進撃の巨人を読み解く

進撃の巨人はSFを下敷きにしたヒューマンドラマだ・・と思う

029 巨人化学⑥ もう一つの不死

みなさんこんにちは。

 


慣れない心理学記事を連発して疲れましたので、巨人化学に戻って「不死」について考えてみました。今回は短めですので、ハーフタイムのお供にでもどうぞ笑

 

 

この記事は最新話である106話までのネタバレを含んでおります。さらに登場人物や現象についての言及などなど、あなたの読みたくないものが含まれている可能性があります。また、単なる個人による考察であり、これを読む読まないはあなた自身に委ねられています。その点を踏まえて、自己責任にて悔いのないご選択をしていただけますよう切にお願い申し上げます。あなたの選択とその結果に対して、当方は一切の責を負うものではありません。

※画像は全て 「進撃の巨人(諌山創著 講談社刊)」 より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。

 

 

 

 


[もう一つの不死]

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巨人は不死である、とされています。

 


人間にとって、不死というのは永遠のテーマのように思います。かつて秦の始皇帝アドルフ・ヒトラーなど、絶大な権力を手にした人々が最後に追い求め、手にすることが叶わなかったのが不老不死です。手塚治虫先生のライフワークと称される大作「火の鳥」も不老不死を扱ったものでした。古今東西、神話や物語と不老不死は切ってもきれないように思います。現代の医療の最先端では遺伝子工学の進歩により不老不死が大真面目に研究されており、またコンピュータの発達は、いずれAIが不老不死の存在となる可能性を囁かれるほどです。

不死というのは人間、あるいは生命にとって究極の理想かのように見えます。

ところが、死や老化を突き詰めて考えてみると、それは生物が進化の過程で獲得した形質であることが分かります。つまり、寿命があることを選択したということです。私たち人間を始めとする複雑な動物は、絶え間なく変化する環境に適応するために寿命があるほうが有利だったということなのでしょうか。実際のところ、単純な生物の中には不老だったり寿命の無い生命体も多く存在しています。

そういった生物の特徴には、おそらく作者が巨人の設定を作る際に参照したと思われるような共通点が見られたりします。今回はそのあたりから進めていきたいと思います。

 

 

 

寿命がある生物の寿命の長さは、その繁殖適齢期間に比例するそうです。簡単に言えば、子供を作り始めるのが遅いほど、その期間が長いほど、寿命が長くなる傾向があるということです。ということは、寿命が無限大であるなら、繁殖までの期間も無限大(=子を作らない)になります。つまり、生殖器官が不要になります。

食事をすることは、酸化によって老化を促進します。逆に言えば、老化を防ぐには食事をしない必要があります。食事をしないならば、消化器官は必要ありません。

不死に近い生物として、クマムシというのがいます。宇宙実験などで耳にしたことがある方も多いと思いますが、乾眠状態に入ったクマムシは真空状態に放り込んでも、放射線などを浴びたりしても死なないそうです。死なないとはいえ、代謝をしなくなって仮死状態のようなものですが・・あれ?何かに似ていますね。

またプラナリアという生物は、身体を切断するとそれぞれが再生して2体のプラナリアになります。さらに切り刻んでも同様なのですが、脳を含まない部分(尾や胴体)から再生した個体も、切断前と同様の記憶を持っていることが実験で確認されています。もちろん記憶といっても反射や反応といったもので、私たちが普段言うところの記憶とは少し異なるのですが。でもこれは、記憶がある場所が神経系だけではない可能性を示唆しています。これについてはまた別の機会に考察したいなと思っています。

あと有名なベニクラゲがありますが、ある条件化におくとポリプという、人間でいえば赤子のような状態に変形します。いわば若返りをするということです。ちなみにベニクラゲが若返りをするのは、周囲の海水の環境変化や”外敵によって傷つけられた”時だそうです。

 

このベニクラゲの話を聞いた時、私はこのような疑問を覚えました(同様に考える方は多いみたいです)

「若返れるのは羨ましいけど、ベニクラゲは記憶を残しているの?」

記憶が残ったまま若返れるんだったら最高なんだけどな、ということです。記憶が残らないんだったら、若返るのは良いけど、もはや自分じゃなくて別物ですよね。

実際のところ、ベニクラゲに知性はありませんし、記憶を持っているかは定かではありません。ただ、ここから一つ分かることがあります。


私たちが”私”であるための条件は、記憶だということです。


私が今持っている記憶が無ければ私とは言えないし、あれば私です。

個人的には、家族が痴呆症を患ったことがあるので、このへんはドライに実感しやすいです。そうでない方はどうなんでしょうか。

私とあなたが友達である、というのは、私とあなたが友達になったり、一緒に遊びに行ったりした記憶があるから成り立ちます。もし私がその記憶を失ったら、私にとってはあなたは友達とは認識できなくなります。あなたの場合もそうです。そして、双方がその記憶を失ったなら、どちらも友達という認識が無くなり、連絡をしたり顔を思い出すことなんて起こり得ない状態になります。さらに、私とあなたが友達だったことを知っている周囲の人間がいなくなり、記録等も無ければ、友達であったという事実は完全に消えて無くなります。

同様に、私にとっての”私”とは、物心がついてからの記憶でできています。いつどこで生まれ、どこで育ち、どこそこの学校を出て、誰と友達になり、以前どんな仕事をして、最近どんな暮らしをしているか、全ては記憶によって形を保っていると言えます。

つまり、私やあなたが持つ人格とは、記憶によってできているのです。

最近、抑圧やらなんやらについて書いてきましたが、それは過去の体験、すなわち記憶によってその後の行動が影響を受けているということでした。私たちが普段覚えていると思い込んでいる記憶は氷山の一角だと言われます。無意識の中には、それこそ生まれてから今までの膨大な記憶が眠っているそうです。そしてそれらの記憶が、知らず知らずのうちに私たちの行動に影響を与えています。私たちが”性格”と呼ぶものは、おそらくこういう仕組みで出来上がっています。

私たちは記憶の集合体であると言ってしまっても良いかもしれません。そう考えると、肉体はただの入れ物に過ぎなくなります。


記憶こそが人格を作り出す素であると考えると、この作品の設定は非常に面白いものになります。

エレンは父であるグリシャの記憶を何度も、まるで自分のことのように体験していますが、それはすなわちグリシャと同じ記憶を持つことになります。ということは、その部分においてエレンはグリシャと同じ人格の要素を持っていることになります。言い換えれば、グリシャの一部が生まれ変わったようなもの、ともいえるかもしれません。

同様に考えると、エレンはクルーガーの生まれ変わりでもある、と言えると思います。さらに、進撃の継承によって、過去の継承者たちの記憶の影響から「自由を求めて戦う」性格を持ったということですから、それらの継承者たちの生まれ変わりであるとも言えます。

なんか多重人格みたいで忙しい感じですが、これはあくまで”エレンの視点”から見た場合です。


これをひっくり返して、もっと大きな視点から見てみると、エレン、グリシャ、クルーガー、そして過去の継承者たち、彼らの記憶の集合体が「進撃の巨人」(以下、進撃さん)であると言えそうではありませんか?

先述した通り、記憶の集合体を人格だとするならば、進撃さんとは彼らの記憶によって形作られた人格、性格を持つ一個人と捉えることができます。ハンジがかつて言っていたように、エレンはあくまで取り換えのきく器でしかないのかもしれません。

さらに、一個人としての進撃さんの視点に立って見た場合、ベニクラゲではないですが、彼は肉体という器を度々変えながら、その記憶を保って永遠に生きているといえるのではないでしょうか。ベニクラゲもクマムシも、外敵に喰われたりすれば死にます。巨人もうなじを削げば死にます。ところが、この記憶の集合体である進撃さんが死ぬことはありません。まさに究極の不死です。おそらくこれが巨人という存在の、正体へたどり着く第一歩になりそうだと思いつつ、たまには短めで終わりにしたいと思います。

 

 


この物語は、エレン・イェーガーという器に入っていた時期にフォーカスした、進撃さんという個人を描いた物語なのではないかなと・・「進撃の巨人」という作品名を思い返すのでした。

 

 

 

本日もご覧いただき、ありがとうございました。

 

written: 3rd Jul 2018
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