みなさんこんにちは。
※修正 7/22
ちょっと誤りがあったので後半部の一部を修正しました。
※訂正 8/15
冒頭の始祖の力とそれを道を通じて送ることに関して、訂正があったので記事にしました→ 036 王家の血を引く巨人
始祖の力が取り沙汰される最近の展開を考える上で、第50話は避けては通ることのできない1話ではないでしょうか。まずはそこに描かれていることを確認して、始祖の力を考察するヒントを探していきたいと思います。
この記事は 028 サシャの場合 や、その直前のアルミンの考察から続く精神分析の話が主になっております。先にそちらをお読みになってからご覧いただいた方が、分かりやすいかと思います。また、基本的に最新話まで読んでいる方を対象に書いておりますので、ネタバレ等の可能性をご承知の上でご覧いただけますようお願いいたします。ちょっと今回はまとまりがなくて読みづらいかもしれません。ごめんなさい(いつもだとは言わないで欲しい・・)
この記事は最新話である107話までのネタバレを含んでおります。さらに登場人物や現象についての言及などなど、あなたの読みたくないものが含まれている可能性があります。また、単なる個人による考察であり、これを読む読まないはあなた自身に委ねられています。その点を踏まえて、自己責任にて悔いのないご選択をしていただけますよう切にお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。
※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
さて、第50話といえば、やっぱりあの座標発動のシーンが思い浮かびますよね(以下、特に明記のないものは12巻50話から引用)
このダイナ巨人との接触(以下、ペチン)によって、”巨人を操る力”が発動しました。
ただしペチンが起こる前、エレンが拳を繰り出した瞬間には既に巨人化痕が出ています。これはみなさんもお気付きのこととは思いますが、一体どういうことでしょうか。一連の流れの中でのことなので、そんなに深い意味は無い可能性もあります。ただ、未だによく分からない始祖の力について考える時、決して無視しきれない要素であることは確かです。
どういう可能性が考えうるのでしょうか。
巨人化痕が出ているということは巨人化している、と言っても良いように思います。エレンは拳を振りかざした時点で始祖の巨人として巨人化している可能性は高いんじゃないかと思います。始祖の巨人の力とは”巨人を操る力”です。ペチンが起こった瞬間にライナー達がビリビリを感じていますから、”巨人を操る力”がペチンによって道を通じて巨人たちに送られたのは間違いないはずです。
それをペチンの前にわざわざ巨人化していることを描いているのであれば、”巨人を操る力”の発動自体と、それを道を通じて送ることは分けて考えたほうが良いような気がするのです。
ではあの時、始祖の巨人はどのように、なぜ、発動したのでしょうか。
以前、021 巨人の始め方 に書きました通り、巨人の力は無意識によるもので、意識からは自動的に見える形で発動することがあります。この時もまさにそのパターンで、始祖の”巨人を操る力”を使って無垢巨人を敵に向かわせることで、敵を倒すことと味方を守ることを同時に行っています。エレンの意識にそんな発想は不可能ですから、無意識が瞬間でデザインした戦術と言って良いでしょう。
そこから分かることは、ダイナ巨人が王家の血を引いていて、接触すれば無垢巨人たちを操れることを、エレンの無意識がこの時すでに知っていたということです。ところが知っていたにも関わらず、ミカサとのやり取りがあるまでは力を発動しなかったことになります。つまり、そこで起こったことによって始祖の巨人を発動することができるようになった、ということになると思います。
では、そこで起こったこととは何だったのでしょうか。
[エレン・イェーガーの場合(第50話 叫び)]
エレンとユミルを争奪する戦いは荒野に場を移し、さらに激しさを増していく中で始まる第50話。その冒頭には、エレンと母(とミカサ)の、なにげない過去の日常シーンが”突如として”挿入されています。
エレンがダイナ巨人を見たことによって想起された記憶ですが、実はこの日常シーンが無くても、これに続く母が殺される回想だけがあれば物語の展開として問題ないはずです。むしろ流れとしては自然です。エレンにとって、ダイナ巨人から真っ先に連想されるのが母の死であることは誰の目にも明らかでしょう。
裏を返せば、このなにげない日常のシーンは相当な意味を持ってここに挿入されている、と考えられます。
ところで・・
サシャの場合として36話を考察しました通り、進撃の巨人では登場人物の精神的な”成長”が一つのテーマとなっていると考えて良さそうです。当然それはサシャのみならず、エレンに対しても同様のはずです。しかもエレンは物語の主人公ですから、それがまさに物語の根幹になっていてもおかしくないでしょう。
そのエレンの抱える心の問題は、物語の当初から端々に描かれていることはお気付きのことと思います。その中でもとりわけ大きく取り上げられているのが家族との問題です。現実でも親は子供にとって越えていかなくてはならない壁、といった表現がよくされます。今回はエレンの抱える家族との心の問題、その中でも母とミカサにスポットを当ててみたいと思います。
ミカサ・コンプレックス
まず一つ目の大きな心の問題、それはミカサ・コンプレックスです。ここでいうコンプレックスは日本語で言う方のソレと思っていただいて大丈夫です。心理的な背景のある劣等感とでも言えるでしょうか。
もちろんミカサは元々は家族ではありませんが、エレンが9歳の時に新たに家族として迎えることになった、最も家族に近い他者です。しかし彼女がアッカーマンとして覚醒していたことが、エレンを苦しめることになっていたようです(24巻97話)
-どうやったら…そうなれる
-お前や…ミカサみたいになるには…
-どうやったら…
ライナーとの会話にも出てきてしまう重傷っぷりです。よくある兄弟間の問題と似ているのですが、エレンの視点から見ると後から家族に入ってきて、一気に全てを持っていかれた感覚なんでしょう。
また、ミカサには決して悪気は無いのですが、覚醒したために全てのことを冷静・客観的に判断ができるため彼女の言葉には無駄が無く、痛いところを的確に突いてきます。もちろん言っていることは正しいのでしょうが、子供のエレンには受け止めきれずコンプレックスも相まって、度々ミカサに反発しています(1巻3話、3巻11話)
ミカサ -エレンは私と一緒にいないと早死にする
エレン -頼んでねぇだろそんなことは!
-いい加減にしろって言ってんだろうが…
-オレはお前の弟でも子供でもねぇぞ…
そんなエレンの理想と現実は、このシーンにも現れていました(1巻1話)
エレン -あいつらオレを見て逃げやがった!(理想)
アルミン -ミカサを見て逃げたんだろ (現実)
アルミンだけではなく、周囲もそういう目で見ているわけですね(1巻3話)
-またそうやってミカサにおんぶに抱っこだ!
ジャンは度々エレンの痛いところをえぐってくれる、良い仲間です。(皮肉じゃないですよ)
親への欲求
さて、ミカサがあらゆる面でエレンより秀でていることは、エレンから見ても一目瞭然ですし仕方の無いことです。ではなぜエレンが劣等感を感じてしまうのか。そこに親の存在が絡んでいます。
グリシャもカルラも決して毒親ではありませんので、引き取ったミカサを本当の家族として迎え入れたと思います。そんな両親からも、ミカサはエレンよりも当然しっかりして見えたはずです。これもアッカーマンの弊害と言えそうですが、同い年なのがそれに拍車をかけたことも察せられます(1巻1話)
-あの子はだいぶ危なっかしいから…
-困った時は二人で助け合うんだよ
カルラに他意が無いのも分かりますが、ミカサへの信頼がよく出ています。こういったことが常日頃からあったのでしょう。エレンから見ると、常に比較対象としてミカサが頭上にある感じでしょうか。それは劣等感となり、自己否定へと繋がります。エレンが度々自己否定に陥っているのは作中でも描かれていました。またその裏返しとして、承認欲求がどんどん育っていったことでしょう。「オレだってできるのに、ミカサばっかり…(オレも認めてくれよ)」といった承認欲求がこじれていくと、反発にも繋がっていきます(1巻1話、1巻2話)
-駄目だからね 調査兵団なんてバカなマネ―
-は!? バカだって…⁉
-オレには…家畜でも平気でいられる人間の方が
-よっぽどマヌケに見えるね!
-どうしていつも母さんの言うこと聞かないの!
反発をしないと、自分でも自分の価値が低いことを認めることになってしまうからです。おそらく最初はミカサと比べられることに反発していたものが、やがて母の全ての言葉に反発するようになっていったんでしょう。
グリシャに対しても、反発こそしませんでしたが、同様の想いがあるのは後のエレンの回想が物語っています(17巻70話)
-おしゃべりは食べ終わってからにしなさい
相変わらず姉か親のような言い方をするミカサに「ごめんな」と言いながら、エレンは過去を連想しています(ちなみにミカサはこの時、エレンのネガティブな思考を断ち切るために言っています。あくまでエレンを想って言っているだけで、エレンもそれを分かっています)
”いい子”だと褒められるミカサを、つまらなそうな眼差しで見つめているエレン、これがエレンの心にこびりついた想いです。そして、エレンが思い浮かべる家族の情景は、いつも母は向こうを向いていて(エレンの方を向いていなくて)、ミカサが母をお手伝いしているものばかりです。実際の両親の想いとかじゃなくて、あくまでもエレンから見た家族、ということです。
第50話 叫び
ではエレンの抱えていた家族への想いが見えてきたところで、50話に戻っていきましょう。冒頭のシーンの意味が見えてくるはずです。エレンの視点に立ってご覧ください。
-あんたまたケンカしてきてから…‼
いつも繰り返される光景、母はいつも自分を否定します。
-それで?またミカサに助けてもらったんだろ?
詳細を聞くまでもなく、当然のようにミカサを持ち上げる母、これもいつも通りです。
でも実際そうなので言い返せません。でもそれを認めるのも嫌です。
-どんなに相手が悪くても憎らしくてもね
-突っかかりゃいいってもんじゃないんだよ!
-あんたは男だろ? たまには堪えてミカサを守ってみせな
この言葉はエレンの心の奥深くに刻み込まれています。
その後、この回想は母が殺される場面に繋がっていきます。つまり、エレンの心の奥底ではこの2つのシーンが結びついていると考えられます。
どういうことかと言いますと、エレンは母が殺された時に真っ先に後悔したことがあります(1巻2話)
-どうして最後までロクでもない口げんかしかできなかったんだ!!
エレンは心の奥底では分かっています。反発していたのは自分に力が無くてミカサに及ばなかったからです。もっと素直に母の言うことを聞いて、母に認められるような自分になっていたら良かった。つまり、自分がそれだけの力を持っていたら母が死ぬことは無かったんじゃないのか、そこに大きな後悔があるということです。いわば自分が殺したようなものだ、という罪悪感でもあるのでしょう。
ただし、人間はそんな重い罪悪感を背負って生きるのは困難です。その時、心は自分を守るため、抑圧と転換を行います(1巻2話)
-人間が弱いから?
自分が弱いんじゃない、人間が巨人より弱いのが悪いんだ、といった感じです。自分への言い訳とも言えますが、ある意味健全ですよね。これがあの「駆逐してやる」というセリフとともに、巨人に対する強いモチベーションになっています。あの異常なほどの想いの裏には、とても強い罪悪感が抑圧されていたと考えられます。
この心の動きのパターンは、女型戦の時にも描かれています(7巻29話)
-オレがした選択で皆 死んだ
-オレのせいで…
-皆が…
-…だけど
-やっぱり…
-お前が悪い
全く同じパターンなのが分かると思います。もちろんこの”選択”に対する罪悪感もエレンの中に抑圧として残っているはずですが、それはまた別の機会に。
50話に話を戻します。
ダイナ巨人と遭遇したエレンは、「またミカサに助けて」もらいます。
自分に力があることを示さなくてはいけない(でないと母に認められない)想いから、自分がやらなくてはと逸ります。
「突っかかりゃいいってもんじゃないんだよ」と母に指摘されていた通りのことをしてしまっています。やはりいつも通りなんです。しかし巨人化できず、ハンネスさんの死を目の当たりにすることで、エレンは今まで抑圧していた感情を自己否定とともに”叫び”ました。
-何にも変わってねぇな‼
-お前は‼ なんッッにも!!
-できねぇじゃねぇかよ!!
-母さん…
-オレは何も…
-なんっにもできないままだったよ!!
ハンネスさんが死んだのは自分に力が無いからだ、という想いは当然母の死とも重なり、かつて抑圧した罪悪感を呼び起こし、爆発したのです。
ところが・・
ここでミカサは後ろを振り返っています。そこに見える光景はすぐ後にエレンと読者が見るものと同様、仲間が巨人に喰われていく絶望的な光景でしょう。
エレンが巨人化できない以上、自身の怪我の状態も考慮すれば、客観的な判断として全滅は避けられないと悟ったんだと思います。それならばと、”最期に”エレンに感謝を伝えようとしたんでしょうね。
-私と…一緒にいてくれてありがとう
-私に…生き方を教えてくれてありがとう
-……私にマフラーを巻いてくれてありがとう
エレンにしてみれば、”あの”ミカサからの、過去にまでさかのぼった全面的な承認です。自己否定を爆発させていたエレンは、おそらく”叫び”によりトランス状態になっていたと思います。雑に言うと意識が霞んで無意識が言葉を受け入れやすい状態です。(洗脳とか自己啓発セミナーで使われるヤツです。みなさんも悪質なセミナーと「よそは悪質だけどうちは良い所」と主張するタチの悪いセミナーにはお気を付けください)
余談はさておき、このミカサの言葉はエレンの心の奥底、無意識まで届き、「オレはやれていたんだ」と心から思ったであろうことが察せられます。さらに言えば、マフラーから連想されることとして、”あの”ミカサも自分が守ったからこそ家族になって今ここにいる、というところまで思い至っているかもしれません。
他者承認を受けたエレンは自己承認をすることができ、自分はやれるんだと自身を強く信じることができたはずです。今までの”自分が認められるために自分の力を見せなくては”という焦りから解き放たれ、純粋にミカサを守ってやらなくてはと思ったことでしょう。
その時、始祖の巨人の力が発動したわけです。
まだいろんな解釈ができると思います。でも一つ言えるのは、この時50話冒頭の母の言葉をしっかりと受け止めているということです。
-あんたは男だろ? たまには堪えてミカサを守ってみせな
まさにそれをやってのけたのです。その意味するところは、母の死と結びついて大きな罪悪感となっていた、「なんで母の言うことを聞かなかったんだ」という後悔の解消ということではないでしょうか。これらのプロセスは、サシャがユミルらの言葉によって、今まで持っていた「自分を否定されることを恐れて他者との間に壁を築く」ことを克服し、人を信じられるようになって父からも承認を得たことと全く同じ道を踏襲しています。サシャはそのことを父に指摘されたことが始まりで、父に承認されたことで終わっていました。
この時エレンも、母から指摘されていた課題とでも言うべき問題を克服しています。エレンが母の承認を得るのは後の話になりますが、成長したサシャが少女を助けたように、エレンもミカサと仲間たちを救っているわけです。また、裏を返せば、エレンの普段の行動パターンは母が言っていることに反発するように刷り込まれてしまっていたが、無意識は母の言うことを聞くことを至上の課題として考えていたため、それに反する意識の行動には賛同しなかった、という見方もできます。
※修正 7/22
読み返してみてしっくりこないなと思ったら、逆ですね。
内面的には、無意識は承認されたい想いから母への反発を強めていて、意識は母の言うことを聞かなきゃという考えはあるけれども、その無意識の想いに知らず知らずのうちに影響されて反発する行動を取ってしまっていました。それがミカサの承認が無意識に届いたことで意識と無意識の考えが一致した、といった感じだと思います。
これらのことから、始祖の巨人の発動には、この心の問題からの解放、あるいは精神の成長がキーになっていると考えられます。
シガンシナ戦でベルトルさんが「別人のようだ」と称されるほど、ものすごい力を発揮したことがありました。それもライナーから承認を受け、信頼関係を作ったことが原動力になっていました。おそらくここに、巨人の力を飛躍的に引き出す秘訣があるんだと思います。
精神の成長によって始祖の巨人を使えるようになったのであれば、今のエレンも使えてもおかしくないはずです。始祖の力自体と、それを道を通じて送ることは分ける必要があるかも、と書いた理由の一つでもあるんですが、以下をご覧ください。
ライナーはこう言っています。
-よりによって「座標が」…
-最悪の奴の手に渡っちまった…
このセリフで「渡っちまった」と言っていますが、そもそもライナーとベルトルさんはエレンが始祖を持っているかもしれないから攫ってきたはずです。巨大樹の森でも、はっきりとはしていないが可能性があることを二人で話していました。ところが、ここで「渡っちまった」と慌てているということは、彼らが言っている「座標」というのは始祖と王家の血が合わさった力のことで、始祖の巨人を言い換えているだけではないと読み取れるわけです。つまり、彼らも始祖の力とそれを道を通じて送ることを分けて考えている可能性があります。
なぜそんな細かいことをいつまでも考えているかと言うと、50話以来、たった2回目となる巨大化しない巨人化が107話でされたかもしれないからです。
これ、もしかしたら始祖を発動してるんじゃないでしょうか。
ただ、この時にエレンの無意識が何をどうしようとしたかは、今のところ分かりません。
エレンが強く思っていたであろうことから想像するならば、「理解してくれ」とか「足を引っ張らないでくれ」とかそういう感じかもしれません。私のこれまでの推論も交えて言うならば、ハンジは今後、アルミンの呪縛を逃れてエレンを助けてくれる方向に、無意識のうちに向かっていくかもしれないなと、希望的観測をしてたりします。
これかな・・?
今回は中途半端な感じですが終わりにします。エレンについての考察は膨大すぎて、なかなかまとめきれません。母編があるということは父編もあるんですが、それはまた近い未来に・・
冒頭で親は子供が越えなくてはいけない壁ということを書きました。
それは簡単に言えば、子供にとって親は初めて接することになる他者だからに他ありません。子供の意識・自我は、初めて接する自分以外の意識・自我との関わりによって、他者との関わり方を見出していきます。それは自我から見れば、外の世界を知り、外へ出ていくことです。ただし、親は本当の意味での他者とは言えません。子供は生まれてまもなく、自分を庇護してくれる存在として親を認識します。そして親がいるから生きていけるという認識へと繋がっていきます。それは裏を返せば、親がいなくなったら、親に見捨てられたら私は死ぬだろう、という恐怖心も生みだします。こういった3歳くらいまでの感情は、当人は覚えてすらいないのですが、無意識の奥底にしっかりと刻み込まれていて性格の形成などに影響を及ぼしていきます。これらの感情は抑圧のように残存しており、やがて自我も成長してある程度一人立ちできるようになってきた時に”枷”のようになっていきます。
親への畏怖などから目上の人にものを言えない、イエスマンになってしまう、なんてのが分かりやすい例でしょうか。
親がいないと食べられない、死ぬ
→親に嫌われたら死ぬ
→親の言うことを聞かなきゃいけない
ここに幼少期に親に叱られたことなどが加わるとさらに恐怖感が加速し、やがてその親と重なる存在である、立場が上の人などに逆らえなくなっていきます。こういうのは無意識から湧き上がってくる感覚ですので、本人の気の持ちようではどうにもならないことがほとんどです。その克服には親という存在を心から客観的に理解する必要があります。かつての乳児視点で見た絶対的な存在である親ではなく、良いところも欠点もある普通の人間であること、対等な一個人として親のことを心から理解し、尊重できるようになった時、私たちの自我は本当の意味でのひとり立ちができたと言えるのかもしれません。それを乗り越えてこそ、赤の他人と理解し合っていくことが可能になっていくのでしょう。意識が生じたのは他者と円滑な関係を作るためですから、親という壁を越えることはその第一歩でしかないのです。それが簡単ではなかったりするんですが・・
長々と親子論を書いてしまいましたが、これは進撃を意識して書いたわけではなく、一般的に言われていることです。ところが何やら進撃の物語の構成に似ているように聞こえてきませんか?
おそらくこの、親という恐怖の壁に立ち向かい、それを乗り越え、一人前の個人として他者という外界と関わっていくこと。この自我の成長こそが進撃の主題ではないかと思っています。おそらくアニメのタイトルの鎖は”枷”の表現なんじゃないかとも。
本日もご覧いただき、ありがとうございました。
written: 21st Jul 2018
updated: 15th Aug 2018