベ”でございます。

 

またそのラノベっぷりが凄まじくてですね、たった一文で全てを言えてしまうほどです。

 


では、パンドラの箱、はじまりはじまり~!

 

本編:パンドラちゃんが神に「開けるなよ」と渡された箱を開けたら災厄が飛び出したので、慌てて閉じたら希望が残りましたとさ。


 fin.

 


以上・・なんです。

 

軽すぎですね、文字通りライトノベル。しかもですよ、

 箱を開けたら災厄だけ飛び出しました~。でも希望だけは飛び出さないで箱に残りましたよ~。

どうですこのご都合主義的ラノベ感、子供だましもいいところです。いや、いまどきの陳腐なラノベでもここまでのご都合展開はないのかもしれません。ラノベに失礼いたしました。


でも昔の人も同じようなことを感じたんでしょうか、パンドラの箱にはこんな解釈が存在します。

通常の解釈でも同様なんですが、もともとパンドラの箱は神が人間に意地悪するために渡したはずなんです。だから別解釈ではそもそも箱の中身は全て災厄であって、飛び出したのも災厄ならば箱に残ったのもたくさんあった災厄のうちのひとつなんですよ、といった感じです。なるほどこれでご都合の良さとはおさらばできました。

 

でも災厄が残ったのにそれが希望だというのはどうなるのでしょうか。話の趣旨が変わってしまいかねません。

 

そこでまず、全ての災厄が箱から飛び出した場合を考えてみます。人々はありとあらゆる災厄がこれから延々と続いていくことを知ることになるでしょう。私たちの未来は災厄に満ち満ちているんだと、そんな自らの暗澹たる未来を憂い絶望に暮れてしまうかもしれません。

でももしひとつだけでも災厄が飛び出さなかったならどうでしょう。人々はその災厄のことを知らない、その災厄が起こるかどうかも分からない、つまり未来に不確定な部分ができます。であれば人々はそこに「もしかしたら良いことが起こるかもしれない」と一筋の光明を見出すことができるかもしれません。つまり希望です。

不確定さがあるからこそ夢想や妄想をする余地があるし、それが希望となって未来を前向きに生きていけるのではないかということです。


いかがでしょうか、ほんの少し解釈の仕方を変えただけで深みのある物語に格上げされるかのようです。

 


タイムマシンを始めとする時間移動の話に人気があることからも分かるように、未来を知ることは人間の憧れのようです。それはもちろん過去を観たいというのもあるとは思いますが、それ以上に未来を知ることでより良い未来への選択を知りたいからではないかと思います。

 

であれば未来の記憶を見られる進撃は人間にとって夢のような存在のはず、です。

 

でもパンドラの箱が示唆することを考慮すれば、未来を見るということはそんな生半可なことではないのかもしれません。それは自分が未来を見られることを想像してみればなんとなく分かるような気がします。


もしも私が明日起こることを知ることができて、実際にそうなったとしたら・・

 

たぶん私は浮かれます。「なんてすごい力を手に入れたんだ!」とかって。

 

でも未来が見えることにもすぐ慣れてくるでしょうから、未来を変えてみるような試みをしそうです。たとえば、〇〇さんと会っている場面を見たから今日は会わないように行動してみよう、とか。

 

でも結局は会うことになってしまうはずなんです。

 

というのも、もし私が本当に未来を見る力を持っているなら必ず見た通りにならなくてはいけません。ならないなら最初から未来が見えていたわけではないことになります。未来を想像したのがたまたま当たったりしてたというだけ、それはつまり何の力も持っていない普通の人がしていることとなんら変わりありません。ですから未来が見えているなら、たとえそれを回避しようと思っても必ずそうなります。本当の未来視は、その回避しようと試みることまで織り込み済みのものになるはずです。

すると来る日も来る日も既に見た光景が予定調和のように繰り返されていくことになります。想像するに、おそらく私は何かに感動することも、何かを面白く思うことも、そして何かをしてみようなんて気持ちも全て失いそうな気がします。だって別に何をしようがしまいが、ただただ見た通りのことしか起こらないんですから。


そうやって考えてみれば、やはり未来が確定していないからこそ、未来を知らないからこそ夢や希望を持って生きていけるというのは言い得ているように思います。逆に言えば、未来を知ってしまうというのは地獄の始まりなのかもしれません。

 


以前の記事で、「今の道」の流れをこんな風に書きました。

 

ジークが連れて行った→レイス家を殺した→ジークが連れて行く

 

これをエレンの視点で考えてみると、上記と全く同様のことが起こっていると言えるかもしれません。


エレンとグリシャが繋がりを持ったことでレイス家を惨殺したのが845年でした。そしてその後ジークがエレンを連れて行くのが854年、つまり9年後です。

本来その9年間には無限の可能性や選択肢が存在するはずです。

でも言うまでもなく854年には必ずジークがエレンを連れていくことになります。これは”絶対に”そうならなければなりません、100%です。あまり使いたくない言葉ではありますが、絶対とか100%と言わざるを得ません。でなければ世界が矛盾してしまうことになります。

そして100%ジークが連れて行かなければならないということは、エレンは100%あの状況にならなくてはいけません。それはつまりエレンは100%単独行動をしなければいけないということでもあり、兵長は絶対に2回ともジークを取り逃がさなくてはいけないということでもあります。サシャが死んでなければ104期がもっとエレン寄りだった可能性が高いので、サシャも絶対死ななくてはいけません。銃弾が数センチ横にずれることさえ許されないかもしれません。

 

私たちが今まで読んできた845年以降のことは、全てそのようにならなくてはいけないのです(30巻121話)

 

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-…そういう未来だと決まっている

未来を見ることのできる進撃というのは、未来に縛られた哀しい存在だと言うこともできるかもしれません。普通の人間の観点から言えば「不自由の極み」と言っても過言ではないように思います。エレンがどこまで未来を見ているのかは定かではありませんが、あのセリフを思い出します(24巻97話)

 

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-自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ

マーレ編以降の、以前とはうって変わったようなエレンの憂鬱そうな表情を思い返せば、それはやはり地獄であるのかもしれません。でも自分はそれが地獄であることを分かっていてあえて踏み入れるということでしょうか。

 


ところで、

 

 

ここまでは未来を知ることの恐ろしさと、自由を求めるエレンに潜む不自由さについて書いてきましたが、最後にちょっとだけ別のお話をしたいと思います。

 


実は視点を変えて考えると、全てが決まっているのは当たり前だとも言えるかもしれません。

なぜなら過去から未来までの各瞬間において、さまざまな選択がなされた結果の世界が「今の道」だからです。別の選択をなされた道はもう「今の道」ではないというだけのこと。もちろんそれでも、進撃という存在にとっては未来視によって自らの未来を確定してしまうことには変わりありません。ところがよくよく考えてみたら面白いことが見えてきました。

 

進撃にとって未来は確定しているのですが、逆に過去は確定していないと考えられるんです。

 

私たちは普通、過去を変えることはできません。ですからその確定している過去に従って、なんらかの選択をしたりしなかったりして、それにより未来が変化していきます。でも進撃の場合は完全に逆転します。進撃は未来が確定していますので、その未来に従って過去に影響を与えることになります。エレンがグリシャに結びついたことで生まれた845年以降の歴史、これは今までの道にはなかった歴史であることは間違いないはずです。つまり過去が変わったということであり、過去が確定していなかったことになります。

これを因果で紐解くと、普通はまず原因が先にあって結果が後についてくるものです。つまり当たり前ですが、過去が未来を変えます。ところが進撃の場合は原因が後(未来)にあって結果が先(過去)にあることになります。


そしてそれを考慮すると、既存の分岐していくような世界観では上手く捉えることができなくなりそうです。文章での説明に限界を感じたので模式図を作ってみました(この画像のみ筆者制作のものです) 

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ある選択によって単純に枝分かれしていくのではなく、ある選択はそこから同時に生ずる未来から過去への影響と過去から未来への影響によって、まったく新しい世界を生み出していく感じになると思います。言葉としてはいわゆる分岐世界というより、まさに並行世界という言い方がぴったりくるでしょう。既存の分岐世界ではまず共通の歴史があった上で選択肢によって枝分かれしていく感じですが、並行世界では過去さえも今までの道と一致するとは限りません。言わばあるひとつの選択が、完全に新しい歴史、新しい世界を生み出していくようなものとなります。

そうであるなら、たったひとつの選択というものが持つ意味がとても重くなってくるように思います。普段の何気ない選択でさえ、真新しい世界を生み出し続けているのかもしれません。


そして改めて矜持というのはとても面白い概念だと思います。それは過去の経験や記憶などから生じるもので、以前の記事で述べたように過去からの縛りと言えるように思います。しかしそれと同時に、矜持は「未来の私」を設定させます。私はこうあるべきだ、こうあらねばならないと。

それは見方によっては未来からの縛りであるとも言えるような気がします。そしてこうあるべきだという考えは自ら選択肢を狭め、それはすなわち新しい世界が生まれる可能性を狭めている、といった捉え方もできるのかもしれません。

 


というわけで、次回は自由と選択を軸にした地鳴らしに関するお話です。

 

次回に続きます。

 

 

あー、未来を知るのって恐いこわい。

 

 

本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 20th May 2020
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100 世界観 ⓪ 始祖ユミル


!!閲覧禁止!!


この記事は”連載が終わってから”お読みください。これは言わば未来の自分への手紙を埋めておく的なアレで、連載完了後にお読みいただいて外れてたら指差して笑ってもらおうという企画です。ですのでそれ以前に読んでしまうと、みなさんがこれから得られるであろう驚きや楽しみを損なう可能性を孕んでいます。どうぞ連載の完了をお待ちくださいませ。それでも、と思ってしまった方も必ず次の記事 101 パンドラの箱 を先に読んでから、未来を覗くかもしれない行為について今一度自己責任にてご判断ください。

 

 

 

 

 

 

 

この記事は当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。注記の無いものは全て30巻122話からのものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[始祖ユミル]

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2020年の終わり頃(?)のみなさんこんにちは。それ以前のみなさんもこんにちは。今回は始祖ユミルについて今まで考えてきたことなどを詰め込んでみました。どうしても内容が最終回の予想みたいな話に繋がってしまいますので、それを先んじて書くにあたっていろいろと警告などさせていただきました。でもお読みになるとご自身で判断された以上、私はあなたの読もうという意志は尊重いたしますので楽しんでいただければ幸いです。それとこの記事に書いたことは他の記事では一切触れませんので、もしツッコミや疑問点などがあればこちらでお気軽にコメントしてください(ただし連載完了後にいつまでコメントをお返しできるかは不明です。)また、詰め込みすぎてクッッッソ長い上にめっちゃ早口みたいになってる点はご容赦ください。

それでもひとつだけお伝えしておきたいのは、全てが合っていることはないでしょうし、全くの的外れである可能性も普通にありますが、もし万が一にでも一部分、あるいは大まかにでも合っていたとすれば、私なら先に知ってしまったことを後悔するかもということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、101 パンドラの箱 の記事はお読みいただいてると思います。そちらでは未来が過去を生みだすならば、進撃の世界はよくあるツリー状の分岐する世界観ではなく、まさに並行世界という言葉があてはまるような世界観で見るべきではないかというお話をしました。そしてその並行する世界が意味する事のひとつとして、「今までの道」と「今の道」の過去が必ずしも共通しておらず、全く新しい世界である可能性があると述べました。

たとえば854年に視点を置いた時、ジークとエレンの行動によって845年における過去の行動が変わったことになります。そして845年のことがあればこそ、それ以降の出来事も起こり得ます。これを大局的に見れば、845年という過去から未来までの歴史が新たに創造されたと捉えることができます。

過去が原因となって未来を作り、未来が原因となって過去を生み出す。そうして創り出された真新しい世界が「今の道」であるとするなら、845年よりもっと前のことも、それこそ歴史の原点でさえも同様にして「今の道」の中で生み出されたのかもしれない、

 

そう考えた時に、それと疑わしい事柄がひとつあるように思います。

 

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-決めるのはお前だ
-お前が選べ

エレンがグリシャと結びついたのと同様に、これもそうであるかもしれません。その意味するところは、(21巻86話)

 

 

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これこそが作中の伝承で言われている「契約」であり、(31巻123話)

 

 

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この人こそが「大地の悪魔」である可能性があるということです。

 

 

このこと自体はネット上でもけっこう言われていた気がしますので、細かい理屈は抜きにしてそんなイメージを抱いている方も多いかもしれません。でも、ここにはひとつ大きな矛盾が存在しています。

 

なにせ、巨人の歴史に苦しめられていたエレンが巨人の歴史を生み出したことになってしまうわけですから。

 

エレン・イェーガーという人は言うまでもなく巨人の歴史の最たる被害者の一人です。巨人によって親や先輩、仲間たちや故郷を奪われました。そしてそれらは過去に巨人族の中で起こった様々な出来事、すなわち巨人の歴史によって、彼や周囲の人々が生まれた時から置かれていた立場が原因だったことが分かっています。

そんなエレンは巨人の歴史に苦しめられたので、それを終わらせようと考えました。このことを逆から考えれば、初めから巨人の歴史が無かったとしたら巨人の歴史を終わらせようとは”絶対に”思うはずがないですよね。無いものを終わらせる発想なんて出てくるはずがありません。

「私たちの選択によって異なる未来が待っている」といったような通常の世界観では、必ず元となる世界線が存在しなくてはなりません。この場合だったら「巨人の歴史がある」という元になる世界線が存在することで初めて「巨人の歴史を終わらせるor終わらせない」という選択肢が生まれるわけです。つまりエレンが巨人の歴史を終わらせようと思うためには、まず巨人の歴史が存在しなくてはいけません。それをエレンが生み出すというのは矛盾してしまいます。ですからエレンは大地の悪魔であるはずがないという結論が導き出されることになってしまいます。


でも今までみなさんには、まるで進撃と関係ないかのようなクソ長ったらしい説明にお付き合いいただきました。それによりみなさんは過去とか現在とか未来などと呼ばれているなにかが同時に存在し、それぞれの瞬間において同時に選択が行われることで、相互に影響し合いながら新たな世界を創り出すという観点をお持ちいただけてるかもしれません。

その観点から言えば、ジークの選択によってグリシャの選択が変わり、そのグリシャの選択によってジークの選択肢が生まれたことと全く同じことです。逆にその観点が無ければ、もし漠然と「エレンが大地の悪魔かも」と思ったとしても決してツジツマが合うことはないということでもあります。

 

そこで改めて強調しておきたいのですが、

 

ジークが連れていく(原因)→ グリシャが殺す(結果)
グリシャが殺す(原因)→ ジークが連れて行く(結果)

 

ここに原因と結果の円環構造のようなものができています。それをカタカナで言えばループなんですが、よく言われる”人生やり直し”みたいなループとは全く意味合いが異なりますので混同されないようご注意ください。同様に、

 

エレンが始祖ユミルに関わる(原因)→ 始祖ユミルが巨人の力を得る(結果)
始祖ユミルが巨人の力を得る(原因)→ エレンが始祖ユミルに関わる(結果)

 

ジークの件で描かれているのと全く同じ構造を見て取ることができます。この円環構造こそがこの作品における最大のキモと言えるかもしれません。

 

 

 

それはさておき。

 

 


まず、座標にてエレンが意識を取り戻した時、すでにジークは待っていました(30巻120話)

 

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ここでジークの言っていたことがどこまで本当なのかは分かりませんが、少なくともエレンが気付いた時にジークがそこにいたのは間違いありません。つまり正確な期間は分からないとはいえ、ジークはエレンより長い時間を座標で過ごしたと考えられます。でも彼らは同じ瞬間に座標へ跳んだはずでした。

そしてまた、彼らが座標で何日、あるいは何年過ごした感覚なのかは分かりませんが、その全ての期間が現実世界では一瞬のことでしかありませんでした。その同じ一瞬であったはずのエレンとジークでも、座標での時間が異なっていたということになります。

これらのことから、現実世界の時間と座標での時間には一切の関連性が無く、また人それぞれでも一致してないことが確認できます。


さて、始祖ユミルは現実世界での二千年にも及ぶ期間、座標にて巨人を作り続けていたらしいです。では仮にその始祖ユミルが現実世界に戻るとしたら、いつの時点に戻るのでしょう。

 

普通に考えれば、二千年前に戻る可能性が高いと考えられるのではないかと思います。

 

先に確認した通り、座標で過ごした時間は現実では一瞬であってもおかしくありません。そしてエレンよりもジークの方が座標にいた期間が長かったように、彼らより始祖ユミルが長い期間いたとしてもなにもおかしいことはないはずです。

 

 


次にもう一点、おそらく混乱を招きかねない部分を取り上げておかねばなりません。

 

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ここから続く場面を普通に解釈すれば、始祖ユミルはフリッツ氏をかばって死んだことにより座標に跳んだと読めるように思います。でもこれはミスリードが絡んでいるかもしれません。その理由は始祖ユミルの姿にあります。

 

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座標にいる始祖ユミルは三人娘を生んだ後の姿とは明らかに異なり、少女時代のユミルのままでした(以下、巨人の力を得た後の「始祖ユミル」と明確に区別するため、人間の頃の少女ユミルのことを「ユミ子」と呼ぶことにします。)

座標での姿がユミ子と同じならば、その時点で時が止まっているような感じに捉える方が自然なように思います。しかもそう解釈すれば、止まってる一瞬の間に座標でエレンもしくは進撃と「契約」を交わして「巨人の力を得た」というのが、作中の伝承とも不思議と重なり合ってくることになります。

 

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やはり始祖ユミルとエレンの接触こそが、巨人の歴史の原点を未来が生み出した瞬間だと考えた方がしっくりくるように思います。

 


巨人の歴史を終わらせようとして巨人の歴史を生み出したとしたら、それはまるで皮肉のような話ではあります。でも仕方のないことでもあったのかもしれません。

 

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当時のユミ子はまさに死と絶望の崖っぷちに立たされていました。まだ幼い彼女にどれほどの罪があったというのでしょう。でもそんな絶望の中で鈍く光るものがあったのかもしれません。この場面のユミ子が涙したのはきっと「死にたくない、生きたい」と想ったからではないでしょうか。

 

以前の記事で進撃とは始祖ユミルの「生きる意志」ではないかと論じました。その理屈に従って解釈すれば、「生きる意志」が「悪魔」に成り果てたということになります。

 

あらゆる生物は生きるために戦います。地鳴らしの根本は自分たちパラディ島のユミルの民が生き延びるために戦うということです。そして自分たちが生きるために、他者を犠牲にするということです。翻ってユミ子の境遇を想えば、彼女も誰かの犠牲だとかを考える余裕は無かったかもしれません。自らの命が脅かされている時、まずは自らの”生”を確保しようとするのが生き物の本能だと思います。もちろんそれはユミ子に限ったことではなく、誰だって、どんな生物だって、まずは自分が生きることを最優先として戦うのです。

でもその時、やっぱり誰かが踏み潰されたりします。あるいは、ある生物が生きるために他の生物が捕食されて命を絶たれるのも同じことです。誰かが生きるためには誰かが犠牲になっているのです。

 

生きる意志とは誰もが持っているとても大事なものですが、それはまた誰もが持っている鈍く光る凶器でもあるということなのだと思います(31巻125話)

 

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-そいつは俺の中にもいる
-カヤの中にも 誰の中にも
-みんなの中に悪魔がいるから…
-世界はこうなっちまったんだ

誰もが自身の生きる意志に従い、自分が生きることしか考えなかったとしたらどうなるのでしょう。自分が生きることは自分にとって大正義であることは間違いありません。ならば自分が生きるのに都合が悪い他者は悪者になってしまいます。であればその他者を「悪魔」と呼び、痛めつけ、蹂躙するかもしれません。そうすることで自分が生きられるからです。もちろんそこに遺恨が生まれ、それがさらなる遺恨を生みだしていくことになるとはいえ。

つまりそうやって悲劇の連鎖を生むもの、人をそのように駆り立てているものの根源とは、生きようという原初的な欲求だったということになるのだと思います。その欲求が時に集団への盲目的な帰属意識(正義の信奉)や承認欲求などへと形を変え、他者を踏みにじるような行動へと繋がっているのだと思います。そしてその時、他者から見れば自分はまさに「悪魔」と呼ぶにふさわしいものとなっているかもしれません。

 

だからこそ、自分が生きるための自分の都合だけではなく、相手の都合も考えないと止まらないよね

 

というあたりが、生きる意志たる『進撃の巨人』を表題に掲げたこの作品の主題なんじゃないかと思います。作者が決して生きる意志を肯定するばかりでなく、良い面と悪い面の両方から客観的に描き出していることからもそんな感じを受けます。そしておそらく「巨人」というのは、生きる意志に潜む凶暴性のメタファーなんじゃないかと思います。

 

 


ところで・・

 


先ほどはサクッと流したのですが、二つほどひっかかりそうな部分があるはずなので話を巻き戻します。

 

まず一点。座標の始祖ユミルがユミ子の時点で止まっているものだとするなら、巨人の力を得てから三人娘を生んだあの始祖ユミルは一体なんなのかという問題が残ります。

さらにもう一点。進撃が大地の悪魔だったとするならば、あの古生物は一体なんだったのかという話にもなってきます。

 

この二点を合わせて考えていきましょう。


まず現実的に考えて、生きる意志がどうこうしたからって人間がいきなり巨人になるなんてことは起こり得ません。作中でも他国に普通の人間がいることから同様と考えられますので、実際的にはあの古生物との接触が原因であることは間違いないと思います。

 

そこでまず、あの古生物について少しおさらいしておきましょう。

 

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この木とあの古生物がユグドラシルとニーズヘッグをモチーフにしているのはほぼ間違いないでしょうが、それはいいとして。

まずここから読み取れるのは、この木だけがこの森の中でも異常に長命だということです。あるいは異常に成長が速いという可能性もあり得ますが、ニーズヘッグをなんとかっていう古生物に似せて描いていることから、これは古生物だよ、つまり長命だよと主張されていると考えます。

なぜ長命なのかと考えてみれば、あの古生物が根っこに寄生しているからだろうという推測が当然のように成り立ちます。そこから逆に、他の木々にはあの古生物はいないだろうという推測もできます。

そんな他では見られないような古生物がここだけに存在しているとすれば、あの地底湖というか水たまりにはかなり古い水質が保たれているかもしれないと考えられます。原初の海は言い過ぎだと思いますが、近い感じかもしれません。まぁ水質自体はどうでもいいのですが、なぜあの古生物が生きていけるような環境が保たれているかといえば、あの木が守っているような感じなのだろうと推測することができます。

 

つまり、木と古生物はお互いがお互いを支え合う共生のような関係にあると考えられます。

 

そして森の中でもずば抜けて高いあの木は、相当長い期間をその共生関係によって生き延びてきたと思われます。人間の尺度で言えば不死に近いとも言えるかもしれません。ところで寿命というのは生物が進化の途上で獲得した”能力”です。あくまで獲得した能力であって、最初から当たり前にあったものではありません。微細な生物や細胞を含めれば寿命を持たない生物の方が多く、寿命を持つというのは実はマイナーな能力です。より原初に近いであろうあの古生物が不死だったとしても、そんなに不思議なことでもありません。

 

 

次に、以前 生命 という記事群で書いたことを思い出していただけたら幸いです。

当該記事では、ユミルの民は人間ではなく巨人族と呼べるようなものと強調することから始まり、失楽園を例にそれまで知性を持たなかったものが知能を得るということや、社会性昆虫などの生物における個体そのものに機能を分担させる仕組み、そして共生をキーワードにしてミトコンドリアにまで生命の起源を遡りました。(ただし大地の悪魔の呼称に関してはピントが外れていました。あと鳥そのものも関連してこなさそうなので、そのあたりは忘れてくださって結構です笑)

 

実際の本編ではミトコンドリアまで遡ることはありませんでしたが、記事でミトコンドリアとして書いていたことをそのままあの古生物に置き換えて考えると色々とツジツマが合ってきそうです。

まず、あの古生物と人間であるユミ子が、共生のような関係になって巨人族の血統が生じたことは誰の目にも明らかだろうと思います。そうして出来上がった始祖ユミルですが、それがユミ子なのか古生物なのか半々なのかは答えが出なさそうですので、とりあえず混じったようなものとしておきます。そこで古生物部分の視点に立つならば、それにとっては初めて人間という生物や、その人間独特の知能というものに触れることになります。そんな感じで、今まで人間や知能というものを見聞きしたことがなかった者が初めてそれを知り、学習していってると考えてみると、様々なことが思いがけず綺麗にはまってしまいそうなのです。

 

ぜひ古生物になったつもりで、初めての邂逅をイメージしてください。

 

 

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-フリッツの名の元
-憎きマーレを滅ぼせ

「ああなるほど、この宿主はフリッツという人間の命令を聞くのが役割なのか」

 → フリッツ王家の命令が絶対であるというルール

 

 

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「ああなるほど、この人間という生物は13年たったら不死であっても生きる意志を失って死のうとするのか」

 → ユミルの呪いと呼ばれる、力の獲得後13年で死ぬルール

 

 

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「ああなるほど、この生物は祖先を食べることによってその能力を引き継ごうとするのか」

 → 巨人化能力の継承ルール

 

 

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「ああなるほど、人間というのは同じ種であっても余所の人間は殺して、自らの血統の子孫を増やすのが生存戦略なのか」

 → 民族浄化

 

同種間での直接的な殺し合いというのは生物界ではマイナーですので、他の生物から見れば人間は生きるために同種と戦う特徴があると捉えられると思います。他の生物は戦うといっても、基本的に他種を一方的に捕食するか、他種の捕食から身を守ることがほとんどです。同種殺しっていうのは人間の特殊な一面と言えるんですね。また、生きるためには同種である人間を殺すという理解があったとすれば、「戦わない=人間を殺さない」ことは「生きるための行為をしない」と同義ですから、不戦の契りでの副作用にも繋がってくるかもしれません。


こんな具合に古生物の視点から見れば、「人間という新たな宿主はこういう風に種の存続をしているのか」と学習しながら、新たな共生生命である「ユミルの民」の性質を決定していってる感じに見えます。そして人間の目から見れば不可思議なものでしかなかった巨人の性質に、ことごとく綺麗に説明が付けられてしまいます。

 


少し余談っぽいものを挟みますが、ユミルの民が人間体から巨人体に変わるというのは、おそらく意識と無意識の綱引きのメタファーでもあるんじゃないかと思っています。

無垢巨人というのは何かを考えるでもなくただただ行動しているように見えます。少し言うのを憚られる話ではあるのですが、無垢巨人の挙動が脳に損傷を負った人間の挙動と似た感じであることは誰もが感じていたのではないかと思います。たとえば私たちが背筋をピンと伸ばして立ったり、腕をまっすぐ規則正しく振って歩いたりするのは、理性によってそのように自分の身体を律しているからです。気を抜いたらだらしない姿勢をしていたなんてのもよくあることですし、神経などを損傷すると思うように身体を律することができなくなります。私たちは意識的にちゃんとした姿勢を取ろうとし、そうでない巨人のような挙動を珍妙なものとして見ていますが、人間から理性や意識を奪ったら他人からどう見えるかを気にしなくなって、それこそ巨人のような挙動になってしまうかもしれません。

さらに単純な生物や知能を持たない生物がそうであるように、ただただ捕食を繰り返して生きているだけみたいな様もまさに本能によるもの、つまり無意識的な行動と考えられます。でも人間は理性を伴う知能を持っていますから、集団の中でどうあるべきかといったことを考えながら行動しています。理性によって本能を押しとどめているわけです。それがユミルの民の人間体であり、もちろんそれは人間であるユミ子由来であると言ってよいだろうと思います。

でもフリッツ氏は巨人であることを有り難がって、「巨人の力を得たい」という意志の表現として始祖ユミルの肉体を食させました。だから肉体を食うことが巨人の力を得ることに繋がったのでしょうが、その巨人の力とは古生物由来のものですから、古生物がまさに寄生した箇所である脊髄を食すること、つまり脊髄液の摂取がトリガーになったということだと思います。

これらを俯瞰すると、意識を持った人間体(≒理性)から無意識の巨人体(≒本能)への変化という図式になっていると思います。

私たちは普段、意識だけを主体にして考えながら生きている感覚が強いと思いますが、今までの記事でも書いてきたように無意識の影響というのは計り知れないものです。それは人間の行動もおよそ全ては生きること、すなわち自らの種を保存することに基づいていることからも分かります。たとえば三大欲求と呼ばれるものを思い浮かべてみれば、そのどれもが衝動であり無意識から湧き上がってくる欲求です。私たちはそれを理性によって抑えたり、やっぱり抗いきれなかったりしますよね。このように理性と本能、あるいは意識と無意識は常に綱引きをしているような感じで、それが人間体と巨人体に投影されているのだろうと考えます。

そういう意味では知性巨人というのはまさに中間にあるわけで、ユミ子側(意識)でも古生物側(無意識)でもなく、まさにユミ子と古生物が混じり合った始祖ユミルそのものの一部と言えるように思います。アッカーマンは人間体のまま巨人の力を使えるわけですから、中間よりもだいぶ人間寄りなイメージでしょうか。

 

閑話休題

 

話を戻します。古生物が人間の性質を学習していってるようだと書きましたが、記憶や経験などを元に様々なルールを作っていくというのは超自我の役割そのものです。そう考えると「共生生命ユミルの民」のルールができていくことは、古生物にとっての超自我の獲得であり、ユミルの民全体としての超自我の発達とも捉えることができます。超自我は心の三要素の中でも一番最後に生じると考えられていますから、原初的な欲求であるエスしか持たないであろう古生物が、初めて超自我を持ち得る高い知能を得たと考えるとピッタリはまってきます。そしてそれがユミルの民全体に影響を及ぼすということは、「道」というのはひとつの集合体的な生命としてのユミルの民の心のようなものでもあり、ユミルの民の歴史というのはその心が葛藤しながら成長していく心の動きの具象化のように捉えることができると思います。

ただし心の要素であるエスの役割をエレンが、超自我の役割をアルミンが持つなんてのは人間の視点では考えにくい話です。ところが地球上には社会性昆虫などのように「あなたの生涯は子供を産むだけの役割」「あなたは巣を作るだけの役割」「あなたは戦うだけの役割」ということを実際にやっている生物が存在しています。であれば心の性質も含めた生きるための機能を各個体に分担させることは”古生物の視点から見れば”別に不思議なことではないと言えるかもしれません。

たとえばあの古生物が一匹だけで生き永らえていたのならば、不死であるか単体での自己複製をするということになるでしょう。それは”性”という概念が無いことを意味します。そのためかは分かりませんが巨人は性器や性徴がありません。すなわち”無性”なわけですが、女型だけは”有性”に近い感じに見えます。これもやはり社会性昆虫を参考にすれば、女王アリしか子を産まないといった具合に”性”というものもひとつの役割的な性質と捉えられ、女型はその性質を具現化したようなものと考えられるように思います(ただし巨人は不死なので実際には繁殖機能は無いと思われます。) でもやっぱりこんな発想は”性”を持たない古生物の視点からじゃないと出てこないように思うんです。


さて、これまで書いたことに少し違和感があるかもしれません。

 

知性との邂逅、そこからのルール作り(超自我の発達)、個体への役割分配、これら全てはユミルの民の根幹たる特徴を成すものだと思います。でも、そのどれもが古生物視点なんです。私さっきから「古生物の視点では~」みたいなことしか書いてないんです。もちろん人間体はユミ子由来ということになると思いますが、それも普通の人間そのものではありませんよね。「道」の影響を受けたり、脊髄液の摂取で巨人になったりなど、どうにも古生物の影響力が強く感じられます。人間と古生物が混じってできた共生生命なんて言い方をしましたが、どうにもユミ子の意志のようなものが全く見えてきません。

 

そこで彼らのファーストコンタクトに注目したいのですが、

 

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ユミ子は大きく息を吐ききった後、呼吸が止まっているかのように見えます。それはつまり既に死んでいるか、死ぬ寸前の仮死状態といった感じではないかと思います。そこに古生物がまとわりつき、おそらくは脊髄に寄生した感じになると思います。

 

わざわざ息をがばっと吐いた描写を入れる意味を考えてしまいます。

 

ここでまた古生物の視点で恐縮なのですが、寄生生物っていうのは当たり前ですけど自分が生きるために寄生します。ですから宿主に死んでもらっては困りますよね。もちろん死体を利用するケースも考えられるんですが、その場合は死体を利用するだけして朽ち果てる前に次の宿主を見つけるような生態になると思います。でも先ほどから見てきた通り、古生物はせっせと人間の生き方を手探りで学び取りそれを基にユミルの民の性質を作っていってるようです。それは如何にして宿主と自分の種を繋ぐかということであり、

 

 

見方によってはこの方、死にかけてるユミ子にずっと「生きろ、生きるんだよ!」って言ってるようなものではないかと思うんです。

 

 

そういえばまさにそれを言っていた人がいました。

 

つまり、

 

それが古生物であり無意識であり進撃でありエレンであり大地の悪魔であり原初的欲求であり、そして「生きる意志」であり、

 

 

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二千年前の君が持っていたはずの生きる意志を、

 

 

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二千年後の君に、なんとかして思い出させようとしていた、ということなのかもしれません。

 


幼くして奴隷の身分にあったユミ子は、誰かの意志に従うことだけが生きる術でした。しかしその誰かに拒絶された時、生きることさえ許されないような立場に追いやられました。だからその誰かに価値を認めてもらえなければ、自分は生きる価値がないということです。そして人間は自分の価値を確認するために、時に自らを投げ打ったりしてしまいます。

 

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そして価値を認められないと生きる意志さえ見失ってしまったりします。これは知能が高いことの弊害とも言えるかもしれません。誰でもそんな感じになる可能性はありますから、それは一見、人間とはそういうものなのだと思えてしまいそうです。

 

 

でも本当は、その心理の奥深くはそうじゃないんだろって。

 

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-待っていたんだろ ずっと
-二千年前から 誰かを

 

本当は、誰かに認められるとか自分に価値があるとかないとか、そんなことは関係なく「ただ生きてていいんだ」って思いたかっただけなんだよなって(18巻71話)

 

 

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-だからこの子はもう偉いんです
-この世界に 生まれて来てくれたんだから

 

そう思いたかっただけなのに、いつの間にか自分の価値を認めてもらうことに一生懸命になってしまってたんだよなって。そして自分の価値を認めてもらうための役割を果すことに囚われてしまって、それをしてないと自分に価値が無いと思い込んでしまって、自分が生きていることにさえ否定的になってしまったんだろって。

 

 

だから原初的な生きる意志であり無意識でもあるエレンが、ユミ子の意識に伝えに行ったということなのかもしれません(16巻66話)

 

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-自分なんかいらないなんて言って
-泣いてる人がいたら…
-そんなことないよ って
-伝えに行きたい

 

そんなことないよ、って。

 

 


それはつまり、「生き方を教えてる」ということですよね(12巻50話)

 

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-生き方を 教えてくれてありがとう

 

 

 

こうやって考えていくと、やはり「道」というのはユミ子の心そのものであるような感じがしてきます。ユミ子の時間が止まっていたかもしれないこと、そしてユミ子が死にかけるような描写があった上で古生物が生きろと語りかけているかのようなことを合わせて考えると、全てはユミ子と古生物が接触したあの瞬間の出来事という可能性も考えられるように思います。

 

作中では、始祖ユミルの想いなんかが「道」を通じてほのかに影響を与えているかのように、人々の行動が重ねられて描写されてきました。

 

たとえば、子供を授かりながら憂鬱な表情を見せたりします(27巻107話、30巻122話)

 

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まだはっきりとは分かりませんが、他者を踏み台にして自分の血縁を繋ぐことへの罪悪感みたいなものでしょうか。まるでトレードオフのような自身の血統の生と他者の死といった趣があるように思います。同時にマタニティーブルーと重ねているかもと思いますが、その意味は後述します。

 

あるいは、

 

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他の人のために自分の命を捧げることで、自分の価値を認めて欲しいという行動をします。これはアルミンやジークを始めとして該当しすぎるので例示しません。ここで槍が刺さってるのがまさに心臓であろうことも、心臓を捧げる思想との関連を感じさせます。

 

これらは先だって説明した古生物によるルール作りと同じように捉えられますが、少しだけひっかかりを覚えたものがあります。

 

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罪を指摘された時、それをみんなのために受け入れます(22巻89話、25巻99話)

 

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はたまた、

 

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ここは結婚に対して憧れるような感情の表現だと思いますが、(22巻89話、10巻39話)

 

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-まだお前と結婚できてないことだ

 

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-結婚しよ

おそらくこれも重ねてきているのではないかと思います。

 

でもこれらは、先の例とは異なり始祖ユミルというよりは、古生物と出会う以前のユミ子の記憶が元になっています。つまり、古生物が始祖ユミルとして体験したことではなく、ユミ子の記憶に干渉していると捉えることができるのではないかと思います。そしてユミルの民の性質がどうも古生物だけが主体になってることも合わせると、ファーストコンタクト以降の出来事は古生物が死にかけのユミ子の精神に干渉して生み出した世界であるとも考えられるように思うのです。

 

とはいえこれに関しては脳内であれ地続きの世界であれ、どちらとも取れるように思うので正直よく分かりません。もし地続きなのであれば、死にかけのユミ子の肉体を古生物がほぼ支配する形で始祖ユミルが成り立っていたと捉えるべきかもしれません。

それともし精神世界のようなものだとしても、私たちが普段考えるような夢や妄想という概念とは必ずしも同じではなくて、そこも現実世界と変わらないれっきとした「世界」であるイメージだろうと思います。

フラクタルの話なんかもしましたが、銀河がネットワーク状になっていて、私たちの脳内もネットワークになっていて、「道」もネットワークになっています。私たちの住む宇宙全体を含む「世界」はさらなるネットワークの一部でしかないかもしれませんし、であれば私たちの中にあるネットワークの内にも「世界」があるのかもしれません。

そして私がどちらかというと精神世界の方がありそうに思うのは、もしそうであるなら、その意味するところがこんな感じになるからです。

 

私たち読者が悩んだり葛藤している時も、もしかしたら私たちの心の中でエレンやアルミン、ミカサや104期が戦っているのかもしれないねって。

 

 

 

さて、長くなってしまいましたが始祖ユミルに関してはほぼ終わりです。ただあと2つほど書いておきたいことがありますので、よろしければお付き合いください。本編の予想という意味ではここからが本題のような感じです。

 

 

 


冒頭で原因と結果の円環構造(ループ)の話をしました。根拠はかなり薄弱なのですが、もうひとつループが重なってくるんじゃないかというのがひとつ目です。

 


以前から読んでいただいている方は、私が「アルミンがエレンを食うのではないか」と予想していることをご存知だと思います。ただこれ、少し前から揺らいでおります。というのもこの場面が出てきたためです(30巻119話)

 

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もともとなぜそんな推測をしたかといえば、シガンシナ戦でアルミンへの最大の承認をエレンが言ったにも関わらず、アルミンにはその記憶が無いからでした。ですので承認欲求を繰り返し強調されていたアルミンがそれを知る展開になるだろうと推測したのです。当時は記憶を得るには食うしかなかろうと思っていたのでそうなったわけですが、この場面が出てしまったおかげで今となってはエレンとアルミンが接触すれば記憶が見られる可能性が極めて高いと言わざるを得ません。

というわけで食うか食わないかは正直分からなくなりました。でも始祖を流出させないみたいな意図で食う可能性もまだありますので、否定も肯定もできないもどかしい状態になっています。


ただ、いずれにせよアルミンがエレンの真意かなにかを知って、殺してしまったこと、もしくはそれでも殺さなくてはならない運命を呪うような感じにはなるんじゃないかと思うんですね(2巻5話)

 

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-もう… やめてくれ…

それが接触によるものか、食うことによるのか、あるいはエレンが(もしくはジークが?)座標に連れていくとかなのかは分かりませんが、なんらかの形でアルミンが「道」との繋がりを強めることになると思うんです。そして細かい経緯は分かりませんが、そこでもうひとつの結びつきが生まれるんじゃないかというのが現在の私の予想です。

 


で、その結びつきの相手は145代フリッツ王。

 


つまりですね、それまでのエルディアの歴史になかった145代になっての思想の大転換というのは、親友を殺さざるを得なかったアルミンの「こんな世界はごめんだ」といったような悲痛な記憶や、アルミンの思想が影響したんじゃないかということです。そんなことが起こらないように巨人の力を封印しようとしたとすれば、145代の行動にもある程度の必然性が出てくるんじゃないかとも思います。

 

ほんとに根拠が弱くて恐縮なんですが、まず思想の方向性が妙に似ています。世界のみんなが平和であることを模索している点はもちろんとして、そこに自己犠牲的な部分が付いてまわる点。壁の王にとってのそれは壁の民に対する姿勢にも表れていると思います。壁の王にしてみれば壁の民は自己の分身のようなものであるとすれば、「我々はこうあらねばならない」という考え方は自分に厳しいアルミンと重なってくるものです。

 

そしてなにより、ウーリがケニーに言っていた言葉です(17巻69話)

 

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-だが… 滅ぼしあう他無かった我々を
-友人にしたものは一体何だ?

そこからは、暴力ではなく話し合って互いに分かり合いたいと夢みている感じを受け取れます。これ自体アルミンと同じような思想なんですが、大事なのはその後です(17巻69話)

 

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-あぁ…
-避けがたい真実だ…

ウーリはそれが夢想に過ぎないことを分かっていたようです。ここがかつてのアルミンとの違いであり、言わばアルミンより少し先に進んでいる感じを受けます。そしてここからはなにやら「友と話し合って分かり合いたかったけど暴力の前に無力であった経験」を持っているような感じを受け取れませんでしょうか。だからこそ戦うしかない運命にあったはずのケニーと分かり合えたことを奇跡という言葉で表現し、そこに夢を見ていた(酔っぱらっていた)と考えられます。もともと無理だろうと思ってなければ奇跡なんて言葉は使いませんよね。

 

「友と話し合って分かり合いたかったけど暴力の前に無力であった経験」

 

これ、今後起こりそうなことそのまんまではないかと思うのです。


今までもアルミンと壁の王の思想がなんでそれほど似てるんだろうって考えた時に、アルミンが王家の血を引いてるみたいなことも考えたんです。でも今さら感もありますし、そうであったとしてもそれだけだとちょっと弱い感じがします。今までさんざん隠してきて最後にそれだけ出されたところで「ふーん」ってしかならないと思うんです。ものすごく安易な仕掛けと言いますか。まぁそれが王道ストーリーにありがちなことだと言われるとちょっと揺れるところはあるのですが。

 

でも壁の王がアルミンに似ていると考えてみたら、はまってくる感じがしたんです。おそらくその仕込みのひとつじゃないかと思うんですが(17巻69話、17巻70話、26巻105話)

 

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思考が似ているから髪型も似たようなのを選ぶという感じだろうと思います。そしてこれはアルミン”が”ではなく、ウーリがアルミンに似ているからこそサプライズになり得るのではないかなと。

 


そう仮定して考えてみると、エレン(進撃)が生み出した巨人の歴史にアルミン(145代)の思想が不戦の契りという楔を打ち、その楔によってもたらされた新たな歴史の流れに苦しめられたエレンが、やがて巨人の歴史を生み出すことになります。それによりアルミンは楔の元となる思想を145代に与えました、といったさっぱりわけのわからない円環構造の重なり合いができあがります。

 

これだ、と思いました笑


というわけで、冒頭の円環構造にこの第3の円環を付け加えたいと思います。

 

145代がひきこもる(原因)→ エレンを殺す(結果)
エレンを殺す(原因)→ 145代がひきこもる(結果)

 

それはつまり、巨人大戦というのは今やっている戦いの写しみたいな感じなんじゃないかと思うんです。そして今度は巨人大戦があったことによって今やっている戦いが起こっているんです。アルミンの思想が145代に影響を与え、今度は145代の思想がアルミンに影響を与えます。このように巷で言われていたループとは全く異なるループのような構造が重なり合っていく感じ、物語としての面白味もあるように思います。

そう考えると、もしかしたらアニメのナレーションは、アルミンではなく145代の声だったという可能性もあるかもしれないし、ないかもしれません。

ついでに書いておくと、私は最近の記事で104期とかのことを「英雄たち」って呼んでますが、これはA面B面の話の皮肉みたいなのも少し込めてはいますが、あくまで 英雄たち=Heroes=ヘーロス という意味で使ってますのでよろしくお願いします(何を?)

そうであればミカサも、ひょっとすると他の面々も、座標へ行くというか過去と結びつくような展開があるかもしれません。もしかしたらミカサは祖先のアッカーマンと結びつきを持ち、それが巨人大戦のヘーロスのモデルになったりするのかもしれません。もしくは9つの巨人が結びつくことで全ての記憶が繋がるみたいなのも妄想できますね。


あともしかしたら、アルミンの円環部分が無ければこんなことになってないんじゃないかって思われるかもしれません。それはその通りなんですが、実はちょっと問題があります。問題というかこれも面白いのですが、

 

不戦の契りが無ければ、エレン・イェーガーは生まれない可能性が高いんです。

 

もちろんそれは誰もが当てはまると言えばそうなんですが、エレンって実は唯一無二なところがありまして、

パラディとレベリオの両方の壁に関係して生まれたのって、エレンだけなんです。つまり両方の不自由さに反発するかのように産み落とされた自由の権化、みたいな捉え方もできるわけです。そしてその両方の壁を生んだのはもちろんあの思想、みたいな話になります。

その意味するところとして、全体である超自我が強かったので個であるエスが隆起してきたという風に捉えられます。そして今度はエスが強くなると超自我が隆起してきてエレンを討伐するわけです。そんな綱引きのような心の中での揺らぎが、まさに先ほどの円環構造に表されているのではないかと思います。だからこれはたぶん必然であって、もしエレンやアルミンじゃなくても誰かがそうなる感じだろうと思います。「器」みたいな話もありましたよね。

これも言ってみれば連鎖のようなもので、今エレンがやっている地鳴らしも暴力の連鎖を生むものなのは間違いないと思いますが、それでもあえてそれをすることによって全ての連鎖を元から絶たないといけない、これがエレンの言っていた「二千年の巨人の歴史にケリをつける」ということではないかと思うんです。


とりあえずこれは、あくまで予想ということで。

 

 


最後にもうひとつ。

 

 

「~の場合」という記事群で取り上げたように、この作品は過去の記憶や経験による抑圧という防衛機制がたびたび描かれてきました。心がダメージを受けないように、嫌な感情や記憶を意識には見えないところへ無意識が隠してしまうというアレです。

その一貫したテーマに沿って考えてみると、物語全体でも最後にもうひとつ大きな抑圧が起こるんじゃないかと思っています。

 


この記事では座標にいた始祖ユミルの姿から、ユミ子はあの時点で止まっているのではないかと述べました。さらにそこから他民族を蹂躙したり、逆に世界のために自分たちが滅ぶべきと考えたりというユミルの民の歴史を、彼女の心の葛藤と重ね合わせるように考えてみました。そして最終的にユミ子は生きる意志と再び出会ってますから、あの死にかけてたユミ子が生きる意志を吹き返したということになるかもしれません。

もちろんそれが巨人の歴史の始まりになったというのが先ほど書いたことでもあるのですが、それとはまた別の線のおはなし。巨人の歴史の世界が脳内であったなら脳内ではない元の世界ということ、あるいは地続きだとするなら新たに生まれたもうひとつの可能性の世界線という感じです。

 


「生きよう」と思った時、その生きようと思う気持ちを失わせるような記憶は、あまりよろしくない記憶と言えます。ユミルの民の歴史がユミ子の心の具象化であるとすれば、それは非常に辛くて思い出したくもないような記憶だと言えるのではないかと思います。力による暴力の歴史、それに反発した自滅思想、それらがぶつかり合って親友同士で殺し合わなくてはいけないような哀しい記憶。

そんな嫌な記憶は心がダメージを負いかねないので隠さなくてはなりません。でも以前お話したように、抑圧っていうのはあくまで隠すだけなんです。心の中からはその記憶を抹消できないので、グリシャが妹殺しの罪悪感から目を逸らされていたように、なんとなく避ける方向へ意識が向けられたりします。

 

つまり、ユミ子はあの古生物になんとなく恐い感じを覚えて避けようとするかもしれません。なぜならその嫌な記憶は全てあの古生物と関わったのが原因なわけですから。

 

イメージとしてはあの古生物と接触した水の中から息を吹き返して慌てて這い上がる感じでしょうか。生きる意志を取り戻し、抑圧によってなんとなく恐怖心を覚えた感じになります。もしかしたら少し前の時点で、ユグドラシルの木そのものに嫌な感じを覚えて近づかないとかかもしれません。時系列は前者の方がすっきりしそうですが、このあたりは作者の裁量次第な気もします。


するとどうなるかと言いますと、ユミ子と古生物が邂逅しなければ当然のことながら巨人は生まれません。だからユミ子が古生物なり木なりを避けた世界の続きには巨人がいないことになります。おそらくそれが、スクカーの世界とか、現実の私たちの世界に繋がるようなイメージになるのではないかと思います。そこは人間が普通に人間として生きていく世界であり、もちろんエレンたちがいる進撃の世界とは異なる世界線です。

ただ、これも抑圧と少し似た感じで、巨人のいない世界から見てもやっぱりこの時空のどこかにエレンたちの世界や記憶が存在していて、それがなんとなく人々の無意識に影響を与えるんじゃないかと思います。

だからその世界では誰とはなしに巨人やらなんやらの物語が語られ始め、人々はそれを戒めに、あるいはどことなく懐かしい感じすら覚えるかもしれません。でも実際にそんなことがあったわけではないはずです。それでもなんとなく惹かれる話なので、みんなが語り継いでいきます。やがて世代を超えて語り継がれていくうちに面白おかしく脚色されたりもしていきます。

 


それが現代の私たちが知っている「神話」なんです。

 


実際にはどういう感じに描かれるのか、描かれないのかは分かりませんが、少なくとも様々なエピソードを神話になぞらえた感じで描いているのは確かだと思いますので、おそらく現代の神話の原型として繋げているだろうと思います。世界中には様々な神話が存在しますが妙に一致する部分が多く、その雛形は共通の民間伝承にあるだろうと考えられています。たとえば巨人に関する話だけでもユミルはもとよりネフィリムティターンなどなど、あらゆる神話に出てきますよね。実はそれらを含む全ての神話の元になっていたのはユミルの民の歴史ですよといった感じです。

作中でも描かれていますが、神話や伝承なんておよそいい加減なものです。現代の神話は言ってしまえば二次・三次創作みたいなもので、長年語り継がれるうちに好き放題に脚色されてきています。”だから”作中で神話になぞらえたエピソードが描かれる際に各人の役割が一定ではなくごちゃまぜにしてあるんだと思います。エレンはフェンリルかと思えばロキのようでもあり、そのロキはジークやアルミンにも重なります。ジークと言えば彼の外見は西洋社会が長いこと信じていたイエス・キリストのイメージそのものであり、またジークにはロンギヌスの槍を刺されたり処女懐胎や復活を思わせる場面がありますが、イエスの誕生日とされる日に生まれたのは兵長です。さらに、実際のイエスは中東の人だから有色で黒髪だったという説が近年まことしやかに言われており、そのイメージはエレンに重なるかもしれません。

神話になぞらえた作品は多々ありますが、普通はだいたいこの人はこの役ってなってるんです、生まれ変わりみたいな。逆に役割を固定しないということは、神話が伝言ゲームのように変化していくという現実的な認識があることを示唆しており(作中でもクルーガーにそんなようなことを言わせています)、それはつまりこの物語が現実的な神話の雛形であるという意図があると考えます。

ですので、進撃は神話になぞらえているのでもモチーフにしているのでもなくて、神話が進撃の物語を元にして成立したんです。


あ、神話のついでに書いておきますが、たぶん地鳴らしは途中で止まることになると予想しますが、マーレはそれなりにダメージを受けた上に巨人の力を失って普通の国に戻るんじゃないかと思います。すると世界におけるマーレの一国支配体制が終わって、植民地なんかも独立することになりそうです。そうなると植民地や属領だったところは母国語が公用語に戻ることになるでしょう。


たぶんこれ、バベルの塔です。


マーレは神に等しい力(巨人の力)を得ようとしていた点と、巨大な国家を塔に見立てればぴったりはまります。そして神の怒りに触れて世界はバラバラになり、言葉が通じなくなるわけです。

ちなみに実際そうなったとして、世界の国々としても全体から個への回帰という構図になりますので、進撃がやり遂げたことという意味でも非常にしっくりくるようにも思います。


とまぁこうして、どこか遠いような近いような別世界で起こったユミルの民の歴史は、この世界の私たちの無意識にうっすらと語り掛け神話ができましたとさ、というお話。さらに付け加えると、私たちが結婚に憧れたりマタニティーブルーになったりする心の動きも始祖ユミルの気持ちが起源なのかもしれません。ということは私たちにも道があるのかも??みたいな。

 

 

 

さておき、ここで少し話を戻しますが、巨人がいないという別の可能性の世界が生まれたとしても私たちがこれまで見てきた進撃の世界自体は変わらないだろうと思います。なにせ因果が繋がってませんので。

 

でも、エレンはこの別の可能性の世界を見ているのかもしれない、というほぼ妄想に過ぎないかもしれない根拠があります(1巻1話)

 

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この作品は845年から始まったはずですよね。

ところでこの「845」という数字と似たようなコマがあと3回あるのはどなたもご存知かと思います(1巻2話、2巻5話、4巻15話)

 

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実はこれら3つのコマに共通していることがありまして、どれも次のような配置になっています。

 

 現在の場面 → 数字のコマ → 数字の年の場面

 

まぁ回想のためのコマなので当たり前みたいな話なんですけどね。ちなみに「847」だけは話の冒頭なので前のコマが無いのですが、前の回が現在視点で急に回想になっているのは同じです。つまり、まず数字のコマがあって、その次のコマからその年の出来事が描かれているわけです。やっぱり当たり前のことしか言ってませんよね・・

 

 

いやいや、ちょっと待って。

 


「845」だけちょっと毛色が違うことになります。ご存知の通り「845」は、

 

 845年の場面 → 数字のコマ → 845年の場面

 

ってなってますよね。あれあれ?

 

 


ということは、もしかしたらですが「845」の前の場面は 違う かもしれないって考えられませんでしょうか。

 


もちろん「845」の前ってのは、あの「いってらっしゃい」からエレンが泣いているところです。そしてその場面、読み返して頂くと分かるのですが、実は壁が出てきません。アングル的に壁が映らないようにも見えなくはないのですが、もしくは当時は背景の描き込みがまだまだだったせいかもしれませんが、実際に壁が無い可能性もないとは言えないはずです。

 

しかもその後「845」のコマを挟んだ次の瞬間にわざわざアングルまで変わって、ついに壁が登場!! どーん!!笑(1巻1話)

 

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もちろんこんなの与太話の域を出ませんよね。でももう少しだけお付き合いください。

 

 


ずっと気になってたんですけどエレンは最初に夢を見てましたよね。夢っていうか、おそらく悲しい記憶を。

 

でもこれ、グリシャとエレンが結びついた場面を考慮すればシンクロしてる可能性があってもおかしくないし、むしろその方が自然かもしれません。それはつまり誰かが見ていてもおかしくないというか、誰かが見てるはずってことです(30巻121話)

 

 

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-あの景色を…

「あの景色」ってなんでしょう。「景色」ですよ、けしき。たとえばパッと見て巨人がいなくなったと分かるとか、エルディア人が平和に生き永らえたことが分かる「景色」ってなにか思いつくでしょうか。あるとすれば地鳴らしでめちゃくちゃになった景色とかでしょうか。でもスリの少年を見て涙していたエレンが、破壊された世界を見て自由になったとかって恍惚とした表情を浮かべるとはちょっと思い難い気もします。

 

 


でも、自分が子供の頃に見た景色と全く同じ だけれども壁が無い 景色だったらどうでしょう。

 

 


すぐに気が付くのではないでしょうか。そこには巨人がいないということに。

 

巨人そのものである壁も無ければ侵入を防ぐ必要のある巨人もいない。壁に囚われてない自由な世界、巨人の歴史に囚われてない自由な世界、それこそまさにエレンが求めるような「あの景色」と呼べるような気がします。

 


とはいえ、先ほども述べたようにエレンたちがいる世界線の未来が変わるわけではありませんから、そこに待ち受ける厳しい未来もエレンは同様に知っているかもしれません。なればこそ(24巻97話)

 

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-ただし 自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ
-その地獄の先にある何かを見ている

という言葉が、出てきたのかもしれません。

 

もしそうであれば、進撃やエレン、そしてアルミンやミカサや他のみんなが苦しみながら戦った結果として、少なくとも別のひとつの世界を救ったかのような話になるかもしれません。もちろん彼らの世界自体は、必ずしも報われたりとか死んだ人が戻ったりすることもないでしょうが。

 


細かいところを少し補足しますと、「あの景色」は仮にグリシャが同じ記憶を見たとしても意味が分からないんじゃないかと思います。エレンはかつて自分が見た景色と重なるので壁が無いことにすぐ気付きますが、グリシャにはどこにいるのかはっきりしないでしょう。単に壁から離れた場所だと思うかもしれません。するとグリシャにとってはなんの意味も持たない他愛ない記憶となり忘却の彼方となるのではないかと思います。

ですからグリシャがジークに言った「先の記憶」というのは、エレンが言っている「あの景色」とは別の記憶のことで、彼らの世界線で起こる悲惨な未来の出来事だろうと思います。でもエレンだけは「その先にある何か」を見ていたんじゃないかなという感じです。


ちなみにアニメでは最初から壁が描かれてるんですけど、あちらは「845」のコマのような仕掛けもありませんので、もしこの通りであるならラストにもう一回最初と同じ場面を「壁無し」でやればエレンと全く同じ体験を視聴者がすることになるなあとか、そんなことまで考えてしまいました。

そしてアニメで冒頭の演出を変えてきた意味というのも、もし原作だけ壁が無いとして想定してみるなら、こんな仕掛けである可能性も考えられます。

もし原作の冒頭に壁が無いとすれば、そこにいるエレンは私たちが今まで追ってきた世界線のエレン(エレンA)ではない世界線のエレン(エレンB)だと捉えることができます。アニメの方はもちろんエレンAそのものです。これはおそらく量子力学のような感じで、両方の可能性が重なり合うように存在しているといった感じになるのではないかと思います。だから青年時代のエレンAが「道」という次元を超えた力で繋がった時、その両方の可能性と同時に繋がったみたいなことになるのではと考えます。

それと私たちが今までずっと見てきたのは、つまり物語で語られてきたのはエレンAの視点だけですよね。

すると壁があるアニメ版で悲しい記憶を見ているのは、壁があるわけですから少年時代のエレンAで間違いありません。でも原作の壁が無い方の「いってらっしゃい」は、少年時代のエレンBが見ているというよりは、やはり青年エレンAの視点で物語のラストまで経た最後の記憶が描かれていることになるんじゃないかと思います。青年エレンAの視点では「あの景色」を見ているのであって、悲しい記憶を思い出しているわけではありませんから描かれる必要が無いですよね。つまり原作では「854」のコマを境にして2つの可能性の世界が描かれている感じになります。

そしてもしミカサがエレンとの接触などでエレンの中にある記憶なんかに触れ、エレンがここを目指していたことを知るなり察するなりしたなら「いってらっしゃい」というセリフも納得がいくものになるように思います。実際に転生するのとは違うとは思いますが、それでもどこかで繋がった同一人物の記憶の中で生き続けるとすれば、こちらの世界のミカサが「あっちの世界では幸せになってね」という想いを込めて言う言葉として適当なように思います。


ちなみに超自我エスがドンパチやってるところを、両者の意見を考慮しながら実際の行動に移すのが自我の役割ですので、やはりフィニッシュはミカサなのではと思っています。そうすると「アニ 落ちて」「ライナー 出て」「エレン いってらっしゃい」という三部作が綺麗に幕を下ろすことにもなります。ミカサにしても上記のことを含めて、大事だからこそエレンを手放すという、執着からの脱皮、成長が描かれることになります。

ついでに言うと、仮にミカサがトドメを刺すにせよ、エレンを殺さないとって方針はアルミンの考えが鍵になるんじゃないかと思っています。そしてアルミン本人は悩み苦しむかもしれませんが、表向きは立役者のような感じになるかもしれません。前段でエレンや進撃を無意識や本能と重ねましたが、とうぜんアルミンはその対になる意識や理性のメタファーだと思っています。つまり理性が本能を抑える形でこの人間を描いた物語は結ばれ、それはまたユミ子が人として生きていくことに投影される感じになるんじゃないかなと。同時に、本能であるエレンと古生物は生きるんだというメッセージを伝えながら消えていくということになります。

どんな生物も生きようという本能を持っています。でも人間だけは理性というものも同時に持ち合わせていて、それが人間が人間たる最大の特徴であるとも言えるように思います。でも普段私たちはそういうことに気付くことはあまりありません。だからこの作品では古生物とそこから生まれた巨人という本能しか持たない生き物の視点を通して人間を見ることによって、改めて人間とは何なのかということを浮き彫りにしているのだと思います。そして知能が発達してしまったがために人間が忘れかけてしまった、「生きることに理由などない」という生命の本質を本能の視点から語り掛けつつ、同時にそこに潜む危険性を理性を持った人間の視点から描き出している、といった感じになるでしょうか。

 

 

・・ところで少し巻き戻しますが、転生ではないのではと書きましたが、エレンBがエレンAの記憶をおぼろげながらも持っているのであれば、エレンBの一部分は青年エレンAそのものであるとも言えるかもしれません。それは少年エレンAにも同様に言えますので、見方によってはエレンという心がぐるぐると周ったあげくにひとつの抜け道を得たといった既存のループ説のような解釈もできなくはないように思います。するといろんな人をすっきりさせる感じにしつつ謎を残すような面白いまとめ方、ということになるかもしれません。

 


まぁこれらの全ては妄想に過ぎないかもしれません。なにはともあれ、私の推測通りであったならこういうことになるはずです。

 

 


私たちの住むこの世界が、そして私たち人間が今こうしてあるのは、エレンやみんなが頑張った結果かもね、と。

 

 

おわり

 

 

 

 

 


あ、ひとつ書き忘れました。

 

何度も書いてきたように全ては並列で起こっていると考えないと矛盾しますので、ほんとは時系列ではないのですが、ユミ子の心の動きとして順序立てて考えるならば、

 

奴隷であったユミ子が理不尽に命を脅かされる
→生きる意志に火がつき、巨人の力を得る
→奴隷として虐げられたことへの反動か、生きる意志の凶暴性によって暴力に振り切る
→それに反発する理性が現れるが、そちらも反動で大きくなって自滅的思想にまで達する
→さらに反発して生きる意志が地鳴らしを始める
→これじゃいけないよねって巨人族が自分で自分を止める


→つまり、ユミ子は生きる意志をしっかり持ちながらも理性でそれを抑えるようになる

 

といった感じになるのではないかと思います。

 

そういったこともあり、ユミ子が古生物かユグドラシルの木を避けることになると考えられるわけですが、じゃあその後のユミ子はどうなるのかというと、

 

 

 

 

やはり実際に「森から出る」んじゃないかと思います。

 

 

 

 

とはいえ、その先には社会というさらなる森が広がってて、始まりに過ぎないって感じかもしれませんけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

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(30巻120話)

 

 

 


当ブログをご愛読いただき誠にありがとうございました。

  - 2020年5月より、連載完了後のみなさまへ

 


written: 20th May 2020
updated: none

 

099 世界観⑦ 不戦の契り

 

※2020/4/27 追記:途中に注意書きを一点追記しました。

 


みなさんこんにちは。

 

 

それは、生きる意志をめぐるものがたり。

 

 

 

!!閲覧注意!!
この記事は 生命-I から始まる一連の記事の他、当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は18巻73話からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[不戦の契り]

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今回は前回の内容を受けての不戦の契りです。

 

この不戦の契りに関しては私も考えが二転三転した経緯がありまして、以前から読んでいただいている方に混乱を招かぬよう、蛇足ではありますが先に少し経緯をお話させていただこうと思います。


当初は 042 新説 壁の王 という記事に書いたように、それ自体が145代フリッツ王によるブラフではないかと考えていました。その発端はフリーダとグリシャが相まみえた際、不戦のはずなのに戦い、しかも戦った上で始祖が他の巨人に負けるといったように、作中で言われていることとの矛盾のようなものを感じたからです(16巻63話)

 

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であれば、フリッツからレイスへと名前を変えていることも合わせて、そもそもレイスの血統は不完全にしか始祖を扱えなかったのではないかという推測をしました。ただしそれでは壁の抑止力が意味を成さない可能性があるため、大陸の王家にだけはブラフを言って始祖を奪還する意欲を削ぎ、その後王家を殲滅してしまえば始祖を扱えないことが闇に葬られるというシナリオがあったのではと考えたのです。実際に大陸では王家関連を潰す動きがあったようですし、ヴィリーの告白があるまで不戦の契りのことはマーレ軍上層部だけの機密であったような描写があったこともその下敷きになっていました。

まぁ要するに何も知らないパラディの面々が「なんかある」と勝手に思い込んでるみたいな話かなと思ってたわけです。でも 生命 という記事群に書いたことが見えてきた頃に、この作品はそういう話じゃないなという感じがしてきたため、前述の記事に注意書きで保留扱いとした上で実質的に一から考え直しをすることになりました。

やはりというか、その後115話でクサヴァーさんが「不戦の契りの解法」について言及したことによって、ブラフではない、つまり契り自体の存在は私の中で確定します(29巻115話)

 

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-壁の王が「始祖の巨人」を封じるために課した「不戦の契り」
-これを打ち破る方法がある

パラディとは全く関係がなく、しかもジークの味方であるだろうクサヴァーさんがジークに嘘をつくとは思えません。ですから彼がその「解法」を話すということは、契りは確実に存在するということになるはずです。

それ以降はもやもやしたまま放置していたのですが、進撃が意味するものに思い当たった時に繋がった気がした、というのがこの世界観という記事を書き始めた理由だったりもします。そんなわけで今回は不戦の契りの”意味”について考えていきますが、今までの推論はいったんリセットして読んでいただければと思います。

 

 

 

 

まず先に結論として、不戦の契りがなんなのかということを言いますと、

 

 


不戦の契りとは、戦わないという契約だと思います。

 

 


・・・・・・

 

 


んなこたぁ分かってんだよって声が聞こえてきそうですが、ふざけてるばかりでもなくて最終的には言葉通りのところに辿り着きました。つまりそれは真相に近いということなんじゃないかと勝手に思っています。

 


さて、

 


座標に関して、ジークがこんな推測を述べています(30巻120話)

 

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-おそらく始祖を継承した王家はここに来たんだろう
-始祖の力を行使する際に

つまり145代もエレンジークと同様にあの座標空間に来て、始祖ユミルと契約を交わしたということなんでしょう。いちおう細かい点を付け加えておくとすれば、フリッツ王としての始祖ユミルへの命令が契約ということになるかと思います。それと、(25巻99話)

 

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-カール・フリッツの平和を願う心なのです

ヴィリーによれば145代は平和を願う思想から契りを生み出したとのことでした。平和を愛しているから戦わない契約をする、それは至極あたりまえのような話です。逆に当たり前すぎてその裏を考えたりもしてしまいましたが、これもそのまま素直に額面通り受け取ります。

 

145代は平和を願っていたから、戦わない選択をしました。

 

そして145代は座標空間に至り、始祖ユミルに命令したということになると思います。「ユミルの民を戦わないようにしろ」みたいな感じで。

 

 

 

それともうひとつ、鍵となったのがこの場面なんですが(30巻121話)

 

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-「進撃の巨人」の特性?
-そんな話は…

冒頭に挙げた始祖が負けたこととも重なるのですが、全ての巨人の頂点に立つはずで、全ユミルの民の記憶をも自由に扱えるはずの始祖が、進撃の特性すら知りませんでした(30巻121話)

 

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-あなたがそれをご存知ないことも知っている…
-「不戦の契り」で始祖の力を完全に扱えないのは
-王家といえどあなたも同じ

しかも進撃の視点から見れば、あなた(=フリーダ)がそれを知らないことは分かっていたと言います。


この文脈では明言しているわけではないのであくまで一つの解釈としておきますが、こんな捉え方ができると思います。

 

不戦の契りによって能力に制限がかかったため、フリーダは進撃の特性を知らない

 

つまり、本来の始祖は作中で言われているように全ての巨人を完全に掌握するような存在で、とうぜん進撃の特性も知っていたが、不戦の契りで力が制限されたことにより進撃の特性を知らない状態になったという感じです。特に無理のある解釈ではないはずです。というか普通の解釈ですよね。


そこで大事なので繰り返しますが、以前の始祖は知っていたけれども不戦の契りによって進撃の特性を知らない状態になった、ということです。それを言葉を換えて言えば、

 

 

不戦の契りによって進撃の巨人のことを忘れた、とも言えると思います。

 

 

 

さて、役者が揃いましたので、ここでひとつ考えてみてください。

 

 戦わないとはどういうことでしょうか?

 

なんかいまいち答えづらい問いですね。逆から考えてみましょう。

 

 戦うとはどういうことでしょうか?


こちらは簡単ですよね。戦うというのは、生きるためにする行為です。

 

現代の人間はややこしい理由(建前)を用いて戦争していますから分かりづらいですが、動物なんかのことを考えてもらえれば単純明快ではないかと思います。

動物が戦うのは主に食べるか身を守る時だけです。動物はストレートなもので、普段捕食している他の生物を見かけても腹が減ってなければ襲ったりしません。でも実際は人間だって動物なんですから同じことです。人間の戦争というのも主に自分たちの集団が他の集団より優位に立つために行われており、それはより生き易くするための行為に他なりません。個人間のケンカやマウンティングも同じです。自分の立場を優位にしたり、あるいは承認欲求由来のマウンティングであっても、自分の価値を高く見せたり自分の価値を認めるため、つまり根本は生きるためにしているのです。

戦うのは生きるため、生きようとするから戦います。であるならば、戦わないというのは生きることの放棄に近いとも言えるかもしれません。

 


始祖ユミルになったつもりで考えてみてください。

 

あなたは「ユミルの民を戦わなくしろ」といった命令をされます。でも戦わなくしろ、あるいは戦えなくしろと言われても困りませんでしょうか。身体の自由を奪っては生活すらままならなくなってしまいます。

でも「生きようとするから戦う」ということが分かっていれば答えは簡単、


生きる意志を失くしてしまえば、戦わなくなるはずです。


そして進撃が「生きる意志」そのものではないかと前回の記事で結論付けたことが正しいのであれば、生きる意志の喪失とはつまり進撃の喪失であると考えられます。あるいは命令は「始祖を戦わなくしろ」という方がより正確なのかもしれませんが、それも進撃の喪失であることに変わりはないと思います。


では進撃の喪失とはどういうことか。


以前の記事でも書きましたが、ユミルの民の「道」はおそらく人間の神経細胞ネットワークを模しています。作中でもビリビリって描写がありますが、脳内で電流が起こることによって各神経細胞へ伝達や指示が行われる仕組みと同じことが起きていると考えられます。始祖が全ての巨人を意のままにするというのは、おそらく始祖が全体に電気を流す司令塔のような役割であるからだと推測しますが、その「道」のネットワーク自体から進撃が失われたとすれば、とうぜん進撃には電流を流すことができません。つまり始祖は進撃に命令をすることができなくなります(21巻86話、30巻121話)

 

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-我々マーレ政府の管理下にある――
-「七つの巨人」を継承するに値する器でなくてはならないからだ!!

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-予てより「進撃の巨人」の継承者は何者にも従うことが無かった

だから進撃だけは始祖の命令に従わなかった、あるいは従わずに済んだということではないかと思います。またそれは同時に、フリーダがグリシャに戦って負けたことの理由にもなるはずです。戦うこと自体はできたことにも説明が付けられます。さらに隠喩として、生きる意志を喪失していた始祖は、やはり生きる意志がある者には勝てないんだという感じにもなるかもしれません。

 


もちろん進撃のことを忘れたのは始祖だけではありません。ユミルの民にとっての「道」は外部のぼんやりとした記憶のようなものと考えられると思っています。

 

記憶は情報の結びつきだという話を以前の記事でしましたが、たとえば”ど忘れ”といったような、急に物の名前とかが出てこない時ってありますよね。でも別の時にそれを見たら普通に名前が出てきたりして。それはなんらかの原因によって結びつきを上手くたどれなかったことで”ど忘れ”したけれども、その名前の情報自体はちゃんと残っていたということと考えられます。

さらにその結びつきをたどることができた場合、すなわち普通にその名前が出てきた時は、それがその名前であることは当たり前のように感じていると思います。あの赤くて丸い果実のことをリンゴと呼ぶのに理由はありません。あの姿カタチのものは、リンゴなのです。


壁内人類は145代によって記憶を改竄され、巨人に関することを忘れさせられました。それはつまり巨人に関する情報の結びつきを切られたと考えられます。だから壁の外にいる巨人を日常的に見たとしても、それが巨人であること以外なにも思い出すことはできませんでした。そして王政が意図して流した情報だけが結びついて、「なんだか知らないけどかつて人類を滅ぼしかけたもの」という認識になっていたわけです。

でも結びつきを切られただけなので、その情報自体は記憶の中(というか道)に残っています。だから壁内人類は”それ”を見たことによって思い出したのだと思います(4巻15話)

 

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-見たことあるのか?
-超大型巨人!

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-ウォール・マリアを破った「鎧の巨人」は⁉

 

「超大型巨人」と「鎧の巨人」という ”正式名称” を。

 

(余談ですが1枚目がアルミンに重ねられてるの今気付きました。ライナーたちは有名ですけど)

彼らにとってはあの姿かたちをしたものをそう呼ぶのは当たり前なんだと思います。巨人が巨人であることは分かっていたように、姿かたちと名前の情報は特に強く結びついているのでそれだけはたどれたという感じになるでしょうか。女型の時もそんな感じでした。

 


ところがここが盲点でもあるのですが、進撃の名前だけは誰も思い出さなかったんです(3巻10話)

 

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-大勢の者が見たんだ!!

トロスト陥落の時も、奪還戦でも、ストヘス区でもそれ以降も、多くの人々が進撃の姿を目撃しているはずなのに、誰一人として記憶の結びつきをたどることができませんでした。そしてその名前が判明したのはグリシャの手記によるわけですが(22巻89話)

 

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-お父さんから受け継いだ君の巨人の名前でしょ?

それは”当たり前”じゃないんです。その名前を聞いてなお、全然知らなかった風なんです。


つまり、進撃の情報はそれ自体が「道」にも存在していない(あるいは隔離された)状態にあったと考えるべきだと思います。それはすなわち不戦の契りによって、あるいは副作用とでも言うべきかもしれませんが、生きる意志を、すなわち進撃を失ったということなのではないかと思うのです。

さらに、生きる意志たる進撃が「道」から外されたとするならば、それは「全体」である道から切り離された「個」という構図にもなってきます。

全体が、みんなの平和のために、個の生きる意志を殺したのです。


おそらくこれが不戦の契りの”意味”ではないかと思います。

 

壁の王にしろ、ジークやライナーにしろ、”みんなのために”やたらと死へ向かいたがるユミルの民がいます。壁の外に脅威の可能性があろうが、その日良ければそれで良しとばかりに未来への希望も心配も顧みず酒浸りだった壁内人類がいます。その「未来を生きていこうという意志」を失わせたのは、不戦の契りというみんなが平和であることを願う気持ちによって生み出されたものだったのかもしれません。

 

これは以前から言われている憲法九条と重ねるような、進撃が発しているひとつ目のメッセージともぴったり合致します。

 

※2020/4/27 追記:不戦の契りとその源泉たる壁の王の思想について、「マーレが攻めてきたら滅びを受け入れる」という考え方とか、記憶の改竄によりその対外的なリスクを民衆が知らない状態にしていることからも分かる通り、それは実際の憲法九条とは似て非なるものです。より極端で、見方によっては独善的とさえ言える部分もあるかもしれません。現実世界に照らし合わせて憲法などを真剣に考えるきっかけになればとても良いことだと思いますが、壁の王の思想や不戦の契りがそのまんま憲法九条とイコールでないことは明白ですので、どうぞそこは混同されませぬようお願いいたします。以下に書いていることは全て現実とは一切関係ない「進撃の巨人」の世界の話です。

 

 

平和を愛すると言えば聞こえはいいですが、それは突き詰めれば自滅の道と隣り合わせでもあると思います。戦争や、戦うことは悪いことだとされています。「だから私は戦いません、話せばきっと分かるはず。」それはとても美しい思想だけれども、そう思っていても我関せずで殴り掛かってくる相手がいたりします。だからといって私がそれと戦えば、やっぱり悪いことであることに変わりはありません。であれば、みんなが平和にあることだけを考えるならば、私が最初からいなければそんな諍いが起こることもなかったかもしれません。自分ひとりだけが犠牲になればたくさんの人が平和に過ごすことができるのかもしれません、だから心臓を捧げる。

これは「全体」の考えとしてとても合理的です。だけれども「個」の生きたい気持ちは殺されています。

 


だから「個」は、小さな刃はこう叫びます(18巻73話、セリフは2巻6話)

 

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 戦え
 戦うんだよ
 勝てなきゃ死ぬ
 勝てば生きる
 戦わなければ勝てない

 

「全体」の視点から見れば「なぜそんなに自分が生きることにこだわるんだ。みんなが笑顔で平和に生きていけるなら、それが一番良いことじゃないか」といった疑問が生まれます。だから小さな刃はこう答えます(4巻14話)

 

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-オレが!!
-この世に生まれたからだ!!

 

生まれてきた以上、生きようとするのだと。つまり生きる意志とは原初的な欲求であってそれ以外のなにものでもないのだと。

 

 


そして小さな刃は、細胞分裂を始めます(2巻7話)

 

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はじめは一人に、さらにその周辺へと自己増殖してどんどん広がっていきました(2巻7話)

 

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こうして生きる意志を失っていたユミルの民は、それを取り戻していったのでした。というのが壁内編の要約になるのでしょう。そしてピクシス司令が言っているように、生きるとは「進撃すること」なのだと思います(3巻12話)

 

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-しかしこの作戦が成功した時
-人類は初めて巨人から領土を奪い返すことに成功する
-その時が人類が初めて巨人に勝利する瞬間であろう…
-それは人類が奪われてきたモノに比べれば…小さなモノかもしれん
-しかし その一歩は我々人類にとっての
-大きな進撃になる

 

 

 

そう考えれば、(30巻120話)

 

 

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ここで始祖ユミルがエレンを完全スルーしているのもおそらく、始祖ユミルが進撃のことを忘れていたということじゃないかと思います(30巻122話)

 

 

 

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だからこそ始祖ユミルが進撃を思い出した時、すなわち生きる意志を取り戻したことによって、壁巨人による「進撃」が始まったのだと思います。

 

・・そして不戦の契りが解けたのも、この瞬間だったということになりそうです。

 

 

 

おわり 

 

 

 

 

 

記事中にも書きましたが、元々はこのあたりのことを書きたくて始めた記事群でした。でもまだ少し書いてないことがあるのと、書いてるうちに派生してきたことがありますので、もうちっとだけ続くんじゃ。

 

 


次回に続きます。

 

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 30th Mar 2020
updated: 27th Apr 2020

 

098 世界観⑥ 進撃の巨人


みなさんこんにちは。

 

 

今回はちゃんと進撃の話をしてます。

 

 


!!閲覧注意!!
この記事は 生命-I から始まる一連の記事の他、当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は29巻117話からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[進撃の巨人]

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前回までは「過去現在未来が同時に存在する」ことを軸に考えてまいりました。それはあくまで現実にも存在する時間というものを視点を変え、異なる捉え方をしてみたに過ぎません。とはいえその視点の変更によって「鶏か卵か」みたいな問題に折り合いをつけることができました。

またその副産物として「ジークが連れて行った→そのためレイス家を殺した→そのためジークが連れて行くことになった」といったように、過去と未来のことが同時に、まるで絡み合うかのように起こっているということになり、過去と未来が一体となってリアルを生み出しているかのような構図が見えてきたように思います。

 


そこでまた別の時間の捉え方の話をしたいと思います。今回のは少し観念的な話になるのですが、もしかしたらこちらの方が実際の感覚と近いかもしれません。


それは、時間というのは「過去も現在も未来も存在しない」といったものです。


まず過去というのは私たちの記憶の中にだけあるもので、実際には触れることも見ることもできません。そしてご存知の方も多いと思いますが、記憶というのは常に自身の都合によって改竄されています。過去の美化、偽りの記憶、思い違いなどと言った言葉はどなたも聞いたことがあるでしょう。実際、正確さという点において人間の記憶はたいした信頼性を保っていません。つまり私たちが過去にあったと思っていることが本当にあったことなのか、これは存外にあやしいものなのです。

未来も同様で、私たちの頭の中にだけ存在するものです。そしてそれは予測や願望と呼ばれる類のもので、実際にそうなるわけではありません。まぁ未来が無いことは説明するまでもないでしょう。


であれば私たちは現在だけを、今を生きてるんだーっみたいなことになると思いますが、じゃあその現在ってどこにあるんでしょう。

 

現在がどこにあるかなんて聞かれても「ほら、これこれっ。今見てるやつ」みたいになるしかありません。

でも現在とは今見ている景色だとしても、夜空を見上げるとなにかがひっかかります。私たちが現在だと思って見ている星々の光は、幾千あるいは幾万年前の光です。実際にはすでに爆発して無くなっている星でも、現在そこにあるかのように私たちは認識しています。スケールが違うだけで、目の前の光景も同じことです。私たちが見ている景色は、物体に光の粒子が当たってはね返ってきたものを目が捉え、その情報が脳に送られて創り出された映像を見せられているものです。ほんの一瞬ですがタイムラグがある上に、それは脳で都合よく解釈された映像です。そのため錯覚という現象が起きたりするわけですが、私たちが今見ている現在が本当の現在なのかも少しあやしくなってくるということです。まぁ星の光は置いといても目の前の一瞬くらいは同じじゃないかと言われればその通りなんですけどね。

じゃあその通りだとして、どれくらいの一瞬までは同じなのかそうでないのか、いやそもそも現在が一瞬ってどういうことなのでしょうか。

 

現在っていうのはたった今過ぎ去った1秒間のことではないですよね。もっと短い一瞬のはずです。

じゃあ0.1秒かっていえばそれも違って、もっと短い。0.00001秒でもなければ、0.000000000001秒でもない、もっともっと短い一瞬のはずです。どれだけ小さな数字を言おうが、それよりも短い一瞬としか言えません。一般的な数学では無いものとして扱われれるような”無限小”の長さということになります。長さが無いってなんだか意味が分かりませんね、どういうことなんでしょう?

そこで現在がある場所を考えてみたら意味が見えてきます。言うまでも無く現在があるのは過去と未来の間です。

間にあって長さがないもの、つまり現在とは隣り合った過去と未来の間そのものと考えられます。箱と箱をピッタリ並べた境目には何かがあるわけではないのと同じように、過去と未来の境目をそう呼んでいるだけであって現在というものが存在しているわけではないんです。だから実質的な長さが無いのだろうと思います。


すると過去も現在も未来もその存在があやしいとも言えるわけですが、それはともかく、現在が過去と未来の境目だというのはこういう捉え方ができると思います。

現在というのが形の無い狭間そのものであるとすれば、その狭間の形というのは両隣りのモノの形に依存します。つまり過去と未来がどのように合わさっているか、たとえばある部分で未来が出っ張っていれば現在もそのような形になるし、過去と未来がギザギザに噛み合わさっているなら現在はギザギザになるはずです。


これを少し飾った言い方をすれば、現在というのは過去の記憶や経験を元にした思考と、未来への希望などを元にした思考のせめぎ合いによって形作られている、といった感じではないでしょうか。

 

なんかちょっといい感じの言い方ですよね?笑 

 

まぁ自画自賛してるヤツはほっとくとして、わりと現実の感覚に近いような気はするんです。そしてここでもやっぱり過去と未来が一体となってリアルを作り出している感じが出てきたわけです。

 


そしてこのように時間を捉えてみた時、過去・現在・未来という時間の三要素が、あるものと奇妙な一致をしてきます。そのあるものとは、以前 072 三位一体 の記事で書いた心の三要素、超自我・自我・エスです。

 


雑なおさらいも兼ねて考えてみると、

まず、エスとは「~をしたい」という衝動や欲求のような部分というお話をしました。「~をしたい」というのはこれからどうしたいかということですから、未来志向です。

超自我は「~をしてはいけない」「~であるべきだ」といった自制をするような、ルールによって禁止する部分でした。そしてそれはエスに対抗するものだという話もしたと思います。前回の記事で書いたこととかぶるのですが、「~をしてはいけない」というのは過去の経験などから次はそれをしないということです。あまりこういう言い方はしませんが、過去志向といった感じになります。

そして自我はバランサーとして、エス超自我の双方の意見を汲みながら実際の行動をするものと説明しました。あと傍観者的とも書いたと思います。

つまり過去(超自我)と未来(エス)が押し合いへし合いして、その両者の考え方によって影響を受けながら現在(自我)が形成されるといった感じです。先ほどのイメージと重なってきたでしょうか。

そんなのこじつけだと思われるか、フラクタルという奇妙な一致がこの世界に溢れていることを考えて受け入れるかは、みなさまそれぞれにおまかせします。

 


さて、三位一体の記事ではイェーガー=狩人であることからエレンがエスの役割だろうと推測しました。そしてエレンはザ・進撃の巨人とでもいうくらい進撃の性向とぴったりはまってる印象がありますので、おそらく進撃も道におけるエスの役割ではないかと考えられます。そこに「進撃だけが未来の記憶を見られる」という性質が明らかになったことによって全てのピースが綺麗にはまったように思います。

繰り返しになりますが、「~をしたい」という欲求とはまさに未来のことです。そして当たり前ですが、生きていなければ未来になにかをすることはできません。逆に言えばなにかをしようと思うのは、生きようという気持ちがあるからとも言えます。それは「無気力」という言葉について考えていただければなんとなく腑に落ちるのではないかと思います。

そこで作中でこれに該当しそうな言葉を探してみたら、あったあったありました(26巻103話)

 

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生きる意志。

つまりエスとは、そして進撃とは、まさに「生きる意志」なのだろうと思うのです。ちなみにエレンの大好きな自由意思という言葉、英語では free will と書きますが、意思の will はどなたもご存知の通り未来のことを言う時に使う言葉です。意思とは未来、未来とは意思なのです。意志と意思の細かなニュアンスの違いについては、作中の表記に従っているだけなのでここでは無視させてください(キッパリ

 

生きる意志だということを念頭に置いてこの物語を読み返してみると、進撃が(というかエレンが)何をしてきたのかがはっきり見えてくる気がします。特に序盤は分かりやすく描かれているように感じます(2巻6話)

 

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-戦え!!
-戦うんだよ!!
-勝てなきゃ… 死ぬ…
-…勝てば 生きる…
-戦わなければ勝てない…

エレンは無気力になっていたミカサに、「生きることをあきらめるな、戦え、生きろ」と叫びました。ここではエレンの根本的な考え方として明言されている形ですが、これ以外でもエレンはずっと周りの人たちに言葉や行動で示すことで「生きろ!」もしくは「俺は生きる!」と生きる意志を振り撒き続けているようです(1巻1話)

 

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アルミンに対しても、勝ち負け無視でいじめっ子に戦いを挑む姿を見せていました。そしてアルミンはエレンに出会ったことで、それまでのいじめられっ子から、目を輝かせて夢を語る少年へと変わります。夢とは生きる糧です(1巻3話)

 

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-ウォール・マリアを奪還する前祝いに頂こうってわけか
-食ったからには腹括るしか無いもんな!!

トーマスたち104期もエレンの言葉を聞いて、調査兵になって肉のために生きるために戦う決意をしました。もちろんコニーやサシャ、そしてジャンにも影響を与えています。もしエレンが104期にいなければ、おそらく彼らは憲兵になって初期のヒッチのようにぬくぬくと暮らしていったはずです。ミカサやアルミンは訓練兵にすらなっていないかもしれません。ここでも彼らは巻き込まれてるわけですね。

 

さらにエレンは人々の希望となり、ピクシスやイアンを始めとする駐屯兵団も戦って生きようという方向へ導きました。さらにエルヴィンには地下室という夢を与えました。ハンジや兵長は後にこんなことを言っています(9巻37話、28巻112話)

 

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-状況はどん底なのに…
-それでも希望はあるもんなんだね…
-えぇ…ただしすべては
-エレンが穴を塞げるかどうかに懸かっているんですが…

 

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-エレンの命を何度も救った…
-その度に 何人も仲間が死んだ…
-それが… 人類が生き残る希望だと信じて…

 

人々に希望を、すなわち生きる意志を与え続けているのです。

 


さて、エスとはどんなものなのかをもう少し作中から見ていきましょう(23巻94話)

 

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-はぁ…
-何か起きねぇかなぁ…

私たちの日常でもよくありますよね、不満が無いのが不満とでもいいますか。何も無いという状態が我慢できない、それはつまり変化を求めているわけです。エレンはかつてこんなことに大いに感心しています(5巻21話)

 

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-変革を求める人間の集団…それこそが
-調査兵団なんだ

目の付け所がちょっと違う感じもします。「変化」ということに対して良い印象を持っていることもなんとなく伝わってきます。

 

進化の観点で言えば、変化というのは多様性をもたらすものです。私たちはみな同じホモサピエンスというひとつの種ですが、外見だけでも肌の色や瞳の色、髪の毛の色、毛深さや体格の良さ、顔を中心としたルックスなどなど、それぞれが異なる形に変化してきました。もちろん体内の免疫機能なども含めあらゆるものが他と異なるように変化してきたわけです。それゆえ大規模な環境の変化などがあったとしても、生き残る個体がでてくる可能性が高まります。コロナウイルスにはまだ決定打は出ていませんが、なんかの病気が蔓延した時にみんなが同じ免疫しか持ってないとそれこそ全滅を免れ得ません。これが淘汰であり、また進化そのものでもあります。

 

そして多様性というのは他と違うことであり、言葉を換えて言えば「個」です。

 

私が今まで壊れたなんちゃらのように個だ全体だと言っていたことがここに繋がってきます。進化というのは別に生物の種としての話だけではなくて、普段から身の回りにも同じようなことが起こっています。

たとえば私たちが「~をしたい」と思って既存の何かを始めたとすれば、やがて習熟していくうちに自分なりのやり方を試したりすることでしょう。すると中には斬新であったり効率が良かったりする方法があって、それが既存のものにも変化を与えていきます。文化でもそうですし、スポーツの記録や技術もそうです。あるいは学術的な理論でさえ同じことです。そうやって今までとは違うなにかが積み重ねられて、進歩、発達、あるいは進化と呼ばれるものが成されていくわけです。その自分なりのやり方というのはまさに「個」ですよね。

かつてエレンはそんなようなことも言ってます(1巻3話)

 

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-負けは したが得た情報は確実に次の希望に繋がる
-お前は戦術の発達を放棄してまで
-大人しく巨人の飯になりたいのか?
-……冗談だろ?

 

やはり目の付け所が(以下略

 

というわけでエスというのは変化によって多様性をもたらすものであり、「個」だということです。そしてそのエスとは狩人でイェーガーであり、また進撃だということになるかと思います。

 


そうなってくるともちろんエスに対抗する超自我が多様性を阻むものであり、「全体」であり、そして兵士=アルミンであるということになってきます。知性巨人に関しては全体を統べるという意味では始祖もおそらくそれに当たりそうな感じがありますが、敵を倒すことに特化した兵士という意味では、やはり超大型がより当てはまるのだろうと思います。

多様性を阻むなんて言い方をするとネガティブな印象になってしまうかもしれませんが、超自我も心の要素として、さらには進化の要として、エスと遜色ないほど重要なものです。


前回お話したような過去の記憶や経験に基づいて「~をしてはいけない」「~するべきだ」と考えるのが超自我の役割です。それって要するにルールを設定しているのと同じことですよね。

そこでルールの一例として法律があります。そこでこの世界に法律というものが存在しなかった場合を想像してみてください。おそらく誰もかれもが好き放題に行動してめちゃくちゃになるのが容易に想像できるはずです。”時はまさに世紀末”の世界が実際にやってきそうです。超自我というのは人が集団で生きていくにあたって欠かせない要素なんですね。

進化の観点から言っても、もし上記のように誰もが自分を律することなくまとまらなければ、それこそ70億人全員参加のバトルロワイアルが始まることになってしまい、まさに最後の一人になるまで誰もが自分を通そうとして相手を叩き、全滅することになるでしょう。

あるいは先述した例にならって大規模な環境の変化や深刻な伝染病などに見舞われたとして、仮に「個」が生き残ったとしても、たった1人とかだったら他の要因で結局滅びてしまうわけです。だからある程度同じような性質を持った個体群が必要なんですね。だから超自我というのは、多様性を阻むというか、同じであろうとする性質であるということです。同じ夢を持っているはずで、僕達と同じ考えを持っているはずで、分かり合いたい、みたいなことがあったような無かったような気もしますがそれはともかく、同じであるためにはひとつのルールに従ってみんなが同じようにあることが必要になってきます。だから「こうあるべきだ」と。


こうやって進化を念頭に置いて考えれば言うまでもないと思いますが、それはどちらが良いとか悪いということではなくどちらも必要な要素であって、大事なのはバランスなんです。

ただ以前からうちの記事を読んでいただいている方はお分かりの通り、私はどちらかといえば個に寄った書き方をしています。それはこの作品が進撃の巨人と題している通り、個をより重点的に描いているというのもありますが、以前にも書いたようにやはり全体は強いのです。

もちろん1より10の方が強いから全体であろうとする力が働くわけですし、それはそれぞれの個にとっても恩恵があることです。でも全体が強くなればなるほど、個は殺されるんです。

 

仕事でもスポーツでもなんでもいいのですが、全体で何かをしようという時に、それぞれの個がそれぞれのやりたいようにやっていたら物事は進みません。みんなが同じ目的に向かって一丸となって、その目的だけを考えて一心に行動するのが一番効率が良いわけです。それを極端に言えば、全体の中の個は一切の不平不満を言わずにただ黙々と役割をこなしてくれるのが一番良いんです。それを取りまとめる管理者の視点から見れば、変に得手不得手なんかがあるよりも、誰もが平均的に同じようなパフォーマンスをしてくれた方が管理しやすかったりするんです。だから人間の仕事がAIに取って代わられるだろうと言われてたりするのですが、それってつまり個性は要らないってことなんです。オリジナルで斬新だけど不安定なものよりも、平凡でも安定したものが良いというのが全体の考え方です。だからルールからはみ出すものは基本的には評価されない、あるいは罰せられます。

 

このことはもちろんこの「社会」と呼ばれるものにおいてもそうです。だから社会は私たちの個を顧みようとはしません。

これが知性を持たないアリの話だったらなんの問題も起こりません。一匹のアリは、たとえ自分の子孫を残すことが許されてなくても、一生同じことをするだけの毎日だったとしても、一切の文句を言わずに巣というアリ社会のために働き続け、その生涯を閉じます。

でも私たちはどうしたって個であり、個であるという感覚を持っています。だからこそ私たちは個を認めて欲しいし、個を貫くことに憧憬を感じるのかもしれません。そして個を顧みられないことに対して怒りを覚え、個を殺されていることに対して嘆くのだと思います(12巻48話)

 

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-頼む…誰か… お願いだ…
-誰か僕らを見つけてくれ…

これは全体の中で殺される個の沈痛な叫びではないかと思います。僕らは兵士という名のコマじゃないんだ、僕らはそれぞれ名前も感情も持ったひとりの人間なんだ、といった感じ。超大型は兵士ですからね。

 


とまぁちょっと重たい感じになってきたので、どエスの進撃くんに話を戻します。上記のことはもとより、多様性とは他と同じであることへの反発でもありますから、それぞれがそれぞれのあるがまま、好きなようにあるべきだということだとすれば、「自由を求める」という性向にも繋がってくると思います。

 

そこで実際にエレンがどういった感じで自由を求めているのかを作中で見ていくと(18巻73話)

 

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 思い返せばエレンは自分がどうこうというより、他人が不自由なのを見ることをものすごく嫌がっているんです。自分は壁の中にいてもなんとも思っていなかったのに、アルミンが夢を語った時、すなわち夢という叶うかどうか分からないものの叶わない方の原因に壁があって外に巨人がいることだと知った時に、言い知れぬ怒りと共に壁の外へ出たいという気持ちが芽生えてるわけです。母の件であれ、シガンシナが陥落した時であれ、誰かの自由が奪われる様を”目の当りにすること”に耐えようのない反発心を覚えているようです。それをまさに本人が端的に言っています(28巻112話)

 

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-オレがこの世で一番嫌いなものがわかるか?
-不自由な奴だよ
-もしくは家畜だ
-そいつを見ただけでムカムカしてしょうがなかった

そんなエレン、というかエスから見れば、全体の中で個を殺されながら黙々と生きているような人は不自由であり家畜のように見えることでしょう。特にマーレ編以降のライナーとのやり取りからは「お前そんなあれこれに圧し潰されてないで生きろよ!」みたいな感じを受けます(25巻100話)

 

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ライナーの立場に共感を示しながら立ち上がるよう促し巨人化へと続きます。クルーガーがグリシャに言ったように「立て」「戦え」って言ってるんじゃないかと思います(26巻104話)

 

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ここはどうもガビたちの声に応えてライナーが出てくるのを待った感じがあります。間にある太めの枠線が意味深です。「今は殺せやしないだろう」というのも、生きる意志が無いと修復されないということでしたから、ライナーが巨人化してきたということは生きる意志が少なくとも戻った、そして生きる意志がある相手は殺せないとも受け取れます(26巻104話)

 

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-ライナー
-またな

これはもちろん「生きて」また会おうということでしょうし、それまで「生きろよ」って感じがあります(25巻100話)

 

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そう考えるとこれも「ほらほら!ファルコを守れよ!」ってやってる感じに思えてきます。ファルコをわざわざあの場に引き留めた上で巨人化しようとしたことに理由ができます。

そしてシガンシナでイェレナの制止を無視してライナーと殴り合いに行ったのもその続きでしかない気がします。あの時はジークが現れる前でしたから、あの行動になにか目的があったとは今をもって考え難いです。だとすればライナーと殴り合って「生きろ!俺は生きる!」って言いたかっただけじゃないかと。顎の方を一度も振り返らなかったことを考えても、おそらく目的はライナーと殴り合うことだと思います(29巻117話)

 

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「あがいてでも生きるんだよ!」って言ってるようにしか思えません。


もはや単なる「ただ生きろって言う人」です。目的とかなんとかいう前に、不自由な人を見ると「生きろ!」って言いたくなってしまう人。始祖ユミルに対してもそうでした。もともとエレンはジークを騙して地鳴らしなりなんなりの目的は持っていたはずですが、始祖ユミルに選択を委ねてしまいます(30巻122話)

 

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-お前は奴隷じゃない
-神でもない
-ただの人だ
-誰にも従わなくていい
-お前が決めていい

 

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-決めるのはお前だ
-お前が選べ
-永久にここにいるのか
-終わらせるかだ

自分も含めて誰かの言うことに縛られるのではなく自由に選べと。でもこれ、もしも始祖ユミルが現状維持を選んだらアウトでしたよね。それまでの目的やら座標にたどり着くためにやってきたことが全部台無しです。でもそれよりもなによりも、不自由であることを解消する方を優先させているわけです。

 


そもそもエスというのは欲求や衝動です。自分に置き換えてみれば分かりますが、私の生きる意志は私になにかを語り掛けてくるわけではありません。ただ生きようとすることそのものです。

ですから進撃というのは別になにか宿命を背負って生まれてきたとかではなく、まさに始祖ユミルの、ユミルの民の生きる意志そのものなのだろうと思います。そして「この世に生まれたから」には生きようとする、ただそれだけなのだろうと。

 

 

そしておそらく、この「進撃の巨人」という作品は、タイトルをそのまま「生きる意志」に読み替えても成立するはずです。たぶん。

 

 


とまぁそんなこんなを考えていたら、あることと結びつきそうなことに気付きました。

 

次回に続きます。

 

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 27th Mar 2020
updated: none

 

097 世界観⑤ 々

 

※2020/3/27 一部削除:おまけ部分が全体の主旨にそぐわないので削除しました。本文には一切の変更はありません。

 

みなさんこんにちは。

 

 

なんとなく自分で書いた127話の記事を読み返していたら、冗長だなって思ってしまいました。もう少しスリムにできなかったものかと。

ところで、今回の記事はかなり長い期間を使ってスリム化を図ってきましたので、より冗長になりました。自分でもなんだかよく分かりませんが、そういう理由でスルー推奨です。というか今回は、表面的にはもはや進撃と関係ないだろと言われても否定しきれない感じもありますので、お好きな方だけどうぞ。

 


!!閲覧注意!!
この記事は 生命-I から始まる一連の記事の他、当ブログの過去の記事をご覧いただいていることを想定して書いています。最新話のみならず物語の結末までを含む全てに対する考察が含まれていますのでご注意ください。当然ネタバレも全開です。また、完全にメタ的な視点から書いてますので、進撃の世界にどっぷり入り込んでいる方は読まない方が良いかもしれません。閲覧に際してはこれらにご留意の上、くれぐれも自己責任にて読むか読まないかをご選択いただけますようお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。扉絵は22巻89話からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[々]

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すでに寒さも和らぐ兆しをみせつつある昨今、みなさんいかがお過ごしでしょうか。今冬は記録的な雪の少なさだったそうですが、そのわりに首都圏で先日降った雪はかなり遅めの記録でもあるらしいです。

ところで雪といえば、どなたも雪の結晶は見たことがあると思います。たとえば理科の教科書だったり、あるいはデザインのモチーフとしてもよく使われたりします。その幾何学的な模様は自然が生み出したとは思えないような美しさがありますよね。また一説にはひとつとして同じ模様の結晶はないとも言いますから驚きを禁じ得ません。

 

そんな雪の結晶の模様をよく観察すると、それぞれの模様は違えども、どれもひとつの法則に則ったような構造をしています。まず中心となる大きな部分があってハブのようになっており、そこから6本の枝のようなものが生えています。そしてそれぞれの枝からは再び小さな枝が規則的に生えています。枝それぞれも小さなハブのようになっている感じです。

こういった大→中→小といった具合で似たような形が繰り返されていくような形状のことを、フラクタルとかフラクタル構造と呼んだりします。

 

雪の結晶の他に自然界のフラクタルの例としてよく出てくるのが海岸線なのですが、ちょっとグーグルアースでも見ているつもりになって日本地図をイメージしてください。そこで海岸線に注目して、三陸なんかは凸凹してるなぁって思いながらズームしていくとします。すると岩手あたりの海岸線はずっとでこぼこな感じですね。さらにその凸か凹のひとつにズームしていって市町村レベルくらいまで拡大して見ても、やはりでこぼこしています。さらにさらに一つの湾とか小さな半島の先っぽレベルまで拡大していってもやっぱりでこぼこしているんです。

長崎の五島に面したあたりも、でこぼこに加えて小さな島が入り混じる感じが拡大しても縮小しても同じように見られます。逆に九十九里のようになめらかな線を描く海岸は拡大してもやっぱりなめらかだったりします。

もちろん海岸線は雪の結晶のように整った幾何学模様とは言えませんので厳密なフラクタル構造ではありませんが、そこにはなにやら不思議な大から小への相似、フラクタル様(よう)とでも言うような形が見出せます。

 

フラクタル様ということで考えてみれば、先ほど雪の結晶の時に”枝”という表現をしましたが、樹木もそうですよね。まず中心となる幹があって、そこから似たような枝がいくつも生えていて、さらにその枝には似たような小枝が生えていて、その小枝にはまた、といった具合です。枝だけ見ても木全体と同様の形ですし、小枝だけでもやっぱり同様です。

以前の記事で超銀河団と動物の神経細胞ネットワークの相似について書きましたが、これもフラクタルと言えます。ネットワークといえば私たちがたった今使っているインターネットもそうですし、前回お話した記憶の結びつきというのもフラクタルです。

それから銀河というのは中心のブラックホールの周りを恒星が回っています。その恒星系では太陽の周りを地球などの惑星が回っていて、その地球の周りを月が回っています。さらに地球を構成する原子は原子核の周りを電子が回っているような感じで、フラクタルです。

はたまた私たち人間の構造は、中心となる身体から五つの枝のようなものが生えていて、その各枝からはこれまた五つの指が生えています。頭だけは非対称的ではありますが、感覚器と脳という五つの用途を持った”指”があると言えなくもないかもしれません。フラクタル・・でしょうか。

 

なぜこのように多くの物が規則的な構造を取っているのかと考えてみれば、上記の全てに共通するなにか、すなわちそれらを形作る素粒子がそういう性質を持っているからだろうと考えられます。

 

では素粒子から出来ている”物”にはその性質が各所に現れているとして、物じゃないものはどうでしょう。

たとえば組織。

組織ならなんでもいいのですが、とりあえず会社で例えてみます。会社というのは引っ越ししても同じ会社であることに変わりはありませんから、建物や場所のことではありません。同様に、社長が変わったとしても会社は存続しますから、人のことでもありません。会社とはその構成自体を示す概念のようなものです。少なくともなにかの物質ではありません。

会社は物質ではありませんが、やはり社長や役員といった経営陣を中心として各部署という枝が生えており、さらに各部署には各課・係といった小枝が生えるというようなフラクタルになっています。会社で例えましたが、軍隊でも学校でも国や自治体でもなんでも、およそどんな組織もだいたい似たような構造をしているはずです。

 

そういえば以前、手段の目的化みたいな話をしましたが、これも言ってみればフラクタルのような話です。

たとえば「健康を維持しよう」という目的があったとします。これが結晶の中心です。そしてその目的を達成するためにいくつかの手段を思いつきます。これが枝です。その中の一つに「毎日ランニングしよう」というような手段があったとすると、今度はそのために「何時に帰ってきて時間を作ろう」といった手段のための手段が生まれます。これ小枝です。さらにその時間に帰るために「飲み会は断ろう」とかいった風にさらに小さな枝が生えていきます。

当初の目的は健康を維持することですから、健康さえ維持できていれば別に走らなくても良いはずですが、ややもすると「毎日走ること」が義務というか目的のようになってしまったりします。それにこだわり過ぎて体調が悪いのに走って悪化したり、悪天候の中を走って怪我したり、職場での人間関係が上手くいかなくなって精神的なものから体調を崩したりということもあったりするかもしれません。本末転倒という話ですが、手段が目的に成り代わったようになってしまう、つまり枝であるはずのものが狭い視野で見たら中心のように振る舞っているわけです。フラクタルです。


このように物質ではない概念や思考の流れのようなものにもフラクタルが見出せます。それこそありとあらゆるところに、言ってみればこの世界はフラクタルに満ち満ちています。

 

じゃあ。

 

この宇宙全体をも含む世界の構造はどうでしょう。それがフラクタルでないと言い切れるものでしょうか。いやむしろ、フラクタルであると考えた方が自然な気もしてきます。

世界がフラクタルだとしたらどういうことになるでしょう。まず中心になるものがあって、そこから枝が生えていて、枝からまた小枝が生えている。私は分岐する並行世界をイメージする時、木だったりトーナメント表のようなツリー形状を思い描くのですが、まさにそのものです。並行世界なんて言うとファンタジー疑似科学のように捉える向きはあるのですが、意外と真実味のある話かもしれないんですね。

それが偶然かどうかは分かりませんが、古代インドが発祥と言われている曼荼羅にはそういう世界観を描いているものがたくさんあるそうです。それこそフラクタルだの量子力学だのと科学が言い始めるよりはるか昔から、人間は何かに気付いていたのかもしれません。「真実とは往々にして意外と単純なもの」というのは科学の常だったりもします。

 

長くなってしまいましたが、並行世界ってそれほど荒唐無稽じゃないよってくらいの話でした。

 

 


さてさて、前置きみたいな話はこれくらいにして、いいかげん例の問題に取り掛からねばなりません(30巻121話)

 

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-あんたがオレを親父の記憶に連れ込んだおかげで
-今の道がある

ちょっと間があいて引っ張った感じになってしまったのでアレなんですが、これまでの長くてつまらない話を読んでくださっている方にはわりと単純な話ではないかと思います。いちおう前提として「おかげで今の道がある」というセリフをそのまま言葉通りに捉えて、今までは違う道があった、すなわち並行世界あるいは分岐世界のようなものが、見えるかどうかは別として存在しうると仮定した上での話ということになりますが。

 


まず結論から言えば、過去現在未来が同時に存在するのであれば過去現在未来は同時に生ずる、つまり鶏も卵も先である、といった感じになると思います。

 


過去現在未来が同時に存在するという時間の捉え方の話はさんざんしてきたので説明はいらないと思います。そこで前回書いたシンクロしているような場面によれば、グリシャは未来の記憶を見ることでその言動を変化させているようです。つまりその時点で未来はすでに存在していなければなりませんので、過去現在未来が同時に存在するというのは進撃世界において正であると言って良いかと思います。

 

そこで「今まで進さんが見てきた世界線」という枝があったとして、誰かの選択などによってそこに新たな分岐、すなわち「今の道」という小枝が生えるとします。

その小枝はどうやって生えてくるかと考えてみれば、分岐が生まれた瞬間に同時に小枝の先まで完成しているはずです。木に例えているため分岐点からにょきにょき生えてくる感じをイメージしてしまいそうになりますが、それだと分岐した直後は未来が存在していないことになり矛盾します。だから小枝は瞬時にその先まで、すなわち未来まで同時に完成しなくてはなりません。

おそらくこの点が私たち人間の持つ「時間は過去から未来へ流れる」という普段の感覚、あるいは固定観念と衝突する部分なのだと思います。だからこそ過去現在未来が同時に存在すると言われてもピンとこないし、鶏が先か卵が先かと頭を悩ますか、曖昧にして触れないようにするしかなくなってしまうのだと思います。


そこでいったん過去現在未来という観念を捨て、全ての時間は細かく切り刻まれた瞬間が並列に並んでいるようなものと考えてみてください。そしてそれぞれの瞬間にはそれぞれの現在の私たちがいて、そのだれもが「私は現在の自分だ」と思っていて、それぞれの瞬間ごとに自分なりの判断や選択を行っているイメージです。それが同時に、並列で起こります。

ただしこの世界にはひとつだけルールがあって、あるひとつの方向からの情報だけは保持してしまうようになっています。どの時点の私たちから見てもひとつの方向、それは言葉としては手前でも後ろでも右でも左でもなんでもいいのですが、それこそが私たちが過去と呼んでいるものです。

余談ですがこのルールこそが時間に流れがあると感じさせる根源のようです。それは仮にこのひとつの方向の情報、すなわち過去の記憶を全く覚えていられない状態を想像して頂ければ分かると思います。その場合、私たちはなんの手掛かりも持たずにただ漫然と選択をしていくような瞬間が断続的に続くことになり、時間が流れる感覚がなくなるはずです。過去を知っているから、1秒前のことを知っているから、今がその1秒後だと認識できるわけですね。

 


余談はさておき、実際の場面に当てはめて考えてみます(30巻120話)

 

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このあたりの流れ、可能性の話をすればジークがエレンを過去に連れて行く「今の道」とは別に、連れていかない道もあることになります。それはそのまま、グリシャがレイス家を殺すかどうか迷った際にジークとエレンがその場に現れた「今の道」と、現れない道というそれぞれの可能性を伴います。

 ジークが連れて行く→エレンたちが現れる
 ジークが連れて行かない→エレンたちは現れない

ただ前回お話した通り、正確に言えば彼らはその場に現れたのではなく、当時のグリシャと記憶の結びつきを持ったという感じです。つまりジークの選択は過去そのものに直接変化を与えているのではなく、「エレンの記憶と繋がっているグリシャ」という可能性を生み出しただけということになると思います。グリシャが未来そのものを見たわけではなく、未来のエレンの記憶だけを見ていることからもそれは裏付けられます。

 訂正版
 ジークが連れていく→エレンの記憶と繋がったグリシャ
 ジークが連れて行かない→エレンの記憶と繋がらないグリシャ

未来を見ることは次元を超えるか超能力でも無いとできませんが、未来の記憶を見ることは、未来のエレンと記憶の結びつきを持てるという設定の下であれば過去の記憶を見ることとなんら違いはないと考えられます。

つまりエレンたちが現れた瞬間、記憶の結びつきができる瞬間までのグリシャは過去の記憶しか持っていなかったとして、その次の瞬間のグリシャからはエレンの記憶も過去と同様に保持している状態になるわけです。だからグリシャは物理的な干渉は一切されておらず、普段と変わらずただ記憶を頼りに行動を選択したというだけのことになります。その参照した記憶の中に過去と未来のものが同じように含まれているというだけです。

 最終版
 ジークが連れて行く→自分の記憶とエレンの記憶により行動するグリシャ
 ジークが連れて行かない→自分の記憶だけにより行動するグリシャ

おそらくこう考えるのが一番矛盾がなくてシンプルなのではないかと思います。

 

こちらの場面も同様に(22巻88話)

 

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-立て
-戦え

この時点で、グリシャが立ち上がる場合と、立ち上がらない場合の両方の可能性が存在しています(22巻88話)

 

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そしてここでグリシャが立ち上がろうと思った瞬間には「今の道」の方に入っていることになります。同時に「今の道」に連なるそれぞれの瞬間において、選択が行われています。

たとえばグリシャはカルラと結婚することを選択しています。エレンは調査兵団に入ることを選択しています。ジークはエレンを説得するために記憶にダイブすることを選択しています。そしてエレンがクルーガーの記憶を思い出すこともしていますので、そこには未来のエレンの記憶と繋がったクルーガーという可能性が生じます。ですのでクルーガーは自分の記憶の中に存在する(エレンの記憶由来の)情報を頼りに(22巻89話)

 

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このセリフを言った、ということになるのではないかと思います。どちらのケースも記憶によって言動が変わっただけであり、直接干渉されたわけではないということです。記憶の世界、すなわち「道」の世界はおそらく高次元で現実の時間とは異なる時空ですから、そこで結びつきが生まれた生まれないということが現実での一瞬で起こったとしても全く問題がないと思います。

 

 

ただし、という話になるのですが、この記憶によって行動が変わるというのは当たり前のようでいて、ものすごく示唆に富んだ話のように思います。

 


いちおう私見としておきますが、基本的に私たちは過去に縛られた存在だと思います。

どういうことかと言いますと、たとえばある瞬間の私が左に行くか右に行くか迷った末に、右に行こうと選択して右足を踏み出そうとしたとします。次の瞬間の私はそれに従って右足を踏み出すだけで、ほぼ選択の余地はありません。もちろん思い直すことも無いとは言えませんが、右へ行くと決めた思考の過程も知っているわけですからそのまま右へ行く可能性の方がおそらく高いです。その次の瞬間も然り、その次の次も同様です。可能性は無限に広がっていると言えども選択の余地というのはそれほど無いのかもしれません。

さらに最初に右へ行くと決めた私はなぜ右を選択したかと言うと、過去の経験や過去に知り得た情報から類推して選んだか、もしくは”なんとなく”といった感じでしょう。この”なんとなく”というのが無意識に選ばされている可能性があることは自由意思の記事でお話しました。無意識だって自身により良いと考えられる方を選ぼうとするわけですから、過去の情報から類推しているわけです。であればいずれにせよ過去の影響は免れ得ません。ちなみに思い直して左に行ったとしても、それもやっぱり過去の経験か”なんとなく”に基づいている場合がほとんどなのではないかと思います。

こうして考えてみると、本当の意味で自由な選択とはなんだろうという疑問が湧いてきます。


今まで書いてきた「~の場合」と題した記事群では作中の各人のトラウマ的なものを抽出し、それによって本人がどう考え行動しているかについて考えてきました。ひとことで言えば「抑圧」を取り上げてきたつもりです。

サシャは他者への恐れを隠すかのように強がってみせた結果、なりたくもなかった兵士になる選択をしたと捉えることができます(5巻21話)

 

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-…う…嫌だよぉ…
-こわいぃ…
-村に帰りたい……

またミカサは家族や自身が死ぬ恐怖や殺す恐怖などから目を背けるかのように、エレンの考え方が正しいんだ、だから仕方ないんだといった感じで過剰にエレンに傾倒し、エレン中心にものを考えるようになっていきました。

グリシャは「妹は自分が殺したようなもの」という罪悪感から目を背けるかのように、エルディアを盲信する半生を歩んでいきました。

これらは抑圧という心の機能によって、本人が直視したくない事柄から目を逸らすような思考に導かれた結果と考えられます。でもそれって要するに過去の記憶や心の機能によって行動を選択させられているってことだと思うのですが、どうでしょうか。

そもそも抑圧とか小難しいことを考えるまでもなく、私たちの普段の選択も普通に過去に引きずられています。(以前やって楽しかったから)またしたい、(恐い思いをしたから)もうやらない、(今回は)別の道を行く、などなど。全て過去ありきの選択です。

それは例えるならドミノのような感じです。ずらっと並んだドミノがそれぞれの瞬間の私だとすれば、それらのどれもが「私は今を生きているんだ」って、「私は自由な意思で行動しているんだ」って思いながら選択をしているつもりです。でも、実際にはあるひとつの方向からの影響によって決まった方向へ倒れていきます。先述したルールの通り、そのひとつの方向というのは過去です。

 

作中の人々の抑圧は極端なケースによって分かりやすく描かれているものと思いますが、こういった心の作用は大なり小なり常日頃から私たちにも起こっていることで他人事ではありません。当たり前の話ですが、ほぼ誰にでも当てはまるからこそ、それを心の機能として見出してきたわけです。

そして抑圧の作用をシンプルに言えば、「〇〇の記憶があるから、それをごまかすかのように心が動く」といった感じです。もっと単純化すれば「AというインプットがあったからBというアウトプットを返す」という脊髄反射というか、機械的な動作に近いものでもあります。

 

 

つまりはパターンなんです。

 

 

 歴史は繰り返す―――

 

進撃のみならず、現実においてもよく使われる言葉です。だいたいは戦争やら悲劇的なことが起こった時に言われることが多いかと思います。そしてそんな時によくセットで語られるのが「歴史に学べ」といった言葉。およそ悲劇や困難が起こった後の話ですので、「なぜ歴史に学ばないのか」といった非難するような論調で使われることが多いように思います。

確かに歴史に学ぶという考え方自体は良いと思いますが、悲劇が起こってしまった事後に言うのは違うよなぁと常々思います。なんの具体的な解決策の提示にもなっていないし、もっともらしい七光り的な言葉を振り回しているだけにしか聞こえません。結局言っていることは、なぜか自分を差し置くかのように上から目線で「なんで過去の過ちを反省してないんだ、なんて愚かなんだ」って人間を卑下して嘆いているに過ぎないように思います。

 

なんで歴史が繰り返すのかというのはたぶん単純な話で、別に人間が愚かとかそういうことではなく、人間が前述したような心の性質を持っているからだと思います。それこそ万物が冒頭に挙げたフラクタルのようなパターン化する性質を持っていることが基になっていると思います。

進化という観点で言えば現代の人間とウン千年前の人間はたいして変わっていません。どちらも同じような心の性質を持ち、同じようなパターンで行動しているとすれば、同じような出来事が起こるのは当たり前と言っても過言ではないような気がします。

私は小さい頃、なんの根拠もない漠然としたイメージですが、現代人と比べて昔の人は劣っているといったようなどこか馬鹿にしたようなイメージを持っていました。今にして思えば、それは自分が特別であると思いたい、ひいては自分が所属する現代人も特別であるだろうという人間原理のような心理が心の奥底にあったのだろうと分かります。結局パターンにのっていただけなんです。

人間は誰しも自分が特別だと思いたい。特別なのだから当然他とは違って、少なくとも自分は自らの知識や経験に基づいて正しい判断をしていると思っているし、思いたい。だから「なんで歴史に学べないんだ」というやや上からのような物言いが出てきてしまうのかもしれません。

 

特別な自分がこの目で見たことを元に判断しているのだから絶対正しいというのは、まさに以前のガビちゃんがそうでした(26巻105話)

 

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-私も
-見てない

自分が(ファルコも)見てないことが正しいと認められるはずもない、ということです。そんな彼女も諸々あって気付きに至ります(29巻118話)

 

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-私達は…
-見たわけでもない人達を 全員悪魔だと決めつけて
-飛行船に… 乗り込んで…
-ずっと同じことを…
-ずっと同じことを繰り返している…

注目して欲しいのは、彼女が言っているのは「私」ではなく「私たち」なんです。私が悪魔と決めつけて飛行船に乗り込んだということではなくて、もちろん私とファルコがということでもなくて、私たち誰もがずっと同じことを繰り返していることに気付いたんです。自分の見聞きしたことや考えたことだけが正しいとみんなが思い込んで、それに従って行動してきた結果、それはつまりみんなが自分は特別で他人とは違うと思おうとしてきた結果、実際にはみんな同じようなことをしていたんです。皮肉なものですが。

だから悲劇が繰り返されないように考えるべきこととは、歴史に学べといったそれっぽく聞こえるだけの言葉ではなく、過去を参考にするということでもなく、人間が、いや自分自身がそういうパターンで行動する性質を持っているということを知り、受け入れ、それを踏まえて物事を考えることではないかと思ったりするのです。そうして自分を俯瞰できるようになることが、本当の自由な思考への第一歩だろうと。自分は絶対に自分の意思で動いていると思いたがっているうちは、大きな流れに翻弄されるドミノに過ぎないのではないかとさえ思います。みんながそう思いたがってきたからこそ、知らぬ間に同じことが繰り返されてきたんじゃないかと。


そして人々がパターンに準じた行動をしていく傾向があるとするならば、たとえ可能性は無限に広がっているとしても、その選択は過去というインプットに応じたパターン化されたアウトプットの影響を多大に受け、ある程度似たような「道」を辿る可能性が高いと考えられます。

でなければ、無限に広がる可能性の中で「今の道」にこだわる必要は無いはずです。あらゆる可能性が実際に広がっているのであれば、すでにあらゆる可能性の世界は存在するはずなのです。でもそうではないからこそジークの選択によって「今の道」が生まれたことに意味があるのではないかと思います。つまり、人々の行動はある程度”決まって”いるため、何もしなければ辿り着くことのできない「道」があるのだと思います。

作中に感じられる決定論的なものはおそらくその表現じゃないかと思うんです。そもそも矜持なんて思いっきり過去の縛りと言っても差し支えないものですし、作中には他にも血縁や環境というものが過去の縛りとして描かれています。選んでいると思っているつもりが、選ばされている。何かに背中を押されている。じゃあそんな中での自由とか、それに基づく選択とはどういうことなのでしょうか。

 

 

というわけで、次回はようやく本丸のあの人の話です。

 

 

 


ああぁぁ、でも次回に続く前に、

 

やっぱり自分でも”進撃とあまり関係ない話をしてる感”があって悔しいので、ひとつだけなんかを置いておこうと思います。それは最初も最初、ハンネスさんによるこの物語で最初の「選択」のエピソードです(1巻2話)

 

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-確実に… 確実に二人だけは助ける方を取るか…
-巨人と戦って全員助ける賭けに出るか…

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-カルラの願いに応えるか…
-オレの恩返しを通すか…!!

ハンネスさんは、近づきつつあるダイナ巨人によって究極の選択を迫られます。カルラの願いに応えてエレンミカサだけ助けるか、自らの恩を返すという矜持と少し似たようなこだわりに従って一か八かの勝負に打って出るかという選択です。そして(1巻2話)

 

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結果はご存知の通りで、エレンとミカサだけを助けることになりました。でも言うまでもなく、これはハンネスさんがカルラの願いに応える選択をしたのではなく、恐怖心によって選択させられたことが描かれています。物語の冒頭で丸々2ページ以上使って描かれている初めての「選択」がこれです。

 

さらに言えばこの時の記憶が、後のハンネスさんの勇敢さ、あるいは無謀さ、言い方はどちらでもいいですが、ダイナ巨人に単身挑んでいく行動を選ばせていることも描かれています(1巻3話、12巻50話)

 

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-すまねぇな…
-お前らの親救えなくて……

 

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-見てろよ!
-お前らの母ちゃんの仇を!!
-俺が!! ぶっ殺す所を!

 

私たちの思考や行動というのは、過去の記憶やそこから生み出される感情といった、意識ではどうにもならないものによって支配されているのかもしれません。

 


次回に続きます。

 

 

 

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 24th Mar 2020
updated: 27th Mar 2020

 

096 最新話からの考察 127話 夢と理想と

 

みなさんこんにちは。

 

 

今回はセリフが多めにも関わらず読んだそのままで書くことないなあとか思ってたんですが、あれこれ考えてるうちに妙味がでてきました、というどくしょかんそうぶんです。

 

 


この記事は最新話である127話までのネタバレを含んでおります。さらに登場人物や現象についての言及などなど、あなたの読みたくないものが含まれている可能性があります。また、単なる個人による考察であり、これを読む読まないはあなた自身に委ねられています。その点を踏まえて、自己責任にて悔いのないご選択をしていただけますよう切にお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。注記の無いものは全て別冊少年マガジン2020年4月号・127話からのものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[夢と理想と]

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なぜかラストからいきます。

 

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キヨミさんなんかラスボス感があるんですが・・

 

その立ち位置がなかなか見えてきません。もともとは地鳴らし推進派、地鳴らしをしてもらわないと困るお家柄です。だからか調査兵団のマーレ潜入時なんかも「おばちゃん説得は無理やと思うけどなぁ」ってずっと言ってました。裏でイェーガー派の糸を引いていたとしてもおかしくない存在でもあります。ただ現状の地鳴らしで祖国まで滅ぼされては本末転倒のはず、お家の復興どころの話ではありません。そして将軍家の血を引くミカサに対して思い入れがあるのは本人の言葉通り間違いないことでしょう。そうこう考えてたら私の中で陰謀論的なものが再び首をもたげてきました。そのうちまとめようと思います。あとフロックはよほど行動が的確かつ迅速で、立派に成長したなぁと感慨もひとしおです。

 

 


次に今回ぶん投げられてきた2つの飛び道具のうちのひとつ目。

 

 

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-世界を救う
-これ以上に人を惹きつける
-甘美な言葉があるでしょうか?

無差別に全方位の急所を突くようなセリフだと思います。だからみんな世界を救う物語が大好きで、王道と呼ばれるものはその体を取りながら世間にごまんと溢れます。まるで前回のベタな展開をくさしながら、巷に溢れるものまでついでに刺すかのようでもあります。イェレナさんお見事としか言えません。

 

 

それはさておきイェレナの来歴が少し明るみに出ました。そしてどうやらイェレナ・クルーガーに一歩近づいた気がします。

 

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-それは王子様と世界を救う奇跡の物語
-自らを嘘で塗り固め人類史に刻まれんとする
-その欲深さに敬服いたします

細かいことはまだよく分かっていませんが、彼女は要するに”みんなのための英雄”になろうとしていたわけです。ジークと同じですね。そして共通の夢を追いかけるという点はアルミンのエレンとの関係性とも重なってきます。そんなわけで彼女は”自己肯定感が低い組”に編入されました。そしてそして、

 

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-ごく一般的なマーレ人家庭の出自を
-マーレに併合された小国出身と偽った

 

彼女はやはり外国出身ではなく”マーレ出身”でした。

 

彼女がなぜ英雄になりたかったのかマーレに失望したのかはまだはっきりしていませんが、もしかしたらそこに「エルディアの復興やマーレへの復讐に人生を捧げ、我が子に目を向けることのなかった”マーレ人の”父親」が出てくるかもしれません(21巻86話)

 

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クルーガーなら人生を捧げたところまではほぼ確定。我が子に目を向ける部分は不明ですが、もしそうであるならクルーガーはグリシャと完全に重なるという面白いことになります。そしてグリシャの思想や行動がジークを歪ませたように、イェレナが同様の道を辿ったという筋道が立ちます。さらにはクルーガー親子とレベリオのイェーガー親子は同じようなことを繰り返した、といった趣さえ生まれてきます。果たしてどう出てくるのか、今後が非常に楽しみになってきました。

 

 


さて、家族の話といえばジャンを語らないわけにはいきません。

 

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これは実際にあったかもしれない可能性の世界。ミカサとこんな感じになったらいいなというジャンの奥ゆかしい夢。手を伸ばせば届きそうな、それでいてやっぱり届かないかもしれないような夢(4巻18話)

 

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-それでいて現状を正しく認識することに長けているから
-今 何をすべきかが明確にわかるだろ?

 

けれども「現状を正しく認識し」「今やるべきことをやる」という矜持に従い、夢を手放す方の道を選択しました。矜持とは自らが思い描く「こうあるべきだ」という姿。理想の自分。どうあるべきかというのは、他に対してどういう立場であるのか、どう立ち振る舞うかということでもあると思います。もしも世界に自分ひとりしかいなければ、あれやこれやと考えるまでもなく自分のしたいと思ったことをただすればいいはず。そこに良いも悪いもありません。つまり他者との関係性の中にあるもの、全体の中での立ち位置の指標のようなものが矜持であるとも言えそうです。

 

矜持は理想や信念と言い換えられるなどと前話の時に自分で言っていたことを思い出し、はたと気付きました。私は今まで「夢」と「理想」という言葉をほとんど同じようなものとして捉えていたようです。

夢と現実
理想と現実

そのどちらも「現実」の対義語として使われる言葉。一見同じような感じに思えます。

でも理想というのは矜持と重なることからも分かるように、「こうあるべきだ」という高い目標のようなニュアンスがあると思います。より現実に近い感じ。理想の生活などと言えば比較対象があってのものという部分も、矜持と同様であることの証左と言えそうです。

対して夢は「こうだったらいいな」という純粋な個人の願望のニュアンスが強いように思います。そして矜持を夢と言い換えることにかなりの違和感があるのは、夢というのは叶わない前提みたいな部分もあってどのような夢を思い描くかは各人の自由であることによるのではないかと思います。それは矜持のように「こうあらねばならない」という縛りのようなものではないということであり、むしろ「個人の夢」と「全体の中での理想や矜持」という風に対称を成すものと言えるように思います。

 

というわけでジャンは、個人の夢を手放し、全体の中でのあるべき姿勢を取ったということになりそうです。

 

 


続きまして第2の飛び道具の登場です。ハンジさん、かく語りき。

 

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-虐殺はダメだ!!
-これを肯定する理由があってたまるか!!

これもなかなか切れ味の鋭い、ツッコミどころと同時に問題を提起するようなセリフだと思います。


これは答えのない問題で、あまり意味のない思索だという前置きをしておきますが、

 

まず「虐殺を認めることはできない」というのは心情としてはよく分かる感じがします。しかし疑問が湧いてきます。

では虐殺ってなんなのでしょう。虐殺と殺害の垣根はどこにあるのでしょうか。

殺すという意味ではハンジを含めた彼らはみんな人を殺してきました。でもそれは仕方のないことで虐殺の場合は認められないことなのでしょうか。そうであるとしたらなかなかに都合のよろしい理屈になってしまいます。

 

あるいは、虐殺という言葉は主に大量殺戮の言い換えとして使われますから数の問題でしょうか。

そういうことじゃないんだと言ってしまいそうになりますが、実はこれはあると思います。何人からが虐殺かみたいな具体的なものは置いておきますが、残酷な生存競争を自らが生き抜くためには殺すこともやむなし、そんなケースでも人数は可能な限り少ない方が良いというのは普通にあるでしょう。殺人だとあまりに実感が湧かないでしょうから、その部分を”蹴落とす”とかに変えて考えてみれば普段からそういう場面が多々あることにお気付き頂けると思います。

進化の観点から言えば競争は進化をもたらす手段なので良いのですが、それによって多数が滅んでしまうとなれば種の保存という目的の上で好ましくない、ということで数の多寡というのは理に適っているんですね。とはいえハンジが進化の上でよろしくないから虐殺はよくないと言っているわけではないでしょうが。


あと考えられそうなのは戦闘員か非戦闘員かといったような区別でしょうか。現実の国際法でもこの区別は重視していますから、作中にもそういう考え方はあるだろうと考えます。

これは倫理的にはその通りであるとも言えそうですが、実際面ではジャンが言っていたような問題が残ります。戦闘員、つまり兵士も人でしかありません。仮にマーレの兵士だけを一人残らず殺すことが可能であったとしても、結局はそれまで非戦闘員だった人々が次なる戦闘員になるだけの話です。つまり終わりの無い泥沼の戦いを生み出すだけとも言えます。前項と矛盾するかのようですが、場合によってはまとめて叩いた方が良い場合があるということです。実際の歴史でも比叡山の焼き討ちなどはそういった意味合いを持って行われたと考えられます。

倫理面でツッコミを入れるとすれば、調査兵団はストヘス区で多数の非戦闘員が犠牲になることを織り込んだ作戦を実践しています。もちろんハンジも分隊長として、一兵卒よりよほど責任のある立場でそれに”加担”しています。それは当時のせっぱ詰まった状況を打破するためだったから肯定できるということでしょうか。あるいは、本人はそんなこと言わないでしょうが、あくまで団長の命に従っただけだからという責任の所在の問題でしょうか。それとも非戦闘員だとしても味方ならば「尊い犠牲」として受け入れられる、ということになるのでしょうか。殺すのは良くないことだけど心臓を捧げるだったら良いこと?

はたして虐殺とはなにがどういけないのか。

結局のところ明快な答えは出てこないんです。肯定する理由がないと同時に否定する理由もない。だからこそ考える価値のある問題とも言えるかもしれません。セリフひとつでそんな問題提起をしてくるあたり、ほんと凶悪な飛び道具を持ってらっしゃるなぁという印象を抱きます。

 


まぁ物語に話を戻せば、ハンジはお気持ちを表明しただけなんでしょうけどね。

 

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-従来の兵団組織は壊滅して…
-もう私は君達の上官でもない
-その上で聞くけど―――

これは個人としての話であって上司としてジャンやミカサに強いているわけではない、というのが前提になっています。だから個人の想いの丈を述べるだけであって理屈ではないんだということでしょう。肯定できないものは肯定できないのです。

さすがミカサはそのあたりの客観性と頭の回転の早さがあるので、みなまで言わせるまでもなく即答して個人の意思を述べています。個人として、エレンに虐殺をさせたくないんだと。

ジャンもしっかりそれに追随して、「自分が死ぬのは嫌だという前提条件があるじゃないですか」という個人の気持ちをベースに異論を投げかけたわけです。

 

そんなわけで、目的は微妙に違えどエレンを止めるという手段の一致をみた個人が集まり、ひとつの小さな集団が生まれたわけです。個から全体へのシフト。そういえばハンジも、ジャンと同様にこのまま目や耳を塞いで安穏と暮らしたいという個人の夢の誘惑を断ち切り、こうあるべきだという理想の私に準ずることを選択したのでした。シガンシナ戦の時もありましたね、私情や本音から建前へのシフト。個から全体へ。夢をあきらめて理想の姿へ。

 


個と全体という観点で言うと今回のジャンのセリフはとても興味深くて、

 

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-だからエレンは世界を消そうと―――

 

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-そもそも壁破られて目の前で母親が食い殺されていなきゃなぁ…!!
-エレンは こんなことしてねぇよ!!
-「地鳴らし」まで追い詰めたのはお前らだろうが⁉

どれもエレンを代弁というか擁護するような感じになっています。少し前とは打って変わっていますね。ここから分かるのは、現状がよく認識できるジャンからしても、個が生きるという視点から見ればエレンの行動は合理的だったということなんでしょう。個として考えれば正しい、ただ全体の視点で考えると問題があるわけです。個の正義と全体の正義のぶつかり合いになってくるわけですね。

 

 

 

今度は小さな全体と小さな全体が相まみえることになった場面を見ていきます。

 

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-おもしろいな どうして気が変わった?
-エレン・イェーガーを放っておけばお前らが望む世界が手に入るのだぞ?
-島の悪魔共の楽園がな

マガトの態度は暴虐無人なように見えます。でも内心としては後からハンジが指摘している通りなのでしょう。

 

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-元帥殿は私たちの存在に困惑しておられるのだよ
-この島を根絶やしにしようとした世界の人々を
-楽園を捨ててまで助けようとする奇怪な悪魔の存在に

 

マーレ側からしてみたらパラディ側の行動を訝しむのは当然です。むしろ罠と疑わず盲目的に受け入れてしまったらリーダーとしては無能と言う他ないと思います。

そう、リーダーです。マガトはこの場にいるマーレ勢のトップですから、その立場からの物言いをしているはずです。今までの言動から考えても彼がマーレの洗脳教育そのものの考え方をしているとは思い難いです。もちろん本人の思想は定かではありませんが、いずれにせよ自らの部下の眼前で今まで自分たちがやってきたことを否定するようなことを言えるはずもありません。彼はマーレ側という小さな全体としての建前を述べているはずで、必ずしも本人の気持ちを言葉にしているわけでもないんですね。

ちょっと話が逸れますが、ヴィリーとのやり取り、徴兵制志向、戦士隊への態度なんかを振り返れば、おそらくマガトはレベリオ民解放路線だと推測されます。ですが、その目的のためにやってきたりやらせてきたことが当のレベリオ民、それも年端もいかぬ女の子を泣いて土下座させることになったわけです。今回のガビの言葉が一番刺さったのはマガトだと思いますし、そんな彼がガビを慰めるのはお角が違うというものでしょう。

 

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ただ以前から端々に見えるガビへの思い入れのようなものからは、もしかしたらこの人も自分の子供あたりで何かしらあるかもしれないという想像もさせます。これはレベリオの子供たちにそれぐらい情があるという表現なだけかもしれないので何とも言えませんが。

 

 

余談はさておき。

 

 

今回起こっていたこと、彼らが今まで殺し合っていた間柄のために極端な言動になってしまっていますが、いわゆる”顔合わせ”と呼ばれるものに他ならないと思います。会社同士であれ個人であれ、知らぬ者同士が相まみえれば最初は腹の探り合いと立ち位置の確認などの作業がだいたいあります。得体の知れない他者に対しておそるおそる探りを入れていくような感じです。時に立ち位置を巡るマウント合戦になったりもしますが、そうやって擦り合わせをしながら距離を詰めていくのです。それ自体は別段珍しいことでもないわけですが、そこでより距離を縮めるひとつの方法が強調されているように感じました。

 

さきほど挙げたハンジのセリフ、こんな言い方をしています。

 

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-元帥殿は私たちの存在に困惑しておられるのだよ
-この島を根絶やしにしようとした世界の人々を
-楽園を捨ててまで助けようとする奇怪な悪魔の存在に

多少皮肉交じりなのはともかくとして、これはマガトやマーレ側の立場から物事を見て考えなければ出てこないセリフです。それを受けて、ということだと思いますが、ジャンはイェレナにこう言います。

 

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-お互いの蟠りをここで打ち明けて 心を整理させようとしてくれてるんだよな?
-お前も大事な仲間の頭を撃ちまくってまで叶えたかった幻想的な夢が
-すべて無意味に終わって 死にたがってたのに…
-気を遣わせちまったな

ジャンの場合はさらに皮肉を交えてはいますが、それでもハンジと同様にイェレナの視点に立っての好意的な解釈を述べているわけです。相手の立場になってものを考えているということです。ちなみにマガトの最初の言葉も毒は多分に含んでいますが同様の言い方をしています。

 

ミカサはもともとアッカーマンの特質でものすごく客観的なものの見方をしていると思いますので(エレンのこと以外、ひいては自分自身のこと以外は、ですが)同列に並べていいかは分かりませんが、アニの言葉に対して一瞬でこんな思考をしているようです。

 

「エレンを説得できなければ対立する恐れがある」
「ミカサはエレン以上に大事なものは無いだろう」

→ならばアニやマーレ側にしてみればミカサはエレンを殺す選択肢を持たないことがほぼ確定、つまり対立することがほぼ確定しているので、他の面子とは異なり現時点で排除すべき存在となる

 

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-つまり私を殺すべきだと?

もちろんこれはアニがそう思っているということではなくミカサから見ての解釈という話ですが、少なくともアニやマーレ側の目線でものを捉えようとしているわけです。

 

そしてライナーまわりでもそれは見られるようで、

 

ライナーはもはや聞かれてもないのにベラベラと事の詳細を話し続けるわけですが、そこから察するに彼は裁かれたいのだと思います。だから抵抗もしなければ許しを乞うこともしないのでしょう。

 

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-お前を… 許せねぇ
-わかっている…

ライナーにしてみれば許されない方が、誰かが自分の罪を指摘し続けてくれる方が、誰にも言えずにシラを切るかのように生活する自分を見つめているより楽なのだろうと思います。

 

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-私は?

 

あなたは裁かれたい感じではないから結構です。

 

いや、このセリフ面白いんですけど冗談で終わらせてはもったいないと思います。というかこれなんです。このセリフは、じゃあライナーとアニの違いはなんなんだよって、ジャンの許す許さないの垣根はどこにあるんだよって私たちに問いかけているわけです。残念ながらジャンの返答は聞けませんでしたが、おそらく恨みの量とか質という話ではないでしょう。そしてストヘス区の話じゃないですが、ライナーが命令を下した人でアニはそれに従っただけだからというわけでもないでしょう。

 

ジャン本人がどこまで自覚しているかは分かりませんが、彼は「現状がよく見えて」しまうし、(4巻18話)

 

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-強い人ではないから
-弱い人の気持ちがよく理解できる

弱い人の気持ちを、ライナーが裁かれたい気持ちを、よく理解できてしまうのだと思います。だから裁かれたいライナーのことは裁いてあげるし、アニは許すもなにもない感じではないかと思うわけです。

そもそも怒りという感情の中でも激昂するというのはかなり純粋な衝動ですから、本人が頭であれこれ考えてそうなったわけではないはずです。それは無意識からの働きかけであり、殴り掛かったのさえ「ライナーの気持ちを感じ取ってしまっていたから」という部分があるかもしれません。本人に自覚はないでしょうけど。少なくとも「弱い人の気持ちがよく理解できる」ってのは理屈だけではないはずですよね。

 

 

こうして各人から見て取れる、相手の立場になってものを考えるということ。それは思いやりとか慮り、あるいは愛といった言葉に繋がるような相互理解への第一歩だと思います。もちろんそれは敵対する関係だけにおける話ではありません。自分の考えだけで行動していると、マガトのように良かれと思ってしていたことがガビの立場にしてみれば苦しみを生んでいた、といったようなことも招いてしまうわけです。

相手の立場に立つというのは相手の個を尊重するということでもあります。人はそれぞれ考え方も違えば置かれている立場も異なりますから、十把一絡げに捉えていては決して本当の相手の立場に立つことはできません。さらに言えば、自身の個さえ尊重できない人が相手の個を尊重することも難しいでしょう。このあたりは壁内編のサシャまわりで描かれていました。

 

ちなみに十把一絡げとはこういうことです。

 

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-まるで自分は違うと言わんばかりですね
-一体私とあなた達の何が違うと言うのでしょう

イェレナは自分を基準にしてあんたらも同じでしょって言ってるんです。相手の個というものを全く考慮してないんですね。毎度言っているようで恐縮ですが、自己肯定感が低いと自分に価値が感じられないので、他者に価値を認めてもらおうとします。でも価値がない自分が他者に認められるには、他者の役に立つようなことをする必要があるわけです。他者の役に立つ最たるものは「世界を救う」ことだったりします。一人がみんなのために役割を果たすというのはまさに全体の考え方なのですが、その役割にも英雄から兵士から労働者までいろいろあります。全体の中での役割っていうのは突き詰めると「替えのきくコマ」でしかないんですね。むしろコマは黙々と役割を果たしてくれた方が全体は上手く回るんです。だから個は必要ない。なのでそもそも個を尊重するという感覚が薄いのかもしれません。

 

とはいえ実際のところイェレナの「世界を救う」にまつわる発言は、ライナーやガビの古傷はえぐってるかもしれませんが、あの場のみんなにはたいして刺さってないように見えます。イェレナ自身にしてみれば他人からそんな指摘を受けたら痛いのでしょうが、現在の彼らはしっかりと個々の目的をもってこの場に参加しているからではないかと思います。彼らは個を尊重することを保ちながら全体へシフトしているといった感じでしょうか。エレンだったりかつての敵だったり一人ひとりの感情を汲み取って、それはつまり誰もがひとつの個性であると認めながら全体のことを考えようとしているということです。

むろん彼らも人間ですから、完璧なわけではありません。時に感情的になって自分の都合ばかりを主張してしまってジャンとマガトのような言い合いになってしまいます。でもそういった自分本位の積み重ねの結果がガビの土下座だというのは忘れてはいけないような気がするんですね(28巻111話)

 

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-だから過去の罪や憎しみを背負うのは
-我々大人の責任や

 

子供を森から出してあげられるかは、大人ひとりひとりの考え次第ってことなんじゃないかと思います。

 

 

 


そんなこんなを考えていたらあの人のことが気になってきました。どうも焦点がそこに合わさりつつあることをひしひしと感じます(31巻126話)

 

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-正しいお前なんかに!!
-馬鹿のことなんてわかんねぇよ!!

 

全体の考え方を持つアルミンくん、前話ではコニーの個を考慮していないことをはっきりと指摘されてしまいました。今回は目立ちませんでしたが、マルコが最期に言った「話し合う」という言葉が出た途端にひとり目を輝かせ始めています。

 

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話し合い分かり合うこと、それは彼の夢です(26巻106話)

 

 

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-きっとわかり合える

 

そもそもエレンと海を見るという夢は、分かり合えていることを確認するような、実感するためのものなのだと思います(1巻1話)

 

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-僕が言ったことを正しいと認めているから…
-言い返せなくて殴ることしか出来ないんだろ?


「僕が言ったことを認めているから」
「ほらエレン、僕の言った通りだろ?」

 

他者に自分が受け入れられていない、だからこそ受け入れて欲しかった彼は、他より分かってくれた感のあったエレンに入れ込んでいったのだと思います。そして「自分を分かってくれて、同じ夢を見ているエレン」という偶像を作り出し、いつしかそれが目的のようになっていったのでしょうか。その根底は「誰かに分かって欲しい、誰かに認めて欲しい」という感情で、おそらく自己肯定感の低さに起因するだろうと考えられます。

 

その夢を叶えるべく、かつて様々な場面でアルミンは話し合うことを試みようとします。そのひとつがシガンシナ戦でした(19巻78話)

 

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-ベルトルト!!
-話をしよう!!

しかし話し合いで結果を出せなかった彼は、最終的にベルトルさんを殺す方へ舵を切ります。夢から理想へのシフト。夢とは「話し合って分かり合う」こと。彼の理想、すなわち矜持は「何かを変えるには大事なものを捨てる」ということ。夢とはそうなったらいいなぁということ。理想とはそのようにあるべきこと。そして最終的にあるべき姿であろうとしました。夢をあきらめて理想へ。個から全体へ。

 


さて、今まで話し合いと称した駆け引きしかしてこなかったアルミンは、現在目を輝かせながらしようと考えている「次の話し合い」においてどうするのでしょう。

果たしてそれはジャンたちのような相手の立場に立った話し合いに変わっていくのでしょうか。あるいはイェレナのように、いや今までの自分のまま、自分を基準にして相手を推し量るような駆け引き然とした話し合いのままなのでしょうか。

これが普通の作品だったら考えるまでもなく「成長したね、よかったね」で終わる話になるしかない見え見えの展開かもしれません。

 

 

でもこれ進撃。

 

 

とは言ったものの、みんなが互いの個を尊重し合い分かり合う方へという流れです。アニとライナーの間にさえそんな空気が漂いつつあります。この流れならきっと大丈夫なはず。うん大丈夫平気。ひとつだけ気になる矜持があるけど大丈夫。

 

 

 


前回コニーがかっこよく描かれていたように、矜持というのは一貫しているからこそ矜持なのです。それはまた、人間の本質はそうそう変わるものでもないという受け取り方もできるかもしれません。

 

 

その矜持とは、大事なものを捨てること。

 


つまり、ころs

 

 

 

 

 

 


本日もご覧いただきありがとうございました。


written: 14th Mar 2020
updated: none